第一三六話、雪上の遭遇
魔人軍による襲撃はなかった。早朝に出した分身体の偵察では、敵の姿を発見できなかった。
これに対し、ユウラは「魔人軍は追跡を諦めのかもしれない」と言った。雪中装備も山岳装備もなく、先日の吹雪の影響もあって向こうも疲弊しているのでしょう、と。
慧太たち傭兵と、リッケンシルト親衛隊は、廃墟となったマラフ村を出発した。
まだ日が昇り始めた朝。東の空が明るいオレンジに輝き、空を漂う雲を染め上げている。風は吹き、やや肌寒さを感じるのは早朝の空気のせいだろう。一行はナルヒェン山の東に向かいつつ、下山する。
慧太は、狐人のリアナと、隊の最前列を行く。
魔人軍の追手は確認できていないが、連中には空を飛ぶ飛行兵がいる。先回りして待ち伏せしている可能性も捨てきれないので、進路上の確認をおこなっているのだ。
リアナの狐耳が周囲の音を拾う。彼女の索敵範囲は、人間のそれを遥かに凌駕する。
慧太は前方から左右をぐるりと見回して、後方へと視線をのばす。
リッケンシルトの親衛隊は、二つの分隊に分かれ、一つは慧太たちの後ろ。残り一つは最後尾を警戒している。
ゲドゥート街道戦で、四十八名いた兵らも、いまでは半分以下の二十一名となっている。軽傷者が数名いるが、重傷者はいない。……数度の戦闘と吹雪で、体力のない者から倒れていったのだ。
親衛隊兵の間に挟まれる形で、ユウラとアスモディア、セラにキアハ、山羊の姿のアルフォンソがいた。
・ ・ ・
キアハは、正直自分が何故ここにいるのかわからなかった。
一緒に行こう――ケイタに誘われた。
すべてを失い、投げやりになっていたということもある。あの場で彼に従うのも悪くないかもと思えたが、いまではその判断にも迷いがでていた。
このまま、ついていって大丈夫だろうか?
キアハの不安はそこにある。
ある組織によって身体を弄られ、魔人化させられた記憶がある。そこでの苦痛に満ちた生活や教育は、思い出しただけでも気分が悪くなった。
別の施設へ移送される際の事故で、キアハは脱走した。同じく改造されていた人たちと。
彼、彼女らが、のちのナルヒェン山のマラフ村の住人たちだ。年齢はばらばらだったが、最年長は二十代半ばまでと、比較的若い者たちだった。
あの廃墟も同然の村にたどり着いた時には、十人ほどが脱落していた。残った者たちも、じきに体調を崩し、やがて動けなくなった。最近ではキアハ一人で、生き残りたちの面倒を見ている有様だった。
それでも、迫害されるよりはマシだった。
脱走の直後に受けた、人間たちからの仕打ち。それをキアハは忘れることができない。
『魔人』『化け物』のレッテル。元人間であることを信じてもらえず、石を投げられたこと。武器で襲われたことが、人間に対する嫌悪感と距離をとる一因となった。よそ者に冷たく当たるのは、自己防衛の感情からだ。
村を失い、仲間たちもいない。
ケイタたちは、キアハを受け入れてくれたが……正直、表の世界に戻ることが怖かった。昼間はともかく、夜ともなれば肌も変われば角も生える。魔人化する身体を抱えて、表の世界に戻るなんて。
キアハは尻ごみしていた。一人ぼっちのほうが、まだ気楽でさえ思えた。
帰りたい。離れたい――その気持ちが大きくなる。
だが、声をかけるタイミングがつかめなかった。
視線をスライドさせる。隣を歩く銀髪の少女――セラが気づき、顔を向ける。
「何?」
「いえ……」
つい視線を逸らしてしまう。そもそも、マラフ村の同胞たち以外との交流なんてほとんどない。どう接していいのか、よくわからなかった。
――どうする、どうする、どうする……っ。
キアハは俯く。身体は大人の女性にも負けないが、中身は対人経験不足の少女だった。
「具合が悪いの?」
セラが気遣うように声をかけてくる。ビクリとなってキアハは背筋を伸ばす。
「いえ! 大丈夫、です……」
やめて、優しくしないで――ますます、言い出しにくい気持ちになる。妙な緊張に冷や汗が出る。
怒りや侮蔑には対処できるが、優しさという感情に対しては、キアハはまったく対応できなかった。
