朝色(四千半)
朝、一日で一番頭がさえているこの時間を使わない手は無い。夜は早いうちに寝て、ボクの活動は朝から始まる。いわゆる朝方人間だ。
そんなに早く起きて何をやっているの? 以前夏川に聞かれた時には、なんと答えただろうか。記憶にも残っていないということは、よほど適当なことを言ったのだろう。どうしてその時に本当のことを告げなかったのか、自分でもよくわからない。ただ、そのときのボクは嘘をつきたかったのだろう。又は、本当のことを言いたくなかったのか。
嘘をつくことと、真実を隠すことは、同じようで違う。
実のところ、ボクは朝早く起きて、小説を書いているのだ。これは嘘ではないし、本当を隠しているわけでもない。
午前四時半から六時半まで、ボクは窓から徐々に光が入ってくるのを楽しみながら、パソコンに向かいながら、自分の世界を打ち込んでいく。
一秒に一文字打つ。この、小説の内容とは何にも関係の無いことが、最近のボクの目標だ。話を作るためには、作り続けるためには、やはりそれを作る速さが関わってくると思うから。
プロの作家は一秒に一文字と半分、つまり一時間のうちに五千と四百の文字を打つらしい。その文字で物語を紡ぐらしい。それを聞いて、自分の打つ文字数を調べたことから、この目標が始まった。もう二週間ほどチャレンジしているが、いまだに一秒に一文字は達成できない。
それでも、毎日書くことはしている。
それを当たり前と思う人になるように、ボクは毎日書くことにしている。まだまだ、それが当たり前と感じるところまではいけないが。
と言っているうちに、パソコンは小さな音を立てて、ようやく起動した。マウスを動かして、文字を打つ用意をする。それに何かしらの効果があるのかはわからないが、ボクは手をグーパーして、それから指をグニャグニャと動かす。指が動きやすくなる感じはまったくしないが。
FとJの位置に指を置いてから、朝起きてからトイレに行き、パソコンの起動を待つ間に考えた展開を文字にし始める。最初の流れだけを事前に考えておいて、後はそこから好き勝手に打っていく。最後まで考えてから書き始めることもあるが、今日のボクは指の成り行きに任せることにした。
自分が何を書きたいのか、自分は何を書けるのか、そんなことを考えたことがある。
小説を書き始める前のボクは、どんなジャンルでも面白いものを書いてやろうと、身の丈も知らない図に乗ったことを思っていたものだが、実は今もひそかにそんなことを考えているのだが、最近は『人のこころ』というものを書きたいと思っている。
人は完璧ではない。
完璧とは何か、それを定義しないままにそう打ってはじめる。今回は、失敗を書きたいと思って打ち始めている。
これは自分の性格からなのか、それとも書きたての人は皆そうなのかわからないが、どうもボクは『光』の部分だけを書きたがってしまうのだ。明るい流れ以外を、なかなか書く気になれないのだ。
そのことに気がついたのが一昨日の夜。風呂に入っているときに、どうしてそんな時に思ったのかはわからないが、自分は良いことしか書こうとしていないことに気がついた。
だから昨日は、明るくは無いがそれでも人にとって本当の部分を書こうとした。そんなことを意識しすぎたのがいけなかったのか、結果はひどいものだった。
今日はそのリベンジでもある。
思えば、自分の心に残った話は、どれも不幸な終わり方をしていた気がする。愛するもの同士が離れ離れになるものや、自分が日本から離れている間に、結婚を約束した女が死んでしまったものや、挙げていけば限りないまでは行かなくても、それなりの数はある。
今日はトイレに行っている間に題名を考えていた。実は、人は完璧ではない、そう打つ前に『去る恋』というタイトルをつけていた。先に題名をつけることがどう出るか、今日は練習であるとともに採取でもある。自分の行動で、データを集める。
