第3話 出会い
バルトシュたちが血痕を辿り、行き着いた先に、その小屋はあった。
小屋の周りの木は切り倒され、根まで掘り起こされて、地面は平らに整地されている。
たった一軒の小屋のために、ゴブリンはここまでしたのだろうか?
三人はまさか、と思いながら小屋に近づく。
三人が辿っていた血痕は小屋の前に血溜まりを作り、その最後は小屋の中まで引きずられたかのような赤い線を描いている。
辺りに漂うツンと鼻につく鉄の臭いと、それに混じる何かが腐ったかのような臭い。
視覚と嗅覚を強烈に刺激する光景に、アレクとイザベラは吐き気を感じていた。
三人は若干青い顔をしながら、腰の剣に手を伸ばす。
「ゴブリンは、ここで何を……?」
アレクの無意識の呟きに、誰も答えを返さない。
だがその声に反応するように、小屋の中で何かが動いた。
アレクとイザベラは咄嗟に武器を構え、バルトシュは盾を構える。
ただでさえ不穏な森に、さらなる緊張が重なる。
森に吹く風はまるで身体にまとわりついているかのように重たく、森に暮らす生き物はいつしか沈黙する。
完全な静寂が、森を支配していた。
真上から照らす陽の光だけが、唯一彼らに安らぎを与える。
その光は小屋の隙間にも入り込み、小屋に潜む住人の影をうっすら浮かび上がらせる。
「あれは……人?」
小屋を照らす光は、そこに潜む住人が金の髪を持つことを示していた。
持ち主の少しの動きに反応して、きらきらと輝きを繰り返すその髪は、さながら黄金の滝のようであった。
「なあ、あれって……ゴブリン、じゃないよな」
「まさか、本当にエルフがいるのか……?」
男二人が困惑しているのを他所に、イザベラは光に魅入られたかのように小屋に近づく。
「イザベラ、おい! ……くそっ」
バルトシュが制止をかけるがイザベラは止まらない。
仕方なく、その無防備な姿を守れるように二人も歩き出す。
イザベラは、小屋のすぐ前まで着くとしゃがみこんだ。
そして小屋の中を覗き込み、その中の強烈な腐臭に顔を顰める。
腐りかけたゴブリンの死体が、小屋に充満しているようだった。
「う……ゲホッ、ゴホ!」
そのあまりの臭いに耐え切れず、イザベラは二歩、三歩と後ずさりする。
だが、それでも諦めていない様子のイザベラは、その位置でまたしゃがみ、話しかける。
「ねえ、あなたはどうしてそこにいるの?」
強烈な刺激臭による脳の痛みに耐え、静かに話しかけるイザベラ。
「…………」
答えは返ってこなかった。
だが、琥珀色の目がじっとイザベラを見つめている。
感情の映っていない、まるで本物の宝石のような瞳。
でも、どこか哀しそうに見えるその目にイザベラは飲み込まれてしまいそうだった。
「私の名前はイザベラ。あなたの名前は?」
答えてくれないとわかっていても、つい聞いてしまう。
一方で、イザベラの突然の行動に追いつけない二人は、イザベラの五歩後ろで待機している。
あまりに酷い臭いに耐え切れず、進めなかったのだ。
「あなたはゴブリンに捕まっていたの? 私たちと一緒に行かない?」
魅了されたように話し続けるイザベラは、思い出したように腰の皮袋を探る。
「……あった。これ、私の蜜菓子。あげるね」
「それ、高い方の菓子じゃないか! 俺にもくれよ!!」
イザベラは手のひらに蜜菓子を載せて差し出す。
「…………」
受け取らない。
今度は蜜菓子を入れていた皮袋の上に載せて、ゆっくり差し出す。
「…………あ」
今度も失敗かと思った瞬間、小屋から腕が伸びてきて、蜜菓子を掠め取る。
しばらくして、ポリポリという音とともに、ほのかに甘い香りが漂ってくる。
束の間の幸福の匂いに、三人は頬を緩ませる。
その菓子は、決して匂いが強いものではないはずだったが、不思議と匂いが伝わってくるようだった。
そして、バルトシュは鼻に手を当てながら言う。
「……臭いが、なくなった?」
さっきまで感じていた腐臭が、いつの間にかなくなっている。
慣れたというよりも、初めから存在していなかったのでは、と思うほどだった。
だが、それと同時にバルトシュは他のことにも気づいていた。
「まずい、魔獣の気配が近づいてきている」
沈黙していた動物たちは、慌てふためいたように逃げ始め、森に騒めきが戻ってきた。
それと同時に、複数の悲鳴があちこちから聞こえてくる。
「アレク、イザベラ。これ以上は危険だ、撤退しよう」
「あ、ああ。イザベラも早く支度を」
だが、イザベラが動き出そうとする気配はない。
その目はひたすらに小屋に向けられており、バルトシュたちの声が聞こえている様子すらない。
「おい、聞いてんのか! 早く逃げるぞ!!」
アレクの苛立ちを隠せない声にも耳を貸さず、イザベラは静かに小屋に向かって手を伸ばす。
「大丈夫。大丈夫だから」
イザベラは唄うように話し、柔らかく微笑んでいる。
もし、この瞬間を絵にすることができたのならば、描いた画家はその絵に『救いの手』というタイトルを与えるだろう。
同じように、その手に救いを感じたのかは分からないが、やがて差し出された手を掴むように小屋から腕が伸びてくる。
イザベラの腕よりも細く、今にも折れてしまいそうなその腕は、恐る恐るイザベラの手を触る。
イザベラは焦れたりすることはせず、ただ優しく笑っている。
イザベラの手をそっと撫で、しだいにペタペタと触れ始めたその手がイザベラの手を掴むようになるまで、そう時間はかからなかった。
突然の出来事に、ついていけなかったバルトシュとアレクは、しばらく茫然としていた。
だが、森の騒めきに動物の悲鳴が混じり始めてきたことに気づき、我に帰る。
「イザベラの準備が出来次第出発する!」
イザベラに促されるままに、小屋の住人は陽の世界の住人となる。
小屋の住人は小さく、芸術作品のような子どもだった。
その美しさは、緊急時でなければじっくりと見惚れるほどであった。
しかし、命が懸かっているこの場においては、逃げることしか頭にない。
イザベラが、子どもを抱きかかえると同時に三人は歩き出す。
抱えられた子どもはイザベラに身を預けており、眠っているようにも見える。
イザベラが戦えないので、イザベラを挟むように一列に並んで道を戻る。
三人が辿ってきた血の跡は、動物たちが逃げる際に巻き上げられ、道標の役割を成さなくなっていた。
「ないかもしれないが、もうここへは戻って来れないだろうな」
途中、何度も後ろを振り返り、聞こえてくる悲鳴に耳を傾けながら必死に逃げる。
だが、幸運にも魔獣に遭遇することなく壊滅させたゴブリンの巣まで戻ることができた。
ゴブリンの巣はその全域が血で染まり、屍肉目当てに多くの小型魔獣が集まっている。
「そういえば、ここはあの腐臭がしないのね」
イザベラは何となく、気づいたことを口にする。
あの腐臭は、ゴブリンの死体から発していたものではないのだろうか?
