4話:コンパスが示す方向
数日後、俺はライオネルと剣の鍛錬をしていた。最近は以前にも増して集中できていない。あの日の出来事が頭から離れないのだ。
「なあアベル、知ってるか?王立アルカディア学園には平民特別枠っていうのがあるらしいぜ」
ライオネルが突然言った。聞き慣れない単語に思わず動きを止める。
「平民特別枠?」
「ああ。才能のある平民に門戸を開く制度だそうだ。剣術でも学問でも、特例で入学できるチャンスがあるんだってさ」
ライオネルは得意げに続けた。
「父さんが言ってたんだ。フィルクス領出身の平民でも過去に合格者がいるらしいぞ。まあ倍率は半端ないらしいけどな」
「そうなのか……」
胸の奥で何かが疼いた。平民特別枠。その存在はまさに光明だった。俺もロゼッタと同じ場所で学べる可能性があるということだ。
(でも……本当に可能なのか?)
俺は剣もそこそこ鍛えているが、天才的な才能があるわけじゃない。勉強だって普通程度だ。ライオネルのような貴族とは条件が違いすぎる。
「興味あるのか?」
ライオネルが俺の顔を覗き込んでくる。俺は曖昧に頷いた。
「ちょっとな……」
正直に言えば、ロゼッタと一緒にいたいという気持ちがほとんどだった。だが口には出せない。
「だったら挑戦してみろよ!俺が協力するぜ。父さんの蔵書を貸してもいいし、腕利きの剣術師範を探してやる。もし合格したら……」
そこでライオネルは珍しく恥ずかしそうに笑った。
「また一緒に遊べるかもな」
その言葉が俺の背中を押した。そうだ。ライオネルだって本音では俺と離れたくないのだ。
「……やってみる」
思い切って宣言すると、ライオネルはパッと明るい笑顔になった。
「よし!それでこそアベルだ!絶対合格しようぜ!」
「ああ!」
こうして俺の人生は大きく変わった。これまで漠然と「騎士になりたい」と思っていた目標が、具体的な形を持ち始めたのだ。
アルカディア学園を目指す。そしてロゼッタと一緒に三年後の入学式を迎える。
それは簡単な道のりではない。だが諦める理由はどこにもなかった。
◆
朝靄が漂うフィルクス男爵邸の広大な庭園。石造りの東屋で、俺は重い頭を抱えていた。
眼前には山積みの古書と羊皮紙の束。書物から顔を上げると、机の隅に置いてある煤けた銀色のコンパスが目に入った。以前、父が誕生日にくれたものだ。その針はいつも王都のある北を指している。その変わらない方向が、これから俺が進むべき厳しい道のりを静かに示唆しているようだった。
「ロゼッタが聖女になっちゃったんだもんな……」
独り言が朝霧に溶ける。彼女の髪色が変わった日から、全てが変わった。あの輝く銀髪。人々を癒やす奇跡の力。そして……俺に向けてくれたあの笑顔。
思い出すのは二週間前の夕暮れ時。俺とロゼッタは男爵邸近くの林に隠れて会っていた。誰にも知られてはいけない秘密の時間。
両親の事故で一人ぼっちになった彼女を支えるのが俺の役目だと思っていた。
ロゼッタは不安を口にしていた。そして俺だけが頼りだと。あの言葉は今も俺の胸に焼き付いている。
「あなたなら守ってくれるでしょう?私には……あなたしかいないの」
その言葉に促されるように彼女が近づいてきて……。思春期の少年にとって衝撃的な出来事だった。唇に触れた柔らかな感触。甘い匂い。熱を帯びた吐息。それら全てが記憶に鮮明に刻まれている。
(俺だけが頼り……)
あの瞬間の幸福感。しかし今はその言葉が重荷になっている。
「ロゼッタも今頃勉強しているんだろうな」
フィルクス男爵家以外の者には秘密にされているが、今頃は王都で、入学準備としての教養を叩き込まれているはずだ。その責務と期待の重さを想像するだけで胸が痛む。
それでも俺にできることは限られている。まずは自分が精一杯努力すること。それが彼女を支える唯一の道だと信じていた。
この話を読み飛ばしたら遺憾よ