ファーストコンタクト(四千)
男子中学生なら誰もがあこがれるそれ。だんだんと興味を持ち始め、それでも興味を持っていることは隠しておきたいそれ。マンガやラノベにはあふれているが、現実では体験したことはおろか、体験の伝聞さえしたことのないそれ。男子には決して生まれない、女子だけの持つそれ。あこがれてあこがれてあこがれているそれ。
僕は今、女の子の胸の感触を感じている。
……。これは捕まるのか? 犯罪なのだろうか? もしも僕がコレを体験している本人じゃなくて、それを偶然傍から見ているA君とかだったら、一もなく二もなくケータイを取り出すだろう。110、いまだ使ったことはないのに、自分のケータイ番号よりも鮮明に浮かび上がる三桁の数字を打ち込んで、現状をありのままに通報するだろう。いや、もしくはその憎らしい男が、すべての男子の憧れであるそれをわし掴んでいる輩が、少しでも重い刑に罰せられるように言葉を巧みにチョイスするだろう。
だが僕は残念ながら──後日思い出せば幸運ながらになるかもしれないけれど──傍観者ではなく、当事者だ。通報してあとは国家に任せるなんて、そんな当然を僕は選択できない。僕はどうすればいいのだろうか……
ここは自宅付近の裏道。今まで一人ともすれ違ったことも、この道の利用者を見かけたこともない道。本当は違うが、僕専用の道だなんて思っていた小道。そこで僕は、仰向けで倒れている。
……。というところで話を切れば、僕がただちょっと変なやつなんだなって思われる程度で済む話だろう。きっと眠かったんだね、それで終わる話だっただろう。
だがそうではない。さっきも言った通り、僕は今、女の子の胸の感触を感じている。つまり、僕に覆いかぶさるように知らない女の子が倒れこんでいるわけだ。
怪我はない。僕にも、おそらく彼女にも。しっかり探せばどこかしらに擦り傷くらいはあるのかもしれないが、そんなものは現状の驚きの前ではかすんでしまう。
腕を正面に折りたたんでいる状態の僕に倒れこんでいるような図と言えばいいのだろうか。僕の視界に入るのは、彼女の首筋と、長い絹のような黒髪だけ。頭同士がぶつからなかったのは不幸中の幸い、もしくは幸福な上に幸福、と言うのか……
僕は動けない。もしかしたら渾身の力を出せばこのポーズを──停滞という意味でも構図という意味でも──終わらせられるのかもしれないが、僕だって人間。なかなかそういった、落胆が約束された行動にはすぐには移れない。一応誤解してほしくないので言っておくけれど、僕の両の手が柔らかな感触を得ているのは二秒前からだ。この裏道を本屋に行くために走っていた僕と、枝分かれの道から突然こちらへ駆けてきた彼女との衝突は五秒前で、僕が精一杯の力で減速したのが四秒前で、驚きからか一切のブレーキを使わなかった彼女がこちらへ突っ込んできたのが三秒前。
あと、今のでわっていただけるとありがたいのだけど、決して僕が彼女を押し倒してその柔らかなそれの感触を楽しんでいるわけじゃないのだ。僕は、している側と言うよりはされている側。
僕は今、両の手に柔らかなそれを押し付けられている。
と言うのは責任逃れが過ぎるだろうか。
彼女は先ほどから、電源の切れたロボットのように一切の活動を停止している。僕はどうすればいいのだろうか……
女子中学生なら誰もが気にし始めるそれ。だんだんと膨らみ始め、三年前と比べれば何よりも変化したと言えるそれ。自分以外の人が触れるのは、ずっとずっと先だろうと思っていたそれ。男子が見ていると、恥ずかしくなってすぐに両腕で隠したくなるそれ。
わたしは今、男の子に胸を触られている。
……。わたしはどうすればいいのですか? もしもわたしがこの状況を傍から見てたとしたら、まぁ、なんて心の中で言って、たぶん頬もちょっとだけ染めて、何も見なかったようにそそくさと去っていくことでしょう。
でもわたしは不幸なことに──そして恥ずかしいことに──遭遇者じゃなくて当事者。見なかったふりをしてこの場を離れることなんて、そんな当然をわたしは選択できない。わたしはどうすればいいのでしょうか?
