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飼い慣らす(連作)

飼い慣らす 2.パンドラの箱

作者: 文絵

 目を覚ますと正面に兄の寝顔があってびっくりした。昨夜遅くまで花札に付き合わせてしまったから、寝不足だったのだろうという推測は苦もなく立つし、現にわたしも今の今まで昼寝をしていたわけだけれど、どうしてまたこんな位置で。


 ……ふうん。結構穏やかな顔するんだ。


 物珍しくてつい見入ってしまった。普段はもっと隔てを感じさせる顔つきをしているのだ。常に接客中であるかのような――わたしと会うときは常に、接客中だということかもしれないが。


 父親の違う兄とは、一緒に暮らしてこなかった。当時未成年だった母は、兄を産むとすぐ施設に入れたのだ。母は兄を恋しがって、わたしには見向きもしなかった。父が補ってやろうとばかりにわたしを溺愛した。いたたまれなくて、息苦しかった。


 兄と出会えたのは偶然だ。中学受験を前にして、学校まで欝陶しくなった小六の頃。毎日のように死んでやろうかと思っては、母は別に気にも留めないだろうし、父はこの世の終わりみたいに嘆いてみせるだろう、と考えてげんなりしていた。通りすがり同然の赤の他人に家庭の愚痴をこぼしたのは、それだけやけになっていたからだろう。


「幾つ違いか伺っても?」


「え?」


「お兄さんと。あなたの幾つ上です」


 遮られた意図が、すぐにはわからなかったのだけれど。


 つまりは赤の他人どころか、兄と同い年で兄と同じ名で、母の旧姓と同じ姓だったのである。参りましたね、と天を仰いでいたけど、こっちだって絶句するほど驚いた。そんな人とばったり会うなんて、誰が本気で思うだろう。


 親近感を覚えたのは、兄の方では母を慕っていないと知ったからだ。わたしの方で母を好いていたらどうだったかわからないが、兄は連絡先を教えてくれた。


 それから時々連絡を取って、時々会った。会うのは決まってわたしの家から数駅離れた町だった。兄の町まで出かけていくのは経済的にも時間的にも厳しかったし、わたしの町では母にみつかるかもしれなかったから。


 母には知らせなかった。知らせるなとは言われなかったが、知らせろとも言われなかった。知らせるものかと思った。そうしたことで、余裕ができた。母が兄を想うそぶりを見せても、心を満たすのは疎外感でなく優越感になった。父の溺愛ぶりには、相変わらず閉口したが。


 兄の町へ来たのは今回が初めて、アパートへ来たのも初めてなら、泊まったのも当然初めてである。父の出張中に黙って出てきた。二学期までには帰ると書き置きを残してきたから、母は特に心配していないだろう。


 ……ふと、ここで不意に兄が目を開けたら気恥ずかしいことになるな、と思った。もぞもぞと起き上がる。見蕩れていたって仕方ない。珍しいほど穏やかでも、どうせ寝顔なのだし。


 目を覚ますと正面に兄の寝顔があったのは、そもそも兄がわたしの寝顔を覗き込んでいたからだと、思い至るのは先のことになる。




 家出を初めて考えたのは覚えていないぐらい前だが、実行を本気で考えたのは兄と打ち解けてからだ。兄の部屋に転がり込めないかと思いついてから。父母から逃げて異父兄に頼るとは、なかなかの当てつけではないか。


 いつか家出してやる、というフレーズは不満を抑える呪文だった。何かあるとそう自分に言い聞かせていた。例えば、板書が速くて大変だとうっかり口を滑らせて、抗議してやろうと父が食いついて、そこまでしなくてもと止めれば優しい子だと褒められて、その間母は一言も口を利かなかったときなどに。


