第一章ー2:「柴田カナ、誰にもコーヒーを淹れない日」
柴田カナは、午前の街を歩いていた。
どこかへ向かっているわけではない。
ただ、「自分のいる場所」を探していた。
閉店したままのカフェ。
シャッターの貼り紙が、風に揺れている。
【サービス業の皆さま、いつもありがとうございます】
【今日はゆっくり休んでください】
手書きの丸文字。
貼ったのは、あの常連のOLだろうか。
カナはぼんやりと眺めたまま、しばらく動けなかった。
「ねえ、それって――今日以外の感謝は、どこ行ったの?」
呟いた声は誰にも届かない。
貼り紙のインクだけが、日に焼け始めていた。
⸻
駅前のベンチに腰を下ろす。
人の流れはある。だが皆、“行き場がない”ようだった。
カナはポケットから保温ボトルと紙コップを取り出した。
昨夜、無意識に準備していた道具たち。
「誰にもコーヒーを淹れない。今日は」
そう誓ったはずなのに、
なぜか朝になっても、こうして“準備”だけはしている自分がいる。
彼女はふっと笑った。
「働かないって、こんなに難しいんだね」
そのとき、遠くからよれよれと歩いてくる影があった。
⸻
足元がおぼつかない。
寝癖まみれの頭。手ぶら。顔は乾いているのに、額だけ汗ばんでいる。
柴田カナは、即座に理解した。
(ああ――“今日に取り残された人”)
そして、無意識に声をかけていた。
「……あんた、水、探してる?」
声をかけた自分に驚く。
でも、言ってしまった。
少年――春日恭平は、はっと顔を上げる。
「あ、え、いや、あの……ちょっと、というか、めっちゃ喉乾いてて……」
見るからにパニックの途中。
口元も乾いて、額に汗。
どう見ても“今起きました”という風体。
カナは紙コップに注ぎなおし、無言で差し出した。
「ありがとう……マジで助かる……」
受け取った恭平が、がぶがぶと飲む。
飲み終えた瞬間、彼はようやく少し余裕を取り戻し、
カナの顔を見て、少しだけ目を細めた。
「……もしかして、昨日の夜……テレビで映ってた?」
カナは一瞬、目を見開いた。
だがすぐに、ふっと力を抜いて笑う。
「そうね。たぶんあれ、私ね。
店から飛び出した唯一の“労働者”」
「うわ、やっぱり!? すげー、なんか……いや、なんか……カッコよかったっす」
「褒め言葉?それ」
「いや、マジで。なんか、マンガみたいでさ……」
そう言ってから、恭平は少し顔を伏せた。
「……俺、なんか全部遅れてて。家族に置いてかれて、気づいたらひとりで、
で、何していいかわかんなくて……」
カナは、ポケットからもう一つの紙コップを出した。
それを自分用に満たして、ベンチに腰を下ろす。
「だったら、ここにいなよ。少しはマシになるわよ。
今日の街は、優しくないけど――独りにはちょうどいい」
恭平は、少し戸惑ってから、ベンチの隣に座った。
⸻
こうして、サービス業の元店長とニート男子は、
“誰も働かない日”の午前中に、偶然隣り合う。
出会いに意味があるかは、まだわからない。
けれど、最初の一杯の水が、
この物語の最初の火種だった。