一番好きな人は(五千)
涙。高校生にもなってこんなに泣くことがあるなんて思いもしなかった。こんなに泣ける私がいるなんて考えもしなかった。
別れは人を成長される、そんなどこか悟ったような言葉を信じていた自分が信じられない。そんなプラスの方向に考えられるほどに、私は大人じゃなかった。
涙。もう枯れるほど流したと思ったのに、あの人のことを考えたらまたあふれてきた。目の前の海がにじむ。潮風が頬をなでて、涙の流れた跡をすぅっと冷やす。
「……うっ……うっ」
誰もいない海で、一人で泣く。私を見ているのは、あの正面にある太陽だけ。もうすぐ海にしずんでしまう死にかけの光だけ。
悲しい。小説やドラマみたいなフィクションではない現実。そこで、そのことで私はこんなにも涙を流している。ポトポトととまることなく流れ続ける。
「明日……ナガくんが……」
言葉は途中で止まる。嗚咽が漏れて、それ以上声を出せなくなる。
言葉にすれば、この感情を、自分でも驚くほどのこの気持ちを落ち着かせられるかと思ったけど、今の私にはそれも出来そうにない。
明日、ナガくんがこの町から出て行く。そんな短い言葉さえ私の口は表せない。
ナガくん。永谷くんは、私の家庭教師で、家族ぐるみの付き合いの家のお兄さんで、今年二十四だけど彼女もいないダメな大人で。そして……
私が誰よりも好きな男の人。いつからか解らないぐらいずっと好きな最愛の人。好きで好きで、でもこの気持ちを知らないから子供のように扱ってくる困った人。私がそれにすねると、あせってオロオロするような面白い人。
そのナガくんが……
仕事のために大阪に引っ越すらしい。研修なのか転勤なのか、とにかくこの島から出て行くらしい。今朝、お母さんに聞いた。それを聞いて、何がなんだかわからないうちに家を飛び出して、高校も勝手に休んで、そしていまここにいる。
私が一番好きな男の人が、初めて好きになった男の人が、明日去ってしまう。そのことを思って朝からずっと泣いていた。お昼ごはんも食べてない。おやつも食べてない。でも、空腹感なんてまったくない。今あるのは、底のない無限の悲しみだけ。
あの笑顔が、あの困った顔が、あのあせった顔が…… 黙って海に遊びにいって、そのときに一度だけ見せた怒った顔が…… 私の心を締め付けたりしびれさせたりする、あのナガくんがいなくなる。
絶対に彼女が出来る。もともと顔だって悪くないし性格だって少し穏やかなだけ。大阪になんていったら、絶対に好きって言ってくる女の人が出来て、ナガくんもきっとその人のことを好きになって…… 私じゃないほかの人のことを好きになって…… 結婚式で私は客席からナガくんと知らない女の人のことを祝福しなくちゃいけなくなって…… きっとそんな風になる。ナガくんだったら、やさしいから、きっとそういう風になる。
そんな想像は、どれだけ涙を流してもぼやくない。目の前の景色とちがって頭の中にあるそれは、泣けば泣くほどその鮮明さを増していく。
「うっ……」
どうして…… こんな前日に急に…… それは何よりもの証拠。私がナガくんのことを思っているようには、ナガくんは私のことを思っていないっていう、何よりもの証拠。そのことに、そんなことを考えてしまう自分に、私はますます悲しくなってくる。
太陽だけが眠そうに私を見つめる中、私はとうとう声をあげてないた。
「やっぱり、ここにいたんだ」
何十度目かの涙が自然と流れたとき、後ろからナガくんの声がした。振り向くことなんてしなくても、それがナガくんだってすぐにわかった。
「ちょっと話がしたかったから、君の家まで行ったんだけど。まだ帰ってないって言われたから、もしかしたらここかも。ってね」
私はあわてて顔をすそでこする。涙も鼻水も全部拭いて、でも涙で晴らした目だけはきっと元には戻らなくて。いつの間にか太陽は消えていた。ナガくんはゆっくりと近づいて、私の隣に座った。
