ホワイト・ブレイズ
塗装の剥げたラジオが、ノイズを交えて英雄の死を語る。首都の方では、国葬レベルの盛大な葬儀が行われているだろう。弔いの言葉の後ろでは、二つの世界を結んだ勇敢な男を惜しむ葬送曲が流れている。時折、ひどくノイズが混ざって、その名前は聞きとれない。誰かがつけたラジオは、部屋を出ていくまた誰かの手によって止められた。また部屋の中には自分がたてる、手紙の山の乾いた音だけが残る。
海の向こうまで行くと世界はそこで途切れて、さらに進めばそこから下に落ちていくものだと、小さな頃から聞いていた。下には何があるのかと聞いたが、地獄だとか途方もない虚無だとか、一定の答えが得られたことはない。当然だ、落ちた船は帰ってこない。国のある陸地から海へずっと進むと、海が滝のように途切れているところがある。どこまで行ってもその滝は続いていて、ついこの間までそれは世界の果て、と呼ばれていた。その向こうから一機の飛行機が飛んでくるまでは。
死んだ男は、そのパイロットだ。世界の果てだった滝の、奈落の入り口を飛び越えて、世界の反対側からその男は飛んできた。世界の果ては「境界」になり、男が来て数年の後に二つの世界を結ぶ、郵便航路が確立された。人の行き来はまだない。「境界」を越える航路には高い確率で、死の危険が付きまとうからだ。だから、境界越えの郵便飛行機搭乗員は少ない。
今、この「あちら側行き」郵便局兼飛行場のパイロットは、自分を含めても二人。自分はこの間無くなった先任パイロットの後釜だ。内地で数年、郵便飛行機による配達を務めて、ついこの間、ここに配属になった。転勤はよくある話だが、よりによって、このかつての「地の果て郵便局」に飛ばされたということは、おそらく上の気に入らないことをしたか、自分そのものが気に居られなかったのだろう。誇り高い仕事だ、君ならきっと大丈夫だろう、と送りだされたが、それは多分に「死んでも構わない」という意味を含んでいたのだと思う。
誰かが部屋に入ってきて、再びラジオをひねった。別の局の放送で、こちら側全国の天気を伝えている。地の果ては晴れ時々曇り、ガリガリとしたノイズの中にそれを聞きとって、顔を上げた。入ってきたのは先輩の搭乗員だった。
「荒れそうだ、参ったな」
ラジオの局を細かく調整しながら、男は言った。
「まさか、今晴れるって言ってたじゃないですか」
そう応えると、男は短くため息をついた。
「何を聞いてるんだ。内容じゃない、ノイズの方だ。雷雲来てるぞ」
ガツガツと放送が時々ぶつ切れになるような、ひどい雑音。男はこちらに来て、開いていた隣のデスクに座る。男の席だが、男が座ることは殆どない。大抵が格納庫の方にいて、男が局内に戻ってくることは殆どないのだ。
「お前が仕分けやってるのか」
「いえ、仕分けられたのを、確かめてるんです。せっかくの向こうへの手紙ですから」
そうか、と男は微笑した。デスクに彫られた男の名前はグレン。向こうから来た男の次に、境界を越えた人間だ。ということはこちら側から初めて「境界」を越えた人間ということになるが、実のところここへ配属になるまで、自分はそのことを知らなかった。普通なら有名人であるはずなのに、グレンはそれが公にされることを拒んだ。英雄のつくった航路をただ飛んでいるだけの男だから、と彼は言った。行きと帰りで航路がまったく違うことを国中が知らないままだ。
手伝おう、とグレンが手紙の束を取る。決まった誰に宛てた手紙というものはない。風船に手紙を付けて飛ばすような、見知らぬ誰かへと向けられた手紙ばかりだ。差出人ばかりで、宛名はない。行き先は新世界へとだけ書いてある。向こうへの手紙は月に一度、ここからの郵便飛行機が「境界」を越えて、届けに行くことになっている。返事があれば受け取って帰るが、返信があったという話は聞かない。
「今日は返事があればいいですね」
