娼婦聖女太母類型論
「男性作家が描く女性像を考察したところ、女性のイメージは3パターンしかありませんでした。性的な欲望を満たす「娼婦」、崇めたてるべき「聖女」、甘えの対象である「太母」です」
「すなわち男性は、対等な人格をもった存在としての女性像をうまく組み立てられていないのです」
といった議論が一部巷間で話題になったらしい。
また、『性暴力を「ささいなこと」にする レイプ・カルチャーとは何か 』(小林明子 2017)という記事と、『「レイプ・カルチャー」とはいったい何か』(Ryan Broderick 2014)という記事が直接関係しているらしい。前者の議論は伊藤公雄による。後者の記事はまた『Why The "Rape Girls" Are Speaking Out』(Jessica Testa 2014)を参照している。
娼婦と聖女と太母へのシンプルなカテゴライズが新鮮かはどうあれ面白かったことと、それが言わば男叩きに用いられたこと、それへの反応として女叩きに用いること、が面白かったことで話題になったのかなと、とりあえず思った。
なので、そもそも男女論に多少の興味がある自分としては、娼婦と聖女と太母というカテゴライズについて、自らの意見を少し考えてみたい。
しかしその前に一応、参照先の議論を一瞥してみる。
レイプとは強姦の意味であり、日本語では強姦よりも柔らかい意味を持つことがしばしばかもしれないが、英語では恐らくそのようなことがなく、最大限に語感の強い言葉だろう。
Jessica Testaによる元々の記事も、強姦そのものについての議論であって、強姦犯罪者がしばしば軽微な罰によって許されていること、またその一方で、強姦被害者が、自らが強姦された事実を公言できずむしろ恥じなければならない立場にあることの倫理的な矛盾を論じるものであるようだ。強姦されたことをもっと公言することによって社会を改善していこうという議論であるようだ。日本は比較的に極めて治安の良い国家であり、外国の治安の悪さは一般的な日本人の想像を絶するものであると言えるから、外国の真面目な議論に無礼にならないようにレイプを論じようとする考慮は必要だろう。
直接参照されている記事の内容は、伊藤公雄による議論である。その議論の主旨の一つは、(金や学歴や地位や名誉で達成される)優越志向と所有志向と権力志向とからなる「男らしさ」への批判である。これは、参照先の議論を展開するものであるよりは、彼による1993年の『「男らしさ」のゆくえ』の主旨であるようだ。これは既存の男性への批判であるとともに、歴史的な男性的役割から男性を解放しようとするものでもある。また、今回の議論の結論として、「女性と対等な聞係を築く男性」である「フェアメン」の増加が社会をより良くすると主張している。
Ryan Broderickによる「レイプ・カルチャー」の議論は、複数の要素から成り立っている。その主旨は、日本で普通、セクハラとして論じられるものだ。つまりセクハラ文化への批判である。内容はやはり、日本の状況よりよほど深刻な事例によっている。日本では2017年に強姦罪が更新されて男性被害者を含む強制性交等罪となったが、この記事では2012年にFBIがむしろレイプの定義に男性被害者を含めたことが言及されていて、日本の記事のような男叩きの趣はないようだ。ただし、「レイプ・カルチャーとは、レイプしないよう教えられるのではなく、レイプ「されない」よう教えられる文化を指す。」として、性暴力リスクについて女性の服装を戒めるような姿勢を非難する点で、日本の記事は参照先に確かに沿っている。原文の主張の論旨は、軽薄な服装や言動を責めることは本質を指摘しておらず、軽薄な服装や言動をしていたとしても何より強姦行為自体が非難される社会を目指すべきだということだろう。それが達成されないことは、非難されるべき「レイプ・カルチャー」だとして、言葉を用意したわけだ。
個人的な印象としては、外国の記事と日本の記事で知的水準が隔絶しているように見えて切ないが、それはそれとして、以上をもって、娼婦と聖女と太母との議論が参照先の主旨でないことを踏まえたと考えよう。
