副官との距離
ヴァルト辺境に来てから数日が過ぎた。
私は与えられた帳簿整理を続けていた。
乱雑に書かれた数字を整え、誰が見ても分かるように並べ直す――。
王都で学んだ基礎の延長にすぎない。
けれど、それだけで「助かる」と言ってもらえることが、驚くほど心を温めていた。
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ある日の午後。
背後から低い声が落ちてきた。
「……あなたは」
思わず肩が跳ね、振り返るとロイ様が立っていた。
鋭い瞳が、私の机上をじっと見下ろしている。
「ご令嬢なのに、そんなことまで王都で学んだのですか」
「はい。王都ではいろいろな知識を身につけさせられました……それがせめて、何かのお役に立てればと」
声に自分でも気づくほどの震えが混じった。
しかし彼はすぐに答えず、帳簿に落とした視線をじっと動かさない。
「……なるほど」
それきり短く言い、背を向けかけた。
私は思わず口を開いた。
「あの……至らないところがあれば、遠慮なく仰ってください」
足を止めた彼は、振り返らずに低く告げる。
「……続けてください」
冷たいようで、どこか確かめるような声音。
胸の奥に、言葉にならないざわめきが残った。
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翌日。
再び彼は私のもとを訪れた。
無言で分厚い帳簿を机に置く。
「……これを、見てもらえませんか」
厚みのある帳簿をめくると、兵糧と武具の記録が並んでいた。
だが数字は曖昧で、在庫と合わない。
一目で不備が分かり、私は思わず息をのんだ。
「分かりました。整理すれば、きっと明らかになるはずです」
「頼みます」
私が羽ペンを走らせると、ロイ様はすぐ横に立ったまま静かに見ていた。
余計な言葉はなく、ただ観察するような眼差し。
その存在を意識するたびに、心臓が早鐘を打つ。
沈黙が苦しくなり、勇気を振り絞って口を開いた。
「……あの、私は……これくらいしかできません。
剣も振れませんし、この土地のことも、まだほとんど知らなくて……」
言葉が途切れ、胸が苦しくなる。
そんな私に、低い声が返ってきた。
「あなたにしかできないこともあります」
私は思わず顔を上げた。
「……私にしか?」
「ええ。数字をここまで扱える者は少ない。私は剣を握れても、これを整えるのは不得手です」
彼の声は抑揚を抑えていた。
けれど確かに、私の心には重く響いた。
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作業を終え、整理した表を差し出す。
ロイ様は黙って目を通し、やがて短く頷いた。
「……分かりやすいですね」
「本当ですか?」
「はい。兵もこれなら迷わず動けるでしょう」
淡々とした言葉。
だが、それだけで胸が熱くなる。
「ありがとうございます」
思わず深く頭を下げた。
ロイ様は小さく息を吐き、しばし黙り込んだあとで口を開いた。
「……最初は疑っていました」
「……疑って?」
「この地に送られてきたことも、あなたの働きも……。
だが今は分かります。あなたが打算で動いているわけではないことを」
「…………」
彼の声音はあくまで淡々としていた。
しかし、その言葉は胸の奥深くまで沁み込み、心臓が温かく膨らむようだった。
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その夜。
机の上の蝋燭の炎を見つめながら、私は思った。
(王都では、どれほど努力しても誰も認めてくれなかった。けれど、ここでは……少しずつでも……)
暗闇の中で、心に小さな光が灯るのを確かに感じていた。
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