・ ・ ・
リアナがピクリと狐耳を動かしたのを、慧太は見逃さなかった。
視線を向け、真っ直ぐ立つその姿は美しくもあるが、彼女が警戒している証でもあるので、のんびりしているわけにもいかない。
場所は緩やかな斜面だ。向かって左側が丘のように高く、右へ行くにしたがって下っていく。まだまだ雪があり、昨日一日程度では溶けきれないほど積もっていたようだ。
慧太は、すぐに手信号で後方に止まるよう合図した。リッケンシルト兵を束ねるウィラー十人長が、ただちに手信号を中継し、分隊を止めると共に後ろにも報せる。
立ち止まり、地形を舐めるように見回すリアナ。金髪の狐娘の背中を見つめ、ややしてから慧太は口を開いた。
「リアナ……?」
「待ち伏せ。左右の雪が積もった場所に、潜んでる」
狐人の少女は、その碧眼をゆっくりと動かした。
「大型の獣……魔獣の類が左右に一匹ずつ。他に人型が十数人……あと」
リアナは正面を見据える。
「ひとり、こっちへ歩いてくる」
慧太は、彼女の視線をたどる。
正面から、ゆったりとした足取りで歩いてくる者の姿が見え始める。
外套……いやローブか。全身、黒い衣装で固めた魔術師風の外見。フードを被っているので顔は見えない。体格からすると成人男性だと思われる。
慧太は既視感をおぼえる。どこかで見たような――
まただ。何かが引っかかる。あの姿に覚えがあるが、直接会ったわけではない。誰の記憶か、慧太はたどる。
その間に、後方からユウラたちが追いついた。左右をリッケンシルト兵らが警戒しつつ、こちらにやってくる黒いローブ姿の人物を見やる。
「何とも、堂々たる登場ですね」
ユウラが皮肉げに言えば、慧太は視線を動かさずに告げた。
「雪の中に魔獣が二頭、人型が複数潜んでいるらしい」
「正面の人物は、それの知り合いですか?」
「さあ、オレが知るわけないだろ」
やがて、黒ローブの人物は立ち止まった。フードをとって露になったのは、三十代ほどと思わせる男。長い黒髪、彫りの深い顔立ち、体格もまたしっかりしている。
その男を見るなり、キアハが「ひっ」と小さな悲鳴じみた声を漏らした。見れば、目を見開き、表情は強張っていた。
知り合い、それもあまり会いたくない種の相手のようだ。
「はじめまして、といっても貴殿らに用があるわけではないのだが……」
男は、男性的としか言いようがない渋みのある声を発した。
「そこの魔人娘に用があり、参上した」
魔人娘――この場合は、アスモディアではなくキアハだろう。男の視線は、黒髪ショートカットの少女へと向いている。
「それは我々の『所有物』だ。勝手に持ち出されても困る」
「所有物……!」
その言い回しに、慧太はもちろん、セラもまた表情を険しくした。男は続ける。
「その娘を置いて去れ。さすれば、誰も傷つかずに済む」
そいつは――慧太は口もとを引きつらせた。こちらを脅しているのか?
「穏やかじゃねえなー。人をみて所有物とか言うのは」
慧太は口を開いた。ユウラは静観を決め込み、他の兵たちも成り行きを見守っている。
「まるで彼女をモノや奴隷だと言っている風にも聞こえるが?」
「まさしく、それだ」
黒いローブの男は、微塵も揺るがない。
「マラフ村と、そこの魔人どもは、我々の管轄下にある。それを断りもなしに連れ出すのは、盗人の所業。貴殿らに非があると思うが?」
あくまで所有者であることを強調するか。慧太は、内心舌打ちしたいのをこらえた。
人間を魔人化する行為を行った連中と見て間違いないだろう。そのような非人道的行為を行うのも、キアハや村人らを『モノ』として所有しているが故にできることなのだろう。
だが、そこで「はい、そうですか」と頷くことは、できない相談である。
「話が見えないな」
慧太は肩をすくめた。
「キアハの話じゃ、マラフ村の人々は、おっかない連中から逃げてきたと聞いたが?」
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