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東京の、夜の満員電車に揺られるのはとても懐かしかった。
別に懐かしいからと言って満員電車が好きになれるわけではないが、それでもやはり、この息苦しさに懐かしさを覚えるあたり、自分が日本人だということを自覚する。
台湾から東京までは、飛行機で四時間ほどで戻ってこれる。とはいうものの、新開さんから連絡を受けて町まで戻り、帰国の支度と諸々の挨拶を済ませて翌日フライトの便に乗ったのは午後三時を回ってからだった。羽田に降り立った時には、すでに周囲は夜の帳に包まれていた。
東京へ戻ってくるのは二年振りだ。日本が嫌いというわけではないが、なんとなく、仕事のしやすさなどを考えると海外の方が性に合っていると感じた。今年で私は二十八歳になるが、十代の頃からすでに海外での仕事経験があり、関わってきた案件も日本よりずっと多い。
寂しくないのか、とよく友人に聞かれる。正直に言えば、寂しい。特に父の顔を見れないのは辛い。だが実際にそう口に出して答えたことはないし、言うつもりもない。日本にいればいつでも父の顔を見れるが、その代わりに私はきっと甘えてしまうだろうと分かり切っている。
私は人からよく風変わりだと言われるが、自分では微塵にもそう思わない。ただ単に、人としての中身が幼いだけなんだと思う。ずっと父に甘えて来た。父と二人で生きて来た。そして多くを学んだ。だからこそ、私は父のそばを離れなければならないのだと、いつしかそう考える様になっていった。
疲れていたのだろう。
視界が歪みそうなほどの人いきれの中で、私は幼い頃の夢を見た。
夢の中に、意外な女性が出て来た。その女性は、白くて柔らかそうな手をしなやかに動かし、私を手招きしている。指先一本一本にいたるまでが美しく、品のある手の動きを見るだけで心が弾んだのを覚えている。私は夢の中で、自分がまだ十歳にも満たない子供だった頃に還っていた。
私はずっと、その女性の手に触れたいと思っていた。優しい声で私のことを愛称で呼び、惜しみない笑顔で接してくれる女性だったから。だけど、私は夢の中で一度もその女性に触れてもらう事はなかった。何度もその女性に向かって駆け、こちらから抱き付いていったとしても、私の頭や頬に手を添えられる事はなかった。そしてそれは夢の中に限ったことではなく、実際の記憶でもあったのだ…。
夢の中には、父の姿もあった。
父は私に背中を向けながら、優しく語りかけてくれる。私が前に回って父の顔を見ようとすると、ごく自然な動きでまた私に背を向けてしまう。私は、最初は笑って父の顔を追いかけている。だがその内笑えなくなって、追うのをやめてしまった…。
遠くの方でしゃがみ込み、視線を低くして私を呼んでいるのは…二神七権だ。二十年程前であればすでに齢七十を超えていたはずなのに、私を呼ぶその男はとても若々しい風体に、いたずら好きの少年みたいな笑顔を浮かべていた。しかし二神さんといえば、修行の一環として年がら年中両目をハチマキで覆っているせいで、実際どこを見ているのか分からないのが常だった。今も幼い私を前にして、その視線はどうにも私の背後を見据えている気がするのだ…。
「…で、…かろう。…が、…のだ。…いい」
「え?」
二神さんの声が聞き取れず、私は一歩前に出て彼に耳を寄せた。
すると二神さんは、はっきりとした口調でこう言った。
お前が終わらせろ、と。