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鏡映反転

作者: 山中 千

通勤前の朝、髭を剃ろうとする僕。そんな時に、鏡の前の自分が話しかけてきた。鏡の前の自分の話は左右対称なっているのか否か、自分と向き合うということなのか否か。僕の頭の中にはさまざまな疑問が浮かぶが、解決できないまま翻弄される。

   鏡映反転


 鏡は現実の左右を喰い違う。右手を挙げれば、鏡の自分は左手を挙げる。その現象は、自分たちを心底馬鹿にしているような気がするし、そうでもない気もする。


 朝食を終えて、リラックスするひと時の渦中。コーヒーの香りまで堪能した。

時計に目をやって、驚く。やすらぎの時間経過は妙に早い。あと十分もしたならば、会社へ行かなければならない。人をぎゅうぎゅうに押し込めた電車に乗る必要がある。

 僕は鏡の前で、電動髭剃り機を握った。鏡に映る自分の青髭は濃く、とてもじゃないがこのまま放置して置ける状態ではない。電動剃り機の電源を入れようとした瞬間

「おまえは素晴らしい人間だ」

という声が脳に届いた。耳を経由する一般的な伝達ではなく、脳に直接語り掛けてくるようだった。妻は、二年前に産まれた子の世話で忙しく、かといって他に語り掛けてくる人を思いつけなかった。

 自分だった。鏡に映る自分の口が動いていたのだ。僕は、その口の動きを見逃さなかった。そして僕の意志に背いて、勝手に笑みを浮かべてこちらを見ている。動いている口を思い返す。たしかに、おまえは素晴らしい人間だという台詞がパズルのように当てはまる。僕は肩を落とし、現実に文句を言いたかった。

 笑みが瓦解した。じめっとした陰湿な笑みが、クククという音を宿し、顔中を皺だらけにした。もう耐えられない、馬鹿すぎて可笑しい、といった類の蔑んだ笑い方だった。

 どれぐらいの時間だろうか?少しずつボリュームが失速してゆく。クククという笑い声がククになり、ククという笑い声がクになる。そして、咳。そして、真顔。無。

 一連の尻すぼみを目の当たりにして、僕は鳥肌が止まらなくなった。沈黙の間は凍てつくように肌の表面を震えさせた。鏡の自分自身に卑下されるというのは、身体に虫を飼うぐらい気持ち悪いものだった。かなり心持ちが悪かった。鏡の自分は、自分自身の付属ぐらいのものだと無意識的に思い込んでいた。わざわざ言語化しないほどの感覚。その前提が裏切られ、居ても立っても居られなかったのだ。

 もうやめてくれ、そう思っていた。鏡の自分が話し出そうとしている。そんな絶望的な期待は、絶望でしかないかのごとく、鏡の自分は声を発した。

「おまえには旦那と息子がいるだろう?」


 背後から殴られたとする。すると、痛いが一番はじめに来るものではない。痛いは二番目で、一番は何が起こったのかが把握できないというパニックの時間だ。空白の時間。まさに、それだった。改行はいわば、空白の時間。

 そこを十分に使って納得をした。あべこべなのだ、と。僕には妻はいるが旦那はいないし、娘はいるが息子はいないのだ。

 ん?そこで気が付いた。鏡の自分の第一声を思い出したのだった。鏡の自分のセリフの統計は限りなく少ないものだが、こちらが学習した法則によると、逆のことを言う。鏡の現象と全く同じだ。ともすると、あのセリフ、おまえは素晴らしい人間だ。逆は何になるだろう。おまえは最低のゴミ野郎だ。クズで脳がこれでもかというほど機能しなかった人間だ。罵倒するのも面倒で、アンケートでいうとはいかいいえでもないどちらでもよいみたいな人間だ。弱い気がする。素晴らしい人間という絶対値で並ぶ負のベクトルの言葉がうまく思い当たらなかった。

 そんなふうに思考の隅の闇に吸い寄せられてゆく。闇に近づかないほうがいいという至極当然な冷静さは、闇に近づく人には無い。そんなことを頭に浮かびもしないのだ。負のスパイラルがピューラーで、心が野菜だ。そのようにして、うすく心を削られてゆくのだ。自己嫌悪に。

「おい、オレの質問に答えろ」

唐突に、鏡の自分が言う。口調は荒っぽさが目立ち、表情にも苛立ちが含まれていた。しかし、僕はあまりそちらへ注意がいかなかった。僕は考えていたのだ。鏡の自分が言ったことを、あべこべなのかどうかを。質問に答えよ、のあべこべとは一体何なのだろうか?お前が質問をしろということなのか?何だか面倒になって考える事をやめた。急にどうでもよくなって、とりあえず言葉を平面に受け取ることにした。言葉のキャッチボールでもしようかな、という感じになっていた。

「旦那と息子というのがよくわからない。僕は男性だ。まあ男性だから旦那を持ってはいけない、ということを言いたいわけではない。おおくの男性は、パートナーに妻を持つのではないだろうか?僕の主観ではあるが……。そして、娘だ。産まれたときに、助産師さんに聞いたんだ」

