プロローグ
長い物語になりそうですが、よろしくお願いします。
アスト王国南部に広がるヴィスエジャの森は、アルヴ大陸中央のエルヴェール山脈の麓を覆う、大陸最大の森林である。
ヴィスエジャの森は豊富な資源を有しており、また、その周辺は豊穣の地でもあった。
その地を狙う人間は多く、強欲な商人は惜しみなく人と金を注ぎ込んでいく。
しかし、森に潜む強大な魔獣が迂闊に踏み入った人間を食い散らかし、開拓は遅々として進むことはなかった。
ヴィスエジャの森に入り、少し歩いたところにゴブリン族の集落はある。
森の木を切り倒し、木の根を掘り返して地面を平らにする。
切り倒した木を木材として使用した家が何軒も建ち並んでいる。
魔獣の潜む森の中で、ゴブリンたちはひっそりと暮らしている。
生まれてから一度も森を出ることはせず、一族に伝わる教えを守り、人生を終える。
七十を超えるゴブリンの平穏な日々が、そこにはあった。
あの日が来るまでは。
「ウンギャアァ、ウンギャァ」
ある日の明け方、ゴブリン族の集落で新たな生命が誕生した。
それは、本来であれば祝福されることであったはずだが、今回は様子が違った。
産まれたばかりであるその子は、ゴブリンとして生を受けたにもかかわらず、まるで人間の赤ん坊のような容姿だったのだ。
「族長…………この子は?」
「う……む。こ、これは」
出産に立ち会っていた、父親になったばかりの男と族長は困惑していた。
今まで生きてきた中で、このような事態は一度もなかったのだ。
始めは産まれた子に驚いていた産婆だったが、すぐに立ち直り、すでに出産の儀の準備を行っていた。
子を産んだばかりの女は疲れ切っており、荒い息を吐いている。
周りが、予想していた反応とは違う雰囲気になっていることに気付いているのか、どうにも不安な様子だった。
だが、自分の子が元気に泣いているのに気づいたのか、やがて安心したように眠りに就いた。
族長は熟考の末、重苦しげに口を開く。
「これは、先祖返りかもしれんな」
族長は、自分を納得させるようにゆっくりと続けた。
「遠い昔、我らの祖先は他の大地で暮らしていたという。何らかの理由があったのか先祖は新しい土地を求め、 この地に移り住んだのが我ら一族の始まりだと曾祖父から聞いたことがある。そして……」
族長は吐き出すように言った。
「百年に一度生まれる子は先祖の血を色濃く受け継ぎ、この世に禍乱を招くだろう」
父親は生まれたばかりの子をじっと見つめていた。
赤みがかったピンク色の肌に、蜂蜜を連想させるような髪。唯一ゴブリンであることを示す尖がった耳。
そして、溢れんばかりの輝きをその身に宿していた。
(我らの、我らの憎しみを、一身に受けた子よ)
父親は、無意識に手を握りしめていた。
産婆によって顔に母親の血で紋様を描かれた赤ん坊はすやすやと寝ている。
その安らかな寝顔は、見ているものに癒しを与えるだろう。
しかし、その寝顔を見ていたはずの父親は不意に言う。
「……この子を殺さなければ」
思わず、口が滑ってしまったかのような発言に、父親は驚きを隠せなかった。
いかに異質な子どもが生まれたとしても、赤ん坊を見て殺そうと考えるのはどうかしている。
普段の自分が言うはずのないことを言っていることに、戸惑いを感じる。
「殺してはいかん。この子は、先祖に受けた呪いにより周囲にいる者に狂気を抱かせる。だが、それと同時に祖先より受け継いだ血によってその身を護っておる。もし、うかつにこの子を害そうならば、この地一帯は呪いに冒されるであろう。ゆえに、殺してはいかん」
族長が、目を閉じながら、そう呟いている。
赤ん坊を見ないようにすることで、赤ん坊に対する負の感情を抑えこんでいるようだ。
父親も赤ん坊を見ないように視線を外し、想像する。
もしも、集落の仲間に赤ん坊を見せたら、どうなるだろうか?
結論は一瞬で出た。
(…………この子を集落の中で暮らさせるのは、あまりに危険すぎる)
「では、この子の処遇はどうしましょう?」
「触らぬことじゃ。触らなければ、我らに害をもたらすことはない。村の者には死産であったと伝えよ。生まれた子については、何人も他言無用である」
こうして、これから世界に波乱をもたらすゴブリンが生まれたのだった。
これからどうぞ、リィト達の冒険をよろしくお願いします。