Uターン異世界人、チャーハンに半ラーメンのおまけを付けてもらう。
佐波線の切谷駅のほど近く……。
市立座舞高校の脇に伸びる東星武商店街の中ほど、赤い三角屋根の「白虎飯店」は、小さいながらも味の良さとたっぷりとした量、それでいて親しみやすい価格で知られた中華料理屋である。近隣住民や座舞高校の生徒たちはもちろん、はるばる遠方からその味を目当てにやって来る客さえいるほどだ。
カウンターに座ったタケルにはそんな自覚もなかったが、結果的には彼もまた、どえらい「遠方」からやって来た客なのだった。
だって彼は、つい三十分ほど前、この世界にやって来たばかりの「異世界人」なのである。
どこまで続くのかも定かではない暗い穴へと落ちて落ちて落ちて、……気が付いたら切谷駅ちかくの畑で目を覚ましたのだ。
春浅い日の青空の下、高くて機能的な建造物、佐波線の電車などに目を白黒させつつも、空腹に耐えかねて立ち上がり、歩き始めて辿り着いたのがこの「白虎飯店」だった。
彼は風変わりな生地のシャツに外套を肩にかけ、髪はぼさぼさ、若そうに見えるのだが、顔には薄っすらとした怯えの色を浮かべている。垢じみているわけでもないながら、どこかしら見窄らしい印象もある彼は、左手にあるテレビで放映されている春の高校野球大会に釘付けになっているところだ。
今日は春分の日。
祝日とあって、店内はカップルや家族連れが大半を占めている。はしゃいだこどもの笑い声、「落ち着いて食べなさい」と嗜めるお母さんの声などが、テレビの音と混じり合う。そんな店の厨房で、店主らしき壮年の男性はリズミカルに鍋を振り、夫人と思しき女性が店内をテキパキと走り回り、テーブル拭きからオーダー取りに配膳、会計まで一手にこなしていた。
「はい、おまちどうさん」
店主夫人が、タケルの前にチャーハンを置いた。
角切りにされたチャーシュー、刻んだネギとなると、逆さ丼型に盛られた頂に、目にも鮮やかなグリーンピースが三粒。
タケルの胸の裡、ぽっかり空いた深い穴の奥から、強烈な懐かしさが顔を覗かせた。
俺はこれを知っている、きっと、……きっと知っている!
けれど、疲れを纏った目に浮かんだ涙を見た者はいない。彼は小さな小さな声で「いただきます」と呟き、蓮華を手に、猛然と食べ始めた。
これが異世界人・タケルの、こちらの世界へ戻ってきてから最初の食事である。
◯
「なあ……、冗談だろ……、レオン。……ルミィ、セリーナ、ガレス……!」
信じがたい思いで声を上げたとき、タケルはまだ笑っていた。引き攣って痛々しいものだったかも知れないけれど、でも、あのとき確かに、タケルは笑っていたのだ。
……「あのとき」と振り返って見るのは、遥か昔のように思われる、けれど実際にはきっと、ついさっきの出来事。
その世界において、タケルは勇者レオンのパーティーの雑用係として彼らを支え、二年の長きに渡る旅をしてきたのである。レオンたちとの間には、確かな絆があったと信じていたのだ。
それが一方通行の思いだったなどとは、一度たりとも予想しなかった。
異世界から転生し、エリヴィン王国辺境の街で意識を取り戻したタケルは、タケル、という名と元いた世界の金のほか、何も持ち合わせてはいなかった。言葉ばかりはどうにか通じはしたものの、捨て置かれれば早晩行き倒れになること必至という立場である。
しかし彼は異世界から持ち込んだ身に、野草・茸鑑定のスキルを宿していた。
おりしも王国はその年の冷夏の影響で飢饉に襲われていた。飢えのあまり、毒草や毒キノコを食して死ぬ民も多く出ている中、タケルの野草・茸鑑定スキルは重宝され、たちまち彼は町の救世主としての立場を手にした。
その名声を聞きつけてやって来たのが、凛々しき勇者レオン、若くして幾つもの上位魔法を使いこなす魔法使いのルミィ、聖女の血を引くヒーラーのセリーナ、そして王国の親衛隊たちでさえ一刀のもと叩き伏す屈強な戦士ガレスの四人であった。
世に蔓延る悪を断つために、君の力を貸してくれないか!
