Uターン異世界人、谷戸の公園にて高校の生物教師のフィールドワークを手伝う。
カフェ「スターフェリー」を出るなり、凛音は白衣の裾をはためかせ、保田急線の線路沿いを北に向かってずんずん歩き始めた。
「君、野草やキノコに詳しいって言ってたわね」
はあ、とタケルは頷いた。
「偶然だけど、私の専門は野山に生きるそうした植物や菌類なの。今日はこれから、この先にある谷戸山自然公園に行きます。フィールドワークってわかる? あなたにはそれを手伝ってもらうわ」
「えー……」
「手伝ってくれたら、住まい探しの手伝いをしてあげる。私そういう方面では結構頼りになるのよ」
「はぁ……、そうですか……」
やっぱり強引な人である。
電車がやって来るたび、足を止めて眺めてしまうタケルをたびたび振り返りつつ、凛音が言得々と語るところによれば……。
「座舞市って、住むのにとても適した街なのよ。太刀田で急行に乗り換えれば都心までトータル五十分で着くし」
「ごじゅ……っぷんもかけて仕事に行くんですか、こっちの人は」
「でも、家賃は安いの。だいたい待田や、一つ奥の芽雛に比べると一回りは安いって言っていいと思うわ」
例えば、と彼女が挙げたのは、「カーサ座舞」なる集合住宅である。バストイレ別の専有二十五平米で家賃は五万円。タケルにはもちろんピンと来ないし、せいぜい自分の所持金の残高を思って空恐ろしくなるぐらいなのだが。
「凛音先生は月にどれぐらい貰ってるんですか」
「君ねぇ……。まあ……、これぐらいだけど……」
「へー、意外と貰ってるんですね」
「『意外と』とか言わない」
「こんなに貰ってるのに異世界から来た俺にアイスをたかったんですね」
年齢を訊いたら、これまた顔を顰められながら答えてもらった。二十五歳。タケルは二十四歳だから、凛音のほうが一つ歳上である。そのわりには、小柄なせいもあってあまり大人っぽく見えない。そして、歳上なのにアイスをたかったのか、とも思った。
それはさておき、「座舞市立谷戸山自然公園」が近付いてきた。
タケルがこちらに帰って来て目を覚ましたのが切屋駅付近の氾濫原、つまり平たい地形に畑の広がる場所で、視界的には広々とのどかに開けていた。一方で台地の上に当たるこちらは、東に向けてダイナミックに標高が上がる。
「谷戸山自然公園は、西向き斜面に広がる座舞市随一の公園なの。異世界って、きっと自然でいっぱいなんでしょ。それに比べたらどうってことないのかもしれないけど、それでも開発される前の自然がずいぶん残っているのよ」
保田急線の踏切を待って、車が列をなしている。その道の脇、急な階段が森の中へ消えている。
「犬の散歩、ちょっとした運動、そして私たちみたいな自然の観察を仕事にしている人間にとっては、身近なフィールドワークの場になってるわ。……さてタケルくん」
その階段の二段目に立った凛音が、タケルよりもちょっと高い視点を手に入れて、得意げに腰に手を当てる。
「君は野草の知識があるそうだけど、それがどれぐらいのものなのか、私に見せて頂戴。……この階段は上にある神社、……神社って判るかしら、こっちの神さまを祀っているところよ、そこまで続いてるの。……電車来るたびよそ見するんじゃないのよ君は」
「なんか、さっきからずっと電車に惹かれてます」
「……まあいいけども。と、とにかくね、この階段の脇にある植物のうち、いまの季節に食用できるものを出来るだけたくさん見付けなさい」
「はぁ……」
凛音は先生的に胸を張って、意地悪な笑みを浮かべる。
「ま、君のいたほうとこっちでは植物の種類も違うかもしれないし、そんなに期待してないけど。ヒントが欲しかったら言いなさいね、ンッフッフー」
「そこにあるの、コオニタビラコですよね」
「は? ど、どこ? タビラコどこ? ……あっほんとだ……、こんなちっちゃいのよく見付けるわね……」
タケルの指差した先、凛音の右足のスニーカーのすぐ横、下土に放射状に広がる羽のような形の、緑ながら紫がかったような色の葉。やがて黄色い花を付けて咲き誇るが、春まだ浅い日では地味な存在である。多くは水田の脇などで見られるが、市街地でもそう珍しい存在ではない。
