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第2話 別れ

 レィトの家が見えてきた。


(…………僕の……家、だ)


 家に着くまでの時間が、レィトには丸一日に感じられた。

 時々聞こえるレィトを呼ぶ声だけが、レィトの心の拠り所になっていた。


 レィトが前に進むたびにだんだんと強くなる匂いとは反対に、時間とともにだんだん小さくなっていく自分を呼ぶ声。

 耐え難い苦痛を感じながらも、レィトはただ前に進むことだけを考えていた。


(あと少し、あと一歩)


 もう、レィトは家の前に何かが倒れていることに気づいていた。

 だが、それが何かを考えないようにしながら、前に進む。






 とうとう、家の目の前まで来てしまった。

 レィトは足を止める。


 這ったような痕とその上の血の道の終点には、一人のゴブリンが仰向けに倒れている。

 ゴブリンの頭は血で染まり、ねっとりとした髪が身体に赤い線を描いている。


 足の裏に根が張ってしまったかのように、レィトはその場から動けなくなった。


 なんと声をかけたらいいのか分からない。

 レィトが口を開き、必死に声を絞り出そうとする。


『……ァ……マ、マ』


 この声が聞こえたのか分からない。

 だが、死んでいるかのように見えたゴブリンは頭を少し動かして、焦点の合わない目でレィトを見た。


『……あ、あぁ。……レィ……ト』


 ママが笑っている。


 そう、レィトには見えた。


 ゴブリンの目がレィトを呼ぶ。

 動くようになった足を懸命に操作し、ゴブリンの近くまで歩く。


 途中、レィトは何度も血溜まりに足を取られた。

 それでも、ようやく手を伸ばせばゴブリンに触れられるところまで歩くことができた。


 レィトは、身をかがめてそっと呼びかける。


『ママ……』


 今度は、ちゃんと声が出た。

 ゴブリンがよろよろと手を伸ばし、レィトの頬を撫でる。


 ゴブリンの皺の多い乾いた手が、柔らかな肌の上を滑る。


『よ、かっ……た……無事……だった、の……ね』


 もはや、声とも言えないほど掠れた声だった。

 ゴブリンの顔色はレィト以上に血の気がなく、命の炎が尽きようとしているのは誰の目にも明らかだった。


 レィトは頬を撫でるゴブリンの手を握り、瞳に涙を浮かべている。


 静かな森の中で、レィトの嗚咽だけが響く。


『ママ……ママ……』


 堪えきれなくなった涙がレィトの頬を伝い、ゴブリンの手を濡らす。

 ゴブリンは焦点の合わない、ぼんやりした目でレィトを見つめ、静かに笑う。


 やがて、ゴブリンはそっと口を開き、最期の別れを告げる。


『可愛い……坊や。……私の……坊や。……お腹が……空いて、る……でしょう? ……ごめん、ね。……今は、……持って、きて……いない、の。……だから、……これから、は……自分で……探さ、ないと……いけない、の。は……ァ、あなた……もうすぐ……私も、行くから……待って、て……ね』


 ゴブリンは懸命に言葉を吐き出し、レィトに最期の別れを伝えようとする。

 たとえ、支離滅裂な言葉になっていたとしても、これだけはレィトに伝えたかった。


『レィト……幸せに……生き、て』


 ゴブリンの腕が静かに、ゆっくりと落ちていく。


『……ママ!』


 ゴブリンはもう、動かない。

 レィトがいくら揺すったとしても、生き返ることはない。

 最期までレィトを見つめていた瞳が、もう一度レィトを映すことはない。


『ママ!ママ!』


 レィトの叫びが、哀しく森に響く。


(やっと! やっと触れてもらえたのに!)


 レィトの不完全な心が無意識に、ずっと求めていた温もりは、手に入れると同時に失ってしまった。


 一瞬でも満たされてしまった心に、再び穴が空いた。


 レィトは思わず胸を押さえる。

 痛みに耐え切れず、掻き毟るように自分を抱きしめ、必死に願う。


(これは夢だから、朝が来たら全部なくなる。夢だからなくなる。僕は今、夢を見ているだけなんだ! 全部! 全部夢だったんだ!!)


 レィトがどんなに待っていても、悪夢から覚めることはない。

 大切な人が死んでしまったという事実は、変わることはない。




 レィトは、このまま死のうかと思っていた。

 ここで血の匂いに惹かれた魔獣がやってくるまで待つか、そうでなければ涙が枯れるまで泣き続け、餓死しようかと思っていた。


 だが、同時に『幸せに生きて』という最期の言葉がレィトを迷わせる。


 言いつけを守り、痛みに耐えながら生き続けるか。最初で最後に言いつけを破って命を絶つか。


 だが、レィトが迷っている時間はなかった。

 レィトの背後から、複数の足音が近づいてきたのだ。


(迎えが、来た……?)


 レィトは不思議と、そう感じた。

 何の迎えなのか、レィトにも分からない。


 だが、それは確かにレィトに迫ってきている。


 レィトに残された時間は少ない。

 一瞬の判断が、レィトの運命を左右する。



(……僕は、僕は!)



