ゾンビ発生
その奇妙な現象が世界で起きはじめたのは突然だった。
「なんか最近、なんとなく食事がまずく感じる」
最初は皆、そう呟くだけだった。『なんとなく』では世間の話題にはならない。
次に
「普通にまずい」
にランクアップした頃にやっと病院に行く人が出てきた。そういう患者の多くは、最近怒りっぽくなったという症状もみられた。研究家の間で様々な実験がなされていたが原因は不明のまま時間は過ぎていった。
やがて症状はほとんどの地球人に顕著に現れるようになった。攻撃性増加により家庭内暴力事件、校内暴力事件が急増した。極度の食欲不振による栄養失調症患者の増加。外食産業は一気に衰退。失踪者数は日々史上最高を記録し続け、夜の都市は精神疾患者やホームレスであふれかえった。
もはやただの病気では済ませられない事態。各国の医療機関は総力をあげて1日でも早い対策を取れるよう研究を早めた。
しかしもう手遅れだった。さほど日のたたないうちに大量の人間が毎日行方不明になるようになったのだ。しかもそれは決まって夜。
世界中の人々が夜の闇に連れ去られていく……。
もちろん人間達は大パニックに陥ったが日に日に落ち着いた。なぜならパニックだった国民さえもどんどん行方不明になったからだ。
行方不明の対象者は医者や研究者も例外ではない。その病気について何もわからないまま、世界規模の研究は続行不可能となった。
しばらくして、夜の地上にはゾンビがあふれかえるようになった。とある医者の独断の研究により、例の病気は感染病である事が判明したが、これといって状況が良くなる兆しは無い。感染を免れた人も次々にゾンビの餌食になり、世界には数えるほどの人間しかいなくなった。原因不明の病気はゾンビ化症候群と呼ばれるようになった。
もう元の世界に戻ることはないかもしれない……生き残ったほとんどの者がそう思った
それでも希望を捨てずに、ゾンビと戦う事を決めた人間も確実にいた。これは感染を免れたある8人の男女の物語である。
ーーゾンビは夜の闇と共に現れる。
これは逆にいえば昼には現れないという意味になる。
だからわずかな生き残った人々は暗くならないうちに町を徘徊する。食料調達に勤しむ者。町に転がっている死体を片付ける者。大切な人を探す者。死んだペットを見つけて泣きつづける者……。事情は人それぞれだ。
今、とある豪邸の地下に集まった8人の男女もそういう人達の一部である。
8人全員、ごく最近知り合ったばかりだ。なんなら今日はじめて会った人もいる。ゾンビが出るようになってからというもの人とすれ違う事すらなくなっていた彼らは、偶然道で見かけただけで仲間のような感覚を芽生えさせた。2人組と2人組が出会って4人組に。4人組と4人組が出会って8人になった。出会いは出会いを呼ぶらしい。
「壁も窓も堅固な素材で出来ており、ここなら夜になっても安心だと思います。食料の備蓄も十分ですので無理に外に出る必要もありません」
その豪邸の主人だと思われる人の良さそうな青年が、8人で住むこと前提で話をする。他の7人からとくに反論は出なかったので、決定したと考えて良いだろう。
「まずは全員、自己紹介をしませんか?」
眼鏡をかけた真面目そうな青年がそう言ったのがきっかけで、8人がそれぞれ自己紹介する流れになった。
「ジャンケンして負けた人から自己紹介ね!」
誰かがそう言い、ジャンケンの結果、無愛想な表情をした陰気な感じのする若い青年が最初という事になったが
「あの、俺、実は大手企業とかのスパイとかやってたんで、名前とか教えたくないんですけど……」
と、しどろもどろに言ったので皆、目をパチクリさせた。 テーブルの端に座る童顔の女性はそれを本気にしなかったようで一瞬吹き出したが、他の人が誰も笑わなかったのと、あとスパイだという青年の視線が温かくないのを感じて、気まずそうにシュンっと目を伏せて大人しくなってしまった。
「でもせめて呼び名は欲しいよね……」
というボブヘアの女性の呟きに何人かがうんうんと頷いた。