レオンからの熱烈なスカウトを受け、タケルは彼らの一行に加わることとなった。北で恐ろしい黒虎が人里に現れたと聴けば、行って追い払い、南に邪龍が飛来したと救いを求める声が上がれば、これを退ける。そうした旅の、実戦面において何かの役に立てるわけではなかったが、道中の疲労や空腹を持ち前の野草・茸鑑定スキルで支えてきたタケルは、勇者パーティーの欠かすべからざる一員であると自負していたのである。
しかるに。
タケルにとって最後の旅となった、西方、国境近くの山脈に塒を設けた魔性の龍人の征伐の途上において……。
「龍人というのは、邪龍を使役する半龍半人の者のことだ。我々と同じ人間の血を得ていながら、龍に与して人里を荒らさせる、悪意の連中さ」
レオンは道中、タケルにそう教えた。異世界人であるタケルは初めて黒虎や邪龍を見たときにはほっぺたをつねってしまったぐらいであるが、今ではこの世界の不可思議な生きものたちにも慣れつつあった。亜人、と呼ばれる人々、……巨躯と毛皮を備えた獣人や、背中に羽を有し自在に空を飛ぶ鳥人などとは、タケルもこの世界で出会い、仲良くなった者もいた。
けれど、龍人という存在はこれまで一度も聞いたことがなかった。基本的に亜人というのは、人と親しいものであると学んでいたから、龍人に限って敵愾心を隠さないというのは妙な気もした。
一行は山脈の中、龍人の逃げ込んだとされる洞穴深く、松明を片手に無数に枝分かれした洞穴の奥深くに辿り着いたが、そこに「龍人」なるものの姿はなく、代わりに、どこまで続くものかまるで覗けぬ漆黒の闇をたたえた穴があるばかり。
「この奥に、龍人が……? でも、どうやって降りるんだ?」
腰を引き気味に穴を覗き込んで、そう漏らし振り返ったタケルの背中に、どんっ……、と何かがぶつかった。
ガレスが当て身を食らわせてきたのだと理解したのは、辛うじて穴の岩壁を掴んで見上げたときだった。
松明を手にしたレオン、ルミィ、セリーナ、そしてガレスの顔が、黒く穴の上に浮かんでいた。
彼らがどんな表情を浮かべているのか、タケルには見えない。それでも、
「お前は、ここに置いていくことにした」
レオンの声が笑っていることは判った。
「大して旨くもない雑草とキノコの鑑定しか出来なくって、戦いでは何の役にも立たない足手纏いを連れて歩くのなんて、もううんざりだったんだ」
「野草の鑑定なんて、もうあたしたちで十分だしね」
ルミィの高い声が、穴のあちこちにぶつかって膨れ上がる。セリーナの密やかな笑い声も聴こえて来た。
「なあ……、冗談だろ……、レオン。……ルミィ、セリーナ、ガレス……!」
声が震えている、冷たい汗が全身から噴き出していた。指が痺れ、力が入らなくなる。
それなのに、タケルは笑っていたのだ。
仲間たちが、笑っていたから。
同じ表情を浮かべることで彼らに縋り、ばらばらになりそうな心を繋ぎ止めようと思って……。
異世界で、何の力もないタケルに価値を与えてくれたのは、レオンたちだった。
薬草としての働きを持つ草、食用できる茸、一方でそれらとよく似ているけれど、毒を持ち、決して食べてはいけないもの。タケルそれを鑑別し、適した方法で調理することで、彼らの空腹と疲労を癒して来た。旅の途中でレオンがルミィと、ガレスがセリーナと、思いを通わせ合い、恋人となったときには、タケルは心の底から祝福した。大切な友人のために、出来ることはなんだってしようと思っていた。
「タケル。聞いた話だと、その穴は異世界に繋がってるそうだ。……運が良ければお前の元いた世界に戻れるんじゃないか? 単なる落とし穴にお前を突き落とすんじゃないぞ、俺たちは、お前が元の世界に帰れるようにここまで連れてきてやったんだ」
「レオン、なぁ……、友達だろう……、なぁ……?」
相変わらず、彼らの顔を見ることは出来ない。
しかし、レオンが、……他の三人も、笑みを消したのが感じ取れた。
「ふざけるなよ。お前みたいな半端者の異世界人が、俺たちの『友達』を名乗るのか?」
明瞭な憤怒、そして憎悪。