ナガくんはこっちは見てこない。もしかしたら、私が泣いている事に気づいていて、私がそれを気づかれたらどう思うか考えていて、それで何もない海のほうを見ているのかもしれない。ナガくんの横顔を見ていると、また一筋の滴が流れてきた。私は気づかれていても、それでも気づかれないようにそれをぬぐってから、ナガくんと同じ方向を見た。暗い海を見た。
「あ」
ナガくんは突然明るい声でそう言った。また悲しくなるからそちらは見ないけど、きっと笑顔でいるんだろう。
「もしかして、今日学校サボったでしょ。ダメだよチャンと行かないと。せっかく勉強教えてあげてるのに、おいていかれちゃったら…… って、そんな心配は余計なお世話か。ユミちゃんの場合は」
私は学年順位一番だった。そんなに頭のいい生徒の集まる学校ではなかったし、勉強をがんばるとナガくんが褒めてくれるからがんばっていたのもあって。一番になったというよりは、いつの間にか一番になっていた、という感じだった。
「僕は前から、君ぐらい頭がいいんだったら自習してた方が、僕が教えるよりずっと効率良いよっていってたんだしね。頭いい子ちゃんには、一日のサボタージュぐらいどうってことないのかな」
おどけた風に言うナガくん。どうしてからはわからないけど、ナガくんがそんなことを言ってもぜんぜん嫌味には聞こえない。クラスの嫌な人とおんなじ言葉を言ったって、絶対嫌な気持ちにはならない。
それはナガくんが私よりもずっとずっと頭が良いから? 話し方がやわらかいから? ううん、そんな理屈っぽいことじゃなくて、ただナガくんがナガくんだからだと思う。そんな、言葉じゃ説明できないような不思議なところも、私がナガくんのことを好きな理由のひとつ。
「もう聞いたかもしれないけどさ……」
さっきまでと同じように話すナガくん。でも、その発音に隠れている微妙な力の入り具合が私にはよくわかった。これから、なんの話をするのかもわかった。私はせめて声だけは出さないように、嗚咽を漏らしたりしないように、グッと心で身構えた。
ナガくんは相変わらず会えだけ向いて話している。その目で何を見ているのか…… ナガくんの行く新しい場所を見つめているのか……
「ボクね…… 明日遠くへ行くんだ」
朗らかな風にしようとした声が響く。島中になんて響かなくても、私のどこかの中に、たとえば心の中にザンザンと響いた。お母さんから知らされたときの何倍も、ここで涙を流していたさっきよりも何十倍も、私の心にナガくんから伝えられた言葉がひろがった。
「大阪。ここからだと、船に乗って、新幹線に乗ってで、結構遠いんだ」
明るい声。明るくあろうとしている人の声。
「それでさ…… もう家庭教師はやってあげられないんだ」
突然何の脈絡もないことを言うナガくん。違う…… 私にとっては何のつながりがなくても、ナガくんにとってはそれが一番大事なことなんだ。まさか、そんなことを申し訳なく思っていて、わざと明るく振舞っていたの……
そんな見当違いなことで……
ギリリ。今、私の胸の中に、悲しみ以外の感情が生まれた。それはもちろん喜びなんかじゃない、熱い熱い怒り。
「ユミちゃん来年受験でしょ? まぁ教える役なんていなくても大丈夫かと思うけど。もしも家庭教師が必要ならさ、知り合いでやってもいいって言っている人がいるんだけど」
ちがうちがう。そんなことはどうだっていい。私が隣にいてほしかったのは、家庭教師じゃなくてナガくん。
「もちろんユミちゃんほど頭良くはないけどさ。ボクのときみたいな、息抜き役って感じで必要だったりするかなって」
何を言えばいいのか解らないぐらい頭が真っ赤になった。どうしていま、今日、ここでそんなどうでもいいことを……
「ばかっ!!」
自分の体が自分のものじゃないように、勝手に動いて、私の口を勝手に使っていた。ナガくんは驚いた顔で、初めてこちらを見た。
「そんなこと、どうでもいいっ!!」
