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Uターン異世界人、ほんの少しだけ思い出す。

 座舞市の西向き斜面の地形をそのまま残した、谷戸山自然公園。

 三十ヘクタールを超える広さの敷地の中は、木道や、階段、そして手すりなどのほか、バードウォッチングのための設備あり、ちょっとした休憩のための東屋やベンチもあり、もちろん清潔なトイレもあちこちにある。市民が気軽に自然の中で散策を楽しめるための環境が、きっちりと整えられている。

 とはいえ、だ。

 森の中を歩きながら、ふと立ち止まって空を見上げると、自分がまだあちら(・・・)にいるのではないか…… 、と錯覚しそうになる瞬間が、タケルにはたびたび訪れた。それほどに、自然が豊かに溢れているのだ。

 言うまでもなく、あちら(・・・)の森ではどこからどんな危険な生きものが現れるか判らないし、ことによっては道を見失い、森そのものが人間に牙を剥くことだって考えられる。そんな、油断ならない場所であったことを思えば、こちらは孫の手を引いたおばあちゃんが、鳥の囀りを楽しみながらお散歩を出来るぐらいに平和な場所である。

「あ、キンポウゲですね」

 そんな道端、放射状に広げた柄の先に掌状に開いた葉を蓄えた株を見付けて、タケルがしゃがみ込む。

「タケルくんの居たほうでも『キンポウゲ』なの?」

「はい、言葉はこっち(・・・)と同じです。固有名詞もだいたいは」

 キンポウゲは漢字で書けば「金鳳花」である。雅で美しい名前の通り、花は鑑賞の価値があるものだが、

「これはえらいことになるのよねぇ……」

「ですねぇ……」

 野草のプロフェッショナル二人は複雑な表情を浮かべた。キンポウゲは汁が付くと炎症を起こすし、うっかり食べようものなら粘膜がただれて大変なことになる。

 悪いことに、このキンポウゲは食用できる野草であるニリンソウと似たようなところに生え、また同じ「キンポウゲ科」に属するものだから、葉の形も似ている。更に言うなら、「毒」の代表格として知られるトリカブトもキンポウゲの仲間だ。

「そういえば、さっきはカエンタケの注意看板がありましたね」

 カエンタケとは、文字通り真っ赤な炎の形をしたキノコであり、これまた非常に強い毒を持つ。食するなどもってのほか、触れることにさえ危険が伴う。

 自然公園内は多様な植物の楽園となっているが、植物の全てが食せるわけではもちろんなく、毒を持つものも少なからずいる。カエンタケなどは菌類であり、こうした自然公園だけでなく、市街地でも見付かることがある。そのたび、注意喚起がなされる恐怖の対象だ。

「毎年、ノビルとスイセンを間違えて食べちゃう事故が起きているわ。ノビルは人気の野草だけど、観賞用のスイセンが川の土手とかで野生化したのと混同して、帰って食べちゃうのよね」

 採取した植物を食することは、先ほどタケルたちが話した通り本能を刺激されるほどの愉楽が伴うが、必ず専門家の指導を仰ぐべきである。

 それはさておき……。

 タケルはこちら(・・・)の世界にも親しみの湧く植物が多く生息していたことに安堵感めいたものを抱くと同時に、共に木道を歩く女性の振る舞いを、さっきからずっと観察していた。

 それこそ、植物を見るように彼女の顔を見ている。

 いい人だな、ということがだんだんと判ってきた。

 ちょっとばかり偉そうなところはあるけれど、根っこにあるのは優しさである。植物がその目のスクリーンに映し出されるとき、年齢や性別とは裏腹に、やんちゃな男の子みたいな光がちらちらと瞬く。それは魅力的な食用植物の数々と同じぐらい、タケルの興味を惹いた。

 木陰の道はしばらく、なだらかな下り坂が続いた。湿っぽい日陰はシダの仲間の楽園、くるくるとカールした新芽に、ファニーなキュートさを見出すか、それとも鬱々として不気味と思うかは人それぞれだが、二人は言うまでもなく。

「あっ。……ねえタケルくん、これ平気?」

 道端の濡れた落ち葉を割って、ざっと三十はくだらない群生を作ったジュウモンジシダの新芽に顔を寄せていた凛音が、おもむろに手を伸ばし、何かをひょいと掴み上げる。

 彼女の手にあるものを見て、タケルは、

「ピャー!」

 と声を上げて飛び上がった。本当に「ピャー」と言ったのである。

「な、な、な、何するんですかびっくりした何考えてんだこの人!」

 タケルの激しいリアクションを見て、凛音はケラケラ笑う。彼女は手に、眠たげな目のカナヘビを乗せていた。

 タケルはトカゲの類が大の苦手であった。

 あちら(・・・)でも、巨大化したトカゲと対峙することが何度もあって、そういうときには正直、生きた心地がしなかった。虫は平気、蜘蛛も蝙蝠も平気だが、どうにも、爬虫類のヌメっとした質感、鱗の織り成す模様などが、生理的に受け付けないのである。

