第一章ー3:「吉田圭吾、カフェの幻を追いかける」
「……あれ、やっぱりカナさんじゃないか」
その声は、突然だった。
恭平がコップを両手で抱えていると、
どこからか視線を感じて、カナが振り向く。
その先には、やたらときっちりしたスラックスに、ネクタイだけを外したシャツ姿の中年男性。
なのに、妙に落ち着きがない。手元には紙ファイルのようなものを抱えている。
柴田カナは、一瞬でその顔を思い出す。
「……吉田さん」
「おぉ!覚えててくれてる? いやぁ、嬉しいなぁ。久しぶりに“お客”の顔で呼ばれたよ」
吉田圭吾はにこにこと笑いながら近づいてきたが、どこか挙動がぎこちない。
その手には、何かしら“仕事っぽい”紙束が挟まれている。だが、今それを使う場所などない。
「いやね、なんとなく駅前に来たら、カナさんがいるような気がしてね。
うん、ほら、あのカフェがなくなって……というか、休業か、今日は。なんだか……不思議でさ」
カナは返す言葉を探していた。
恭平は隣で、静かに様子をうかがっている。
「……お元気そうで、何よりです。今日は、お仕事は」
「ん? あぁ、もちろん今日は働いてないとも。ええ。
そりゃあ、ほら、政府の指示だしね。
『休め』って言われりゃ、休まないと。ね? ね?」
やたらと「ね?」が多い。
笑顔の裏に、焦燥が透けて見える。
カナは、視線を吉田の手元に落とす。
「……そのファイルは?」
「あっ、これは、ただの……いや、ほら、癖みたいなものでさ。
手が寂しいっていうか、落ち着かないというか……」
そこまで言ってから、吉田は笑うのをやめた。
そして、ベンチに腰を下ろし、ふうっと息をついた。
「……なんだろうな。
カフェに行けなくて、仕事もできなくて……
俺、“何者”だったんだろうなって。そんな気がして」
カナは、ゆっくりと紙コップを取り出した。
「じゃあ、今は“コーヒーを待ってる人”ってことでいいですか?」
吉田は、驚いたような顔でカナを見る。
「……淹れてくれるの?」
「いえ、“働いて”ないです。あくまで“趣味”で。ね?」
そこには、ささやかな抵抗と、ささやかな救いがあった。
カナは恭平の空になったコップを引き取り、紙コップを3つ並べる。
保温ボトルの湯が注がれ、湯気がゆらめく。
今日だけは、誰も「客」じゃない。
けれど誰もが、「休むこと」に慣れていない。
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こうして、
柴田カナ、春日恭平、吉田圭吾――
異なる世代の「労働者」が、無職の街角で肩を並べる。
それはまるで、閉店したカフェの亡霊のような昼さがりだった。