迫る群れ
秋の風が砦の外を吹き抜ける頃、城砦の空気は目に見えて張り詰めていた。
物資を運ぶ兵士の数が増え、訓練場では剣戟の音が一日中絶えない。
廊下を歩くだけで、鎧のぶつかり合う音や掛け声がどこからともなく響いてくる。
「……最近、慌ただしいですね」
私は両腕に抱えた帳簿の束を抱き直しながら、隣を歩くロイ様に思い切って声をかけた。
彼は足を止めず、淡々と答える。
「異形の動物を見た、という報告がありました。備えを怠るわけにはいきません」
低い声音。
それ以上は語らなかったが、彼の硬い横顔を見た瞬間、胸の奥がざわついた。
(……“異形”……魔物が……近づいている?)
王都にいた頃は、そんな危機感を肌で感じたことはなかった。
けれどここでは、空気そのものが変わっていく。
冷たい風に混じって、見えない影が押し寄せてくるようだった。
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その夜。
広間では兵士たちが集まり、大きな地図を広げていた。
松明と焚き火の光に照らされた紙の上には、赤い印がいくつも刻まれている。
「北の山越えで魔物の群れを目撃した」
「東の村では、家畜が食い荒らされている」
低く、重い声で次々と報告が告げられる。
私は隅に控えながら、思わず耳を澄ませた。
(魔物が……ここに向かっているの……?)
足元から冷えが這い上がり、手にしていた羽ペンを落としそうになる。
けれど、目は自然とダリウス様に向いていた。
彼は地図をじっと見つめ、やがて短く鋭い声で命じる。
「警戒を強めろ。巡回を倍に増やせ。……君は、ここで報告をまとめてくれ」
「わ、私が……ですか?」
思わず声が裏返る。
彼の視線が鋭く私を射抜いた。
「王都で色々習ったのだろう。あてにしている」
その目は厳しかった。
けれど、どこかに確かな信頼の色が含まれているように思えた。
(私を……信じてくれてる……?)
胸が熱くなり、震える指で必死に記録を書き留め始めた。
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それからの日々、私は兵の報告を記録し、物資の動きを整理する役を担うことになった。
斥候が戻れば私は報告を受け、数や位置を表にまとめる。
兵士が武具を整えに行けば、その消耗を数字に起こす。
最初は戸惑いの視線を向けられた。
「令嬢にこんな仕事ができるのか」という不安が兵士たちの表情に透けていた。
けれど次第に、彼らは私の書いた表を頼りに動くようになっていった。
「お嬢さん、貴女が書いた一覧、分かりやすかったよ。巡回の順番がすぐ分かる」
「装備の補充も、これで見落としがなくなった。助かる」
屈強な兵士たちが笑顔を向けるたびに、胸が熱くなった。
(……私の知識が、役に立っている……)
王都では無視され続けた努力が、ここでは人の助けになる。
その実感が、何よりも嬉しかった。
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だが――。
その晩、静まり返った廊下で、私は偶然立ち止まってしまった。
ロイ様と兵士の低い会話が、角を曲がった先から聞こえてきたのだ。
「……斥候が戻りました。やはり、北の群れはただの獣ではありません」
「数は?」
「百を超える魔物が一度に集まっていると」
瞬間、血の気が引いた。
(魔物が……群れを成して……百……?)
頭の中に、牙と爪を持つ異形の姿がよぎる。
炎に包まれる村や、逃げ惑う人々の影が瞼に焼き付く。
指先が冷え、震えが止まらない。
けれど、不思議と「逃げたい」とは思わなかった。
胸の奥に灯った火が、かすかにでも揺るがなかったから。
(私も……役に立ちたい。ここで生きると決めたのだから)
震える手をぎゅっと握りしめ、深く息を吐いた。
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翌朝。
私は意を決して、ダリウス様のもとへ歩み出た。
広間の長卓に地図を広げる彼に、声を震わせながら言葉を投げる。
「もし……もしも私にできることがあれば、どうか……」
視線は自然と落ちた。
足が震えそうで、けれど引くことはしたくなかった。
沈黙が落ちる。
やがて、低く重い声が返ってきた。
「……君の覚悟は、分かった」
一瞬、息が止まった。
承諾なのか、それとも試されているのか。
答えは分からない。
それでも――その言葉は確かに胸に刻まれた。
熱い火が心の奥に燃え上がり、消えることなく脈打ち続けていた。
(私は逃げない。ここで……みんなと共に立つ)
外の空は曇り、秋の風が砦を冷たく撫でていた。
けれど、私の胸の中には確かな炎が息づいていた。
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