 とはいえ結局その場凌ぎの嘘で、実現性は低かった。死んでしまってそれっきりの自殺よりも、ある意味難しいことなのだ。自製の呪文に然程効力はなかった。随分と、長い間。


「七。クラブ」


「ありますよ。キング」


「はい」


「……八ですか」


「八です」


「八ですか」


「八です」


「八ですか」


「諦めましょう」


 兄が溜め息を吐いて、山札から一枚引く。こういう勝負に思いの外むきになることがわかってきた。常に冷めたようなそっけない顔をしていると思っていたけれど、単に表情に乏しいのかもしれない。


 表情に出なくても行動に出るわけだ。会いたいと伝えれば会いに来てくれるし、泊まりたいと頼めば泊めてくれたし、カードゲームに誘えばこうして乗ってくれる。わかりやすい笑顔や言葉を向けられなくても、それなりに好かれているという自信は持ってよいのだろう。


 ……家出の理由を未だ尋ねないのも気遣いゆえだろうか。特に興味がないならいい、余計なことを知りたくないならいい。本当は気になっているのなら。


 直接的な理由はないのだ。言ってみれば家出に向けて、不満を貯金してきたのである。一つ一つは弱くても、積み重ねれば十分動機として通るだろう。たった一回怒鳴られたぐらいで飛び出すのは女々しくても、来る日も来る日も怒鳴られるなら無理はないと感じられるように。


 が、貯金を引き出すタイミングは計算尽く。中三の夏は受験勉強で忙しいし、退学のありうる高校ではやたらなことはできないから、中二の夏を逃せばチャンスは当分ないと考えた。耐えかねて飛び出したのとは、だから少し異なる。そもそもが家出ありきの貯金だったのだし。


 その辺りをうまく説明できず、言葉の選択や順序を誤ると、兄を不快がらせる結果になるかもしれない。だから――問われない限り、わたしは口を噤んでいるだろう。なまじ得た好意は失うのが怖い。


「はい、また七。ハート」


「――ハートですか」


「ハートです」


「では、スペード」


 これで残り一枚と胸を張って捨てると、兄はハートの七をぽんと重ねた。


「あ」


「ページワンを言わなかった分もお忘れなく」


「……あ」


 ……うん、表情や口調に出ないだけだ。


 ことさら唇を尖らせてみせて、わたしは山札に手を伸ばした。




 兄がいるときは、食事の支度は任せきっている。別に怠けているわけではない。片づけなら手伝ったり引き受けたりするけれど、狭い調理場では二人並ぶと却って邪魔になるのだ。飲食店で働いているからか、兄はそこそこ料理上手だった。


「運んでもらえます」


「ん、はい」


 こういう用でも母に呼ばれた記憶はあまりない。ささいなことに喜ぶとまるで自分が安っぽくなったようだけれど、気持ちのよさは否定できなかった。否定の必要もあるまい、兄はこんなことでわたしを見くびらないだろうし。


 差し出された皿を受け取って、


「……わたし、辛いの駄目なんだけど」


 声が引き攣るのがわかった。皿の上には――エビチリ。辛さが平気なら、美味しそうな。


 言ってなかったっけ。言ったとは思い出せなかった。友人の間で有名だから、親しい兄も知っているような気でいた。


「そうですか。覚えておきます」


 さらりと応じて、兄はもう一人分のエビチリを渡す。ここで甘やかすつもりはないらしい。二回は作らないから、今回は食べろと。


 ――気づくな。気づくな……!


 二皿を注意深くテーブルに載せた。言い忘れたわたしが悪い。捨てるのは勿体ないし、兄は少食な方だ、いらないなら戴きますとは言わないだろう。茶碗を置いたときには力が入りすぎて、ぶつけたような大音を立てた。


 ――今。


 嫌いそうには、ならなかったか。たかが料理の一つぐらいで。


 兄が好きかと問われれば、好きだと答えられる。何故好きかと問われれば、迂闊には答えられない。本当に好きなら理由はないはずだ、という騙し討ちかもしれないのだから。それとも本当に好きなら、そんなことで怯むはずはないのだろうか。


