絶望の果て
翌日。
砦に届いた報せは、すべてを打ち砕いた。
「敵の増援だ! 森の奥から、新たな群れが押し寄せている! 数は――おそらく千を超えます!」
報告の声が広間を凍りつかせた。
兵たちの顔が青ざめ、ざわめきが広がる。
「まさか……あれだけ倒したのに」
「まだ……こんなにも……」
昨日迎え撃った群れもかなりの規模だったはずだ。
死力を尽くしてようやく撃退したというのに、さらに同等かそれ以上の魔物が迫っている。
その現実は、絶望以外の何物でもなかった。
思わず私は口元を押さえる。
疲弊しきった兵士たちの肩が小刻みに震え、恐怖が砦を支配しかけた、その時。
「聞け!!」
ダリウス様の声が広間を震わせた。
「奴らは数で我らを圧そうとしている。だが、この地は我らの背を預ける故郷だ! 我らが逃げれば、この土地も人々も喰い尽くされる! ゆえに――守り切るのみだ!」
鋭い声が、場の空気を切り裂いた。
兵たちは息を呑み、やがてひとり、またひとりと背筋を伸ばす。
その強い瞳に引き込まれるように、私の胸の奥にも熱が灯った。
(……この人の隣で、私も立ち続けたい)
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戦いの準備は、昼夜を問わず大急ぎで進められた。
私はロイ様と共に、物資の再確認、傷病者の移送、村々への避難指示に奔走する。
兵士の叫び、鍛冶場の槌音、家畜を誘導する声が砦を満たし、誰もが休むことを許されない空気に包まれていた。
その合間、ダリウス様が私を呼び止める。
「エレナ」
振り返ると、彼の瞳が真っ直ぐに私を見ていた。
「兵士ではない君は、本来なら前線にいる必要はない。――だが、君の働きが皆の命を繋いでいる」
不意に投げかけられた言葉に、胸が熱くなる。
彼の声には、ただの感謝や労いを超えたものがあった。
「わ、私にできることを……精一杯します」
震えながらも、まっすぐに答える。
「気負わくていい。すでに十分な働きをしている」
その一言が、戦場に赴く覚悟を私に与えてくれた。
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やがて――辺境を覆う黒い波が姿を現した。
砦の高台から見下ろしたその光景に、誰もが言葉を失う。
森を割って現れたのは、牙をむき、唸り声を上げる獣たち。
二足で歩く異形の影、甲殻に覆われた巨体、闇のような羽を広げる魔鳥。
それらが無数に押し寄せ、地平線を覆い尽くしていた。
「……まだあれほどの数が」
兵士の誰かが呻いた瞬間、ダリウス様が剣を掲げる。
「恐れるな!俺がいる限りこの砦は落ちぬ!怯むな!!」
その声は、絶望の淵に立たされた兵たちの心を奮い立たせた。
辺境の兵も民も、恐怖を振り払い、雄叫びを上げる。
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戦いは地獄そのものだった。
魔物の咆哮が空を裂き、矢が空を覆う。
炎を吐く魔獣が柵を焼き、砦の石壁を揺るがす衝撃音が夜空まで響き渡る。
私は最前線には立てない。
だが砦の後方で、傷ついた兵の手を取り、食糧を運び、水を渡した。
「君がいてくれるから踏ん張れる」
誰かにそう言われた時、初めてこの場に自分の居場所を感じた。
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砦の前方で、ダリウス様が群れを切り裂いていく。
大剣を振るうたび、魔物の群れが崩れ、兵たちの士気が再び燃え上がる。
その姿は、絶望を打ち破る希望の灯火そのものだった。
日が沈み、夜が明ける。
戦いは一日で終わらなかった。
砦は幾度も崩れかけながら、辺境の総力を挙げて持ちこたえた。
血と汗と涙の渦の中で、それでも人々は諦めなかった。
互いに手を取り合い、立ち上がり続けた。
そして――ついに待ち望んだ瞬間がきた。
魔物の群れが退いていったのだ。
砦の外には無数の魔物の亡骸が横たわり、勝利の代償がいかに大きいかを物語っていた。
—
私は血と泥にまみれた衣を抱え、ただ空を仰いだ。
息をするのもやっとの中、隣に影が立つ。
「皆が生き残れたのは君のお陰だ……エレナ」
戦場で初めて向けられた、静かな労いの声。
その響きに耐え切れず、堪えていた涙が熱く頬を伝い、零れ落ちた。
私は知ってしまった。
魔物という絶望の闇に抗う中で、確かな自分の居場所を見つけたことを。
そして――この地に共に立つ決意を、もう誰にも揺るがせはしないことを。
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翌日。
砦には、不気味なほどの静けさが広がっていた。
昨日まで天地を揺るがす咆哮と剣戟が鳴り響いていた場所とは思えない。
今はただ、重く淀んだ血の匂いと、焦げた木の残骸が漂い、呻き声を堪える兵士たちの息づかいだけが夜気に混じっていた。
砦の外には、倒れ伏した魔物の死骸が幾重にも積み重なり、腐敗の気配が漂い始めている。
柵は焼け落ち、城壁には深い亀裂が走り、地面は血と灰で黒く塗り潰されていた。
それでも――砦に立つ人々の瞳には、昨日までにはなかった強い光が宿っていた。
疲労に覆われながらも、確かに彼らは勝ち抜いたのだ。
「……千を超える魔物を退けた。信じられぬ……」
ロイ様が、肩を押さえながら低く呟く。
血で汚れた鎧をまとったその姿は痛々しかったが、口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。
「まるで……夢を見ているようです。あれほどの大群が迫ったのに、今こうして生きているなんて」
隣にいた若い兵が震える声で言った。
彼の頬は涙と血に汚れていたが、その瞳には確かな誇りがあった。
私は彼らの言葉を聞きながら、胸の奥で同じ思いを抱いていた。
確かに私は見た――血と火の中で必死に剣を振るう人々を、互いに背を預けながらも決して諦めなかった姿を。
そして、私は知った。
自分はもうただの追放された令嬢ではなく、この地で戦い抜いた一人なのだと。
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夜。
砦の広場には篝火が焚かれ、その光が戦場の残滓を照らしていた。
赤い炎が瓦礫や血を照らし、長い影を石畳に落としていた。
「……エレナ」
背後から名を呼ぶ声に振り向いた。
そこに立つのは、鎧を脱ぎ、肩に外套を羽織ったダリウス様。
篝火に照らされた横顔は、戦場で見せていた冷徹な将の顔ではなく、一人の人間の温かみを湛えていた。
「よく……支えてくれたな」
その言葉に胸が熱くなり、思わず視線を落とす。
「わ、私は……皆がいたから。私一人では……」
しどろもどろに答える。
けれど、彼はその言葉を遮った。
「違う。皆を動かしたのは、君だ。君がいたから、砦は持ちこたえられた」
篝火の揺らめきの中で、彼の眼差しは真っ直ぐだった。
その真剣な視線に、胸の奥から何かがこみ上げ、声が詰まった。
「……そんな、私なんて……」
「君は自分を卑下しすぎる。エレナ、君がいたから人々は混乱せず、物資も持ちこたえた。あの避難を率いたのは、他の誰でもない君だ」
優しい声に、涙がこぼれそうになった。
私は深く頭を垂れ、震える声で呟く。
「ありがとうございます……。私……この地で役に立てているでしょうか」
「役に立っている、だと? いや――」
ダリウス様はふと微笑み、炎に照らされた瞳で私を見つめる。
「君はもう、この地に欠かせない存在だ」
その一言は、私にとって何よりも温かい贈り物だった。
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