なお、一つ際立つ論点は、日本人女性記者が、金と学歴と地位を持たない男性を蔑む主旨としていることと、彼女が頼る伊藤公雄による理論の、金と学歴と地位を求めることが社会と男女関係を不幸にしているという主旨の、痛々しいほどの論理の断絶だが、日本人女性の知的水準を批判しても仕方がないので、これを掘り下げることはやめよう。
参照先の議論に関する私的見解。
参照先の日本記事の一つの主旨は、対等な敬意を持って女性を扱え、ということである。
個人的にも、対等な敬意を持って女性を扱う男性は稀にしかいないと感じて不快に思ってきたし、年下の女性を見れば金や学歴や地位で自己宣伝を試みる男性をしばしば見かけて蔑みを感じてきたが、しかしまた、金の匂いを嗅いだと思えば心をときめかせて肉体を提供する女性を多く見かけてもきたので、男性の自己宣伝が不合理に作用しているのかは知らない。
私の印象からすると、日本社会は歴史的な不合理なジェンダー文化が色濃く残るものであって、それは確かに男性の利益に便利なものだが、それを積極的に支えているのが男性のみであって女性ではないとは感じない。個人的には、ジェンダー文化を徹底的に破壊して、男女である前に等しく人間として評価し合うことが健全であり理想だと考えるが、現実の女性の肉体的および知的な実力と歴史的差別を考えると、言わばアファーマティブ・アクションが行われることは必要だと考えられる。ただちに男女を完全にフェアに扱えば、むしろ女性の地位が徹底的に低下する可能性が高いだろう。
ただし理想としては、「女性と対等な聞係を築く」フェアメン、および「男性と対等な聞係を築く」フェアウィミンの繁栄を個人的にも欲する。そのことが知的な女性の増加をもたらすと信じるし、知的な女性の増加は社会幸福にとって合理的であり、同時に私の個人的な価値観においても魅力的な女性を増加させるだろうと思うからである。
なので男性が、
「対等な人格をもった存在としての女性像をうまく組み立てられていない」
という非難はもっともだと感じる一方で、対等に扱われることに現在の女性が耐えられるともとうてい思わない。つまり、今の日本社会をより良くするためには、男性の努力および改善と、女性のそれが共に大切だと考えらえる。まあ、自らの性に甘い議論は総じて幼稚だということだ。
という、毒にも薬にもならない不毛な議論は我ながら退屈なので、娼婦と聖女と太母という概念で遊びたい。
流通する女性キャラクターの多くが、男性に好都合な性質に色濃く染め上げられていることは、レイプ・カルチャーというまで刺激的な言葉を当てるべきかはどうあれ、そもそも明らかだろう。
さらにそもそも、男性向けのメディアでは男性に好都合な女性像がほとんどであって、女性向けメディアでは女性に好都合な男性像がほとんどなわけだが、そこまで言ってしまうと、どうしようもない性差という面が強くて議論の余地がない。大雑把に言って、男性にとっては女性メディアの男性像はまるで女性のようで気味が悪く人間像として不快であり、女性にとっては男性メディアの女性像はまるで男性のようで気味が悪く人間像として不快なのだ。つまり、男性が描く理想的女性と現実の女性が隔たっていて、女性が描く理想的男性と現実の男性が隔たっているのであって、その事実を認めることが有意義だろう。
しかし、現実の女性が男性が望むような女性ばかりになり、現実の男性が女性が望むような男性ばかりになった時、現実の男性や現実の女性が実際により幸福になるかといえば、そうなる理由はない。恐らく、子供が見返りをもたらすと論理的に推測される限りにおいて愛情を与えるような母親と、社会的責任感の欠落した主観的な男性が増加して、社会幸福はむしろ崩壊するだろう。
そこで合理的なのは、本能がもたらす言わば宗教から両性が脱することであって、客観的な論理による議論がそのために有効な武器ではあるだろう。しかしそれをきちんとやることは、この論稿の主旨ではない。
娼婦と聖女と太母について。
対象としては、性欲の対象、尊敬の対象、肯定してくれる対象ということだろう。しかし主体として見てみようか。
娼婦とは言わば、金銭のために自らの個人的な人格を切り売りすることで生活している者である。
つまり、男性で言ういわゆる社畜と似ているかもしれない。
なので、娼婦と社畜とは「対等に見ていない」と言うことはできず、むしろ相思相愛なのではないだろうか?