下準備も終わったことだし、そろそろ一行だけで止まっていた指を動かすことにする。時計を見ると四時三十九分。目標通りに行けば今日は何文字打つことになるのか、そんな面倒な計算はやめて、七千二百を目標に始める。
「おっはよ」
今日も結局目標達成ができなくて少し不機嫌なボクが家のドアを開けるとすぐに、夏川が明るい声をかけてきた。朝から元気な奴だ、そんなところをうらやましく思わないといえば嘘になるが。
ボクは家の正面の電柱にもたれかかっている夏川に片手を上げた。朝早くから起きているので眠たいわけではないが、声を出すほど元気なわけでもない。
「おはよっ」
夏川はもう一度挨拶をする。ボクは、さっきは右手を挙げたので、今度は左手を挙げた。
「ハロゥ」
電柱から体を離して、その場でくるりと一回ターンをする夏川。ボクが返事をするまで挨拶を続けるらしい。
それは今まで見せたことのない謎のこだわりだ。奴のことだから、大方『挨拶は心をつなぐ』なんてものを読んだのだろう。
影響のされやすさにおいて、ボクは夏川ほど単純な奴を知らない。きっと、『チューは欧米では挨拶なんだぜ』って言いながら接吻をしても、彼女は怒りはしないだろう。
そんなことをする奴が現れないことを祈ろう。いや、ボクが夏川のことをいちいち祈ってやる筋合いなんて無いか。
「チューは挨拶だって言われても、絶対に信じるなよ」
「へ?」
ボクは学校へ向かって歩き始める。少し遅れて夏川も隣についてくる。十歩も歩くと、夏川家の前だ。夏川は毎日、ボクよりも二十歩ほど無駄に歩いているわけだが、本人はそれを気にする風もない。待つなら自分の家の前にいればいい、そんなことにも気づいていないらしい。もしくは、ボクが意地悪して夏川家を通らない新ルートを行くのを防ぐためか。
「ボンジュー?」
挨拶攻撃はいまだに続いているらしい。ここまでくると、夏川に果たしていくつのおはよう系フレーズがあるのか試したくなる。
「ジャンボ!」
こんなよくわからない登校が、かれこれ四年ほど続いているのかと思うと、笑えないことも無い。ボクは決して笑うことは無いが。
「うーん、どうして挨拶しないのかね? もう学校に着いちゃったじゃないかぁ」
「夏川」
「わけをちゃんと説明しなさい。大丈夫、頭ごなしに怒ったり」
「おはよ。そしてじゃあな」
「わっ! ここにきてようやくあいさつ、そして同時にお別れ!」
下駄箱。夏川がさまざまな挨拶をボクに向けてくることに、そしてそれを周囲が変な目で見ていることに耐えられなくなり、ようやくボクはおはようを返した。彼女のここまでのレパートリーは六十三だった。素直にすごいと思う。こんなことを飽きずに続けられる夏川が。そしてそんなものをカウントしていた自分が。
「それじゃな。お前は今日部活だろ? ボクは帰りも先に帰ることにするから」
「じゃあ、やっぱりノノノンも演劇部に入るべきだよ」
「じゃあにそんな使い方は無い。ボクが部活に入る気もない」
「なんにも無いね!」
「お前に知能も無いな」
「あるよっ!」
「じゃあな」
午前八時十分、夏川のテンションは既に周囲に迷惑を与えるレベルだった。ボクは足早に自分のクラスへ向かうことに。かなり子供っぽい高校二年生を残して。
「終わったー!!」
隣の美鈴はそう言うと同時に机に突っ伏した。ちなみにまだ授業は終わっていない。まだ五分ほど残っているのにもかかわらず、美鈴は自分の中で授業を終わりにした。
「おーい。とりあえず、まだ起きておけ」
数学の先生がものすごい目で彼女を見ているので、隣に座る者として仕方なく肩をつついた。これで成績が学年トップなのだと思うと、勉強する気がなくなってくる。