「……そうだな」
バルトシュは、若干の違和感を感じていた。
(俺の感じていた呪術の正体は、あの場にあった臭いと一致した。だが、いったい誰がこんな真似を……?)
小屋の中で死んでいたゴブリンが、最期に遺した呪詛だとでも言うのだろうか。
せっかく捕えたエルフの子を道連れにするためにわざわざこんな遠回りなことをするだろうか。
だが、もはやこの違和感の正体を確かめることはできない。
バルトシュは、何か重大なことを見逃しているような気がしてならなかった。
三人と、抱えられた一人はそのままゴブリンの巣を通り過ぎる。
屍肉目当てに集まる魔獣は、自分より強いとわかる相手には襲ってくることはない。
静かに、魔獣を刺激しないように進めば安全なはずだった。
それに、ここから開拓村まではそう遠くない。
三人は予想外の出来事が起きたことで、ほんの少しだが油断していた。
イザベラは抱えた子どもが狙われることがないように、そして血生臭い現実を見せないように深く抱え直す。
子どもは眠っているのか、ぐったりと身体を預けている。
「……フフッ」
深く抱え直したことで、子ども特有の体温や匂いが伝わってくる。
イザベラはここが森だということも忘れて、愛おしそうに子どもを見つめている。
「…………」
それを面白くなさそうに見ているのがアレクだった。
バルトシュはそんな二人に苦い顔をしているが、まずは森を抜けることを優先する。
その時だった。
「「…………ギェ!」」
「「……ゲェエエ」」
可笑しな鳴き声とともに、今まで屍肉を漁っていた魔獣が倒れ、息絶える。
いつの間にかゴブリンの巣にはあの腐臭が漂い始め、その空間にいた他の動物たちも、死んでいく。
ゴブリンの巣が腐臭に完全に包まれたとき、生き残っていたのは四人だけだった。
その他の生き物は全て、死への入り口と化したゴブリンの巣に引きずり込まれてしまったかのように沈黙している。
「な、何が起きて……」
突然の出来事に状況を把握できず、見えない脅威に戸惑う三人。
イザベラの抱えている子どもは、この腐臭を感じていないのか、それとも気づいていないのかじっとしたままだった。
もしかしたら、気絶しているのかもしれない。
バルトシュは、懸命に冷静さを取り戻そうとする。
しかし、ぐるぐると同じところを回り始めた思考が、バルトシュのさらなる焦りを呼ぶ。
(罠!? こっちが本命か!!)
アレクは不意打ちのような腐臭を思いっきり吸ってしまったのか、鼻と頭を押さえて悶絶している。
しばらく、アレクとその嗅覚は使い物にならなそうだ。
イザベラは、子どもをしっかり抱きかかえて守ろうとしている。
この短時間で心の拠り所となった存在を、決して手放してしまわないようにしている。
三人は、それぞれが死を意識していた。
今までにない事態に、自身の身を守ることすらできていないのだ。
さらに運の悪いことに、具体的な死が三人に迫ってくる。
腐臭に刺激された魔獣が、ゴブリンの巣めがけて突き進んできたのだ。
しかも、明らかにいつもの様子でなく、狂ったかのように身体をあちこちに打ち付けながら迫ってくる。
バルトシュは反射的に叫ぶ。
「くそっ! 逃げるぞ!!」
悪態ついたバルトシュは、三人を引き連れて逃げることを選択した。
幸運にも、魔獣の脅威がバルトシュに即座の決定を下す材料となったのだ。
三人は、弾かれたように走り出す。
撤退の言葉が、三人の身体を無意識に動かしていた。
今までの経験と本能が、早く逃げろと訴えかける。
疲労が溜まって遅くなる足に、ゴブリンの巣から開拓村まであと少しだと言い聞かせ、必死に走り続ける。
バルトシュは、逃げながら深く後悔していた。
もっと自分がしっかりしていれば、こんな目に合わなかったはずだ、と。
走馬灯のように流れていく景色を横目に、三人は息を切らせながら走り続ける。
背後からの恐怖は、着実に三人を追い詰めていた。
次話は明後日、6月3日を予定しています。