Uターン異世界人、高校教師にアイスをたかられる、けどコーヒーをごちそうになる。
数分後、タケルは、交差点脇のコンビニの駐車場にいた。
この交差点の名前は「座舞駅入口」という。言葉の通り、東には都心と西部の観光地を結ぶ保田急線の座舞駅がある。規模はそう大きくない交差点であるが、クロスする二車線道路はどちらも交通量が多い。信号が赤に変わるたび、待つ車が列を成し、その中には路線バスの姿もある。
異世界帰りのタケルには、車の大群がちょっとばかり恐ろしく思われるし、排気ガスの臭いにも胸が悪くなりそうなのだが、それ以上の困惑ごとは、
「で、君、名前は」
中華料理屋「白虎飯店」を出て間も無く、「待ちなさい!」という声と共に自分を追い駆けてきたこの女性の存在である。
「……タケル……、タケル、と言います」
「苗字は」
「苗字……、は……、すいません、思い出せないんですよ」
口ごもりながらタケルが答えた先にいるのは、肩までの髪の色は薄いブラウン、細いが強さを感じさせる眉を差し引けば、小柄で可愛らしい印象の女性である。
年齢は、おそらくタケルと同じぐらい。
彼女は白衣を羽織っていた。タケルにはそれが、風変わりな外套に見える。
白衣の下にはブラウスに、ベージュのカーディガン、それから紺色のスラックスに、黒のスニーカー。
こちらの世界の人の目には、彼女がどうやら学校の、理系科目の先生なのだろうということを察することは容易い。
教師であるからには、何らかの正当な理由があれば「待ちなさい!」と躊躇いなく呼び止めたとして、さもありなん、というところだ。態度に教師特有の強さめいたものが漂うのもまた自然。
しかしタケルは、なんかいきなり女の人に掴まっちゃったぞどうしよう、と困るばかりなのだ。しかもこの女性はタケルに「君が素直に立ち止まらないから、走って汗をかいた。君のせいなのだからアイスを奢るべきだ」などと難癖をつけて、この座舞駅前のコンビニにてアイスキャンディを奢らせたのである。
なんなんだ、この女は。
こっちの女の人ってみんなこうなのかな……、タケルはしどろもどろになりながら彼女の「尋問」に精一杯の回答を重ねて行った。彼女がアイスを食べ終えるころには、
「異世界人? この世界とは違う世界に行っていたということ?」
といったあたりにも話が及んでいた。彼女はしかし、そこにさほど拘ることはせず、タケルの帰還までの経緯に耳を傾けていた。
「私は大崎凛音。……さっき、君が登った階段の下にある『座舞高校』で生物の教師をしている。わかる? 植物や動物の身体の作りについて学生たちに教えている立場よ」
「はあ……、つまり、先生……」
「そう。学校の先生。ついでに言うと、女子軟式野球部の顧問の先生でもある」
「やきうって何だかわからないですけど、たぶんスポーツなんでしょうね」
「さっき『白虎飯店』でやってたの、君も観てたじゃない」
え、とタケルは目を丸くした。
「君の隣の席で炸醤麺食べてたの」
「そうだったんですか……。じゃあ、どうして凛音先生はなんで俺のことを追い駆けて来たんですか」
「人聞きの悪い。追い駆けるつもりなんてなかったのに、君が走り出したからでしょ。全く、素直に止まってれば走らなくて済んだものを。私走るの苦手なんだけど」
「走るの苦手なのにスポーツの顧問をやってるんですか」
「うるっさいわね、監督が別にいて、私は見てるだけだからいいの!」
「楽そうでいいですね。それで、凛音先生は一体どうして俺の後を尾けて来たんですか」
「どうしていちいちそう人聞きの悪い言いかたをするのかね……」
ぶつくさ言いながらも、凛音先生は白衣のポケットに手を入れて、何かを取り出す。
「これ」
彼女の白い手のひらには、安っぽい金色をしたメダルが乗せられていた。小さくて薄い手のひらであるから、メダルがやけに大きく見える。