 レィトが、その場から逃げることはなかった。






 三人の踏破者が、森を歩いている。

 踏破者というのは、魔獣狩りを専門としている傭兵のことだ。


 男二人と女一人という珍しい組み合わせの踏破者パーティは、『エルフの捜索』などという奇妙な依頼を受けていた。


 【ヴィスエジャの森にエルフはいない】


 それが、踏破者でなくとも知っている常識のはずだった。

 エルフは隣国サルヴィか、海を渡ったストル大陸のみで生活していると言われている。


 いままでに例外はなく、それは未開の地であるヴィスエジャの森でも同じはずだった。

 それにもかかわらず、強欲な商人たちは自分は森でエルフを見たと言い出し、その捕獲依頼を踏破者ギルドに出してきた。


 踏破者たちの誰もが、成功するはずのない依頼を受けることを嫌がった。

 しかし、ギルドとしては商人からの依頼を受ける者がいないというだけで突き返すわけにはいかない。


 踏破者ギルドは捕獲依頼を捜索依頼という形にし、その存在を確かめるという名目に貼り替える。

 一組でもこの依頼を受けてくれたら、ギルドの体面が守られるのだ。


 こうして、ギルドの策略にまんまと引っかかったのが、この三人だった。


「くっそ、ギルドの連中め。俺たちがここに来たばかりだからってこんな依頼押しつけやがって」

「落ち着け、アレク。今は依頼をこなすことだけを考えろ」

「はいはい、常に神経を集中させろって言うんだろ? そんなことできるのバルトシュくらいだって。イザベラもそう思うだろ?」

「…………」


 三人が受けた依頼が奇妙だったなら、そのメンバーもまた、奇妙だった。


 悪態を吐く男とそれを諭す男は、まるで反抗期の子どもと威厳のある父親のように見える。

 そんな二人を横目に、黙々と歩く女は踏破者としては似つかわしくないほど妖艶だ。


 命知らずで知られる踏破者たちでも、こんな仲間ではパーティなど組まないだろう。

 だが、こんなパーティでも結成から二年が経過しており、その実力も中堅と呼べるほどになっていた。


 そんな三人は現在、捜索場所として指定された範囲を探索しており、途中に見つけたゴブリンの巣を壊滅させ、逃げた一匹のゴブリンを追っていたところだった。


 ゴブリンの逃げた先にあった道は巧妙に隠されており、多くの罠が仕掛けてあった。

 もし、逃げるゴブリンの血痕がなければ、正しい道を進むことができなかっただろう。


 それでも、いくつかの罠は避けることができずに、魔獣と戦闘をしなければならなかったこともあった。

 なんとか魔獣を倒した三人が血痕を辿り、慎重に歩いていた時だった。


「待て。この先に何かある」


 バルトシュが二人に声をかける。

 バルトシュは、この先の雰囲気が今までと明らかに異なっていることを感じ取っていたのだ。


「血の匂いだけではない。微かに呪力が混じっている」


 バルトシュの感覚は、この先に進むのは危険だと告げていた。

 魔力の変質したものである呪力の存在を、バルトシュは確かに感じていた。


 バルトシュは、血の匂いに混じる呪力が弱いことを確かめると、二人に相談する。


「この先は罠かもしれん。これ以上進むか、二人の意見を聞きたい」


 普段よりも一層、真面目な顔で尋ねるバルトシュに対し、若干の緊張を浮かべる二人。

 少しの間があり、やがて二人は答えを返す。


「行こうぜ」

「進みましょう」


 アレクもイザベラも、あえて危険に飛び込むという判断をした。

 アレクはともかく、イザベラまで進むという判断をしたのが意外だったのか、バルトシュはほんの少し眉を上げ、短く問う。


「なぜそう判断した?」


 アレクとイザベラは一瞬、顔を見合わせる。

 そして、イザベラがバルトシュに向き直り、慎重に言葉を紡ぐ。


「なぜこの先が危険なのか、それを確かめないといけないと思ったから。それに……」


 アレクが隣で頷いている。

 イザベラは言葉を続けるか迷っていた。

 だが、バルトシュの真剣な表情を見て、少しの勇気が湧いたようだった。


「誰かに呼ばれているような気がする。誰かに助けを求められている、ような」


 気がするの、と話す声はだんだん小さくなっていく。

 せっかくの勇気が、しおしおと萎んでいく。

 アレクも、頷いていた顔が斜めになっている。


 イザベラは、自分でも変なことを喋っていると感じているのか、下を向き、静かにバルトシュの反応を待つ。


「……わかった、先に進もう。だが、これまで以上に心して掛かるぞ」


 バルトシュはそれだけを伝え、前を向く。

 そして、静かに呼吸を整え、身体に気を張り巡らせると慎重な足取りで歩き出す。


 そして、三歩ほど進んだところで二人が歩き出していないことに気づき、振り返る。


「どうした? まだ、話し合いが足りなかったか?」


 二人は、ぽかんとした表情でバルトシュを見ている。

 二年という月日を共に過ごしていても、三人がお互いを理解し合うにはまだ、時間が足りないようだった。

お読みいただきありがとうございます。

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