「あと、そこにはハハコグサがあります。そこにはオオバコも。一応ですけど、タンポポは挙げたほうがいいですか。そっちにはヤブカンゾウ……」
「あーわかったわかった、はい、もういいです」
手をぶんぶん振って、凛音が止めた。まだまだタケルにはいくらだって見付けることが出来る。もちろん挙げた他にも数多の植物が繁茂しているのであるが、この季節、さっと見付けられて食用も容易いのはいま挙げたようなものたちである。
人間の形にこちらとあちらで大きな差が見られないように、植物たちもタケルに慣れ親しんだ姿でいてくれたので、すぐに判った。レオンたちには「ただの雑草」などと低く見られていたが、とんでもない。タケルはいまも「彼ら」をじっと見ていると自分の中の本能めいたものが疼いてくるのが判る。気をしっかり持っていないと……、
「あーストップストップ! ダメよ手すり乗り越えて林の中入っちゃ」
吸い寄せられるように採取を始めてしまいそうになる。凛音が慌ててタケルの外套を引っ張って制した。
「ここのはあくまで観察するだけ、採取禁止!」
「なんだつまんない。こんなに美味しそうなのがたくさんあるのに取っちゃダメなんですか」
タケルの目には、雑木林もごちそうの山なのだ。
「凛音先生は、この植物たちが美味しそうに見えないんですか」
フン、と鼻を鳴らして、
「見えるわよ、決まってんでしょ」
と彼女も唇を尖らせた。
こうした野草の数々、きちんと時期を選び、また適した調理法を行えば、どれも栽培野菜と同質のものとして食することが出来る。タケルは訪れた異世界で、すぐそばに可食野草やキノコの群生する山があるにも関わらず、小麦が不作で植えているという人々を目の当たりにして、なんとももどかしいきもちになったことをよく覚えていた。
「君は向こうで、コオニタビラコはどうやって食べていたの?」
「こっちにあるのかどうか知らないですけど、キヌアっていう……」
「普通にあるわよ、スーパーフードって言われてる」
「へー、そんなごたいそうな名前で……。あっちではどこ行ってもキヌア食べてましたよ、ありがたがるほどのもんじゃなかったです。そう、それで、キヌア粥って言って、ぐつぐつ煮込んで塩味を付けて食べるのがあるんですけど、それに刻んだタビラコとか、ナズナとかを入れて……」
要するに、こちらで言うところの七草粥である。
残念ながら記憶は蘇らないが、
「多分、こっちでそういう食べかたをしてたんでしょうね」
ということは想像に難くない。
「天ぷらとかは? 水で溶いた小麦粉の衣付けて、油で揚げるの」
「何度かチャレンジしました。でも、たぶん粉の感じが合わないのか、べちゃっとなっちゃって。油も重たかったかもしれません。それよりは、肉と一緒に野菜みたいに炒めたり、あとはシンプルに塩茹でしたりとか」
「それだけでごちそうよね」
「そう思います。……でも、レオンたちにはあんまりウケなかったですけどね、貧乏くさいってよく言われましたよ」
レオンは元々名家の出であったし、あの世界、「魔法使い」になるためには学費の高い学校に通わなければならなかったのでルミィも相当、実家が太い。セリーナにしたって聖女の血を引く名門僧家で、叩き上げの戦士はガレスだけ。もっとも、彼はタケルの摘んできた野草をよほど腹が減っていないと手を付けなかった。
「俺は、たぶんこっちでも貧乏だったんだと思うんですよね」
タケルはひざまずいて、まだ硬いコオニタビラコの蕾を指先でなぞって苦笑した。
「野草を『貧乏くさい』なんて思ったことは一度もなくて。どれもほんとに美味しいな、よく出来てるな、世界って素晴らしいんだなって思って、ありがたがって食べてました」
先ほどのようにタケルは、ひとたび野草探索モードとでも呼ぶべきスイッチが入ってしまうと、片っ端から摘み取りたくなってしまう性分である。もちろん成長や繁殖に時間の掛かる植物は節度を持った採取にとどめなければならないが、それでもどこかしら、血湧き肉躍るとでも言いたいほどの気持ちになってしまう。