「君がさっきお財布から落としたの拾ってあげたのよ。大事なものなんじゃないの? 感謝しなさい。ほら、ほら。ありがとうは。ほれ」
こちらの硬貨で言えば、五百円玉よりもう一回り大きく分厚い。金色をしているが、もちろん本物の金ではない。
表面には「中ノ山ケーブル乗車記念」という文字、それからどうやら山らしいイラストが浮き彫りされている。裏返したところには紅葉のマークと「2019年11月10日」とある。
要するにその日、タケルは中ノ山なる山でケーブルカーに乗車した、その際の記念でこのコインを買った……、ということなのだ。わざわざそれを財布に入れて取っておいたということは、何らかの思い入れがあったのだろう、それともただ単に、捨て忘れていただけなのだろうか……。こちらの人間ならばそんな感慨を抱くところだろう。
残念ながらタケルには、このメダルに纏わる記憶を蘇らせることは出来なかった。
しかしあちらにいるときに、たびたび取り出して眺めていたことは記憶しているのだ。せめてレオンやガレスに「それ何だ」と問われて、答えていたなら、自分の言葉を頼りに思い出すことが出来たかもしれないが、……「寄越せ」なんて言われたら嫌だなと思って、彼らの見ている前では出さなかった記憶がある。
「はあ……、ありがとうございます」
見た目よりも空虚な重さしかなくて、余計に安っぽく感じられるメダルは、あの関西弁の異世界人にとっての「写真」のようなものかもしれない。
彼の心には優しそうな顔の奥さんと可愛らしい坊やの形をした穴が空いている。
そしてタケルの心には、このコインがぴったりはまるほどの穴が。
「お手数おかけしました。……そしたら、あの、俺もう行っていいですか」
「どこか行かなければいけないところがあるの?」
「いえ……、どこに何があるかも判ってないんですけど、でも、またさっきの……、チャハーンハンハンラメーンでしたっけ」
「チャーハンと半ラーメンね」
「店主ご夫婦のご厚意に感謝して、またあのお店に行けるように、この街で暮らすための生活基盤をどうにかして構築したいんです。だから、冒険者ギルド……、は多分こちらにはないでしょうけど、それに類するものを、まず探します」
凛音は「ハロワかなぁ……」と呟く。無論、住所もなく自分が何者であるかも判らない、Uターン異世界人がそうそう働き口を見つけられるとは彼女も思わないだろう。また、教育者の端くれを自覚している彼女は同時に、この異世界人が悪人に騙されてよくない仕事の片棒を担がされる懸念すら抱いたのかもしれない。
「……タケルくん。君の仕事探しと住まい探し、手伝ってあげてもいいよ」
えっ、とタケルは顔を上げた。
あからさまに顔が引き攣り、腰が引けたのを、凛音は見逃さなかった。
「何よ」
「え、だって、……また何か見返りに奢れとか言ってくるんでしょきっと。やですよ俺お金ないんですよ」
「んあーしつれい! そんなことしないし! 仮にも私学校の先生だよ? 困ってる人がいたら手ぇ差し伸べるの! そういう精神で黒板の前に立ってるし、ソフ部の顧問もしてるの!」
「顧問の仕事は見てるだけなんでしょ」
「上げた足を取るんじゃありませんッ。とに、とにかく、とにかく来なさい、郷に入りては郷に従えって言うでしょ、座舞に来たら座舞の人間に従うのが筋ってものなの! あと異世界の話も聴きたいし。ほらこっち来なさい、アイスのお礼に今度は私がコーヒーご馳走してあげるから大いに感謝しながら飲みなさい!」
「えーやだ離してくださいよう」
半ば無理やり凛音に引っ張られて入ったのは、保田急線の踏切を渡った座舞駅の向こう側、商業施設・保田急プレイス一階にある「スターフェリー」というカフェだ。オープンからそう長い時間は経っていないと思しき店内はぴかぴかで、こちらの人々の感覚に基づけば、瀟洒で都会的。あちら感覚でいるタケルには異世界の、更に未来へ連れて来られたかのように思われる。