そもそも、「金と学歴と地位」で男性を計ることを恥じない傾向は現代女性にあるのであるから、経済的見返りの代償として女性であることを提供しているという意味で、それら女性が本質的に娼婦であると言うことは可能だろう。
つまり、娼婦であることは、聖女であることや太母であることと比較して、突出して現実の女性の実態であるとも考えられる。
聖女は単に、肉体的に純潔であるという意味で、娼婦の逆だと考えられる。
しかし尊敬できる存在としては、男性的な優秀性を備えたものと見ることができる。
リアルで、この女の子は胸は大きいけど頭が軽いな、と男性が感じるようなシーンはあるだろうから、自分自身の向上を目指す価値観に沿わせて、女性に対してあらゆる優秀性を求めていくことは、ある対象を迷いなく愛したいという欲求において、自然なものだろう。便器を用いる時に便器になりたいとまで思わないだろうが、彼女のような人間になりたいという人間像を求めるということだろう。女性に神の属性を兼備させていると見るよりも、神に女性の属性を兼備させていると見るべきかもしれない。
女性に聖女としての属性を求める男性というのは、単に道具として女性を見る男性よりも、よほど女性の幸福にとって合理的であるように思われるが、実際には報われないようである。
太母について。
普通の母親を持たなかった私にとって、世間の人々は大いに母親に甘えて見えた。男性の多くもそうであって、一部であれ「赤ちゃんプレイ」なる概念があることは、想像を絶している。
なので、母親のような属性を不合理に求められることは、多くの女性が経験するのだろう。
しかし、男性的な恋愛が尊敬し合うことを求めるとして対比すれば、女性的な恋愛は互いを許し合うものだと考えることができる。いわゆる奴隷道徳とも指摘されるところである。その点で、むしろ女性自身が、互いに母である関係を欲していると見ることができる。
ところで、ナデナデ。
男性が頭をナデナデしてくるのがうっとおしい、という女性の声をしばしば聞く。
しかしまた、ナデナデされたいという女性や、さらには男性も、少なくないようだ。
男性が一方的に女性をナデナデする関係を規範として、女性がそれを受け入れ喜んで当然だとする感覚は、非難されるべきジェンダー文化かもしれない。しかし事実として、ナデナデされて喜ぶ男性よりも女性が多いなら、生物学的な性差に基づく社会的な先入観であって、ひどく歴史の古いものであるかもしれない。その意味では現代批判としては論点を外れるかもしれない。
個人的には、頭ナデナデはよいことだと思う。例えば子供に対してスキンシップで愛情を示すことは、精神力の基盤を強力にするために重要だろう。自己肯定感のある誇り高い子に育ちやすくなるのではなかろうか。
すでに長くなったので議論を適当にまとめる。
娼婦であり聖女であり太母であることは、男性にとっての女性の肯定的な魅力を大きく言ったものと見ることもできる。
逆に言えば、肉体的に魅力がない、人格的に尊敬に値しない、他者への肯定的感情が弱いということを女性としての短所だと見るという宣言だとも見なせる。
なので、フィクションで強調されるほどにそれらを有しない多くの女性にとって、メディアの女性像は等身大の自分達だとは感じられないということかもしれない。
女性キャラクターが、胸を大きめに描かれたり、機能性を無視して肌を露出した服装をしたり、ということが無制限に許容されてみえる現状が肯定されるべきものだとはとうてい思われない。
しかし、拝金主義と我欲の現実が、物語として価値あるものだとも思われない。
両性が現実の異性をより正確に知る時代が来てほしいと望まれるが、女性像批判がその主要な論点と見なされることは狂っているだろう。
女性的な優しさを持った男性と、男性的な自らへの厳しさを備えた女性、つまり、太母のような男性と聖女のような女性ばかりの社会を、目指すべきゴールとすべきだろう。
男女がともに娼婦だとすでに指摘したことを踏まえて、結論を導く。
結論。
理想は、
男性:娼婦→太母
女性:娼婦→聖女
であって、しかし現実は、
男性:太母→娼婦
女性:聖女→娼婦
なのでは。
つまり、男性が他人への優しさを失っていて、女性が心の清らかさを失っている気がする。