三
「あの狐、火を……」
炎が灯す光が、狐の姿を浮かび上がらせる。
口から漏れる炎、それさえなければ、大きさも見た目も、普通の狐だ。
狐に向かって唸っている玉緒は、一歩後退った。また一歩、一歩と唸りながら下がってゆく。玉緒につられて柚と春太郎も下がると、背中に壁がついた。
猫又も恐れる、火を吐く狐。狐の正体は……
ゆっくりと近づいてくる狐は、途中で玉緒を見て一瞬、はっとした。すると柚たちの方に向かって、空中を風のごとく走り抜ける。
「うわっ」
てっきり攻撃をしかけられると思って身構えるも、狐は危害を加えずに姿を消していた。
「い、いまのは一体……」
「狐火……またしても妖怪を拝めるとは……」
春太郎は先ほどまでの緊張感に似合わず、うれしそうに言った。
まったく、この主はと柚が気を取られていると、玉緒に猫の声で呼ばれた。
「あっ……!誰かいる!」
先ほどまで狐がいた辺りであった。狐の出す炎では見えなかったが、暗闇に慣れてきた瞳には、そこには人が倒れているのが映った。
「う……」
駆け寄ると、十歳くらいの男の子が、小さい呻き声をあげていた。
すぐに男の子を弾正に家に連れて行って介抱した。
「特段、傷もないようだが、安静にしておいた方がよいだろう。しかし、この辺では見かけぬ子だな」
もしや狐火という妖怪に、何かされたのではないだろうか。男の子が倒れていたのは、狐火のいた場所の近くである。男の子に気づかなかったわけがない。
「ん……」
男の子が辛そうに顔を歪めて、意識を取り戻した。
「大丈夫?どこも痛くない?」
「…………」
自分を心配そうに見つめてくる人たちに、男の子はきょろきょろと視線をさ迷わせる。戸惑っている様子だ。
「お主は相生村の子か?どうしてあんなところに一人でいたのだ」
「……わからない」
「わからぬとはどういうことだ。お主は、今は使われていない屋敷に一人で倒れていたんだぞ。それをこの二人が助けてくれたんだ。肝試しでもしていたのだろう。最近は、妙な噂も出回っているらしいからな」
「何もわからない……自分が誰かも、どうしてここにいるのかも」
三人が一斉に顔を見合わせた。
「まさか、記憶がないのか……」
男の子は再び眠りについた。よほど疲れているようである。
近在にいなくなった子どもがいないかを確かめに、弾正が外に出たのを見計らって、柚は玉緒に声をかけた。
「玉緒……?」
屋敷から帰ってきてから、玉緒はぼんやりとしていた。
玉緒の正体を知らない弾正の手前、大人しくしているだけかと思ったが、柚は少し違和感を感じていた。
人の姿になった玉緒は、ゆっくりとその口を開けた。
「思い出した」
記憶喪失の男の子ではなく、玉緒の言葉だった。
「妖怪になる前に私、あそこに住んでた」
「え……!てことは、黄梅堂のご隠居さんの飼い猫だったってこと?」
「うん。あの屋敷を見て思い出したの。そっか……おじいさん、やっぱりいないんだ……」
玉緒はひとりでに屋敷の中に入っていったが、そのときに思い出していたのだろう。倒れている隠居の姿を見た玉緒は、外に飛び出して運悪く荷車に轢かれてしまった。隠居の死を確信しないまま妖怪に変じてしまった。どこかですでにとは思っていたけれど、本当にいないとわかって、隠居に可愛がられていた玉緒は、哀しくなったのだ。
下手な言葉はかけられないが、何とか慰めようと、柚が声をかけようとすると……
「きっと思い残したことがあるのよ!私が何とかしないと!」
しみじみするかと思いきや、玉緒は立ち上がって意気込んでいる。
玉緒は隠居に恩返しをしたいのだ。
「はりきっているところ悪いが、どうやら火の玉の正体は狐火だろう。隠居が彷徨っているわけではなさそうだ」
「火を吐いていましたよね。遠目にはそれが火の玉に見えてもおかしくないか……」