「じゃあ、全員が全員、あだ名で呼び合って、本名を明かさないっていうのはどう?」
と長い黒髪の女性が提案した。皆、面白がってそれに賛成した。
「じゃあ、スパイはそのまま『スパイ』でいいよね。これ以上のインパクト無いし」
長い黒髪の女性が続けてそう言うと、スパイ以外はそれに賛同した。
「僕はこの家に住んでいます」
最初に8人の同居を提案した若そうに見える豪邸の主人がニコニコしながら自己紹介する。彼はかなりの大富豪のようだという事を皆は知った。あだ名は豪邸の主人という所から『オーナー』となった。
「僕はゾンビ症候群の研究を続けています」
次に自己紹介したのは眼鏡をかけた真面目そうな青年。彼は研修医であり研究者だった。なんと、ゾンビ化症候群は感染症である事を最初に言ったのが彼なんだという。あだ名は『ドクター』となった。
「私は会社で受付をしています」
次は女性だった。さらりとした長い黒髪に小さな顔、折れそうなほど細い腕と足。何をとっても彼女は文句なしの美女だった。ドクターは彼女と目が合うとあからさまに顔を赤らめて目を横に逸らした。何人かがそれをからかったが、男性陣はやはり彼女に魅了されたようだった。彼女のあだ名は『マドンナ』となった。
「私、今、就職活動中で……」
次の女性は茶色のボブヘアーで少し顔を隠しながら自信なさげに自己紹介した。彼女はマドンナのすぐ隣にいたせいでマドンナを引き立てるようなポジションになってしまっている。比べさえしなければ彼女も十分綺麗な顔立ちをしているほうではあるのだが……。他の人がよくよく話をきいてみると、落ちぶれたかつての大企業の社長令嬢なのだそうだ。あだ名は『令嬢』になった。
「僕は普段、俳優として活動しています」
そう自己紹介したのは目の大きい若くて爽やかな今売れっ子の俳優だった。そのため皆一度はその整った顔を見たことがあった。女性陣はしばしキャアッと盛り上がったが、男性陣からは少々嫉妬を買う事になったようだ。あだ名は『勇助』。誰もが彼の俳優としての名前を知っていたため、何の捻りもせず、そのまま下の名前をつけた。
「私は……大学生で、看護科に通っています」
次の女性は大人しく童顔で可愛らしい子だった。人見知りなのか、ほとんど目を伏せている。肩にかかるほどの黒い後ろ髪が前に垂れる。その様子を勇助は少し心配そうにまじまじと見つめていた。あだ名は『ナース』となった。
「私が最後ですね!私は……」
最後である女性がその後に続けた言葉が全員を当惑させた。
「え、『魔女』……ですか?」
「何その嘘」
「変な冗談言わないでよ~」
「そうだよ、地味にびっくりしたよ~」
「もー今日はエイプリルフールじゃないんだから」
「ハロウィンでも無いからね?」
「魔法でも使うなら信じますけど」
他の7人はジョークだと思い好きな事を言って笑い合ったが
『本当ですよ?』
という声が7人それぞれの頭の中に響いた時、その場はすっと静まりかえった。それはいわゆるテレパシーだ。続いて頭に響く声は止めどなくスラスラと自己紹介をしていく。声の主の女性はというと全く口を開く事なく悪戯っぽく微笑むだけ。7人はだんだん恐怖を感じてきた。とりあえずあだ名を『魔女』とした。
スパイは疑惑を込めた視線を向けて彼女にこう言った。
「……まさか、君がゾンビ大量発生の犯人じゃないだろうな?」
すると魔女の顔から笑顔が消えた。
「そんなわけないじゃないですか……。そんな力ないし。私をゾンビから守ろうとしてお父さんとお母さんは食い殺さ……」
魔女は声を詰まらせたと思ったら急に泣き出してしまった。マドンナはすぐ立ち上がって「一旦部屋行く?」と魔女に促して一緒に廊下へ出て行った。
「スパイ、一応、後で魔女に謝っとけよ。俺も部屋行ってくる」
オーナーは自己紹介を境に他人行儀をやめたのか、敬語も使わずにスパイにそう言って席を立った。他のメンバーもやがてその場から離れていった。
夕食の時間まで、彼らがそこに戻ってくる事は無かった。