第三三三話、撤収
魔人軍オストクリンゲ攻略部隊、本営。
グスダブ城攻略のために動かした部隊をすべて陣地に引き上げ、ベルフェは指揮官らを招集した。
天幕のなか、温かなお茶を用意させ、皆に振る舞いつつ、ベルフェは席に着くと、開口一番こう告げた。
「陣をたたむ。ボクらはグスダブ城攻略を止め、王都エアリアへ帰還する」
夜の寒さに冷え切った身体に、温かなお茶で落ち着きはじめていた各指揮官たちは吃驚した顔で、第四軍の最上級司令官を見た。
自分たちは聞き間違いをしたのか。誰もが黙る中、副官のアガッダが確かめるように言った。
「撤退、でありますか?」
「うん、撤退だ」
ベルフェは、散歩に行くような気軽さで答えた。敗戦の空気を微塵も感じさせない。というより、そもそも負けた、という意識を持っている指揮官は、この中にはいなかった。
第十四重装歩兵連隊が壊滅した。連隊長や各大隊長は皆戦死した。
だが他の隊の損害は皆無であり、一個連隊を小癪な待ち伏せでやられたけれども、いまだ充分な兵力が残っている。これに我らが指揮官ベルフェの頭脳が加われば、まだ戦えると疑っていなかったのである。
「何か、言いたいことがありそうな顔をしているな」
ベルフェは魔鏡の奥で、さして興味なさげな目で、部下たちを見回した。
「聞きたいことがあるなら答えよう。何もなければ、ボクからは何もなしだ」
指揮官たちは顔を見合わせる。何故、撤退なのか、それに対する説明はないし、このままでは彼女は口にしないつもりのようだった。……となれば、聞くしかない。
「何故、撤退なのですか?」
十五連隊指揮官の鬼魔人が低い声で問うた。ベルフェはお茶をすする。
「第一に、戦力を損耗し過ぎた」
あくまでリッケンシルト軍残党にトドメを刺すために編成されたオストクリンゲ攻略部隊である。残党狩りに充分と踏んだ戦力だが、本音としては、春の大攻勢に備えて損害を極力抑えなければならなかった。
練習前にバテて、本番で力を発揮できない、などということがあってはならない。だがこれ以上の戦力の喪失は、その愚を冒すことに他ならないのだ。
「まだ第十五連隊は健在ですが」
先の連隊長が不満をにじませても、ベルフェは動じなかった。
「戦力比が縮まった」
十四重装歩兵連隊が、まるまる使い物にならなくなった。全体の四分の三がやられ、残りも再編成が必要な状態だ。
「ボクたちの戦力は、敵に対しておよそ二倍に落ち込んでいる。攻城戦であることを考えても、たとえ勝てたとしても、君らが被る損害も馬鹿にならないよ」
攻撃三倍の法則は、魔人軍でも認識されている。一般的な人間に比べて、魔人兵の強さを考えると、二・五倍ほどでも足りるだろう。だが、リッケンシルト軍にアルゲナムの戦姫とその精鋭部隊が加わった以上、その計算は危うい。
「第二点、こっちの物資が心許ないのと、兵の体力維持が限界であること」
ベルフェは、温かなお茶を飲み、ほっと一息ついた。
「元々、冬は軍隊を動かすべきじゃないんだ。余裕はみているつもりでも、吹雪に見舞われて攻撃を延期したりで、日程もギリギリだ。兵たちも寒さで戦闘能力が落ちている」
グスダブ城を早期に落とせれば、連中の蓄えている備蓄を手に入れて、ある程度の食糧事情は回復するが、それと引き換えに戦力を失っては意味がない。
「本国からの支援にしても前線へ運ぶ手間を考えると、本来、ボクらは余分な消費を抑えなければいけない立場にある。現地調達しようにも――」
現地調達とは、つまりは略奪である。
「いまボクらの手に入れていない土地は北部の獣人テリトリーと、ここオストクリンゲしかない」
冬までに速やかに占領地を確保したことが裏目に出た。もし手付かずの集落が複数あれば、そこを滅ぼして食糧物資を調達するということも可能だっただろう。
「とりあえず、食事がないことには兵は走れないし、アルゲナムの騎士姫が来たことで、こちらも戦力計算をやり直さないといけない。……あー、増援を待つというのはなしな。君らの兵たちが寒さで凍えるのが先だからな」
そんなわけで――ベルフェはお茶を飲み干したコップをテーブルに置いた。
「オストクリンゲ攻略部隊は撤収する。撤収だ、撤収!」
・ ・ ・
ウェントゥス傭兵軍は、グスダブ城に帰還した。
城門をくぐると、リッケンシルト兵らが集まっていた。例の出発前に話した若い騎士が慧太を見かけて声をかけてきた。
「どうなりましたか、将軍?」