「はー、そっかぁ、あはは、ダメなんだねぇ、トカゲ」

 カナヘビを草むらに逃してやってもまだ、凛音はヒクヒクっと笑いを抑えるのに苦労している。

「手ぇ洗ったほうがいいですよ、そんな汚いもん触って」

「はいはい。私はトカゲ、可愛いと思うんだけどなぁ」

「可愛くないですよあんなもん。蜘蛛みたいに知的じゃないし」

「蜘蛛のどこが知的なんだか」

「知的ですよ。タランチュラとか、心が通うと手のひらの上でダンスをして見せてくれるんです」

「トカゲだって愛情込めて育てたらちゃんと懐くし、蜘蛛よりずっと情緒的だよ」

 若者と言っていい二人が、トカゲとか蜘蛛とか、要は「ゲテモノ」の話をして歩いているので、すれ違うおばさんのグループが「なんなのかしら」「やあねぇ」みたいな視線を向けてくる。

 けれども、タケルはこんな会話を楽しんでいるのだった。こんなに気持ちが浮き立つのはいつ以来か、……ひょっとしたら、あちら(・・・)にいるころには一度だってなかったかもしれない。

 言うまでもないことだが、Uターン異世界人であるタケルは、本当ならもっと焦りや不安に駆られていてもおかしくはないのである。金もなければ働くあてもない、住むところだって決まっていない。

 そんな身で、生物教師と一緒に公園散策、野草観察……。

 呑気にもほどがあると言われても仕方がない。

 しかし、タケルは、凛音の隣を歩く時間を過ごせただけで、この世界に帰ってきてよかった、と思うのだ。

 この世界にいたときのことなんて、まだ何一つ思い出せていないのに、帰る(・・)なんて言葉を使いたくなってしまうほどに。

 下り坂が尽きた。

「このあたりはマツヨイグサの群生ですね。まるで畑みたいだ」

 黄色くて可愛らしい花を付ける野草であるが、現状、蕾すらない。下土に張り付くように広がって赤らんだ葉が特徴であるが、素人の目には「雑草」と括られてしまうかもしれない。

「これを『畑』って呼ぶのは、私たちぐらいでしょうけど。……最近だと、花をサラダに添えることも多いわね」

 採取してはいけないというのが残念だ。もう少し季節が進めば、タケルはしばらくこの公園内の野草を摘んで生きていくことが出来そうである。

 それとも、……はた、と思い出した。

「凛音先生。あの、さっき教えてもらった『中ノ山』には、きっとここよりたくさんの野草があるんでしょうね。でもって、ちょっとぐらいなら採取しても……」

 凛音は、タケルの言わんとするところを呆気なく読み取ったらしい。

「野草だけじゃ栄養が偏るわよ。ちゃんとタンパク質や炭水化物だって摂らなきゃ」

 あちら(・・・)でしばしば遭遇したような、野生化・凶暴化した獣の類との遭遇も、これだけ人の手が入った世界では望み薄だろう。ああいったものが闊歩しているなら、武器さえあれば狩って食糧にすることも出来るのだろうが。

「そうか……、上手く行かないもんですね。こっちで生きていくためには、どうしたらいいんだろう……」

 嘆息した横顔に、凛音が視線を向けていた。彼女が、何か言おうとした、そのときである。

「凛音せんせー!」

 少女の高い声が飛んできた。視線を向けた先には、三人連れの少女。私服であるが、高校生だということは一目瞭然。

 言うまでもなく、座舞高校の女子生徒である。

 更に言うならば、凛音が顧問をしている女子ソフトボール部の生徒たちである。

「その人ー、先生の彼氏ー?」

「ばっ……なっ……違うッ、いや、そのっ……」

 仕事で関係のある人間と、仕事を離れたところで遭遇する気まずさは、タケルにも少しは想像できる。まして、歳の近い男女二人であるとなれば、女学生の想像を「邪推」と切って捨てるのはかえって気の毒でさえあろう。

 凛音の頬が見るみるうちに真っ赤になった。女学生みたいな清純さである。

「凛音先生の彼氏だなんて、光栄です」

「ば、ばかもん!」

 彼女は冗談めかして言ったタケルを叱って、半ばパニックのようにタケルの腕を掴んで走り出した。女学生たちの、面白がるような、囃し立てるような声を背中に、ずんずんと……。

 タケルが凛音先生に引っ張られるまま木道の坂を登り出してまもなく、先に「ヒーしんどい」と音を上げた彼女の背中を、今度はタケルが押して登る。

「どうやら追い駆けては来ないみたいですけど、……どうしますか凛音先生、彼氏(・・)がおんぶしてあげましょうか」

「うっ、うっ、うるさぁ……、そういう、そういうの、訊かなくていいからっ、おんぶ!」

「はい」

 タケルが背中を貸すと、凛音はほとんど何の躊躇いもなく、身を委ねてきた。タケルもそう身体の大きい男ではなかったが、小柄な凛音を背負って歩くぐらいは何でもない。

 背中から、凛音の呼吸と鼓動が伝わってくる。

「お、重くない? ねえ、タケルくん私……」

「平気ですけど、凛音先生もうちょっと運動したほうがいいですよやっぱり」

 背負ってみて判るのは、彼女の身体が見た目以上に身が詰まっていないことである。一瞬、なにか良くない病気でもしたのかと心配になったが、昼に「白虎飯店」の炸醤麺を食べ、そのあとタケルにアイスをたかり、更にカフェではコーヒーと、ちょっとしたケーキもつまんでいたので、疑いなく運動不足の筋力不足である。