怒っていた。でも、泣いてもいた。ナガくんはそんな私になんていえばいいのかという風に戸惑っていた。ついた火は止まらない。何かが私を勝手に動かす。激しい感情が私を突き動かす。
「家庭教師なんて知らない!! 大体、私にはそんなのいらないっ!!」
子供のように怒鳴り散らす私。それはさっきナガくんがいったことなのに。もう自分が次の瞬間に何を言い出すのかわからない。ただ、ギッとナガくんのことをにらみつけているのはわかる。
「ナガくんって、サイテー!! そうやって私のことを馬鹿にしたように笑っていて! 家庭教師がいないと勉強も出来ない馬鹿みたいに私の子と思ってて! 人のこと好きにさせておいて自分だけどっかに行っちゃって!サイテーっ!!」
バンバンと隣にいるナガくんの胸を殴った。決して痛くなくはないだろうに、ナガくんは避けることも止める事もしなかった。もう涙で何も見えない。さっきまでの冷静に自分を見ていた私もどんどん薄くなってきて…… 自分が何を言っているのかもわからなくて…… ナガくんがどんな顔をしているのかもぜんぜん見えなくて…… ただ両の手がナガくんのことを殴りつけている。
「ばかばかばかばかっ!! そんな風に思っているんだったらっ! 私のことなんてなんとも思っていないんだったらっ! やさしく笑ったりとか、困ったように心配したりとか、明るく褒めたりとか…… そんなこと…… うっ…… そんな無責任なことなんて、そんないい加減なことなんて…… しないで…… うっ……」
ずっとこらえていた何かが今壊れた。涙が流れて、鼻水だって流れて、私はナガくんの胸に倒れこむ。体のすべての力を、心のすべての思いを使ったように、私はただ倒れこんで、声を上げてないた。島中に響くような大声。それでもきっとナガくんの心には響かないそんな悲しい声。
「ユミちゃん……」
ナガくんのそんな小さな声が不思議とよく聞こえた。私のわめき声のほうが、高校生にもなってみっともないくらいの大声のほうがずっと大きなはずなのに、それを全部かき消してナガくんの言葉は続いた。
「なんていえばいいのかな…… ゴメン。っていうのはちょっとちがうかな」
ゴメン。そういわれた瞬間心がつぶれそうになった。でも、ナガくんの言葉はまだ続いた。
「正直、君がボクのことを好いていてくれたのはぜんぜん気づかなかったよ。ユミちゃんって役者なんだね」
それは…… それはちがう。今まで何十回も、何百回も、好きだと伝わるようなことはしてきた。その全部に、まったく気がついていなかったっていうの?
「ボクはね……」
涙はいつの間にか止まっていたけど、体に力は入らなかった。気がついたら、私はナガくんにバタリと倒れこんでいて、ナガくんも仰向けに砂浜に倒れこけていた。いまさらながら、かぁっと熱が走る。
「ボクはね、恥ずかしながらというかなんていうか…… 君に夢中だったんだよね」
「え?」
「いや…… やっぱりこんなこというなんてどうかしているかな。でも、今日はこれを言おうと思っていたんだ」
自分の耳が信じられない。現実を認めたくなくて、都合のいい聞き取り方をしているんじゃないかと疑いたくなる。
「でもね。さすがにこんなに年の離れた女の子のことを、それもまだ高校生の女のこのことを、こんな風に思うなんてダメだって思ったから、いっつも気づかれないように気をつけていたんだ」
そんな風には…… みえなかったけど…… それに年が離れているって、たった七歳。たった……
「今日はね、もちろん君さえよければだけどね。お別れを言いたいわけじゃないんだ」
涙があふれてきた。ナガくんの服が涙でぬれていく……
「もしよかったらなんだけど……」
決して大きくはない声。それでも確かに聞こえる透き通るような声。
「 」
私は嗚咽をこらえながら、必死に声を出そうとした。たった二文字、「うん」って、そう言おうとした。
空白のところは、ご想像にお任せします。
最後まで読んでくださってありがとうございました。