城壁から、戦闘があったのは見えていた。セラが聖天を使い、派手に魔法を撃ち込んだから、遠目からでもその光や音はわかったはずだ。大方の見当はつくだろうが、それでも結果を戦った当人たちの口から聞きたいというのが心情だろう。
「夜襲は叶わなかった」
慧太は正直だった。
「だが、同じくこちらに夜襲をかけようとした魔人軍の前衛部隊に大打撃を与えて後退させた。魔人軍に出血を強いるいう目的自体は達成している。つまり」
成功だ――その言葉に、聞いていたリッケンシルト兵たちが歓声を上げた。仲間内で声を上げたあと、彼らはウェントゥス兵たちに歩み寄り、肩を叩いたり、怪我はないか、何か欲しいものは、などと声をかけて健闘を讃えた。……あの鬼の面じみた兜で素顔を隠している兵たちを恐れるどころか、頼もしげに接している。
そしてそれは、参加した者たちのあいだでも伝染し――
「なあ、すげえぞ! 魔人連中を返り討ちにしたぜ!」
アウロラが興奮を露に声を弾ませていた。魔鎧機を着込んでいたせいなのか、彼女の褐色の肌に汗が浮かんでいる。この寒さのせいか、少し湯気が出ているようだが……。
「アウロラ、落ち着いて」
魔鎧騎士であるティシアは同僚をたしなめたが、その表情は柔らかだった。彼女もまたその金色の髪が水気を含んで肌に張りついている。もともと美人な顔立ちの彼女だが、妙に艶っぽい。
「それよりもこちらに犠牲者がでなかったという奇跡に感謝しましょう」
「そう、それ!」
アウロラが、リッケンシルト兵に混じるウェントゥス兵らを見た。
「ジパングー兵ってすげぇんだな! あんな乱戦でもきっちり仕事こなす上に、全員無事に帰るって、普通ありえねえぞ! いくら奇襲したからって、絶対、誰かがやられたり大怪我したりするもんだって、普通」
興奮覚めやらない様子のアウロラである。疑うという空気はなく、ただただ大勝といっても差し支えない結果に我を忘れているという感じだ。
慧太は肩をすくめる。まあ、今は喜んでいてもいいだろう。勝ち戦の後だ。
それに比べたら、リアナとキアハは静かにハイタッチを交わしていたし、サターナにしろアスモディアにしろ慣れたもので、むしろセラのほうを気遣っているようだった。
魔鎧機スアールカを駆り、おそらく今日一番魔人兵を塵に変えたセラ。前回の魔鎧機展開では数日間、意識を失っていた彼女も、二度目ということもあってか、表情に疲れは見えるものの二本の足できちんと立っていた。
「……まあ、無事そうでよかった」
つい、口から出る。慧太のそれを、ユウラは聞き逃さなかった。
「これで安心して、セラさんの力に頼れますか?」
「逆だよ、逆。セラはできるだけ温存するんだ」
「おやおや、まだ彼女を甘やかすんですか?」
軽口を叩くように言うユウラ。慧太も笑みを返す。
「そんなんじゃないよ。放っておいても皆セラを頼るようになるから、今から彼女を当てにした戦術に頼ると、後が大変だっていうんだよ」
聖天による敵部隊の一掃。突破口の開口や、敵主力の一挙撃破。空を飛べるセラだが、スアールカという魔鎧機を得たことで防御面で死角がなくなった。
はっきり言おう。小規模な敵拠点や部隊なら、もはや彼女ひとりで何とかなってしまうだろう。疲労や消耗を考えなければ、おそらく無双ゲームか何かのように、セラは魔人軍を蹴散らすことも可能だと思う。
だが、それは危険をはらんでいる。単騎無双は、味方としては頼もしいものの、頼りすぎてしまうのは問題だ。
それに、力の持ちすぎは周囲への恐れを生む。敵に対してその力を使っている間はよくても、ひとたびそれが自分たちに向けられたら、と思うと警戒したり、疑心暗鬼にかられたりと負の感情を呼び起こす。
――セラがそんな風に、まわりから恐れられるのは見たくない。
彼女は白銀の勇者の末裔として、先祖に負けないよう努力を惜しまない。しかし、勇者であろうとする本人の意思は、周囲の偏見や差別、レッテルの前には簡単に無意味なものとなってしまう。
「それよりも――」
欝になりそうな考えを振り払い、慧太は首を振った。
「いまは目の前の魔人軍だ。一発ぶちかましたとはいえ、まだまだ戦えるだけの戦力があるわけだからな。明日からは本格的な攻城戦になる」
「先ほどの損害から、引き上げてくれるかもしれないですよ?」
ユウラは事実を告げるような調子で言った。慧太は頷いた。
「だと、いいんだけどな」




