旅路
夜明け前の街は、薄い霧に包まれていた。
王都の石畳も、城の尖塔も、かつての私にとっては輝かしい夢の象徴だった。
だが今、その景色は胸を切り裂く棘にしか見えない。
ダリウス様に連れられ、私は王都を後にした。
馬車の軋む音が響き、ひたすらに遠ざかっていく。
振り返れば、薄明の空に黒く突き立つ城の尖塔が見える。
あの城で、私は何度笑われ、何度涙を堪えてきたのだろう。
王妃教育の講義。舞踏会の稽古。
すべては「王子の婚約者」という立場のために耐え抜いた日々。
けれど――最後にその座は妹の手に渡った。
努力は踏みにじられ、居場所は奪われた。
「無駄だった」と思い込もうとするほど、胸の奥がきりきりと痛み、呼吸すら苦しくなる。
私は窓に額を寄せ、城が見えなくなるまで見つめていた。
---
馬車の中は沈黙に支配されていた。
窓から射し込む朝の光が、埃を照らして舞わせている。
向かいに座るダリウス様は、フードを深くかぶり、腕を組んで目を閉じていた。
寡黙なその姿は、私にとって安心と同時に不安でもあった。
(……こんな私に、なぜ彼は時間を割いているのだろう。迷惑ではないのだろうか……)
不安が募り、胸が押し潰されそうになる。
やがて、私は思い切って声を出した。
「あの……」
灰色の瞼が静かに持ち上がり、深い瞳が私を射抜く。
その視線に胸が跳ね、言葉を失いそうになる。
けれど、勇気を振り絞って続けた。
「……本当にどうして、私を……助けてくださったのですか」
短い沈黙の後、彼は淡々と答える。
「理由が要るのか」
「……え?」
「困っている者を見て手を差し伸べるのに、理由など」
その答えは簡潔で、あまりにも自然だった。
だが、私にとってそれは信じがたい言葉。
(……そんなこと、今まで誰もしてくれなかった……)
婚約者は妹を選び、家族は私を切り捨てた。
誰一人、私を「守る」ために動いてくれなかった。
そのことを思い出すと、視界が滲み、慌てて俯いた。
---
昼過ぎ、馬車は街道沿いの宿場町に着いた。
王都の華やかな建物に比べれば質素だが、人々は活気に満ちている。
逞しいその表情が、私にはまぶしく映った。
食堂で出されたのは王都に比べれば粗末なスープと黒パン。
最初は躊躇したが、ひと口すすると空腹に染み渡り、身体の芯が温まる。
――気づけば涙が込み上げていた。
「……美味しい」
小さく零した呟きに、向かいのダリウス様がわずかに口角を上げた。
その笑みは一瞬で消えたが、確かに私の胸に焼きついた。
(……この人は、恐ろしいだけじゃない……)
---
再び馬車に揺られる。
窓の外には広大な草原が広がり、地平線が霞んで見える。
王都の華美さとは異なる、荒々しくも雄大な世界。
「ヴァルト辺境は……この先に?」
「そうだ。数日で着く」
低く落ち着いた声が響く。
「……恐ろしい場所、と聞いています。魔物が跋扈し、人の住める地ではないと……」
「恐ろしいのは、人間も魔物も変わらん」
その言葉に、私は息を呑んだ。
王都で受けた仕打ちが脳裏をよぎる。
妹の嘲笑、殿下の冷酷な言葉。
私にとって恐ろしいのは――見た事のない魔物より、人間なのかもしれない。
---
夜、馬車を停めて野営することになった。
焚き火の炎が揺れ、木々の影を長く伸ばしている。
ダリウス様は無言で薪を組み、火を絶やさぬように世話をしていた。
私はその背を見つめる。
無駄のない動作、迷いのない手つき。
その姿に、初めて小さな安堵が芽生えた。
(……この人の傍なら、眠れるかもしれない)
それはほんのわずかな信頼。
けれど、絶望の闇に沈んでいた私にとっては何よりも大きな光だった。
---
夜空は、星々で埋め尽くされていた。
王都では決して見られない、無数の光の海。
焚き火のそばでまぶたが重くなり、私はうとうとと眠りに落ちた。
最後に見た記憶は――
灰色の瞳が炎に照らされ、静かに私を見守っていた光景だった。
---