手紙のあて先を確かめる、グレンの指が止まる。そしてややあって、そうだな、と返事が返ってきた。外の風に、薄いガラス窓が鳴っている。晴れ間もあるが、浮かぶ雲は厚い。ラジオはもう、殆ど人の声が聞きとれない。
「お前は、今日が初フライトか?」
問う声に頷いて、手紙の束を荷箱の中に戻した。
「はい。先導よろしくお願いします」
ああ、と短い返事と、彼が手にしていた手紙の束が戻ってきた。航路はあらかじめ確認してあるが、初めての配達になる今日は、グレンのあとについていくことになっている。上から見る「境界」はどうなっているのだろう。本当に無限の暗闇があるのか、地の底で燃える地獄の炎が見えるのか。そして、新世界はどのようなところなのか。
すべての手紙を収めた箱のふたを丁寧に閉め、腰を入れてそれを持ち上げる。
「じゃあ、もう積んできちゃいますね」
部屋を出ようとすると、呼び止められた。
「お前、夜間飛行の経験は?」
質問の意図を汲みかねたが、内地での飛行経験はそれなりにある。
「何度も」
答えると彼は、そうか、とデスクから立ち上がった。
「なら、それを積んだら戻って来い」
「でも、午後には出ないと、予定通りにつきませんよ」
「嵐がきそうだからな。局長には、俺が話をつけておく」
釈然としないものを感じながらも、その場では頷いた。指が辛くなってきて、箱を持ち変え、外へと出る。風は強かったが、飛べないこともないように思った。時間通りに郵便がつかなかったら、向こうの世界の人がまだかと気を揉みやしないだろうか。ただ一つの連絡手段である手紙を、きっと向こうの人だって待っている。
格納庫の大戸を開けると、二台の飛行機が停められている。ひとつは自分がこれから乗る予定の飛行機で、もう一つは彼の、グレンの飛行機だ。郵便飛行機の証である、文がつけられた矢のマークが胴にあり、機首にはそれぞれ違ったマークが描かれている。自分のは牡鹿のマークだ。先任のマークの上から、描き直されたばかりのそれは、まだ新しいペンキのつやが残っていた。そして、グレンのものは牡牛だ。牡牛の顔を真正面から見た図で、額には白いほしがある。機体の名前はホワイト・ブレイズ。〝斑紋のある牛〟は、ここでずっと郵便飛行を続けてきたベテランの機だ。
英雄はとうとう、あちら側に帰れないまま死んでしまった。向こうの世界について殆ど語らないままに。ならば、今向こうの世界を一番知っているのはグレンなのではないか。
戻って来い、と言われたからには、戻るべきだ。しっかりと給油されているのを確かめて、格納庫を後にする。外に出た途端に、鼻の頭を雨が叩いた。海の方から黒い雲が迫ってきている。確かに、荒れそうだ。しばらくは彼の経験が頼りになるだろう。
降り出した雨から逃げるように、局内に飛び込んだ。入口のすぐ横にある局長室の前を通りかかると、言い争う声が聞こえた。ひとつはグレンのもので、年配の男の声は局長のものだ。そっと、ドアに耳をつけて中の会話を窺う。
「今更、遅らせることが何だと言うんだ。もう、あれを知る人間はここにしかいないぞ」
グレンが吠える。普段あまり語ることのない彼が、こうして声を荒らげるのを聞くのは初めてだ。それに負けないように言うのは、普段から口やかましい局長だ。グレンとは逆に、彼の口が閉じているのを見ることは少ない。いつも何かにつけて文句を言っているからだ。
「ああ、そうだ。それを言えばもう飛ぶ意味もない。だが、だからこそ秘密は守り続けられなければならん。今までと変わらず手紙は運ばれるべきだ、そうだろうグレン君。違うかね」
グレンの声はなく、間があって局長が続ける。
「あの男が持ち込んだ希望を、絶望に変えてはならん。いずれ全てが知れるとしても」
それに応える声はしばらく待たなければならなかった。聞こえてきたのは、ドア越しでやっと聞こえる程度の、グレンの沈んだ声だった。
「そのいずれは、今であるわけにはいかない。俺がいる限り、秘密は守るさ」
