第三三四話、新たな問題
魔人軍がグスダブ城正面平野から姿を消した。
城にいたリッケンシルト兵らは大いに喜び、避難していた多数のリッケンシルトの民も安堵の息をついた。
助かったのだ。
目前まで迫っていた死の運命を逃れた彼らは、神と、救いの手を差し伸べたアルゲナムの姫君とウェントゥス傭兵軍に感謝した。
本当に敵は撤退したのか?
当初は疑う者もいた。慧太もまた、偵察の鷹型を放って敵情把握を行っていなければ、そう思っただろう。
もう一、二度の会戦は覚悟していたので、思いのほか早い魔人軍の撤退に少し複雑な気分になっている。ユウラに言わせれば、「許容できる損害を超えたのでしょう」と涼しい顔だった。
魔人軍が去り、それによって幾ばくかの平穏を取り戻した――と多くの者が思っている中、リッケンシルトの上層部は素直に喜ばなかった。
いや、喜べなかったというべきか。
彼らは、魔人軍とは別の問題を抱え、それをルモニー王に進言した。そしてそれは、アーミラ姫を通して、セラやウェントゥス軍に耳にも届いた。
・ ・ ・
「食料がない?」
慧太は、その言葉を繰り返した。
グスダブ城にある来賓用の食堂。先日、セラがルモニー王、アーミラ姫と会食したその部屋に、慧太はいた。
アーミラ姫とセラが遅い朝食――昨晩の戦闘のあと、セラはぐっすり眠り込んだせいだ――を一緒に摂っている場に呼び出された、というのが正しい。
「普通、冬を越すために備蓄をしておくものだよな。……それもないのか?」
慧太が聞けば、セラは視線を、リッケンシルト国の幼い姫へと向ける。
「魔人軍の進む速度は尋常ではありませんでした。国境を越えてからの勢いは、わたしたちはもちろん、軍の誰もが、冬までにオストクリンゲ地方にまで追い詰められるなんて思いもしなかったのです」
リーベル王子の誕生日パーティーの際に、魔人軍の侵攻の報が届いたが、その時にはかなり内陸部へと食い込まれていた。
ベルゼの第二軍による、守りの堅い拠点を迂回する電撃的侵攻。その後を進む第四軍、ベルフェの確実なる拠点潰しと破壊。
慧太やセラたちが、圧倒的な進撃速度を誇る第二軍に打撃を与え、戦線離脱させていなければ、冬を前にリッケンシルト軍は全滅していたかもしれない。
「このグスダブ城には、通常の三倍の兵が逃げ込み、それでも何とか冬を越せる分の食糧備蓄はあったそうです」
アーミラ姫は神妙な表情だった。何か気になることがあるが、それを言うのを躊躇うような、そんな風にも見える。
「ですが、兵と共に逃げ込んだ多数の難民となると、その全てを賄えるだけの食糧は不足しているのです」
残念ながら――
「この冬を越せず、大多数の民が飢餓と寒さで命を落とすでしょう」
十三歳の姫君は、唇を噛み締める。自国の民が飢えで死のうとしている。助けようにも、その食糧がないのだ。
「どこからか調達の目処は?」
慧太が口に出せば、アーミラ姫は答えなかった。返事がないのはわからないか、あるいは目処がまるでないという意味で受け取ってもいいだろう。つまりは――
「もって、数日と言ったところか」
グスダブ城のいたるところで見かけた一般人――難民たち。魔人軍から城を守ったのもつかの間、彼らは空腹と寒さで死を待つ身ということになる。
「難民たちは、それを知っているのか?」
「いえ」
アーミラ姫は首を横に振った。
「ですが、このままではいずれ彼らの耳に入り、騒動に発展するのでは」
食糧の配給が打ち切られて、はいそうですかと頷く者などいるだろうか。皆、生きることに精一杯であり、そうなれば騎士も兵も民も関係ない。暴動、そして軍と民衆の衝突……これは最悪の展開ではないか。
なんてこった! 魔人軍と戦わずしてリッケンシルト崩壊の危機ではないか。
何故もっと早く動かなかったのか。食料備蓄は一日二日で急になくなるものではないし、予想はついていたはずだ。
