第三六五話、着火した火種
互いに燻っていた。いつ火が起きてもおかしくなかったのだ。
何を言っているかわからなくても、悪意が込められているのは互いに感じていた。
そして衝突は、小さなきっかけだった。
食堂の両端にいた狼人グループと狐人のグループ。始まりは狐人の弓使いの一人が、弓の弦を引く仕草をしたことから始まった。
もちろん、矢はないし、あくまで振りだ。だがさながら狼人のグループに弓を射る仕草に見え、それを間の悪いことに、狼人のひとりが視界の端で捉えた。
『あの野郎、いまこっちに弓撃つマネしませんでした?』
狼グループの副隊長であるエシーが、戦場で狐人の矢で誤射されかけたという話があったばかりだった。狐人の行動に神経を尖らせていたタイミングでのそれは、完全な挑発行為として受け取られた。
「また矢を撃ってやるぞ」、あるいは「お前らに矢を撃ったのは俺だ」か。とにかく狼人の神経を逆撫でにしたのは間違いなかった。
『ヤロウ……!』
エシーが荒々しく席を立てば、同族間での結びつきが強い狼人たちは連鎖的に立ち上がり、狐人グループへ向かうのは必然である。
そして肩を怒らせ、威圧感丸出しで狼人グループが近づいてくれば、個々の殴り合いでは体格的に劣る狐人たちも固まって、正面からにらみ返すのだった。
「なにか用か、狼?」
『今てめえら、おれたちに弓を撃つって挑発したろォ?』
「何言ってるかわからないな。獣人の共通語か、狐人の言葉で頼む。狼人……!」
狐人リーダーのボーゲンが低い声で言った。
背は狼人のほうが高く、元より攻撃的な肉食獣だから威圧感が半端ない。だが狐人らもそれらを見上げつつ、一歩も引かない。
『んだ、てめぇ……!』
言葉がわからずとも、敵意は隠さないし、むしろあからさまにぶつけているスタイル。
『殺すぞ、フェネック!』
「犬みたく吠えてんじゃねえ、木偶の坊! 射的の的にすっぞ!」
野外食堂は騒然となる。静かに食事をしていた熊人や山猫人ら他の獣人らも腰を浮かしかける。
『おい、お前ら静かにしないか!』
熊人の戦士が声を張り上げた。身長二メートルを超える大男の声。しかし――
『るせぇ、クマ野郎! 穴に帰れ!』
『関係ないベールは黙って、サケでも取ってろ!』
狼と狐双方から怒鳴られ、ポカンとしてしまう。そこへどたどたと駆けてくる別の一団。
『お前ら、いい加減にしないか!』
白い角付き兜に軽甲冑をまとうウェントゥス兵が、両者の間に素早く割り込むと、引き離すべく食堂両端に押した。
『止めんな! 俺たちはこの狐ヤロウをぶっ飛ばすんだ!』
「耳障りな声あげてんじゃねえよ、狼が! って、押すなって――!』
相手種族への罵りはヒートアップする。最初は数人だったウェントゥス兵が、わらわらと食堂に集まり、何とか相手側に殴りかからんと進もうとする獣人を押し返す。
『おいおい、落ち着け、エシー。とりあえず黙ろうな、な?』
頬に傷のあるウェントゥス兵の大尉レーヴァが、狼人の副隊長をなだめるように胸を押しながら、狼人の言葉で言った後、くるりと狐人グループを見やった。
「こいつは、いったい何の騒ぎなんだ!?」
「知るか、狼どもがいきなり突っかかってきやがったんだよ!」
狐人のボーゲンが声を荒げれば、その部下たちから「そうだそうだ」と同調の声が上がった。
『そうなのか、エシー? お前ら、なんで狐人に絡んでるんだ?』
狼人語で問えば、エシーは吠えるような調子で言った。
『あいつらが弓で撃つ構えしやがったんだよ! 次は殺してやるぞってな! 挑発したのはあっちだぞ!』
やるかー!?
ぶっ殺してやる!