だって、食べるものがタダで手に入るのである。
「人間の本能なのよね」
凛音が隣にひざまずき、同意の頷きを見せてくれた。
「食べものを自然から採取して、創意工夫を凝らして調理して、食べるっていうのは。人間の奥深いところにある本能を刺激されて、……アドレナリンってわかるかしら、それが分泌されるのよ」
タケルが撫でた蕾に視線を向ける横顔に、タケルは出会ってから初めて、この女性に対して好意的な評価をしたくなった。
「私、昔からこれぐらいの季節になると、畑の周りのツクシとか、川べりのノビルとか……、採りに行きたくてうずうずするの。父も母も、『もういい大人なんだからそんなのやめなさい』って言うんだけど」
レオンたちからは重宝がられる反面、共感を得られたことは一度もなかったから、凛音が自分と同じ感覚を有しているという事実は、この異世界に来て、これからあまりに心細い道を歩んでいかなければいけないタケルにとって、ことのほか大きい。
胸に温かな勇気の炎が灯ったような感覚があったと言っても、大袈裟ではない。
貧しい暮らしにはなるだろう。けれど、この世界にも野草はあるのだ、きっと雨の季節になればキノコにも出会えるだろう。ここの公園では禁じられているにしろ、凛音の言葉からは、この座舞という街にはどうやら野草が採れる場所もあるのだろう。飢えて身動きが取れなくなるなんてことは、きっと避けられる。
「食べるものを採ることに、年齢なんて関係ないと思いますけど」
凛音はにっこりと微笑んで、「そうよね」と頷いた。大人の女性なのに、その笑顔には情熱のまま野山に分け入って食用できる植物を摘んで回る、やんちゃな少年のような勇ましさが浮かぶ。それがかえって、凛音の顔を華やがせ、魅力を膨らませるようだった。
「さ、行くわよ。まずは神社にお参りして」
立ち上がった凛音に促されて、急な階段を見上げる。座舞のアップダウンのダイナミックさにはもう慣れてきたタケルである。長くここに住んでいたら、タケルのようにあちらで旅をしてきた冒険者でなくても足腰を鍛えられそうなものだ。
が、どうも凛音はそうでもないらしい。タケルが小さな神社の拝殿を望み、「これ、どういうルールでお参りすればいいんですか」と当然二段か三段下にいるものと思って振り返ったら、彼女はまだ半分ぐらいのところにいるのだった。
「なにやってるんですか凛音先生だらしない運動不足じゃないですか」
「うるっ……さぁ、マジうるっさぁ……!」
しょうがない人だ、と降りて行くタケルの視界に、階段を覆う木々の隙間、踏切を渡る保田急線の走る姿がチラチラと垣間見えた。
「電車好きねぇ……」
さっきから、気配を感じるたびに視線を投じてしまう。どうもこれは、あっちにはないものだったから、というわけではない気がする。
「きっと俺、前にこっちにいたときも、好きだったんですよ」
そう考えるのが妥当な気がした。この「タケル」というUターン異世界人の、こちらでの暮らしぶりはまるで想像出来ないが、好きなものぐらいは推測出来る。
野草とキノコと電車。
そして……。
「さっきの、……はーしんどい、さっきの、君が落としたメダル、あれ、中ノ山ケーブルカーって刻印があったでしょ。ここから保田急線でもうちょっと山のほうに行って、そこからバス乗った先にある、『中ノ山』って山のケーブルカーのことよ。ケーブルカーっていうのは、ケーブルで急勾配を引っ張り上げる電車の一種のこと」
では、きっとかつてのタケルはそのカーを目当てに中ノ山なる山に行ったのだ。
「凛音先生も行ったことあるんですか?」
呼吸を整えて、「ええ」と頷き、
「よいしょお……!」
と、痩せているのにえらく重そうに腿を上げて、階段を踏み出す。見たところ、この公園は座舞のアップダウンをそのまま活かしているようだが、フィールドワーク中に遭難でもしてしまうのではないかと、ほんのりと心配が過ったタケルであった。