第三〇五話、国境線を越えて
冬のハイド川は川幅に反して流れている水の量はわずかだった。流れる水によって丸く削られた石がいっぱいに広がり、水がなくとも徒歩で歩くのは中々に難儀な地形だ。
だがそのような丸石がむき出しになっているのを見れば、他の時期にはいっぱいの水が流れる川であることを暗に物語っている。
冬のあいだの積もった雪が春の訪れとともに北の山々から溶け出すと、ハイド川はたちまち大きな川へと変貌する。
ほぼ水の枯れたように見えるハイド川。そのリッケンシルト国側、土手となっている頂上に、魔人軍の哨兵が対岸を見張っていた。
彼ら哨戒任務の兵は、アルトヴュー軍の越境に備えている。
ひとたび人間の軍勢が迫れば、各自哨兵が保持する笛を鳴らす手はずとなっている。笛の音が聞こえる程度の間隔に立てられた彼ら哨兵が笛の音をリレーすることで、前線警戒部隊に通報される仕組みだ。
だが、実際のところ、哨兵らにとっては退屈この上ない任務だった。
対岸の枯れ木の森や、ところどころ雪が積もった平地を眺め、その変化のない景色に飽き飽きしながら漫然と時間を過ごしていた。
夕闇が迫る。
気温がぐっと下がり、外套で厚着している豚顔魔人の兵は、その場で足踏みを始めた。せめて、焚き火が起こせれば……つか、早く交代来いよ――!
早く陣地に戻って暖を取りたかった。
その時である。
対岸に動きがあった。薄暗くなりつつある周囲。よく目を凝らさなければ見落としていたかもしれないが、複数の動くものが魔人兵の目に映った。
手に持った槍を水平に持ち直し、さらによく見ようと半歩前へ――
ふっと背後に気配を感じた。びくりと振り返った瞬間、喉を鋭い突起が貫いた。
「――がっ!?」
痛みを感じたのは一瞬。目の前が真っ暗になり、さらに脳天に一撃を喰らったことで、セプラン兵は意識を刈り取られた。
倒れる魔人兵。
ここから数十メートル離れた場所に同じく哨兵として立つ魔人兵もまた、背後からの不意打ちを受けて命を失う。
それは影――シェイプシフターはたちまち、ウェントゥス兵の姿となりハイド川の土手から周囲を確認した。
敵の姿なし。ウェントゥス兵は対岸に合図を送る。
それを確認した対岸の部隊――慧太たち本隊は、ハイド川の渡河を開始した。
春以降であったなら、舟が必要だったそれも、特に障害なく川を渡る。土手の上の敵哨兵を始末したことで、待機している警戒部隊が向かってくることもない。……仮に通報されたとしても、配置場所の関係上、戦闘は川を渡りきった後になるだろうが。
慧太とウェントゥス兵の本隊が土手を登る。
・ ・ ・
渡河の一時間前、ダンザ砦の中庭で、慧太は皆を集めて作戦の説明を行った。
皆と言うのは、先の状況把握の際にいた面子のほかに、セラ、リアナ、キアハ、アスモディア、アルトヴューの騎士であるティシアとアウロラのことである。
「リッケンシルト国から魔人軍を撃退するための橋頭堡を確保する」
慧太は宣言した。
背後には粗末な木板が立てられ、掲示板よろしく地図が張り出されている。それを椅子に座って見つめる面々。慧太は教師のように張り出された一枚、ダンザ砦からリッケンシルト国のハイデン村近辺までが記されている地区の地図を指し示し、前線の敵情を伝えた。
「――ハイデン村西方の小隊と、古城正面の小隊は離れている。オレたちは日没時を狙ってハイド川を渡り、この中間地点からリッケンシルト国へ入る。第一の目標は、ハイデン村だ」
地図に、侵入経路を書き込む。目標の集落へ一本の矢印。その途中、下――南へともう一本の矢印が伸びる。
「この警戒小隊は、本隊から分離した小部隊をもって夜間奇襲をかける。リアナ」
慧太は、狐人の暗殺者を見た。
「君に始末を任せたい。できるか?」
「一個小隊?」
リアナは淡々と問うた。慧太は頷いた。
「およそ五〇人」
「やれる」