あちらにも珈琲はあった。
店内の席に着き、「召し上がれ」と凛音に勧められてそっと口を付けたそれは、すっきりとした透明感がありながら、同時にしっかりとボディも存在感がある。酸味と苦味、それから甘味のバランスが整って、あちらの雑味があって苦いばかりの珈琲とは比べものにならないほどハイレベルなブレンドだった。
タケルの表情から、味に満足していることを見て取ったのだろう。
「私、ここの常連なの」
ちょっと得意げに、凛音は言った。
「へえ……。じゃあ、いつも一人で来てるんですね」
「わざわざ『一人で』って言う必要なくない?」
「だって、特定の相手がいらっしゃるなら、俺なんかと一緒にこういうお店に入ったらダメでしょう。向こうではこういうお店は、……その、将来を約束した仲とまでは言わないですけど……」
「へー……、そういう文化なんだ……」
「ここがどうかは知らないですけど、お酒も出すお店が多いですし」
ふーうん、と納得した様子で、凛音もカップに唇を当てる。所作は美しく、顔立ちも整っている。しかし性格が強引なので、見た目に惹かれて近寄っては痛い思いをしそうだな、なんて思うタケルだった。しっかり大人なのに、立ち居振る舞いは彼女が教導すべき学生たちぐらいのようだ。きっと精神年齢が幼いのだろう。
そんな人に「先生」が務まるのか……、また余計なことを言いそうになった。
「タケルくんは、向こうではそういうお相手いなかったの? ほら、恋人を泣く泣く残してきた、とかさ」
「まさか」
苦笑して、首を振った。
レオンがルミィと、ガレスがセレーナと結ばれるのを傍目に見ながら、自身はそれを祝福するばかりで、一度だってそうした相手を求める気持ちを胸に立ち上らせたことはなかった。
そもそも、野草・茸鑑定スキルで役立てたとはいえ所詮は異世界人であり、元は下働き、レオンのパーティーに加わってからも雑用と荷物持ちが主な仕事であったから、異性から関係を望まれる機会はなかった。
……いや、本当は一度ある。
「なに、教えなさいよ」
「なんで。やですよ」
「いいじゃないの珈琲ご馳走したんだから」
やっぱり強引な女だ。タケルは嘆息しながら、「別に、面白い話じゃないですよ」と前置きしてから、ぼつぼつと話し始めた。
「ドロッツァっていう港町があって。俺はいつも、宿は他の四人とは別の、大部屋で雑魚寝みたいなところに泊まってたんですけど、夜遅くに、何だかお腹が空いちゃって」
ドロッツァはあまり治安のいい町ではなかった。旅を通じて、多少は喧嘩の腕も備わったタケルだから不安なく歩けたけれど、夜に若い女性が一人で歩いていいような町ではない。
だから、息を切らせて走ってくる踊り子の少女の姿を見たときにはすぐに、只事ではないと察した。
「お助けくださいまし、お助けくださいまし」
震えた声で少女に縋りつかれた。彼女の怯えた視線の先には、いかにも野蛮な雰囲気の大男がニヤニヤと脂っこい笑みを浮かべていた。
「へえー……、それで、そいつやっつけちゃったの? タケルくんが? 貧相な見た目してるのにねぇ」
「なんで先言っちゃうんですか。……貧相で悪うございましたね」
まあ、いま凛音に先回りされた通り、タケルは男を退け、少女を守ったのである。
少女の名はフィーナと言った。銀色の髪に小麦色の肌をして、舞台衣装だろう、最低限の衣しか身に着けていなかった。
タケルが叩きのめした男に一目惚れされて、何度断っても付き纏われ、今宵はとうとう彼女の居候する踊り子小屋にまで押し掛けて来られたと言う。
「その、踊り子の小屋のオーナーは何もしてくれないの? そのフィーナって子、守ってあげるのが筋じゃない」
憤慨したように凛音は言う。強引だけれど、正義感に篤いところは、好意的に評価していいはずだ。
