第三六七話、昔話
狐と狼、双方の小競り合いから発展した会談の結果は、ラウラとヴルトがそれぞれの部族の者たちに説明をしたことで、表面上にはケリがついたことになった。
過去を水に流す、とは言わないが、少なくとも、いまは同じ敵に立ち向かう者同士が争っている場合ではない。それぞれのリーダーが口にすれば、表立って反論する者はいなかった。
――とはいえ。
様子を眺めていた慧太は思う。いちおう方針は見せたものの、それで納得できるかは別問題。特に個人の感情ともなれば千差万別。色々思うところがあるだろう。
翌日の明け方、狐人らの割り当てにある射的場にいた弓隊指揮官に、慧太は声をかけた。
「やあ、ボーゲン、ちょっといいか?」
「ああ、えーと……ハヅチ将軍?」
ボーゲンは居心地悪そうに背筋を伸ばした。狐人にしては顎の角ばった青年である。二十代後半と、外見上は慧太より年上だ。……それがおそらくこの居心地の悪そうな態度となるのだろう。人間の将軍、しかもそれがどう見ても年下であるという。
「何か、ご用ですか?」
「ああ、ちょっと話がしたくてな」
「……昨日からうちの若い奴らに声をかけて回っているようですね」
ボーゲンは何か言いたげな表情になる。
昨日――とは、首脳陣の会談の後、慧太が陣地内を歩き回り、見かけた狐人の戦士たちに声をかけていた件だ。……実は声をかけて回ったのは、狐人だけではないのだが。
「なら、話が早い。オレが何を話すか見当がつくだろう?」
「狼どもと仲良くしろ、ですか?」
やれやれ、と言わんばかりに腰に手を当て、ため息をつくボーゲン。
「言っておきますがね、将軍どの。俺が奴らと仲良くなど――」
「違う違う。仲良くしろと言いに来たわけじゃない。……喧嘩をするなとは言ったがね」
慧太は首を横に振った。
「ボーゲン、君は個人的に狼人に恨みはあるか?」
「個人的に、ですか?」
ボーゲンは要領を得ない顔になった。
「そうだ。例えば、家族を狼人に殺されたとか。狼人に襲われたことがあるとか」
「いや、俺個人ではないですね。あ、親戚の庭を荒らしていた狼人を射殺しようとしたことならあります」
意地の悪い笑みを浮かべるボーゲン。慧太も薄く笑った。
「そいつは災難だったな。いや、君の親戚にとっても。仕留めそこなったのか?」
「当ててはやりましたよ」
ボーゲンはそう言うと背負っていた弓をとって構えて見せた。
「その時にこいつを持ってたら、間違いなく仕留めてました」
「ああ、そうだろうな。君は優秀な射手だ。先日の戦闘での射撃は見事なものだった」
「それはどうも」
ボーゲンは、視線を射的場の奥……といっても陣地の外にある丸太が的だが、それを向けた。
「まあ、あれくらいの距離なら俺たちにとってはなんてことないですがね」
その後、二、三、ロングボウでの射撃の話をした。そこでふと、ボーゲンは告げた。
「将軍、あんまり狼人は信用しないほうがいい」
それは、両種族の確執から来る言葉だろうか。たぶん、そうだろう。
「あんたは、人間にしては話がわかるし、たぶんいい奴なんだろうけど。……狼人を過剰に信用しないほうがいい。あいつらは嘘つきだ」
「嘘つき」
一瞬、狼少年の寓話を思い出した。狼が出たと嘘を言った羊飼いの少年が、本当に狼が出た時、信じてもらえなかったという話を。……何故思い出したかわからないが。
「狐人も、昔は狼人との争いをやめようと話し合ったことがあります」
ボーゲンは真面目な口調だった。
「話し合いはまとまり、まともな関係が築けると思った矢先、狼はこちらの差し出した手を、目の前で払いのけやがった。舌の根が乾かないうちに手のひら返しですよ。狼を信じるなって話です」
「……なあ、それって――」
慧太は言いかけ、ふと口をつぐんだ。――差し出した手を払いのけた、というのは、ひょっとしてアレのことか……?
