魔物襲来
夜明けとともに、戦いは始まった。
空は曇り、重く垂れこめた黒雲の隙間からわずかな光が差す。
その淡い光の下、砦の外には唸り声が木霊していた。
森の奥から這い出る影――数百の魔物たち。
獣のように四足で地を駆けるもの、巨大な翼で空を裂くもの、鱗と角に覆われた怪物たち。
その群れは止まることなく押し寄せ、地面を震わせていた。
「全員、持ち場につけ!」
ダリウス様の低く響く声が砦を貫く。
その号令に応じ、兵士たちは一斉に武器を構えた。
槍兵は盾を組み合わせ、弓兵は矢を番えて弦を張り詰める。
鍛冶場からは最後の火花が飛び、馬小屋では馬が怯え嘶いた。
私は避難小屋の前に立ち、震える人々を誘導していた。
女性や子どもを列に並ばせ、荷車の物資を運ばせる。
声を張り上げなければ、すぐにでも混乱が広がってしまう。
「慌てないで! 順番どおりに、列を乱さず!」
喉が焼けるほど叫び続ける。
内心では膝が笑い、心臓が壊れそうに打ち続けている。
それでも人々の視線が私に集まるのを感じたとき、恐怖よりも先に「やらなければ」という思いが胸を支配していた。
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最初の衝撃は、火矢が放たれた瞬間だった。
燃える矢が森に吸い込まれ、魔物の皮膚に突き刺さる。
咆哮。
それは耳を裂き、地を揺るがすほどの恐怖の音だった。
直後、砦の壁に体当たりする巨獣。
木の板が軋み、土台が震える。
避難列から悲鳴が上がり、人々は崩れ落ちそうになる。
「ひいっ……!」
「もうだめだ!」
声が乱れ、列が乱れる。
私は必死に叫んだ。
「止まって! 列を崩さないで! 小さい子を前に!」
胸を張り裂かれるような恐怖を押し込み、人々を支える。
だが、その瞬間――外壁をよじ登った数体の魔物が砦の内側へと雪崩れ込んできた。
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「下がれぇぇっ!」
兵士たちが駆け寄る。
だが一体が、真っ直ぐ私の方へと迫ってきた。
血走った眼。
牙を剥き、鋭い爪が振り下ろされる。
(――逃げられないっ)
頭が真っ白になった。
背後の子どもを庇い、足が動かない。
ただ震える手で胸を覆うことしかできなかった。
「エレナッ!」
鋭い声が耳を打った。
振り返るよりも早く、巨大な影が視界を覆う。
火花が散り、金属音が轟く。
ダリウス様が剣で魔物の爪を弾き、その巨体を蹴り飛ばした。
魔物は呻き声を上げ、土煙を上げて地に転がる。
「下がれ!」
短くも鋭い怒声。
恐怖で固まっていた私の心に、その声が深く突き刺さる。
だが胸の奥には、別の響きも残った。
(今……名前で……)
彼は私を「君」ではなく、確かに「エレナ」と呼んだ。
それが、死の影に覆われた一瞬の中で、光のように心を震わせた。
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戦は続いた。
矢が飛び交い、炎が魔物の背を焼く。
外壁に群がる影を兵士が押し返し、槍で突き落とす。
だが次々と現れる群れに、砦全体が軋み悲鳴を上げていた。
私は避難民を誘導し続けた。
叫び声、泣き声、崩れ落ちる者を抱き起こしながら、必死に声を張った。
恐怖で今にも崩れそうになるたび――心に甦るのは、彼の声だった。
――「エレナ」。
名を呼ばれた、その響き。
それは剣にも盾にも勝る温もり。
私はその声を思い出しながら、立ち続けた。
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やがて日が沈むころ、砦は血と汗にまみれながらも持ちこたえた。
魔物の群れは森の奥へと退き、呻き声を残して去っていく。
兵士たちは歓声を上げ、互いに肩を叩き合い、疲労と安堵にその場へ座り込む。
私は壁に寄りかかり、膝から力が抜けて息を吐いた。
頭の中はまだ咆哮の余韻で震えていた。
「無事か」
影が覆い、顔を上げればダリウス様が立っていた。
血に濡れた剣を手にし、鋭い瞳で私を見据えている。
その眼差しには戦場の冷酷さが宿っているのに、不思議と私だけを気遣う光が混じっていた。
「……はい」
声は震えた。
けれど、それでも私は目を逸らさずに答えた。
「よく耐えた。……エレナ」
再び、名前を。
その一言が胸を貫き、涙がこぼれそうになった。
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その後、報告がもたらされた。
斥候の言葉によれば、群れはまだ森の奥に潜んでいる。
しかも、その数は日に日に増えているという。
「自然に発生したにしては……異常です」
兵士の声は低く震えていた。
私はその場に釘付けになった。
(なぜ……こんなにも……?)
答えはまだ分からない。
ただ、不穏な影がさらに濃く広がっていることだけは、誰の目にも明らかだった。
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この荒れ地で、私は初めて「名を呼ばれる」喜びを知った。
その喜びが、迫り来る恐怖をも押し返す力になるのだと――この日、心に刻んだ。
魔物との戦いの翌日、砦には重苦しい静けさが漂っていた。
地面にはまだ乾ききらない血の跡が黒く染みつき、折れた槍や盾が散乱し、焼け焦げた木の匂いが鼻を突く。
医務所代わりに使われた広間からは呻き声や薬草の匂いが流れ出し、負傷者の苦しみを伝えていた。
けれど、人々の瞳は昨日までと違っていた。
恐怖に支配されていた表情の中に、かすかな強さが宿っている。
「生き延びた」という実感が、ほんのわずかながら胸を支えていた。
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「よく……持ちこたえましたね」
ロイ様が低くつぶやき、包帯を巻かれる兵士たちを見回す。
彼の目の下には濃い隈が刻まれていたが、その声音はまだ力を失ってはいなかった。
私もまた、疲労で膝が震えていた。
腕は痺れ、声は掠れていても、休むことなどできない。
物資の分配や子どもたちの世話、負傷者の手伝い――それらは戦いの後も続いていた。
そんな私の背に、影が差す。
振り返った瞬間、灰色の瞳と視線が交わった。
ダリウス様が立っていた。
「――エレナ。昨日は、よくやってくれた」
低く、しかし確かに響く声。
それは「役割」としての評価ではなく、私という存在そのものに向けられた言葉だった。
「い、いえ……私は、ただ必死で……」
「いや。君がいなければ犠牲者が増えていた」
鋭い瞳がまっすぐに私を射抜く。
その言葉の重みは、心の奥深くにまで沁み込んでいく。
今まで誰からも与えられなかった承認。
涙が込み上げ、慌てて空を見上げて堪えた。
しかし、勝利の余韻は長く続かなかった。
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