「ああ、頼んだぞ。……まぁ、確かにひどく荒れてきた。遅れるのは許可しよう。その代わり、新人を死なすなよ」
返事はないが、頷いたのだろう。こつこつ、とこちらに歩み来る音がして、急いでドアから離れた。何も聞かなかったように、またデスクの方へと早足に歩き出す。数歩いったところで、グレンに呼び止められた。
「嵐が行ったら出るぞ。日暮れ頃だと思うが、準備をしておけ。機体は大丈夫だったか?」
「はい。問題ないです。……じゃあ、それまで少し仮眠取りますね」
廊下の向こうでグレンが頷く。背を向けて、廊下をこちらとは反対に向かうから、また格納庫だろうか。重たいものを背負うような、侘しいながらも頼もしい背中。
「グレンさん、あの」
雨が降るとはいえ未だ明るい外に対して、廊下は暗い。胸のつかえのままに、逆光になったその姿を呼びとめた。彼は足を止めて振り返る。
「どうした」
呼びとめておきながら、言葉は出なかった。いえ、と口を濁し、作り笑顔に小さく頭を下げた。
「今日はよろしくお願いします」
ああ、と返事が返ってくる。後でな、と足音が遠くなる。彼が見えなくなってから、ゆっくりと頭を上げた。
休憩室の古い皮のソファーに体を投げて、肘掛を枕に目を閉じた。持ちこまれた希望と、彼が防いでいる絶望を思いながら、外の雨に意識を溶かした。
合わせていた時計の音に目を覚ますと、自分の上にフライトジャケットが掛けてあるのに気付いた。自分のものだったが、掛けていったのはおそらく彼だろう。眠る前に聞こえていた雨も風もすっかり収まり、西日がカーテンを通して差していた。ジャケットに袖を通しながら、出入り口に向かう。途中で局長に会ったが、ただ、頑張れよ、という声だけで、あの会話の断片は聞かれなかった。
外に出ると、滑走路の中央付近に、グレンの姿があった。水たまりはあるが、風が何か邪魔なものを運んだ、ということはなさそうだ。もしかしたら、あっても彼がどけたのかもしれない。そちらへと歩き出すと、向こうもこちらに気付いたようで、手で止まるように合図してこちらへと駆けてきた。
「今、起こしに行こうかと思ったんだが」
「出ますか?」
「ああ。先に格納庫へ行ってくれ。局長に報告してくる」
再び駆けていった彼を見送りながら、格納庫へ向かう。今度はいっぱいに大戸を開けて、周囲の確認をした。向かう予定の海には夕日が沈んでいくところだ。帰る頃には朝になっているかもしれない。
機体に上がると、掛けていた梯子をグレンが外した。グレンが上った梯子は、合図を出しに来た局長が外す。向こうのエンジン音が聞こえてから、風防を閉めてこちらもエンジンをかける。ホワイト・ブレイズがゆっくりと前進を始める。滑走路上で、それが完全に離陸するのを待って、局長の合図を頼りに自分もゆっくりと加速を始める。ゴーグルの向こう、頭上でグレンの機体がゆっくりと旋回している。同じ高さまで上がると、短距離無線が入った。
「行くぞ。日を追って、西だ」
「了解」
しばらく進むと、海上へと出る。しばらくずっと海を見た後には、「境界」が待っているはずだ。しばらく真っ赤な夕日を追っていたが、次第に追いつかなくなって辺りを夜が包んだ。左手に明星が輝き、遅れて他の星が光りはじめた。紫紺の空は深くなり、あっという間に上も下も同じ色に染まってしまった。微かに見える灯りは、前を進むホワイト・ブレイズだけだ。
「問題ないか?」
グレンの通信に、大丈夫、と応えた。航続距離と針路計を見やる。図の通りなら、間もなく境界上に出るだろう。そして、「境界」に近づくにつれ、グレンと局長との会話が頭をよぎった。「境界」の向こうには、何が待っているのだろう。今までの自分は、英雄がもたらした希望が、そこにあると信じていた。でも、違う。不確かな推察でしかなかったそれは、離陸した今確信に変わっている。この先には、彼が守る秘密であり、万人に知られてはならないことがある。
どう問うたら良いだろう。しばらく黙って考えて、ゆっくりと口を開いた。