「それじゃ、将軍。俺は射撃の練習を始めたいんで、お話がなければそろそろ……」
「ああ、そうだな。ありがとう」
邪魔をするのも悪いので下がろうとする慧太だが、やはりと言うべきか足を止めた。
「ひとつだけ。……ボーゲン、君の話だが、狼人は悪気はなかったと思うぞ」
「は?」
狐人の隊長は怪訝に眉をひそめた。慧太は声を潜める。
「狼人には、握手という習慣がない」
「は……?」
「その代わりに、相手に賛意を示す時は、手のひらを叩くようにタッチする……」
ぱちん、と慧太は手を合わせて、片手を跳ね除けるようにして見せた。
「君のいう狼人……別に払いのけたんじゃないと思うよ」
慧太はそう言う残すと、手を振って立ち去った。
異種族に対して、知らないということは恐ろしい。ひとつの仕草をとっても、まったく別の意味となり、知らず知らずのうちに相手を侮辱しているなんてこともままある。
少なくとも、自分の常識だけで異文化と接するべきではない。だいたいにおいて、トラブルになる。
・ ・ ・
『狐の臭いがしますな』
エシーは、慧太に言った。
灰色の体毛がふさふさと伸び、狼人の中では大柄でありながら、スマートな印象を受ける。ハント族の次席リーダー。ヴルトとは従兄弟なのだそうだ。
狼人に割り当てられた訓練場で、格闘の鍛錬をしていた彼は、一息つくべく、水を飲んでいる。
『さっきまで狐人と話していた』
慧太が狼人の言葉で言えば、エシーは桶の水を自身の顔にぶっ掛けた。そして顔をぶんぶんと振り、水滴を周囲に飛ばす。
『……連中、俺たちの悪口を言ってましたか?』
『悪口ではないが、よくは言っていなかったな』
慧太は木の柵にもたれる。
『狼人は嘘つきだってさ』
『俺に言わせれば、狐人のほうが嘘つきだと思うんですがね』
エシーは犬歯を覗かせながら笑った。
『あいつらはあの顔で何を考えているのかわからない』
『だが関係をよくするために話し合ったことがあったそうだな』
『あー、じい様の昔話で、そんなような話を聞いたことがあります』
『へえ、昔話ね』
昔話で教訓を、というのはどこも似たようなものらしい。
『ガキの頃から皆聞かされる話でさあ。狐は信用するなってね』
ほう。
『テリトリーを巡って争っていた狐と狼が妥協点を見い出す会合をしたが、突然、狐人どもが怒り出したっていう話です。……ほんと、ガキの頃は狐人は何てズルい連中なんだろうって思いました。信じられます? 終わった途端に手のひら返しやがったんですよ』
『……』
慧太は口を引き結ぶ。……いかん、笑っちゃいけないのに、こうムズムズしてくる。
『ハヅチの旦那?』
『その話って、あれか? 最後の挨拶の時になって、急に態度が変わって話し合いが潰れたってやつ』
『そうですそうです。よくご存知ですね。人間でも有名な話なんですか?』
『……知らないってのは怖いって話だな、それは』
うん、と慧太はとうとう笑い出した。エシーは首を捻る。
『なあ、エシー。その話、ヴルトにしてみろよ。きっと面白い反応が返ってくるぞ」
『ヴルトにですか?』
不思議そうな顔をするエシー。
『あいつに話しても、たぶん面白い反応はないと思いますぜ? だって俺もあいつもガキの頃から聞かされた話で、いまさら――』
『今なら、その昔話について、新しい解釈を彼がしてくれると思うよ』
慧太にはその様子がありありと浮かんだ。
それもそのはず、その昔話と同じことが、ヴルトとラウラの間で、まさに起きたからだ。




