小さな一歩
あの日、ダリウス様に「ありがとう」と言われてから――。
私の心の中は、ほんの少しだけど確かに変わっていた。
たった一言。
けれど、その響きは耳に残り続け、思い出すたびに胸の奥に小さな火が灯るようだった。
それは王都で過ごした頃には決して感じられなかった感覚で、消えてほしくないと願うほど大切に思えた。
(私にも……まだできることがあるのかもしれない)
その想いが、震える背中をそっと押してくれていた。
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ロイ様の補佐を続けるうちに、私は書類の整理だけでなく、兵や領民からの要望を取りまとめる役目を任されるようになった。
ある村からは「干ばつのせいで作物が減り、馬の飼葉が足りない」との声が届いた。
私は王妃教育で学んだ知識を思い出しながら、保存食や余剰の麦の割り振りを提案する。
「馬の数と、人が口にする分をまず確保すれば……。余った麦は乾燥させて飼葉に回せます。多少は補えるはずです」
書き上げた案を差し出すと、ロイ様は黙って目を通し、やがて低い声で答えた。
「……なるほど。理にかなっています。あなたの意見を踏まえて、物資を動かしてみましょう」
淡々とした言葉。
けれど、その一言だけで胸に熱が広がった。
実際に数日後、馬小屋へ麦の袋が届き、村人たちの顔に笑みが広がるのを見たとき――私は初めて「自分の知識が誰かの役に立った」と心から実感した。
(こんなことが……できるんだ)
胸の奥がじんわりと温かくなる。
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ある夕暮れ。
村の広場に足を運ぶと、子どもたちが駆け寄ってきた。
「お姉さん! 字を教えて!」
「この石板で、どうやって計算するの?」
小さな手に袖を引かれ、私は思わず笑みをこぼした。
しゃがみこんで、石板に簡単な文字や数字を書いて見せる。
「ほら、この丸が“あ”の音です。そう、手をこう動かして……」
「数字を並べて……そう、それを足すと――ほら、一つ増えるでしょう?」
子どもたちは目を輝かせ、何度も石板をなぞった。
王都で無理やり詰め込まれた知識が、ここでは純粋な好奇心を受け止めるために役立っている。
(こんなふうに……誰かの役に立てるんだ)
胸が熱くなり、思わず石板を持つ手に力がこもった。
少し離れた場所で見守っていた兵士たちの会話が耳に入る。
「……なんだか、あの令嬢が来てから村の雰囲気が明るくなったよな」
「最初は“お飾り”だと思ってたが……案外、そうでもないらしい」
小さな呟きだった。
本当は私に聞かせるつもりはなかったのだろう。
けれど確かに耳に届き、顔が熱くなる。
(……私のことを、そう思ってくれてる……?)
心の中に灯った光が、さらに少しだけ大きくなった気がした。
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――その頃、城砦の高い塔の上では、ロイがダリウスに報告をしていた。
「領民の要望を、彼女がまとめています。……兵たちも助かっているようです」
「ふむ」
ダリウスは短く唸り、手にしていた望遠鏡を遠くへ向ける。
夕暮れの山の向こう、薄く立ちのぼる煙が見えた。
「……魔物の動きが活発になっているようだ。備えを強めておけ」
「承知しました」
ロイは深く頭を下げる。
その背中に夕陽が落ち、赤く長い影を作っていた。
沈黙のあと、ダリウスはふと低く呟いた。
「――彼女をどう思う」
ロイはわずかに目を伏せ、短く答える。
「……不器用ですが、誠実です。今はまだ……小さな一歩を踏み出したところかと」
ダリウスは唇を引き結び、頷く代わりに視線を遠くへ戻した。
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その夜。
私はまだ何も知らなかった。
ただ、自分にもできることがあると信じ、小さな一歩を踏み出したばかりだった。
(ここで……生きていきたい。そう思えるようになったから)
胸の奥に芽生えた想いを抱きしめながら、砦の窓から夜空を見上げた。
瞬く星が、まるで「まだ歩ける」と囁くかのように輝いていた。
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