それに、触られているといっても、電車での痴漢とかとはぜんぜん違ったシチュエーション。客観的に分析すれば、わたしの方に非がある状況。
わたし以外が利用する可能性なんてゼロだって思っていた道を家に向かって走っていて、突然目の前に現れた男の子にそのまま突撃してしまって、わたしが男の子を押し倒すような現状が出来上がってしまった。胸を触られてるというよりは、わたしが彼の上にのっかている構図。押し倒されているんじゃなくて、押し倒しているようなポーズ。
わたしは今。男の子に体を押し付けている。
と言えなくもない現状に、わたしはいる。
わたしが見れるのは、砂利ひとつないコンクリートと、知らない男の子の右耳と、そして少し茶色っぽい短い髪。
わたしは動けない。本当はすぐさまにでも起き上がって、今年一番のダッシュで家に帰りたいのだけど、それが出来ない。
……。まことに恥ずかしながら、わたしは足を挫いてしまったのです。手負いの少女、ちょっと変な言い方だけどまさにそれ。そして、すぐ近くには牙の生えた狼……
『男は皆狼だからね。手負いのところを見せたら食べられちゃうのよ』
友人の一言が脳裏をよぎる。何度もリピートされる。手負い、狼、食べられる…… ダメ…… 今動いたら、怪我していることに気づかれて、そして食べられる…… 相手は茶髪、不良ならなおさら……
血の気がどんどん引いていくのがありありとわかる。加速度的に気分が悪くなっていく。こんなことになるんだったら、本屋さんなんて明日にすればよかったのに……
「あの……」
僕は意を決して言葉を発した。かれこれ十秒ほど接触中。依然としてピクリともしない彼女に少し不安になってきた。僕の声は少し震えていたけど、何も聞き取れないほどではない。なんとか言葉を捜しながら、停止する少女へかける言葉を捜した。
「大丈夫……? 動ける、かな?」
想像よりも優しそうな声が耳元に広がった。どうすればいいの……? わたしが手負いかどうか探りを入れてきた彼に、わたしはなんていえばいいの? 一見安全そうな声だったけど、モコモコとした毛皮で自分を覆った狼じゃないとは言い切れない……
動けない、なんて言ったらそこでオシマイ、絶対食べられちゃう。このまま何を言わないのは…… ダメダメそれも危険。結局残された返事は一つだけ。
「大丈夫……です。動けます……」
動けるといったもののまったくどいてくれる──こんな言い方をするとあたかもそれが迷惑な風に聞こえてしまうが、それ以外の言葉を僕は知らない──気配のない彼女。ひょっとして……
「もしかして…… 怪我とか、してるのかな?」
……。これは絶体絶命…… どうすれば…… 今、『窮鼠猫を噛む』という言葉を思い出したけど、わたしがいくら死ぬ気であがいたところで、きっと指一本で止められて…… そしてそのままカプリって……
「してない……です。……すみません、すぐにどきますので……」
ようやく動きを見せた彼女。ボクの手のひらが今数十秒ぶりに外気に包まれた。ぜんぜんうれしいという気持ちにはならなかったが、これ以上続けていたら絶対にダメだった……
「痛っ!」
ドカン。終わりへ向かうハプニングに若干の安心と膨大な残念を感じ始めていた僕に、衝撃がきた。
「うわっ!」
なんと、なぜか…… なんというか、状況はテープを巻き戻すように戻った。僕の手のひらが、またしても温かくなった。
「えっ…… あの……」
当惑、困惑。僕は恐る恐る彼女に声をかけた。倒れてきた彼女に。
「す、すみません…… 痛っ!」
僕が少し身じろぎしただけで彼女は苦痛にうめいた。やっぱり、怪我をしている?
あぁ。もうダメ…… これで絶対怪我していることに気づかれた。わたしは、こんなところで、パックリとされてしまうの……
絶望に包まれて、もう目をつむってしまおうと思ったとき、またしても耳元に声が響いた。
「足を、怪我しているの?」
もう嘘をついても無駄。わたしは素直に「はい……」と言った。出来ることなら意識を失ってしまいたい。
これから何が起きるのか、それを思うだけで泣きそうになってきた。そしてそれを我慢することも出来ない。わたしはすすり泣いた。
「うっ……」
彼女は泣き出した。それほどに怪我がひどいのだろうか…… 僕は一度だけ眼をつむって、それから力を入れて開いた。
「ちょっとだけ我慢してね」
なぜか彼女が震えていた。何におびえているのかはまったくわからないけど、とりあえず怪我を見てあげないと……
「よっこらせっと」
一度彼女が起き上がったことで、微妙に位置がずれていた。それで生まれた隙間を利用して、僕はなんとか脱出した。密着が終わった。
「怪我しているのは足? って、何で泣いてるの? そんなに痛かった?」
声を出さないように泣いている少女。泣いている人に対してそう思うのも変かもしれないけど、とってもとってもかわいらしい女の子だった。
「足、挫いたみたいで……」
思いの外やさしそうな顔をしている男の子に、そう言った。どうしてかわからないけど、この人は狼じゃないって、そう思った。
「家は、近い?」
「歩いて、三分ぐらい」
「道は、君が教えてくれればいいか…… ちょっとゴメンね」
そう言うと、彼は突然私を持ち上げた。いわゆるお姫さま抱っこ。
「えっ……えっ?」
戸惑うわたしに笑顔を向けて、ゆっくりと言葉を発する男の子。
「道だけ教えてくれれば、大丈夫だから」
彼はぜんぜん気づいていない見たいだけど、その右の手のひらは、わたしのお尻に当たっている。
一日で胸とお尻を触られてしまった。普通なら嫌なはずだけど、ぜんぜん悲鳴を上げる気にはならなかった。