「アタシの中ではもう終わっているから」
「お前にそんな権利は無い」
「ぶー、ノノノン意地わるー」
仕方ないという風に、美鈴は体を起こした。先生は特に注意はせずに、自分の仕事を再開した。ボクは美鈴のせいで集中力が切れてしまったので、残り時間はぼおっとしていることにした。話聞いているよ、そんな雰囲気を出しながらも頭の中では別のことを考える。
「終わったー!!」
隣の美鈴はそう言うと同時に机に突っ伏した。ちなみに授業時間はあと十秒ほど残っていた。これは授業妨害なんじゃ? そう思う僕だった。
「それでは、今日はここまでにする」
美鈴のせいで、先生は授業時間を奪われた。確かに残り十秒じゃ足したことは出来ないかもしれないが、さすがに美鈴にたいしてイライラしただろう。今度の中間テストは、鬼のような問題が混じること間違えなし。美鈴の奴、問題が解けないと泣くならなぁ。
「起立、礼」
美鈴以外の全生徒が指示に従い、先生は一名の無視を無視して教室から去った。
「お前、やっぱりろくな人間じゃないな」
「ノノノンよりはましだけどね」
「ボクを人でなし呼ばわりするな。それと、ノノノンって言うな」
「えー、でもあの変て娘がそう呼んでるし」
「だからって真似するな。それと、奇をてらったようなネーミングもやめろ。アイツは夏川だ」
「へー。そういえばそうだった」
机に突っ伏したまま、まるでクロールの息継ぎのようなポーズで会話する美鈴。ポニーテールが机から垂れている。そんな彼女と、それを見るボクのところに、一人の男が現れて、
「相変わらずの仲良しカップルだな。オレは一足先に帰るぜ。じゃあな」
「じゃあねん」
「誤解を招くことを言うな、林。それと、お前も否定しろよ」
「なんでー?」
林は、かははっと笑いながら教室を出て行く。ちなみに奴は僕の中では、美鈴を越えるクラス一の変人だ。ちなみに頭はすこぶる悪い。メガネかけていて勉強できそうにも関わらず。いや、メガネと勉強にこそ、かかわりが無いか。
「じゃ、ボクも帰る」
「じゃあねん」
美鈴は夏川と同じ演劇部だ。もう少しだけグタッとしてから部室へ行く準備を始めるのだろう。学校指定のスクールバックを肩にかけて、一度首を回してからボクは教室を出た。二、三人と挨拶を交わしながら。
午後三時。春のこの時間は適度にあたたかくて気持ちがいい。晴天の空の下、ボクは一人で帰宅する。演劇部が休みの月金は夏川と一緒に帰るのだが、それ以外はたいてい一人で帰る。もともと、誰かと話して帰るより、一人で考え事をしながら帰る方が好きだ。
通学路の途中の大きな公園では、いつも小学生が遊んでいる。大きな声で笑いながら、追いかけっこをしている。小学生の時の自分はどんなのだったか、そんなことを考えた。
自分の幼い頃、その記憶の中にはやはり夏川がいる。小学校の低学年ぐらいまでは、きょう、名前で呼んでいた。そのことをクラスメイトにからかわれてからは、今のように夏川と呼んでいる。
奴は昔からずっと、ボクのことをノノノンと言っている。あの時は、それが嫌で、やめさせるために一週間ぐらい夏川のことを無視したことがあった。
それでも奴は毎日明るい声で、ノノノンなんて呼ぶから、ついにあきらめたんだった。なんだか、懐かしいことを思い出した。
空に今、飛行機雲が書き足された。遠く遠く、何人乗っているのかはわからないが、空に浮かんで旅をしている人たちがいる。そんなことを思うと、不思議と自分の世界が少しだけ広がった気がした。
空は無限に広く、それが本当は有限であることを実感することは、今のボクには出来ないらしかった。そんなことに、思わず一人で笑ってしまう。何がおかしいのだか、それさえもわからない。
タイトルの『半』はいらないかと思ったのですが、五百は、無視するには多すぎる気がしたので。