「成仏してるならうれしいけど……じゃあなんで、妖怪がいたのよ!」
今は使われなくなったはずの屋敷には、火の玉ならぬ狐火がいた。れっきとした怪異である。
「それを調べるのが、俺の仕事だ」
(にしても、落ち着いてるなあ……)
猫又に犬神、鎌鼬といった妖怪と出会った柚は、それでも新たな怪異に直面するたびに、驚かずにはいられない。自分よりも、たくさんの怪異を見てきたであろう春太郎は、狼狽えた姿を見せたことがなかった。
(怪異って、こんな頻繁に起こるんだ……)
身近には妖怪があふれている。すれ違う人々の誰が人間で誰が妖怪なのか、判別はできない。
「あの狐火って妖怪も、人間の中に紛れているんでしょうか」
「どうだろうな。妖怪のすべてが人間の姿になれるわけではないし、なれたとしても、玉緒たちのように人間と一緒に生活しているとは限らない」
「妖怪って、奥が深いんですね」
「だからこそ調べ甲斐がある。もっとも、調べたところで妖怪のよの字も理解できないのかもしれないな」
怪異について語るとき、春太郎は生き生きとしている。彼に振り回されながらも、最近では慣れてしまった。怪異が日常の一部になっているのである。
弾正が帰ってきて、玉緒は慌てて猫の姿になった。
「近在の者に聞いて回ったが、昨夜帰ってこなかった子どもはいなかったそうだ」
つまり、相生村の子どもではないということだ。しかし他の在であったとしても、子どもが一人であの屋敷にいるのは不自然だ。
夜更けにこれ以上は何もできないと、皆は眠りにつくことにした。
翌日の朝になっても、男の子の記憶は戻らなかった。妖怪に出くわした衝撃による、一時的な記憶障害ではなさそうである。記憶がないので、狐火を見ているのかもわからない。
「もしかして、狐火がさらってきた子なんじゃ……」
「狐が神隠しをするという話もあるからな。しかしどこの子かわからないうえに記憶を失っているのでは、確かめようもない。千に聞いてみるとしよう」
千とは、町奉行同心の井口千蔵のことである。同心であれば、行方不明になった子どもがいないかを把握しているところだ。春太郎と千蔵は幼馴染で、気軽に情報を聞ける間柄であった。
城下町に戻り、柚たちは千蔵を尋ねるも、
「直近で子どもがいなくなった届出はない。人攫いの事件があったのは、もう五十年も昔だってんだから、子ども一人いなくなりゃあ、騒ぎ立てるはずだ」
という返事であった。
男の子は棗藩には住んでいないという可能性まで、出てきてしまった。
「やっぱり遠いところから狐が攫ってきて、隠していたんじゃないですか?」
「神隠しかどうかはともかく、どうしてあの屋敷に連れ去ったのかが、いまいち釈然としない」
「住んでいたご隠居さんがいなくなって、人が寄りつかないからじゃ……」
「たしかに人を隠すには最適な場所だが、あそこに隠したところで、容易に逃げられてしまう。妖怪のすることは人間の考えの範疇ではないから、否定も肯定もできないところだ」
帰る家もわからない男の子は、体調も万全ではないので、しばらくは弾正の家で養生することになった。意外にも弾正が、つきっきりで看病している。
記憶のない男の子と狐火の、接点の有無さえわからないとなると、これも結びつきはないが、柚たちは黄梅堂を探ることにした。
玉緒は通い慣れている黄梅堂へ、柚と春太郎は、もう一度あの屋敷を調べることにした。
屋敷に行く前に弾正に聞いた話だと……
「黄梅堂の隠居、信兵衛とは囲碁仲間だった。儂は生涯妻は娶らないと決めているし、信兵衛は男やもめで子どもはいなかった。孤独な老人同士、気が合ったのだろう」
弾正が相生村に住み始めたのは九年前のことである。信兵衛の方は一年前から住み始め、半年前には亡くなってしまったから、短い付き合いではあった。
「いつも他愛ない話しかしなかったから、覚えていることも少ないが……そうだ、あの屋敷は一度、盗人に入られている」
