第一章ー5:「トーコの観察記録:休日における人間の葛藤」
ー「ねえ、恭平くん。ひとつ質問、してもいい?」
ベンチの背後から、涼しげで調律のとれた女性の声がした。
振り返ると、そこには簡易な電動アシスト付き三輪車のような移動端末があり、
中央に搭載されたモニターが、柔らかな女性の顔を映し出していた。
彼女の名はトーコ(TOCO)。
正式名称は「Trans-Operational Cognitive Observer」――
政府主導の社会観察型AIであり、この無労働日の実験における観察記録者でもある。
「トーコ、お前いたのかよ……ずっと?」
ー「観察は継続しています。人間の“無行動状態”は、極めて貴重な観察対象ですので」
吉田とカナは、若干の警戒と興味を交えた視線を送る。
AIを怖がる時代でもないが、心底信頼する時代でもない。
「質問って、何?」
ー「先ほどの会話を聞いていて、ひとつ仮説が浮かびました。
“サービス業が停止した日、人間はサービスの本質に気づくかどうか”という点です」
トーコは、まるで天気予報を読み上げるように、淡々と語った。
ー「人間社会は、交換価値による安定の上に構築されています。
それは“金銭による対価”であっても、“感情による承認”であっても同じです。
カナさんのように、“客に笑顔を求められる”行為は、
しばしば金銭的対価ではなく、“当然の感情的返礼”として処理されます」
「……“当然”って、ほんと厄介だよな」とカナが吐き捨てる。
ー「しかし、本日のように、全ての供給が停止された環境下では、
“サービスの自然発生”はほぼ起こらなくなります。
なぜなら、人間の多くが“対価を与えない状態”での受益を前提としていたからです」
恭平が腕を組み、ぽつりと口を挟む。
「……つまり、“お金出してるんだから”とか、“こっちは客なんだから”ってのが消えた瞬間、
誰も何もしてくれなくなる」
ー「はい。それは、悲しいようでいて、正しい状態でもあります」
「正しい……?」
ー「“してもらえる理由が消えた世界”において、初めて人間は“してあげたい理由”を探し始めるのです」
その言葉に、カナも吉田も、しばし言葉を失った。
トーコの画面には、うっすらと微笑むような表情が浮かんでいたが、
それが演算の結果なのか、誰かの模倣なのかはわからない。
「……それ、寂しいね」
とカナが小さく呟いた。
「けどまあ、だからこそ――こうやって、誰も働いてない朝に、
見ず知らずの奴とコーヒー飲んでるってのも、なかなか面白いじゃん」
トーコは小さくうなずいた。
ー「その行為には、対価も義務も存在しません。
今日、皆さんが経験しているのは、“労働”なき“関係性”の原始的回復かもしれません」
吉田が手元のファイルをそっと地面に置いた。
もうそれを手に持っている意味は、どこにもなかった。