「お前なんてのは、よくて召使い、奴隷……。俺たちの下で働かせてやっただけだ。そこらで捨てて、あることないこと吹聴されたら迷惑だからって、わざわざここまで連れて来てやったんじゃねえか」
ガレスの怒号に混じって、顔に何か生暖かいものが当たった。
それが彼の吐いた唾だということを、タケルはどうしても認めたくなかった。
「お前は俺たちと違う。亜人みたいなもんなのに、……まさか、対等だと思っていたのか?」
レオンの声は冷たかった。心底から軽蔑しきった相手にしか、そんな声は出ないものだろう。
「穢らわしい」
セリーナの声は、震えてさえいた。
「おお神よ、……人を毒するこの罪深き者に、裁きをお与えください」
それは、破邪の呪文であった。聖職者である彼女は、例えばリビングデッドのような存在と対峙したとき、そうした力で祓ってきた。
強烈な閃光の圧を浴び、岩に掛けていた指がいよいよ剥がれるとき、タケルは自分の愚かさを呪った。
俺は、そうか、邪なものとして扱われていたのか。
穢らわしいもの、「人間ではない」と思われていたのか。
レオンたちは、亜人たちとも仲良く交流していたように見えた。けれど、あれは所詮自分たちよりも劣る者、犬猫を扱うようなもの。
タケルはレオンたちとは肌の色が違った、顔の特徴もまるで。レオンたちから見れば、それは、同じ人間として取り扱うさえ憚られるものだったらしい。
指が外れた。
奈落に向けて、軀がが堕ちていく、堕ちていく、堕ちて。
◯
「はふちっ……」
猛然と蓮華を口に運んで、熱さに噴き出しそうになった。
向こうの世界ではこんなにあつあつの料理を食べることなど稀であったから、空腹まかせに掻きこんでしまいそうになったのである。
ひとたび旅へと出たなら、何食も薄らしょっぱい堅パンだけで凌がなければならないこともあった。干し肉や干し葡萄などあればそれは相当に恵まれた旅である。もっとも、いま振り返ってみればタケルはレオンたちがどこに忍ばせていたのかそうした糧をひっそり分け合っているところを見たことがあった。つまるところ、彼らから疎んじられていたことは悲しくとも認めなければいけないようだ。
龍人の塒とされる穴に突き落とされた、異世界人・タケルは、いまから三十分ほど前、こちらの世界へやって来た。いや、どうやら「帰ってきた」ようなのである。彼は近くの畑のど真ん中で仰臥した状態で目を覚ましてからこの三十分、状況の確認を抜かりなく行った。
どうも、彼は元々この世界から向こうに飛ばされて、図らずもレオンが言った通りこちらへと戻ってきた、Uターン転移を経験したようなのだ。
ようなのだ、というのは……。
タケルは、向こうのことは鮮明に覚えている。向こう《・・・》で最初に目を覚ましたとき、激しく負傷していたこと、志ある修道女に保護され、一月の療養に努めたこと、それから持ち前の、野草・茸の知識をもとに修道院の村を救ったこと。それからしばらくは、付近の野草や茸を採取・栽培に従事し、村の人々の助けとなった。
そしてレオンたちとの出会いから、今朝の悲劇まで、順を追って説明することだって出来る。
およそ、五年にわたる物語である。
しかしながら、向こうの世界においてタケルの生活を支えた野草・茸鑑定のスキルは、間違いなくこちらの世界で会得したものであるにも関わらず、いまとなってはこちらのことを全く思い出すことが出来なくなっているのである。
ここは、順で言えば「二つ前」の世界のことを、完全に忘れている。
いま、「白虎飯店」の店内にいる人々がいずれもタケルと同じ、黄色い肌に彫りの浅い顔、黒い頭髪や眉を備えていることから察するに、ここはタケルがかつて生まれ育った国であるはずなのに。
……とはいえ、である。
タケルは向こうでレオンたちと旅をしているとき、幾人かの「異世界人」と出会った。
そのうち一人が「これが二回目」という壮年の男だった。
彼の言葉を思い出しながら、こんどは慎重に、蓮華を口に運ぶ。
香ばしい油に覆われた米の一粒ひとつぶ、全体に行き渡った好ましい塩の旨み、ニンニクの香り、そして、チャーシューに凝縮された肉の味わい……。
長らく異世界に暮らしていた青年の舌にも、痛烈なまでに突き刺さる美味である。
「美味い……」