「グレンさん。聞いてもいいですか?」
「何をだ? もうすぐ『境界』に出るぞ」
「だから、聞いておきたいんです。――英雄は、あの男はどうして、自分の国へ帰らなかったんですか。フライトが危険なのはわかります。でも、僕らがこうして行って帰ってこれる距離だ。彼だって、あちらへ帰れたはずです」
「それは、本人に聞いてみなければわからないだろう。単純に、こっちが気に入ったのかもしれないな」
「おれにだって、それが違うってことはわかります。教えてください、グレンさん。知っているんでしょう」
帰ってきたのは、沈黙。エンジンの音ばかりが、暗い洋上に響き渡る。
「……『境界』だ。高度に注意。下見てみろ」
夜とはいえ、微かな月明かりを返していた波が、突然に途切れた。地の果ての滝だ。海水はどこへ向かうのか、ただ滔々(とうとう)とした闇の中へ白く砕けながら、海は落ちていく。「境界」はまったくの闇だった。
「何も、ない」
空を飛びながらに、今突然足元が無くなったような感覚。呟くと、彼の声がそれに応えた。
「もっとよく見てみろ、真下だ」
高度計を確かめて、暗渠へと目を凝らす。闇の底で、何かが光った。それは星のようでいて、だんだんと強く、まるで太陽のように力強く光りはじめた。白く眩く、地の底で燃え上がるような、強い輝き。世界を別つ、白い閃光。
「ホワイト・ブレイズ――」
下の光と、彼の機体を口にして、その光景に絶句する。
「ゴーグルは外すなよ、目が焼ける。……英雄は、帰りたくても帰れなかったんだ。きっと死ぬまで理由を言わなかっただろう。だから、俺も口止めを受け入れた」
「理由?」
「ああ。――向こうに着けばわかる。針路そのまま、あと少しだ」
そこからどれだけ飛んだだろう。滝の反対側の滝を越えると、再び同じように海があって、その後、群青の世界に明るさが差した。目の前に広がる陸地は、新世界。しかし、それは喜び勇んでいけるような光景ではなかったのだ。
町の明かり一つない、茫漠たる原野。月の光を照り返す、砂の大地。夜闇にわかるほど、生ける気配に欠いた、死した世界。
「こちらの世界は滅んだんだ。あの男は――この世界最後の人間は、ここから逃げてきた。中央に言われて、ここへ確認に来て、俺はこれを見た。……どこでも大丈夫だ、下りるぞ」
下降を始めたホワイト・ブレイズを追って、自分も新世界へ下りた。上で見たよりも絶望的な、限りない荒野。目標として立つ、墓碑のような岩陰に、手紙の荷箱を下ろし、彼は岩に背を預けて、原野を眺めている。
「英雄は、もう一つの世界がある、という希望を持ってきた。が、同時に、同じ空を有する友人が、永久に失われたという絶望も持ってきていた。だから、奴は世界が滅んだことを言わなかった。奴は言わないでくれ、と言ったし、こっちも約束したさ、生きている限り、絶対に言わないと。言える気もしない」
「でも、こんなこと――」
「ああ、いずれ知れるさ。でも、今は未だ会えぬ友人がいると言うだけで世界は明るくなれる。会える前に死んだなんて、知らないほうがいい。だから、俺は進んで、地の果てに来た。あの真っ白な光も、この荒野も、奴が隠した絶望も、あの世界に見せたくはない」
彼が上着のポケットから、煙草を出して銜えた。供える花もない死した世界に、その灯りだけが生きた色をしている。
「お前は、どうする」
問われたが、答えるべき言葉は一つだ。
「言いませんよ。でも、きっと、皆がこの世界を知った時、悲しみはあっても、絶望したりしない。確かに、ここに友人はいたんです。あの英雄が、ここからの手紙だった。なら、僕たちはそれの絶えまない返信であるべきだ」
火の照らす彼の顔が微笑んだ。悲しく、だが、確かに満ちた笑顔。夜明けが来るまでじっと、グレンと共に荒涼の大地を眺めていた。
世界を別つ白い閃光と、世界を繋ぐ、白い斑紋のある牡牛。ホワイト・ブレイズは、暁に照らされて明るさを増した。