まったく怯みも見せず、やはり無表情にリアナは応えた。聞いていたアウロラが、本当にできるのか、といわんばかりに怪訝な表情を浮かべたが、セラやキアハらはまったく疑っていなかった。
「人数を何人か使っていい。何人欲しい?」
「一人で充分……と言いたいけど、まあ、十人もいれば」
「一個分隊を援護につける。せいぜい使ってやってくれ」
「わかった」
リアナは了承した。慧太は地図に戻る。
「ハイデン村には、一個歩兵中隊と砲が三門、それを扱う砲兵小隊が駐留している。およそ二百人程度だ。正直、こんなところに何故砲が置かれているか理解できないが、やることは同じだ。オレたちは森を経由してハイデン村に接近、夜のうちに包囲し、そのまま敵を殲滅する」
夜襲かよ――ボソリと、アウロラの声が聞こえた。褐色肌の女騎士のその声には、明らかに不満げな響きがある。隣に座るティシアは顔をしかめたが、それでもアウロラは不機嫌さを隠そうとしなかった。
「あー、団長殿、聞いてもいいか?」
もう聞いているが、というのは野暮である。慧太は頷いて、促した。
「あたしらは? 何をすればいいんだ?」
「魔鎧機は合図があるまで対岸で待機だ」
「はぁ?」
露骨に嫌そうな声をアウロラは漏らした。
「冗談だろ? あたしら魔鎧機はここのお守りでもしてろってか?」
「魔鎧機は温存する」
慧太は有無を言わさない口調で告げた。
「対岸に置いておくというのは、何かあった時の予備隊として備えるためだ……不満か?」
「いいや。……ただ、まどろっこしくないか?」
は?
「こそこそ夜に仕掛けなくても、敵の場所が分かってるなら、魔鎧機で乗り込んだほうが早いと思うが? 敵の歩兵なんざ、魔鎧機が一機もあれば事足りる」
堂々と、真正面から敵を叩き潰してやるよ――アウロラは自信満々だった。どこか小馬鹿にするような響きを感じる。それを敏感に察したサターナやアスモディア、リアナがアウロラを睨む。
「お前は、リッケンシルト国にいる魔人軍全体を、一人で相手にするつもりか?」
慧太は、相手の喉もとをナイフで切り裂くような冷たさで告げた。
「敵にわざわざ、こちらの侵入を教えてやる必要はない。コソコソで結構。こちらは敵に対して圧倒的に数で劣っているということを忘れるな」
「……」
「オレたちは、これから数え切れない回数の戦闘をこなしていくことになる。魔鎧機は貴重な戦力で、切り札だ。その切り札をいきなり使うわけにもいかない」
「あんたの言うことはわかった」
アウロラは肩をすくめた。
「それが傭兵の戦い方ってもんなんだろう。だが、アタシは気に入らない。それは覚えておいてくれ」
「好き嫌いで戦争をするなど、贅沢な話だな」
これにレーヴァらウェントゥス兵が皮肉げな笑みをこぼした。
「さて、話を戻そう。オレたちはハイデン村を確保したのち、ここを拠点に、第二の目標であるミューレの古城を制圧する」
地図上のハイデン村から、北東方向にある古城へ矢印が引かれる。
「小高い丘の上に建てられた古い城だが、周囲を一望できるため、国境線はもちろん、オレたちの移動や行動を発見される可能性が高い。他の敵に通報されてもつまらないので、ハイデン村を制圧したのち、一日のあいだはまだ何もなかったように見せなければならない」
魔鎧機などで派手に暴れまわったら、そのフリも不可能であるのは言うまでも無い。
「その次の夜に古城へ接近し、ここを叩く」
また夜襲かよ――アウロラが苦笑した。ティシアが手を挙げた。
「ハヅチ団長、城攻めを夜に行うのですか?」
「何か問題でも?」
「問題、というか……そんな簡単に城攻めなどできるのでしょうか? この兵力で――」
純粋に疑問を口にしているようだった。アウロラと違い、彼女は真剣だった。
次話、『攻撃位置へ』
国境を越え、夜の森を進む慧太たち。魔人軍に忍び寄るシェイプシフター――




