過去との決別
王都の大通りは、夏の陽射しに照らされて白く眩しく輝いていた。
石畳は熱を帯び、立ち並ぶ白亜の建物がその光を反射してきらめいている。
しかし、その明るさの中を進む二つの影は、どこか光に溶け込むことなく、まるで暗い靄を背負っているかのように人々の目に映った。
第一王子エドワードと、公爵令嬢セシリア。
二人は王城を追われ、護衛の騎士に伴われて城門から放逐されたのである。
市井の人々は噂を聞きつけて群れ集い、道端から彼らを指さして囁いた。
「本当に追放だって……?」
「殿下が?あのセシリア様まで?」
「辺境を勝手に動かそうとした罰だと……」
ざわめきは波紋のように広がり、冷ややかな視線と好奇の笑みが二人を突き刺す。
つい昨日までは称賛と憧れに満ちていた目が、一夜にして侮蔑と軽蔑へと変わる。
人々の掌返しは容赦なく、二人を「裏切り者」「罪人」として裁いていた。
セシリアは扇で必死に顔を隠しながら歩いた。
心臓は早鐘を打ち、背筋には冷たい汗が伝う。
瞳の奥に涙が滲むが、こぼすことはできない。
(どうして……どうしてこんなことに……!
私はただ、殿下を支えようとしただけなのに……)
エドワードは唇を噛みしめ、拳を強く固めていた。
彼の顔には怒りと屈辱が入り混じり、しかし視線の先はただ遠くの地平――辺境へと向けられていた。
「……辺境へ行く」
低く押し殺した声で呟く。
セシリアは驚いて振り返った。
「辺境に? あの……お姉さまがいる、ヴァルト辺境ですか……?」
「そうだ」
エドワードの声には妙な確信があった。
「王太子である俺を本当に追放などできるものか。父上も国も、いずれ俺を必要とするはずだ。その時に――辺境で力を持っていれば、全てが変わる。エレナが……聖女と呼ばれるようになったあの女が居れば……!」
セシリアの胸に、怒りと嫉妬が黒い炎のように渦巻いた。
(また……またお姉さま……!
困った時に殿下が口にするのは、いつも、いつもあの人ばかり!)
だが彼女は必死に微笑を作り、扇の陰から殿下を見上げた。
「ええ、殿下。お姉さまを……取り戻しましょう。今度こそ、私たちの未来のために」
二人は護衛を振り払い、馬を駆って辺境ヴァルトを目指した。
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かつてはヴァルト辺境と呼ばれ、王都から見下されていたヴァルト自治領――。
砦の高い石造りの防壁は、幾度もの帝国との戦を耐え抜いた傷跡をその身に刻みながらも、なお屹立していた。
戦の勝利の余韻がまだ領内に漂い、民の顔には安堵と誇りが浮かんでいる。
その中心、ヴァルト城の大広間では、エレナが民の訴えを一つひとつ丁寧に聞き、救援の段取りを指示していた。
その姿は落ち着きと威厳に満ち、かつて王都で影のように扱われていた面影は微塵もなかった。
傍らに立つダリウスは、静かな眼差しで彼女を見守る。
彼の胸には誇りと温かな想いが宿っていた。
(ここまで努力し、領地を守り抜いた……君こそ、まさに聖女だ)
その時、伝令が駆け込んだ。
「ダリウス様! 城門に……王都から追放されたエドワード元殿下と、エヴァンス家の元令嬢が……!」
広間の空気が凍りつく。
人々の顔には驚き、怒り、そして警戒が走った。
エレナは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに表情を引き締める。
ダリウスは短く頷き、低く命じた。
「通せ。だが、警戒を怠るな」
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大広間の扉が重々しく開かれ、二人の姿が現れた。
疲れ果て、やつれた顔をしているはずなのに、エドワード元殿下の歩みには妙な自信が宿っていた。
セシリアは俯きがちに扇を握りしめ、必死に取り繕っている。
ざわめきが広がり、衛兵の手が剣へとかかる。
その中を、殿下は堂々と進み出て、私を見た。
「久しいな、エレナ」
かつて耳にしたことのない、穏やかな声音。
けれどその響きは、私の胸をざわめかせ、不快な記憶を呼び覚ます。
「いや……今や辺境の聖女と呼んだほうがいいのかな」
わずかに眉が寄る。
彼は私を「聖女」と呼んだが、その口調には敬意よりもどこか嘲るような気配が滲んでいたからだ。
セシリアが一歩進み出て、かすれた声を漏らす。
「辺境の聖女であるお姉さま……どうか、私たちをお救いくださいませ。追放された私たちを、見捨てないで……」
広間の視線が一斉に二人に集まる。
同情の色もあったが、それ以上に憤りと軽蔑が濃い。
その視線が二人を容赦なく追い詰めていくのを、私ははっきりと感じた。
「……救うだと?」
重く響いたダリウス様の声に、殿下の肩が一瞬強張る。
鋭い瞳が二人を射抜いた。
それでも彼は胸を張り、虚勢を張るように声を張り上げた。
「当然だ! 俺は王子だぞ。今は一時の不運に見舞われているだけだ。お前たちが力を貸せば、共に王家に戻る道も開けよう!」
……まだ「王子」であるつもりなのだ。
私の胸に、冷たい諦めと、ほのかな哀しみが広がった。
広間からは嘲笑が漏れる。
「まだ王子のつもりか」
「恥を知らぬのか」
と囁く声が耳に刺さる。
ダリウス様の声がさらに鋭くなった。
「そなたは未だに理解していないのか。
エレナに何をした?ヴァルトに何をもたらした?
民を守るために剣を振るったことが、一度でもあるのか?」
彼の唇が震え、言葉を失う。
けれど、彼はなおも声を荒げた。
「俺は王子だ! この身分こそが力であり、尊き証なのだ!」
私は、その叫びに胸の奥で何かが音を立てて崩れるのを感じた。
「――貴様はもう王子ではない」
ダリウス様の言葉が、広間全体に突き刺さる。
人々の目が一斉に殿下を拒絶する。
「ランカスター王国はすでにお前を見限った。
ヴァルトもまた同じだ。貴様のような愚か者を救う義理など、我らにはない」
私は一歩前に出た。
心は冷え切っていたが、同時に震えるほどの決意もあった。
「……今更、私の隣に、あなたたちの居場所はありません」
その瞬間、彼の顔から血の気が引き、セシリアは小さな悲鳴を上げて崩れ落ちた。
――二人に残されたのは、ただ追放という現実と、冷酷な拒絶だけ。
衛兵に連れられて退場していく二人。
その背に、私はほんの一瞬、かつての記憶を重ねそうになったが、すぐにかき消した。
あれはもう過去だ。私の歩む道には必要のないものだ。
去り際にセシリアが振り返り、震える声で呟いた。
「哀れな妹を助けようともしないお姉さまが……聖女だなんて……」
その言葉は私を刺すのではなく、彼女自身を蝕む呪いのように響いた。
扉が閉じられると、広間は静寂を取り戻す。
だが次の瞬間、民衆の中から拍手が湧き起こった。
それは断罪と同時に、私とダリウス様への喝采だった。
ダリウス様が人々を見回し、やがて私へと視線を向ける。
その眼差しに、私は少し戸惑いながらも、差し伸べられた手を受け取った。
――その瞬間、ヴァルト自治領は過去の影を振り払い、真の未来へと歩みを始めたのだと、私は実感した。
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