★小さな未来
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春の風が、城の中庭をやさしく撫でていた。
冬の名残をわずかに留めた空気の中で、若葉は陽光を弾き、花壇に咲く白い花が静かに揺れている。
城下からは、子どもたちの笑い声がかすかに届いてきた。
激しい鍛錬の掛け声でも、お堅い政務の報告でもない。
ただ、人が生きている営みの音。
そんな穏やかな午後、私は四阿の中で、腕の中の温もりを確かめていた。
すやすやと眠る、小さな命。
規則正しい寝息が、私の胸元に伝わるたび、胸の奥がじんわりと満たされていく。
「……本当に、小さいな」
隣でそう呟いた声は、かつて幾多の戦場で号令を飛ばしてきた人のものとは思えないほど、慎重で、静かだった。
ダリウス様――私の夫となった彼が、少し距離を取ったまま赤子を覗き込んでいる。
剣を握る手に迷いはなく、民の前に立てば揺るがぬ威厳を放つ人が、今は指先ひとつ動かすことさえ躊躇っている。
「……壊れてしまいそうだ」
真剣な声だった。
今、彼の指先を、赤子がぎゅっと握っていた。
「俺の指一本分もない力で、こんなにも存在感があるなんて……」
私は思わず、小さく息を漏らして笑った。
「その言い方だと、国よりも重く感じているみたいですね」
「実際、そうかもしれん」
彼は冗談めかさず、真面目な顔で言った。
「国の失敗なら、俺が責任を取ってやり直せる。
だが……この子は違う。
俺の判断一つで、一生を左右してしまいそうでな」
その言葉に、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
――完璧であれ、という意味ではない。
彼はただ、この小さな人生に、同じ痛みを背負わせたくないのだ。
---
それは、出産を間近に控えた夜だった。
執務室の灯りは遅くまで消えず、書類に目を通す彼の背中は、いつも以上に重たく見えた。
私は静かに近づき、机の端に手を置く。
「……ダリウス様」
「どうした、こんな遅くに。…眠れないのか?」
そう言って顔を上げる彼に、私は首を振った。
「いいえ。ただ……名前は、もう決まりましたか?」
その問いに、彼は一瞬、言葉を失ったように瞬きをした。
「……いや。まだだ」
苦笑混じりの声。
「戦の作戦や、国の行く先なら迷わず決められるのに……どうにも、これは難しい」
「ふふ……」
そんな不器用な姿に思わず、微笑みがこぼれる。
「強すぎる名前をつけてしまいそうでな」
彼は視線を落とし、静かに続けた。
「この国を背負わせるような名ではなく……
ただ、一人の人間として生きられる名にしたい」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
「それなら」
私はそっと、彼の手に触れた。
「きっと大丈夫です。
あなたが悩んでいるということ自体が、この子を守ろうとしている証ですから」
しばらく沈黙が流れ、やがて彼は小さく息を吐いた。
「……やはり君には、敵わないな」
その声は、夫としてのものだった。
---
「抱いてみますか?」
私がそう言うと、彼の肩がわずかに強張った。
「……落としたらどうする」
「落としません」
「泣かせたら?」
「それは……仕方ありません」
「……本当に?」
まるで戦前の作戦確認のような真剣さに、私は堪えきれず微笑んだ。
「大丈夫です。この子は……あなたの子ですよ」
その一言が、背中を押したのだと思う。
彼はゆっくりと息を整え、意を決したように腕を差し出した。
私は慎重に、赤子をその腕へと預ける。
「……っ」
息を呑む音が、静かな回廊に落ちる。
彼は一瞬、身動きもせず固まっていた。
「……軽いな」
「でも、確かに生きています」
「ああ…だから重い」
そう答えると、彼はごくゆっくりと腕の位置を調整し、赤子を抱き直す。
まるで、世界で一番壊れやすい宝物を扱うように。
「……温かい」
ぽつりと零れた声は、父としてのものだった。
「この小さな存在が……この国の未来の一部になるのか」