距離は離れていても、指差したり怒鳴ったりと挑発は収まる気配がない。
このままでは埒が明かない、とレーヴァが声を張り上げようとした時、突然、食堂に竜を思わす咆哮が響き渡った。
それは食堂はおろか、陣地内すべての人間の動きを止めるだけの音量を持っていた。当然ながら、喧騒もピタリと止んだ。
食堂の一同は、ある者は耳を塞ぎ、またある者は呆然と目を丸くする中、咆哮の主と思われる漆黒のドレスをまとう黒髪の少女がコホンと可愛らしく咳払いをした。
その右隣に立つ、慧太は左耳を塞いでいた指を取り除くと、淡々と告げた。
「どうしてこうなったのか、話を聞こうか?」
・ ・ ・
食堂での騒動は、獣人グループ同士が起こした事ゆえに、本格的な事情聴取が行われた。
折りよく、敵兵の掃討で陣地を離れていたヴルトが戻ってきたところで、狼人グループにはヴルトとレーヴァ、狐人グループにはラウラとセラ、ガーズィが調書をとった。
ちなみに慧太はというと、自ら小狐と小狼型の分身体を送り、双方の聴取の場に出席した上で、さらに謹慎中の狼人、狐人の様子を観察していた。
調書を取り終わる頃には、すっかり夜となっていた。
旧魔人軍陣地本部天幕。用意された長テーブルの上座に議長役として慧太はついていた。右側に狐人の聴取を行ったセラ、ラウラ、ガーズィ。左側にサターナと、狼人側から話を聞いたヴルト、レーヴァが座っている。……本当はユウラにも出席して欲しかったのだが、彼は体調が思わしくないとのことで欠席である。
「――その、弓を撃つ仕草をした狐人は誰かわかったのか?」
慧太が、右側の席に視線を向ければ、ガーズィが首を横に振った。
「狐人たちの中には、そのような証言をした者はいませんでした。まあ、こちらもその件は初耳なので、再度聞き取りを行えば、もしかしたら判明するかもしれません」
「本当に、弓を撃つ仕草だったのかのぅ」
ラウラは疑うような目を、正面の狼人リーダーに向ける。
「たまたま、そう見えただけで、実際は弓を引く仕草ではなかったやもしれんぞ?」
「確かに弓を撃つ仕草を見たと、うちの者が言っています」
ヴルトが睨むようにラウラを見やれば、隣のレーヴァが頷いた。
「俺も聞きました。見た本人は間違いないと言ってます。あれが弓を撃つ仕草でなければ何だと息巻いておりました」
「ふむ。……サターナ、まとめてくれ」
慧太が黒髪の少女に話を振ると、元魔人軍の女将軍は皮肉っぽく唇の端を吊り上げた。
「狐人も狼人も、双方とも悪態をついていた。先の戦闘において、狼人側の副隊長が、狐人のロングボウの誤射を受けていて――」
「誤射ではなく、流れ矢ではないのか?」
ラウラが口を挟むが、サターナはしかし笑みを引っ込めない。
「誤射だろうが流れ矢だろうが、実際に被弾しそうになった狼人がどう思ったかが問題でしょう? 実際にその件で狐人側から、副隊長に事情説明や謝罪があったのかしら?」
「そう言われてしまうと、答えに困るのぅ。ああ、確かに説明はなかっただろうな」
ラウラが降参とばかりに肩をすくめた。
「狼人側は、狐人の誤射と思っていた。ただ今回、食堂で狐人が狼人に向けて弓を撃つ仕草をしたことで、誤射ではなく故意に撃ってきたのではないかと受け取り、怒り出した」
「だから、まだ弓を撃つ仕草をしたかどうかはわからぬだろう?」
狐人の少女は口を尖らせた。いまのサターナの言葉の流れでは狐人が悪いと言っているように聞こえたのだろう。
「ええ、まだ定かではない。でもこの際、実際に仕草があったかどうかについては重要ではないのよ」
「重要ではない……?」
セラが小首をかしげる。サターナは頷いた。
「ええ、争いの原因はそこじゃないのよ。あくまで手を出すきっかけに過ぎない。そもそも、そうなる前から、両方のグループは相手の言葉がわからないにしろ、互いに悪口を言い合っていて、それがわかっていた……」
サターナは慧太へと視線を戻した。
「弓の仕草云々を徹底的に調査したところで、根本的な解決にはならない。狼人と狐人は互いに敵意を抱いている。まずはそこを緩和するなり、お互いに干渉しないようにしないと、今回のような事態は繰り返されると思うわ」
「……建設的な意見をありがとう、サターナ」
机に頬杖をつきながら慧太がニコリとすれば、サターナはわざとらしく一礼した。
「どういたしまして、お父様」
「お互いにわからない、わかっていないというのは問題だ」
慧太は、ヴルト、そしてラウラを見た。
「まずは、お互いに相手の種族をどう思っているのか、オレに教えてくれないか? 話はそれからだ」