「あっちではそんなもんですよ。むしろ、こっちだと雇う側ってそんな助けてくれるもんなんですか」
む、と凛音は言葉に詰まった。程度の差はあれ、どこも雇用される側は弱いらしい。
「……高校のころ、この近所の薬屋でバイトしてたんだけど、どっかの大学生に付き纏われて困ってた。なんか、その薬屋のオーナーの息子だとかでさ、『まぁまぁまぁ』なんて言って」
凛音先生顔はお綺麗ですからね、なんて言ったらまた怒られそうなので黙っていた。
「帰り道も付いて来られそうだったから、彼氏呼んで一緒に帰ってもらった。でも、私を家まで送ったあと、彼氏がそのバカ大学生と揉み合いになったらしくてさ」
凛音先生の「彼氏」くんは、翌日目の周りに青痣を作って学校にやって来たのだそうだ。
「でも、腫れた顔で、『もう大丈夫ですよ』なんて言ってさ」
「へー」
「淡白ぅー」
「すいません。……だって、そんなドラマティックな出来事あったのに別れちゃったんだなって思って……」
はー、と強い溜め息を吐いて、でも、凛音は笑った。
「タケルくんは、正直者だよねぇ」
「笑うと可愛いんですね」
「やかましいよ。笑わなくても可愛いって言いなよそこはよ」
もちろん、タケルとフィーナの関係も特に進展性のあるものではなかった。彼女はいまでもドロッツァで踊り子をしているか、それとも故郷に帰ったか。
彼女はタケルがドロッツァを発つときには、髪飾りを贈ってくれようとしたのだが、
「丁重にお断りしました」
「えーなんで」
「その……、受け取ってしまうと、いつか彼女の元に戻って来なければいけないと思って。……あっちではいつ命を落とすかも判らないわけですし、あと……」
「あと?」
タケルは腕組みをして、「うーん……」と唸る。
「あと何か、フィーナとそういう関係になっちゃいけない理由があったような気がするんですけど、思い出せないんですよね……。周りにレオンたちいたから、ちゃんと理由も話さなかったんですけど、なんかすごい大事な理由があった気がするんですよ」
さっきから、思い出せないことにぶつかるたびに、胸の中を冷たい風がひゅーっと吹き抜けるように感じる。
こんな穴ぼこだらけで、こちらの世界でやって行けるのかという不安もさることながら、自分というものの覚束なさが何とも心細い。実際、記憶の欠落がない人に比べれば、心の重量はだいぶ軽くて危なっかしいはずである。
凛音先生は「お手洗い」と立ち上がった。窓の外に見える踏切を、青い帯を巻いた電車が盛んに走っていく。タケルは自分が生まれ育ったはずの世界のことながら、電車も、車もバスも、どれも初めて見るもののように新鮮である。しかし本来異世界人が受けるほどの衝撃はなく、また踏切を走り抜ける電車が、なんとなく「いいな」と思われ始めていた。
何が「いいな」なのかは、上手く言えないけれど、じっと見ていると、銀色のボディに青い帯を巻いた電車の疾走する姿というのがどんどん魅力的に思われてくる。人間の作った機械、鉄の塊と判っているのに、何やら優れた芸術品を見ているような気持ちになってくる。
ずっと銀色に青帯の電車だったのに、凛音が席を立ってから数えて五本目で、赤いものがびゅーんとすごい速さで駆け抜けて行ったのを見た瞬間、思わず「あっ」と声が出て、腰が浮いた。
「おまたせ……、おぁっなに……」
ちょうど凛音が戻って来たところだったので、彼女をびっくりさせることになってしまった。
「あ……、いえ、長かったですね」
「そういうこと言うもんじゃないよ。……しょうがないでしょ女子はいろいろあるんだから。あと私、花粉症で。今日みたいに晴れてる日は大変なのよ。薬切れちゃって」
言われてみれば、確かに彼女の睫毛は少し湿っているようだし、鼻の頭も少し赤い。あちらにも花粉症に似た症状を呈する季節病はある。
「意外と繊細なんですね」
なんて言ってしまったので、また怒らせてしまった。