それは、父としての感慨であり、王としての覚悟でもあった。
「重荷にする必要はありません」
私はそっと、彼の袖を掴む。
「この子はただ、私たちの子です。
未来を背負うかどうかは……その時に、この子自身が選べばいい」
彼は少し驚いたように私を見つめ、それから、ゆっくりと笑った。
「……エレナ。君は、やはり強いな」
「いいえ」
私は首を振った。
「強くなれたのは……守るものが、増えたからです」
赤子が、ふにゃりと小さく顔を動かした。
その瞬間、彼の表情が一気に崩れる。
「……っ」
慌てて体を固くする姿は、戦場では決して見られなかったものだ。
「今、動いたな」
「ええ。夢を見ているのかもしれません」
「……可愛いな」
その言葉は、無防備で、素直で――
私は胸の奥が、静かに満たされていくのを感じた。
「エレナ」
「はい」
「ありがとう」
短い言葉。
けれど、そこには、言い尽くせないほどの時間と想いが詰まっていた。
かつて私は、追放された公爵令嬢だった。
居場所を失い、価値を否定され、名すら重荷になった存在。
それでも今、私は――
この人の隣で、この国で、一つの命を抱いている。
「ねえ」
私は声を落とす。
「この子が大きくなったら、どんな世界を見せてあげたいですか?」
彼はしばらく考え、ゆっくりと答えた。
「……争いのない国、と言いたいところだが」
一度言葉を切り、続ける。
「少なくとも、選べる世界だ。剣を取るか、取らないかを」
その答えに、胸が温かくなる。
「それなら……きっと大丈夫です」
「なぜそう言い切れる?」
私は、眠る子どもの頬にそっと指を触れた。
「この国は、誰かの犠牲だけで築かれたものではありません。
あなたと、私と、民と……皆で選び続けてきた結果ですから」
ダリウス様は、何も言わずに頷いた。
夕暮れが近づき、空はゆっくりと茜色に染まっていく。
城下からは、穏やかな生活の音が流れてくる。
ダリウス様は、まだ腕の中の温もりを確かめるように、じっと赤子を見つめていた。
やがて、ほんのわずかに息を整え、私に視線を向ける。
「……そういえば」
「はい?」
「名前のことだが」
その一言に、胸が小さく跳ねた。
あの夜から、私たちは何度も言葉を交わし、悩み、考え続けてきた。
強すぎず、重すぎず。
この国の象徴ではなく、一人の人生として呼べる名。
「決まったのですね?」
そう尋ねると、彼は頷いて、私に小さな紙の切れ端を渡してきた。
「エレナが、最初に呼んであげてくれ」
「え……?」
「母親だからな。最初に呼ぶのは、君がいい」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
ダリウス様に渡された紙を見て、そこに書かれている名前を心に刻む。
口にするのに、何故か勇気が必要で、なんども心の中で繰り返す。
そして、私はそっと、赤子の頬に指を触れた。
小さく、柔らかく、確かにここにある命。
「……ねぇ」
眠ったままのその子に、私は静かに語りかける。
「あなたの名前は――リオ」
口にした瞬間、不思議と胸が落ち着いた。
何度も心の中で呼んできた名が、ようやく形になった気がする。
「リオ」
ダリウス様も、同じ名を繰り返す。
「この国の名でも、英雄の名でもない。
ただ――生きて、笑って、迷っていい名前だ」
「はい」
私は微笑んだ。
「どこへ行っても、誰と出会っても……あなたがあなたでいられるように」
そのとき、赤子が小さく身じろぎをした。
ほんの一瞬、指が動いたように見えた。
「……今、反応したか?」
「ええ。きっと、自分の名前だとわかったのでしょう」
そう言うと、彼は困ったように、けれどとても優しい顔で笑った。
「なら……歓迎しないとな」
ダリウス様は、赤子を胸に抱き寄せ、低く穏やかな声で告げる。
「ようこそ、リオ。
ここが――お前の生きる国だ」
私はその隣に立ち、同じ景色を見つめる。
――長い冬を越えて、芽吹いた未来。
それは、静かで、確かで、何よりも愛おしい。
追放された公爵令嬢だった私と、戦場を生き抜いた彼。
そして、この小さな命。
三人で歩む未来が、今、確かにここにあった。