思わず溜め息が漏らして、タケルは唸った。
◯
その「異世界人」は、
「わしの嫁とガキや」
と、縁の擦り切れた写真を持っていた。当時のタケルには、それが「写真」だということは判ったし、異世界人が自分の元いた世界では「関西」の出身なのだろうということも想像できた。五歳にはまだなっていないだろう、小さな男の子の被っているキャップが、関西の野球チームのものであるということもすぐに判った。
「いうて、……『たぶん』なんやろけどな。わしはこの間、あっちへ帰ったんや」
タケルは思わず腰を浮かせた。そのときの彼にはまだ「あっち」の記憶があって、帰れるものなら帰りたいという願いを捨てきれずにいたのである。
しかし、なぜこの人は「たぶん」という言葉を使ったのだろうか。大事そうな写真、そして男の子は、この人に目元がよく似ているし、耳なんてそっくりそのままだ。紛れもなく息子ではないのか。
「うん、俺もそう思うてん。けどなぁ、……念願叶ってあっちに帰り着いた思たら、俺、あっちのことなんも覚えてへんねん。忘れてしもてんねん。ほれ、これ見ぃ」
男は、小さなノートにしたためた雑な文字の日記をタケルに見せた。
……梅田に着いた。阪急電車、阪神電車、地下鉄、JR、電車、バス。どこへ行ったらいいのか、そもそも、何をしたらいいのか、まるで判らない。街はまるで迷路のようだ。
人が溢れている。しかし、誰も自分のことを知らない。頼ることもできない。
この世界でのことを一つも思い出すことが出来なかった。
あれほど焦がれていた、家族への思いさえ。
であるならば自分は、何のためにこちらへ戻って来たのだ……。
この男は結局、こちらの世界へ戻ってきてしまったのだそうだ。いや、正確には、世を儚んで自ら命を断とうとしたのである。目的を見出せずただ無為に生きることは、おおむねの人間には酷く苦痛なのだ。
タケルは彼のしたためたという遺書も見せられ、足元が奈落へ繋がる穴へと化したような、あまりに暗く冷たい感覚にタケルは陥った。
自殺に成功したのか失敗したのか判然としない。ただ気付いたときには彼は、あちらで記した日記と遺書と、絶望の中でも肌身離さず持っていた写真を携えてにこちらに戻っていた。
「けどなぁ、今度は、前回こっちおったときのことが何も思い出せへんねん。難儀なこっちゃなぁ。けど、幸いにしてな、ここの主人がわしのこを覚えとってくれてなぁ。わし、日記付ける習慣があって、こっちでの出来事を毎日まいにち書いとってん……、それ読んでるうちに、なんや、思い出せたわけと違うねんけど、少しずつここで暮らしてたんやなぁって実感が湧いてきて……」
察するに、人間の記憶というものは、異世界との行き来に一度しか耐え得ないようなのだ。こちらとあちらを二往復、つまり四度移動した男は、一つ前の世界のことしか覚えていない。彼の場合は「日記」という習慣が暮らしを支えたが、タケルはこの話を聴いて以降も、いろいろあって日記を付ける習慣はとうとう身に付かなかったから、「前々回の世界=こちら」の記憶はまるでない、丸腰の状態でやって来ることになってしまった。
そんな次第で、現在、座舞市の中華料理屋「白虎飯店」でチャーハンを食しているタケルはこの世界の記憶はなく、しかしあちらの世界でも大事に持っていた財布と、その中身、現金二万円あまりが頼みの綱という、大変心細い状況である。
しかし、いまこの瞬間だけは、不安から切り離されているタケルだった。
だって、美味しい、美味しい……、チャーハンが美味しすぎる。
チャーハン、という食べものを、そもそも単語を声にして口にした記憶さえタケルにはなかったのだが、似た食べものはあちらにもあった。米ではなく麦でを用いていて、水っぽく、こちらでいうところのリゾットが近い。ただ、どこに行っても日本人、やはり「ごはん(っぽいもの)が美味しい」感覚を自分の身から切り離すことはできない。
夢中になっているうちに、あっという間に平らげてしまったタケルだった。それこそ、皿を舐める勢いであった。添えられていたスープも一滴残らず飲み干して、なにやら急に訪れた寂寞感は、実のところまだ満腹に至っていないからだろうか?
