辺境
長い旅路の果てに、私たちはついに辿り着いた。
黒々とした山脈が地平に連なり、森が鬱蒼と影を落とす。
乾いた風が頬を打ち、草木と土の匂いが混じり合って鼻を刺した。
王都の庭園に漂う甘やかな香りとはまるで違う、荒々しい匂い。
ここが――噂に聞いた「過酷な地」。
だが、不思議と胸は軽かった。
誰も私を噂しない。妹と比べて笑う声もない。
ただ、風と大地と、遠い山並みだけが広がっている。
(……息が……少し楽だ)
思わず深呼吸をすると、胸の奥に張り付いていた氷が少しだけ溶けるような気がした。
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やがて視界に、灰色の石で築かれた城砦が現れた。
金の装飾も、華やかな塔もない。
けれど堅牢で揺るぎなく、まるで大地そのものが姿を変えたように力強かった。
厚い門をくぐると、兵士や農夫、子供たちまでが次々と集まってきた。
そして驚いたことに――誰一人として訝しむ様子を見せなかった。
「お帰りなさいませ、ダリウス様」
「遠出でしたな。お疲れでしょう」
領主の帰還を労う声が自然に飛び交い、その中で、ちらりと私にも視線が向く。
「今度は娘御ですか」
「また新しい客人だな」
ただ、それだけ。
好奇の囁きも、侮蔑の影も、噂好きな囁き声もない。
あまりにあっさりと受け入れられて、私は立ち尽くした。
(……え? これで終わり? 誰も、私を責めないの? 知らないから? それとも、本当に気にしていない……?)
あまりに自然すぎて、逆に胸が苦しくなった。
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「客人を頼む」
ダリウス様の短い指示に、侍女たちはすぐ動いた。
湯を用意し、食事を整え、私を導いてくれる。
広間は王都の宮殿に比べれば質素だ。
だが暖炉には火が燃え、木の梁には陽の光が差し込み、清潔で温かい空気が満ちていた。
やがて運ばれてきたのは、野菜がごろりと入った湯気立つスープと、黒々と焼かれたパン。
匙を口に運ぶと、素朴な味わいが胸の奥まで沁み渡った。
「……美味しい……」
思わず漏れた言葉に、傍らの侍女が穏やかに微笑む。
「ええ。辺境の野菜は逞しく育ちますから」
当たり前のように返されるその言葉。
(……当たり前のように受け入れられている……。でも……彼らは、私がどんな人間か知らないだけ?)
不安と安堵が絡み合い、胸の奥で渦を巻いた。
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そのとき、重い足音が響いた。
背の高い男が広間へと現れる。短く刈った黒髪、鋭い眼差し。
武骨な雰囲気を纏い、彼はダリウス様に深く一礼した。
「ダリウス様、お戻りに」
「ああ、今戻った。ロイ」
「――その女性は?」
「少し事情があってな」
副官――ロイと呼ばれた男は、私を一瞥する。
その視線には好奇も侮蔑もない。ただ観察するように冷静だった。
「客人……ですか」
「ああ」
「……承知しました。ただ――」
「ロイ」
ダリウス様の声が低く鋭く割った。
「詮索するな」
その一言で、ロイは恭しく頭を垂れる。
「無礼をお許しください。私の務めは主をお守りすること。ですが、ご命令とあらば」
敵意ではなく、ただ主を思うがゆえの言葉。
それと分かっていても、胸の奥に冷たいものが走った。
(……もし知られてしまったら……ここでも、私は拒まれるのだろうか)
しかし、ダリウス様は迷わず言った。
「大丈夫だ。この者は俺が連れてきた。俺の責任においてな」
その横顔は揺るぎなく、強い光を帯びていた。
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夕暮れ。
窓の外に広がる荒野は、真紅の夕焼けに染まっていた。
王都では決して見られない、荒々しくも壮麗な光景。
「……どうだ、この地は」
背後から聞こえたダリウス様の声に、私は視線を外へと留めたまま答える。
「厳しい場所に見えます。けれど……人々は皆、落ち着いていて」
「困っている者を連れてくるのは、俺の昔からの癖だ。領民も慣れている」
彼は軽く肩をすくめる。
「この地では互いに支え合わねば生きられん。だから、余所者を拒む理由がない」
(……拒む理由がない……それだけで人を受け入れるの……? じゃあ私の罪は……)
王都で浴びた冷たい視線が蘇る。
妹の嘲笑。殿下の冷酷な声。家族の無関心。
受け入れられるどころか、拒絶しか与えられなかった。
けれど、この地では――。
「……ここなら……わたしは…」
「ん?」
「……生きていけるかもしれません」
掠れる声で告げると、ダリウス様の瞳がわずかに柔らかく細められた。
否定の言葉は、ひとつもなかった。
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