「フィールドワークするんでしょ、これぐらいのアップダウンでヒーヒー言ってたんじゃ、ちゃんとした山なんて行けないでしょ」

「ヒーヒーなんて言ってないもん」

「言ってました。……俺がもし、こっちでの暮らし落ち着いたら、中ノ山連れてってくださいよ」

 しばらく二人の頭上を覆っていた広葉樹が避けて、青空が広がる。前方から仲の良さそうな老夫婦が歩いてくるのが見えた。登り坂はまだ続くが、凛音が「いいよ、もう降りる」と背中でもぞもぞ動くので、下ろした。

「見た目より広い背中してるんだよね」

 もう呼吸も落ち着いた彼女は、溜め息混じりにそう言って、鼻を啜った。タケルには「花粉症」のつらさは判らない。

「こっち」

 白衣のポケットに手を入れて、先導して歩き始めた彼女の細くて小さな背中を追って歩き始める。森の中とは違って、足元も土ではなくなったし、植物は整頓された石垣や花壇に配されている。相変わらず勾配はきついが、ちょっとした庭園の趣である。

 タケルは不意に、自分がいまどこにいるのか判らなくなった。

 それは先ほどこの公園に入って、森の中でぼんやりと陥った錯覚とは違う。

 ひんやりとした風を伴って、微かに土や草のにおいがする。

 欠損した記憶の穴の中から、ひゅう……、と吹き出してくる風のようだった。

 それはすぐに止まってしまった。確かに感じたはずの香りも、すぐそこの、ツツジの花壇から届いたものだったのかも知れない。

 尻のポケットに差し込んでいた財布に手が伸びた。あちら(・・・)でもずっと使っていたけれど、買ったのは間違いなくこちら(・・・)でのこと。先ほど凛音から返してもらった鍍金のメダルは小銭のスペースに一緒に入れた。一回り大きく、一際光っているので、間違っても支払いに使う懸念はなさそうだ。

 このメダルは、野草と同じだ。

 興味のない人の目には、タケルが食欲をそそられる野草の類は、文字通り十把一絡げに「雑草」と呼ばれてしまう。

 このメダルにしたって、安っぽいしろものである。タケル自身、記憶をなくして見た限りではどうってことないものだと思ってしまった。

 けれども、前にこちら(・・・)にいた自分にとっては宝物で、いつか帰る日を夢見て大事に携えていた。

「あ……、そうか……」

 タケルは知らず、呟いていた。

 ちくり、胸が痛んだ。ぽっかり空いた胸の穴が、心細くせつない。

 そこから浮かび上がったのは、あまりに覚束ない考え。

 一笑に伏されておしまいであったとして、少しの不思議もない。

 むしろ、そうであることをこそ、タケルは望むべきなのかも知れない。

 だって、いまの俺には何もない……。

 登り坂が尽きた。凛音が、風通しのいい東屋の傍に立って、すぐそばの、細く背の高いアンズの木を見上げていた。枝先に、白く薄い、繊細な花びらが、風に揺れている。

 見た目こそ梅に似ているが、アンズの花は香りがほとんどしない。アンズが甘く馨るのは果実である。

 実るのは初夏から夏にかけてである。

 こちら(・・・)では雨の多い季節であることを、タケルは思い出すことは出来ない。しかし、東屋とアンズの木という取り合わせを見た瞬間、どうしてか、細い雨の降る中を、雨宿りをする凛音の姿を、……鼻に届くアンズの馨を感じたような気がした。

 ただの錯覚かも知れない。

 けれど、そうだったらいいのにと、手の中にメダルを握った。

「凛音先生」

 この人はアンズの花に似ている。小さくて、色が白くて、少なくとも見た目は繊細だ。

「なーに? 今日一の真面目な顔して。……ああ、これからのこと考えて不安になってるの?」

 優しい笑みを浮かべて、東屋の中のベンチに腰を下ろす。

「まー、大舟に乗ったつもりでいたらいいわ。私ね、父の持ちもののアパートに住んでるんだけど、隣の部屋、空いてるの。実家行けば布団とか、父のだけど服もあるはずだし、タケルくんが落ち着くまでしばらく暮らすぐらい何でもないはずよ。でも、古いだのボロいだの言わないで頂戴ね。あと、食べるものは」

 気さくな人だと思っていた、優しい人、自分と同じ趣味の人。あちら(・・・)で憂き目に遭いはしたし、記憶もまるでなくなってしまったけれど、いい出会いがあった、自分は幸運だと、無邪気に喜んでいたけれど。

凛音先輩(・・・・)

「さすがに野草ばっかりってわけには行かないから、……あーでもタケルくん口悪いからなぁ、まずいとか言われたら嫌だなぁ……」

 花粉症、と言っていた凛音の頬に、涙が伝って落ちた。

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