努力の行方
朝、鳥のさえずりと風の音で目が覚めた。
王都では鐘の音と侍女たちのざわめきで一日が始まったものだ。
けれどここでは、自然の音だけが静かに朝を告げている。
(……そうだ……私は追放されてヴァルト辺境に来たんだ……)
胸の奥に小さな痛みが走る。
けれど同時に、不思議な安らぎもあった。
王都の息苦しい空気は、もうここにはない。
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食堂に入ると、焼きたての黒パンと温かなスープ、そして香ばしく焼かれた川魚が並べられていた。
素朴だが心を満たす食事。
その正面に、いつもの鋭い眼差しをしたロイ様が座っていた。
「お加減はいかがですか、ご令嬢」
低く抑えた声に、背筋が自然と伸びる。
「……はい、大丈夫です」
私の短い返答に、彼は軽く頷いた。
「慣れぬ土地でしょうが、心配は要りません。ダリウス様が認めた方です。……もっとも、我々はまだあなたのことを知りませんが」
探るような声音に、胸がひやりとする。
(……知られていないだけ。けれど、もし知られたら……?)
不安に押し潰されそうになった。
けれど、その一方で思ってしまう。
(せめて……ここで、何か役に立てることを見つけなければ……)
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朝食を終えると、私は思い切ってダリウス様に声をかけた。
広間の卓上に広げられた地図から、彼の灰色の瞳がゆっくりとこちらに向けられる。
「あの……私、何かお手伝いできることはありませんか?」
彼の眉がわずかに動いた。
「手伝い?」
「はい。ここに置いていただくのに、何もせずにいるのは心苦しくて……。王都で学んだことが、少しでもお役に立つのなら」
自分でも驚くほど、声は震えていなかった。
必死さが、そのまま言葉になったのだ。
ダリウス様は腕を組み、じっと私を見つめ、それから低く笑った。
「王都で……か。なるほど、無駄にするには惜しい知識だな」
「……はい」
王都では、努力しても誰も振り向かなかった。
でも、ここなら――。
「ならば、領内の帳簿を見せよう。物資の管理や税の収支をまとめるのはロイが担っているが……一人では手が足りん。お前の知識があれば助かるだろう」
「……はい、ぜひ」
胸の奥に小さな灯がともった。
ここでなら、学んだことを「役立てられる」かもしれない。
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午後。
初めて広げた領地の帳簿は、思わず息を呑むほど乱雑だった。
羊皮紙に走り書きの数字が並ぶが、物資の出入りは曖昧で、収支は追いきれない。
(……これでは正確な収支が分からない。でも……整理すれば)
王妃教育で叩き込まれた記録の仕方を思い出し、私は数字を並べ直し始めた。
慣れない羽ペンで指はすぐに痺れたが、それでも筆を止めなかった。
「……こうして数字を並べるだけで、こんなに見やすくなるものなのですね」
作業を覗き込んだ侍女が目を丸くして言った。
「王都ではこのやり方が主流でした。けれど、ここのやり方とは違うので……これでも大丈夫ですか?」
思わず問い返すと、侍女は笑みを浮かべてうなずく。
「もちろんです。私たちは数字に弱くて……助かります」
「いつもロイ様に負担をかけてしまっていて……」
彼女の笑顔に、胸の奥がじんと熱くなる。
王都では努力しても「当然」としか言われなかった。
ここではただ「助かる」と言ってもらえた。
(……本当に、役に立てているの?)
疑いと喜びが入り混じり、胸が震えた。
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夕暮れ。
空が赤く染まる頃、広間に入ってきたダリウス様の視線が机の上に止まった。
整然と並べられた数字の列を見て、彼の目がわずかに細められる。
「……ずいぶん見やすくなったな」
「はい。形式を揃えて記録すれば、誰が見てもすぐ分かるようになります」
「ふむ。さすがだな。……やはり、連れてきて正解だった」
淡々とした声。
けれど、その一言に胸が大きく跳ねた。
(……正解……。私がここにいて、正解……?)
誰からも否定され続けた私にとって、それは初めての「救い」だった。
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こうして私は、辺境での新しい役割を見つけ始めた。
王妃になるために積み上げた日々は、無駄ではなかった。
その事実に気づいたとき、胸の奥に小さな光が生まれたのを――私は確かに感じた。
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