……魔人軍か。
慧太は苦虫を噛んだような顔になる。魔人軍の侵攻を防ぎきれる自信がなく、備蓄がなくなる前に魔人軍に攻撃されるかもしれないと見れば、まずは目先の危機に意識が集中してしまったのだろう。戦に勝てねば、食糧が尽きる云々の前に全滅だろうから。
「ルモニー陛下は? 何か対応は?」
「食糧備蓄の報告を聞いてから、お兄様は部屋にこもって……」
聞けば、重臣らに決断を強いられているらしい。難民への配給を打ち切り、リッケンシルト国の未来に必要な王族と幹部、そして兵らを生かす。……リッケンシルトという国を生かすために、民を切り捨てるという道――あの優しきルモニー王にとっては苦渋の選択となるそれ。
――おそらく、非情になりきれないのだろうな。
慧太は、決断を迫られる王に同情の念を抱く。……同じ立場には立ちたくないものだ。誰かを生かすために、誰かを確実に犠牲にしなくてはならない、なんて。
――オレにできるだろうか、そんな決断。
慧太は、ちらとセラを見る。この優しき姫君もまた、こういう決断を強いられた時、断を下せるだろうか。
「ねえ、ケイタ」
セラがその青い瞳を向けてくる。
「何とかここの食糧問題を解決する方法ないかな……?」
……要するに、民を切り捨てての存続ではなく、王国と民の衝突でもなく、この危機を乗り越える方法がないかということだろう。
――何と言う無茶ぶり……でもないか。
慧太はテーブルの上に肘をつく。セラは言った。
「ハイデン村やミューレ古城の食糧備蓄を、こちらに回すことはできないかしら?」
「可能だ」
慧太は頷いた。魔人軍が冬越し用に蓄えてた食糧物資がそのまま残っている。……分身体兵は、それらの食糧を必要としていないために、丸々グスダブ城へ移すことができる。それである程度の民がしばらく食いつなぐことができるだろう。
「だが、足りないな」
配給方法を工夫しないかぎり、どうしても犠牲は避けられない。
「ドロウス商会からの食糧の買い付けを強化する必要があるな」
輸送手段は空輸。飛竜を総動員すれば一週間と少しで往復は可能か。陸路で行くより遙かに早く着くが、そもそも陸路だと、魔人軍が押さえているザームトーアの城のせいで通行できなかったような。
――ザームトーア、ね……。
慧太は頭の中で、その名前を反芻する。
かつては難攻不落を謳われたという城。現在は、魔人軍が支配化に置き、オストクリンゲ地方を孤立させている拠点として存在する。
ベルフェの後退した第四軍の部隊も、おそらくザームトーアを経由するだろうし、城の守りもある程度固めているだろう。グスダブ城攻略を諦めたとはいえ、リッケンシルト残党軍を閉じ込める上で、この城は重要拠点。まったくの無防備ということはないだろう。
――交通の便をよくするためにも、ここは陥としておくべきだろう……。
グスダブ城とハイデン村への移動が空中ルートのみというのはいただけない。何より重要拠点で、守備隊が多いということは。
――それを冬の間、賄うだけの食糧物資があるということだ。
あるはずだ。なければ、後方から追加されるだろう。リッケンシルト軍をオストクリンゲに押し込めておく意味でも、ここは物資輸送の優先度が高い。
エサ箱作戦を実行している現在、その候補地としても申し分ない。このザームトーア城を密かに奪回し、その物資をリッケンシルト側に回す。
グスダブ城の窮状を解決すると同時に、魔人軍の兵站にさらに負担をかける。リッケンシルト軍と難民を追い詰めた対価を、魔人たちに支払ってもらおう。
「ケイタ……?」
セラが怪訝な表情で見つめてくる。自分が薄く笑みを浮かべていたことに気づき、慧太は改めて苦笑した。
「傭兵流のやり方というものがある」
なければ現地調達――略奪である。
「ひとつ、魔人軍から物資を略奪しようじゃないか」