 僕は半分やけくそになって答えた。答えながら、自分が何を話しているのかよく分からなくなっていた。なんだか余計なことを話したような気もするし、丁寧に質問に答えるため必要な説明だったような気もする。端的に正確に答えられたという自負がそこにはなかった。

 鏡の自分は、微笑を漏らし始めた。クククから始まって、次第に爆発的な笑い声へと変貌した。なんだか木枯らしがニュースになるほどの台風に変化してゆくさまを見ているかのようだった。

現在の状況に対応しなければならない。風穴を開けるんだ、頑張れ自分、と自らを鼓舞した。

「どうして、笑っているのだ?」

と僕の方から質問を投げかけた。返答は中々返ってこなかった。鏡の自分は、質問に対する返答を脳内でイメージして、その言葉を選ぶと受け手がどのような反応をするのか、と反芻して吟味するという類の間ではなかった。単に、笑い(心底可笑しいのか嘲りなのか判断はできない)が収まるための間であった。

 僕は質問が、鏡の自分に届いている実感を感覚として掴んでいたので、返答までの時間のじれったさを感じることはなかった。まあ好きなだけ笑っておけばいいさ、と気楽な南の国のサーファーぐらいの心地でいた。

「悪い悪い。俺とはずいぶんと違うなと思ってな」

鏡の自分はようやく口を割った。次の笑いを欲しているような顔をしていた。

「どういうことだ?」と僕。

「こうして容姿は寸分狂わず同じなのに、こうも中身が違うとは。お前はつまんないやつだ」

 こいつと会話をするのは、全く持ってスムーズでないな、と僕は思った。質問にたいして、言葉を変え同じようなことを話す。あべこべなのかあべこべでないのか、僕のことをつまんないと思っているのか腹を抱えるほど面白いと思っているのか……。

 僕はまたも魚が釣れない釣りぐらいつまらない気持ちになった。そこで、一つ自分の中でルールを設けた。疑問を投げかけない。そのせいで、会話のラリーの荒さが目立つことになる。球を拾いに行くのが、大変で面倒なのだ。

 決まりをつくることで、少しは気分が前を向いた。よし、木漏れ日ぐらいの小さな前向きさだった。

 そんな少々のポジティブは、一瞬のうちに飛んだ。小鳥の翼での飛び方でなく、ロケットの発射のような飛び方だ。鏡の自分が過去の僕を呼び出したのだ。鏡の自分が鏡の奥に手招きして少年時代の僕を呼んだのではなくで、茶色い革のような袋の細長いものを付き出して来た。袋に付いていたジッパーを開け、中身を取り出して、わかった。それは、リコーダーだった。用済みとなり、放り出された袋には、僕のフルネームが記されていた。

 思わず、僕はなぜそれを持っている、と聞きたくなった。しかし、先程自分ルールを設けたところだ。ポジティブは失ったけれども、自分ルールを失ったわけではなかった。羅針盤はまだ狂っていない。

 鏡の自分は、リコーダーを吹く。ド、レ、ミ、と続く。音楽の授業で習った指の運び方だった。ファ、ソ、ラ、シ、ファを吹くのは凄く簡単だったことを覚えている。イージー、イージーと少年時代に感じていたことを思い出した。しかし、後半に従うにつれ、指の難易度が上がってゆき、指使いに既視感を抱くことが出来なかった。僕は恐さを感じざるを得なかった。鏡の自分のほうが、過去の自分を飼いならしているように思ったからであった。

 過去がでてきた。小学生の頃、音楽の時間でリコーダーの練習中だ。パートごとでの練習、モリとキタオカという男子の同級生がリコーダーの貸し借りをしていた。授業中に。モリが吹くときにはモリ、キタオカが吹くときにはキタオカがリコーダーを持った。教師の監視下をすり抜ける背面でやり取りが行われた。その作戦は見事に気が付かれずに行われたが、勿論近くの生徒たちは気付く。僕もその内の一人ではあったが、なにも発することができなかった。彼らを罵ることも、教師に報告をすることも、周囲に陰口を叩くことも……。モリとキタオカは変なヤツだ、それぐらいの感想だった。あれ?そこで思い出した。二人は結局教師に見つかり説教をくらったのだったか、二人は本当に男子生徒だったか、はたまたそんなこと自体本当に起こったことだったのだろうか。だんだんと確信が持てなくなっていった。日没の太陽のように、僕は沈み込んでいった。

 鏡の自分は静かに笑う。笑うためにだけに、わざわざリコーダーを口から離した。

 僕は、鏡の自分に対して寛容な態度をとる。笑いたければ、笑え、といった具合に。質問はない、さらさら興味はないといった態度をとる。寛容というよりかは、横柄な態度かもしれない。しかし、そのように客観視したとしても、態度を改めることはない。なぜなら、相手は自分だから。鏡に映る自分なのだ。話しかけてきたのは向こうからであるし、ずっとわけのわからないことを言われ続けてきたのだ。どうしようにも、こうしようにもない。

 そのようにめぐる考え事にいちいち歯向かうような指摘しているところで、新しい観点がうまれた。さきほどの興味がない、という部分だ。興味がないというのはどういうことだろうか?僕は考えた。鏡なのだから、そのまま自分自身に返ってくるのではないか?そんなことはないはずだ。経験として、自分は自分しか操作したことがないのだから、自分に興味がないというのはおかしい。では、なににたいして興味を持つのだろうか?興味は自分から沸き起こるものであって、自分に興味がないと言ってしまったら、根元の部分から引き抜かれることになる。まずい。いや、まずいことなのだろうか?

