12.影
カルロッタはそっと影に近づいた。
夕日に照らされたその影は、小さな子供を抱いた若い母親だった。買い物中に見かけた、地面でだだをこねていた親子だとカルロッタは気づいた。
土の上に座り込み、肩を震わせている母親を見て、カルロッタは目を丸くした。
「大丈夫かい?」
そっと声をかけると、母親はハッとして顔を上げた。涙で濡れた目が、夕日に照らされて光っている。
「す、すみません……勝手に……ここに」
「いいんだよ。それより、ずいぶん疲れて見えるけど、大丈夫かい?」
カルロッタの優しいトーンの温かい言葉に、母親は堪えていたものが決壊したように泣き出した。
「ご、ごめんなさい、子供が言うことを聞かなくて。今日も買い物中に、駄々をこねて走って行ってしまって、追いかけるだけで精一杯で。気づいたらここまで……」
(ああ、ちょうどイヤイヤ期の時期だね。懐かしいわ)
カルロッタは心の中で頷き、これまで育ててきた子供たちの顔を思い浮かべた。
「お子さんは疲れて寝てしまったのね?」
「はい……わ、わたし……っ、ぐ……ぐすっ……どうしたらいいか……」
カルロッタはそっと泣いている母親の背を撫でた。
「よしよし、お母さん、よく頑張っているわね」
「……っ、ひぐっ……私なんて、頑張れてないです」
「そんなことないわよ。あなたは十分頑張っているよ。胸を張りな」
「で、でも」
「泣きたい日は泣いていいんだよ、お母さんだって人間なんだからね」
その言葉に、子供を抱いたまま涙を流す母親の背をカルロッタは撫で続けた。
涙声が落ち着いてきた頃。
「子供の寝顔って、可愛いと思わないかい?」
母親は子供の顔を覗き込んで、こくんと頷いた。
「騒いで、大泣きして、我儘ばかり言って手がかかって。それなのに、寝顔は天使に見えるから、私は子育て中、子供たちの寝顔が一番好きだったよ」
母親がくすっと笑った顔を見て、カルロッタも微笑む。
「いつもは元気がありすぎて困るのに、熱が出たら心配で夜も眠れなくてね」
「わかります! この子も季節の変わり目にはすぐに熱を出して、心配で心配で」
子供を見つめる瞳には、愛情が籠っている。
(この母親はもう大丈夫だわ)
そうこうしているうちに、子供が目を覚ました。男の子はカルロッタが覗き込むと母親の服をギュッと握りしめて顔をそむけた。
「あらあら、人見知りする時期ね。なんでもママじゃないとだめなのよね」
「すみません、今日は本当にお世話になりました」
立ち上がり頭を下げる母親に、カルロッタは言った。
「また、遊びにいらっしゃい」
「ありがとうございました」
深々と礼をする母親に手を振り、カルロッタは家へと入っていった。
夕陽はさらに傾き、辺りは暗くなっていく。
その様子を、道の向こうから、小柄な影がじっと見つめていた。
公爵家の小柄なメイド。
彼女はカルロッタの姿を、静かに観察していた。
メイドは影に溶けるように姿を消す。
公爵家のメイドとして仕えて半年。
サラ・ウィルソンは何とも言えない顔で、夜道を急いでいた。
「……カルロッタ・モリス……ただのおせっかいなおばさんにしか見えないのに……」
フードを深く被り、顔が見えないように気を付けながら夜道を進む。
足早に大通りを進み、通りを一本入った路地の奥。
“猫の隠れ家”と書いた看板のお店へと入った。
カルロッタが昼間訪れた時には無人だった店内。奥の椅子には初老の男性が座っていた。
サラは荒い呼吸を整えて、汗ばむ額を手の甲で拭った。
「コーヒーを飲むか?」
「いえ、結構です」
初老の男性はコーヒー豆を丁寧な仕草で挽いていく。
「いい香りだ」
「苦い飲み物は苦手です」
「それは、残念じゃな。上手く淹れられるようになったんじゃが。それで公爵夫人の様子はどうだ?」
サラはここ最近のエレナの様子を思い出す。
「パーティーの後から、公爵夫人は変わられたようです」
「変わった?」
「はい、少し前までは家でも社交界でも孤立気味でしたが、今は違います。社交界では徐々に受け入れられており、公爵様との仲も深まり、精神的に安定しているように思います」
「……そうか」
サラはここ最近のエレナの様子を思い浮かべ、そしてカルロッタの姿が脳裏に浮かんだ。
「……カルロッタ・モリス」
ポツリと漏らしたサラの一言に初老の男性の肩がびくりとはねる。
「なぜ、その名を知っている?」
「マリウス様もカルロッタ・モリスをご存じで?」
マリウスと呼ばれた初老の男性は、コーヒーカップをテーブルに置いてから、小さく頷いた。
「この間、医務室で会う機会があってな。コーヒーの淹れ方に詳しかったんじゃ」
「……公爵夫人が変わったのはカルロッタ・モリスが大きく関わっています」
「ただのご婦人にしか見えなかったが?」
「はい、調べましたが、ただの平民です。街外れにある小さなログハウスに一人暮らししています。これといって特別な人ではないのですが……」
サラは先ほど、カルロッタが見知らぬ母親を慰めていた姿を思い出す。明らかに初めてあったであろう他人になぜあんなに優しくできるのか不思議だった。ただのおばさんなのに迷いなく人を助ける姿が脳裏に焼き付いて離れない。
「何かあるのか?」
「……いえ、ただ少し気になっただけです」
マリウスは顎に手を当てて、目を瞑った。
「伯爵様に報告するまでもない。カルロッタ・モリスは様子見でいいだろう」
「はい、失礼します」
サラは、来た時と同じようにフードを深く被り、店を後にする。
(……カルロッタ・モリス。あの人を敵だと思いたくない)
サラの胸の奥に小さなざわめきが生まれていた。それが何なのか、サラ自身まだ気づいていない。