 母のような無関心でもなければ、父のようにまとわりつくでもない。会いたいと伝えれば来てくれるし、泊めてほしいと言えば泊めてくれた。都合のいい人間だから気に入っているのだろうと言われれば――否定できない。


 気づくな。気づくな、気づくな。その程度かもしれないなんて。


 席に就いたときにはかなり険しい、下手をすると泣きそうな顔をしていたと思うが、兄は特に触れなかった。そこまで嫌ならと撤回することもなかった。


 エビチリの皿は意地で空にした。




 きれいなきれいな箱の中には、実は災厄が詰まっている。開けてしまえば取り返しはつかない。あとに残るのは希望だけ――わたしだけは味方だよ、と囁く無責任な希望だけ。


「そろそろ、帰るよ。学校始まるし」


 八月も末になった。兄に告げれば、そうですか、と気のないような返事があった。引きとめるはずはないにしても、残念そうな顔ぐらいしてくれたっていいだろうに。いや、それでは兄らしくないか。


 出張から戻った父は、一度物凄い剣幕で携帯電話にかけてきた。元々学校を休むつもりはなかったから、書き置きにも夏休み中に帰ると明記しておいたはずで、疑うのかとつい強い口調で言い返してしまった。帰ってからが修羅場だろう。


 気は進まないけれど、逃げ切れることでもないだろうし、父に見放されてもわたしは別に構わない。これ以上養わないなどと言い出すならまた別だが、嫌われようが呆れられようが痛くも痒くもないのだ。――父には。


「それでね、あの。……これ」


 差し出した封筒を少しの間みつめてから、兄はこちらへ目を向けた。


「渡しそびれてたんだけど、食費。足りないかもしれないけど」


 家出を心に決めたときから、少しずつ貯金してきたのだ。父母への不満だけでなく。気持ちとしては、宿泊費も兼ねて。


 兄は再び封筒に目を落とした。千円札だからこの厚さだが、一万円札を交ぜればもっと薄くなる。誤魔化すつもりでは、ないのだけれど。


 しばらく経って、痩せた手が伸びた。封筒に触れ――軽く、押し戻す。


「交通費にでも当てて下さい。冬休みにも来るんでしょう」


 意思を明確にするためだろう、珍しい微笑まで浮かべて言い添えた。却って気に障りはしないかという一抹の不安が、どうやら顔に出ていたようだ。


 ……ほら。そんなだから、区別がつかなくなる。甘やかしてくれるから気に入っているわけではないと、言い切ることができなくなる。


 兄を慕う妹という微笑ましげな光景の裏に、実は打算が渦巻いているのかもしれない。蓋を開ければ損得勘定なのかもしれない。わたしの寝顔を眺めながら穏やかな眠りに落ちたのであろう兄は、きっと疚しさも後ろめたさもなくわたしを好いてくれているのに。


 気づくな。暴くな。暴いてしまえば取り返しはつかない。わたしに残るのは開き直りだけ――人間ってそういうものでしょ、とうそぶく拙い正当化だけ。


「無銭飲食はプライドが許しませんか」


 黙り込んだのをどう思ったのか、いつもの淡泊な調子に戻って兄が言う。苦笑して首を振った。食費じゃない、お兄ちゃんのことだよ。


 兄の方では特別気にしていないのだ。一切の好意が消し飛んだようなあのときの胸中を、知っているのも本気にできるのもわたし一人。端からは嫌いな料理に拗ねたようにしか見えなかっただろうし、告げても大袈裟に聞こえるだけだろう。それならわたしさえ忘れればいい。開けなければ、きれいな箱なのだ。


「……泣くことじゃないでしょう」


「いいでしょ、別に」


 手の甲でぐいと拭い取る。わかってないのよ、お兄ちゃんには。今このときが表面的なものでしかないかもしれないってことが。


 なまじ得た好意は、失うのが怖い。自分へのものも、自分からのものも。

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