 もう訳が分からなくなってしまった。収拾がつかない。どうしよう、途方に暮れてしまう。


「なぜリコーダーだと思う」

鏡の自分は、僕がとぎれとぎれな思考に惑わされている中、そう口にした。

 え?質問は聞こえていたが、脳を切り替えるため必要な数十秒を稼ぐため、僕は聞き返した。

「だから、なぜリコーダーだと思うかって聞いてんの」

鏡の自分の表情には、あきらかに苛立ちが浮かんでいた。余裕がない様子だった。そんな鏡の自分の表情を見るのははじめてで、僕は鏡の自分にたいしての考え方を変える必要があると思った。そして、本当の鏡の自分(ややこしいことだが、僕が普段目にしている鏡に映る自分)にもあきらかに苛立ちが浮かぶ顔を見たことが無いな、とも思った。だいたい鏡に映る自分は、生気を抜かれた顔をしているか、なにも考えていなそうなとぼけた顔をしているか、眠たそうにしているか、どれかの顔だ。怒り、とは他者という自分でコントロール

できない存在を、自分とは違った感覚を持った存在を、思うように動かすことが出来ないという至極当然な事柄から生まれる曲がったものなのかもしれない、とこの時に思った。ということは、鏡の自分は僕自身にたいして、うまくいかないものを感じていることになる。鏡の自分が話しかけてくるという突拍子もないことで、今まで僕を見て来た存在が悠々自適に笑うさまを見て、彼の手のひらの上で転がされているという感覚があった。馬鹿にされていることを理解しつつ、流れに身を任せようと腹をくくったところであった。根本から、破壊されたことになる。摩訶不思議な現象にたいする机上の空論が、机上でしかないことが判った。支配が解けたことに対する安堵と幸福、相反する気味の悪さを感じた。じゃあ、なんなんだ、と。僕の目の前で起こっていることはなんなんだ、と。コイツは僕の知らない僕を理解して、乗っ取ってくるのではないのか、と。

「そんなこと、わかるわけないだろ」

 先ほどまでとは、口調を変化させて、好戦的な態度を見せて僕は言う。

 ぐにゃり、と鏡の自分の表情が歪むのが見て取れた。垣間見たといったほうがいいほど、一瞬の出来事だったが、僕はそれを捉えた。ある種、分析が正しかったことを把握した。完全に思う壺だったならば、あんな表情をするはずがないのだ。手ごたえを感じていたが、それも一瞬のことだった。なぜなら、歪んだ表情がすぐに元に戻ったからだ。


 投げつけられた問いにたいして、分からないと白旗を振る僕。こういった一般的な状況で、一般的な対応としては、解答を与えるもしくは解答を導くための手助けをするだろう。当然な事だろう。しかし、鏡の自分に一般的な対応が通ずるわけがなかった。再びリコーダーを手にとった。

 気味の悪い音色だった。磨けば磨くほど汚れが増す歯ブラシを使っているような気持ち悪さだった。全く知らない曲なのにも関わらず、どこかノスタルジックな気持ちになってしまうような曲。母親の羊水に戻るようなノスタルジックだった。しかし断じて心地よくない。自分自身の過去を作り変えられる気持ち悪さ。演奏自体も粗の目立つ下手な演奏だった。。小学生の頃、黒板を爪で引っ掻くあの不協和音と同等の、いやそれ以上の汚い音が僕の鼓膜に届いた。

 そんな厭な演奏にも関わらず、僕は耳を塞ぐことをしなかった。耳を塞ぐと大切な何かが損なわれる、そんな風に感じたのだ。


 ピンと伸ばした一本の糸をハサミで切るみたいに、演奏は終了した。唐突で脈絡もなにもない終わりだった。当たり前の話ではあるが終わりなので、音が無い凪の時間がきたことになるのだが、終わりの存在感は騒がしさよりも騒がしかった。

 鏡の自分は、リコーダーを吹く事も言葉を発することもしなかった。排水口に吸い込まれる水のように、鏡の自分から出る音すべてをどこかへ吸い込まれたような感じだった。

 話せ、僕は思った。しかし、なにも言うまいと口を真一文字に結ぶ。

 無風。沈黙が続く。

 沈黙に飽きて来たころ、鏡の自分は姿を消した。鏡自身の動きをしない、いわば我々が普段使用している鏡映反転の鏡。自分自身の動きとピッタリと示し合わせた動作を行う鏡。そんな鏡に戻ったとは別で、僕は鏡に映る自分を失ったのだ。消えたとは、そういうことだ。

 髪型を整頓することが不可になった。ボリボリ、と僕は後頭部を左手で掻きむしった。


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