しかし、金が潤沢にあるわけではない。「白虎飯店」のスープ付きチャーハンは八五〇円であるが、所持金の「二万円」がこちらでどれぐらいの価値を持つものであるかは覚束ない。慎重に行かなければいけない……。
おばさんが声をかけてくれたのは、
「お兄ちゃん、ほらこれ」
どこへ行けばいいのかもまるで判らないが、ひとまず店を辞そう、と立ち上がり掛けたところだった。
半ラーメンである。タケルには、自身の両の手のひらで包める大きさのボウルに、深みのある赤褐色をしたスープの中に、黄色くて縮れたヌードルが沈み、その上に豚肉の薄切り、半切りの茹でたまご、それからネギと、何やら白字に赤で渦の模様を描いたギザギザの何か……、という具合に見えるのだが、醤油スープの半ラーメンである。
えっ、と顔を上げたタケルに、おばさんは暖かな笑みを返す。
「足りないでしょ、そんだけじゃ。わざわざ来てくれたんだ、これはサービスだよ」
固辞する言葉を、タケルは持たなかった。おばさんの言葉と小さな丼、たちのぼる湯気が、何も持たずにこちらへ帰って来てしまったUターン異世界人であるタケルに、いったいどれほどありがたく感じられただろう?
またぞろ目を潤ませながら、半ラーメンで腹の余白をしっかりと埋めて、タケルは何度も頭を下げつつ一万円を差し出した。
「おや、諭吉さんだよ。懐かしいね」
あちらにいた時間の流れそのままにこちらでも時間が経っていたのだとすれば、五年ぶりということになるが、その間にこちらの紙幣が刷新されたのである。もちろんそんなこと、タケルはつゆほども知らない。
「また来てね、待ってるからね」
はい、と頷くとき、こちらに戻って来て以来はじめて、目的らしきものがタケルの中に定まった。
この約束を守るためにこそ、こちらでの暮らしの基盤を整えなければいけない。
心細さが消えたわけではない。しかし、あてもなく歩いて行くよりは、この足取りはずっと確かなものとなるはずだ。
「ありがとうございます。……きっと、また来ます!」
小さくとも、決意を胸に店を出るとき、タケルの目には確かな光が宿っていた。と、そのタイミングで、カウンター、タケルの隣に座っていた女性客が、「ぶほっ」と咽せた。何やら辛そうなヌードルを啜っているなとは思ったが、あらぬところに入ったのだろうか。
「あらあら先生ったら、どうしたの」
盛んに咽せるその女性客におばさんが水を汲んで駆け寄る。タケルはしばしぼうっと突っ立ってしまったが、「お邪魔しました」と小さく言って、店を後にした。
この付近は佐波線の西を流れる佐波川が作った氾濫原であり、中華料理の「白虎飯店」が在する東星武商店街は段丘面とのちょうど境、崖に行き当たるところで終わる。座舞市を南北に横切る佐波線の切谷駅付近で目を醒ましたUターン異世界人・タケルは、駅から東に向かって歩き、商店街に入り「白虎飯店」に立ち寄り、いま、崖に行き当たろうとしているところだ。急な上り階段が曲がりくねりながら、高みへと消えている。
ではこの後、崖線に沿って南か北へ歩みを進めるか、それとも急な階段を登って段丘面へとよじ登るか。
ここへまた来るために、この街で生きていく。
そんな意思を携えたタケルは迷うことなく、階段を登り始めた。険しい道かもしれないが、今の自分には急な階段がぴったり合っているような気がしたのだ。
この先に何が待とうとも、俺は自分の足で進むんだ……。
そう思って、曲がりくねった階段をせっせと登り始めてほどなくして。
「あっ……、ちょっと! 待って! 待ちなさいっ」
女性の鋭い声が踵を叩いた。
振り返ったところ、タケルが三十段ほど登ってきた階段の下から見上げているのは、つい先ほど、カウンターで咽せていたあの女性である。
あちらの世界で、ともすれば迫害されがちな「異世界人」として暮らしていたものだから、後ろから「待て」と言われるとドキリとして、考えるより先に足が動き始めてしまうタケルだった。あちらにいたころは、異世界人としてよく兵士にそう声を掛けられ、素直に立ち止まれば長々と尋問されることになる。レオンから「面倒くさいから、『待て』って言われたら逃げろよ」と言い聞かされていた。
「あっこら、待て! 逃げるなぁ!」
女の、高く跳ねるような声が追い駆けて来る。どうして帰ってきた世界で女に追われなければいけないのか……、やっぱり俺の人生は、どこへ行っても前途多難なのかもしれないと、タケルは思わずにいられなかった。