「盗人!?」
「信兵衛がまだ存命だったときの話だ。金目のものは盗られなかったそうだが、大事なものを盗られてしまったと言っていたな。そのすぐ後だ、信兵衛が亡くなったのは」
お金よりも大事なものとは、何だったのだろうか。それが何かまでは、信兵衛は話していなかったらしい。
盗人が入ったのは信兵衛が不在のときで、部屋の中はかなり荒らされていたという。隈なく探せば、簡単に金は見つかったそうだが、金は一文も盗まれておらず、ある大事なものだけが盗まれてしまった。
「盗人の目的は金ではなく、もともとその大事な何かだったのかもしれない」
金目のものが目的ではなかった珍しい盗人である。そもそもの目的が、信兵衛の持っていた大事な何かだというのは、辻褄が合う。
意外といったら失礼だが、春太郎の着眼点は鋭い。
先日のお化け屋敷の事件も、怪異が絡み合いながらも解明してみせている。よい同心になっていたかもしれないと、現職の同心から言われたくらいだ。
(それに比べて、私って何の取り柄もないかも……)
人使いは荒くないが、平凡だ。悪いことではないが、周りには特殊な力を持った妖怪もいて、平凡さが浮き出てしまう気がした。
正直にしょげている表情をすれば、
「どうした?飯でも食いすぎたのか?」
と、春太郎に心配される。否、揶揄われているのか……
お陰で下降した気持ちはぐんぐんと、怒りで上がってゆく。
気を取り直して、柚は弾正に尋ねた。
「他に変わったことはあったんですか?」
「ないとは思うが……儂と同じで尋ねて来る者もおらなんだ。後を継いだ養子のことが心配だと、しきりに言っていたのう」
信兵衛は寂しそうだったと、玉緒は言っていた。
大切なものを盗られ、跡継ぎも心配とあっては、心残りがあるまま亡くなってしまったのかもしれない。
しかし、怪異と結びつくものはなかった。
二人は明るい中に、信兵衛の屋敷に着いた。
「昼間だと怖くありませんね。これから怪異の調査をするときは、昼間に調査しましょうよ」
「阿呆、怪異が活発になるのは夜だ」
「う……」
この主とやっていけるか心配になる柚であった。
昼間に来たからには怪異に会うためではなく、屋敷の中を捜索するためである。狐火や記憶喪失の男の子の手掛かりになるものを探しに来たわけだが……
「なんだか、盗人みたいですね……」
「誰だ!」
黄梅堂に許可をとらずに信兵衛の屋敷を捜索しようとしていたところを、急に声をかけられて、柚はびくりと身体を震わす。
振り返ると、二十も後半くらいであろう、男が立っていた。
「あ、えっと……」
盗人と思われてしまったのか。まさか怪異を調べているとも言えず、柚が口ごもる。
「黄梅堂の先代に世話になった者だ。いつぞやの礼に参ったが、亡くなられたそうですね」
咄嗟の嘘を吐いた春太郎に、感心する。自分が下手なことを言っていたら、絶対に怪しまれていたところだ。
「ああ、そうだったんですね。すみません。前に盗人に入られたことがあって、つい警戒してしまいました」
男は相好を崩しながらそう言った。物腰の柔らかい、感じの良い雰囲気である。
「黄梅堂で菓子を作ってる伊作っていいます。今日は先代の遺品を整理しに来たんで」
「せめて位牌に手を合わせたいのだが、店に行ってもよいだろうか」
「そりゃあもう、先代もお喜びなさいます。早く成仏してもらいたいですし」
「成仏って……」
柚は思わず聞き返した。
「最近ここには、火の玉が出るって噂があるんです。実際に見た方もいたとか……見間違いだとは思いますが、もしや先代の幽霊じゃないかとも……」
「つまり、先代が幽霊になっていてもおかしくないと……」
「はあ……」
内輪の話をしすぎたと思ったのか、男は口ごもる。だが、春太郎は上手かった。
「世話になった先代のことだ。聞かせてはくれないか」
男は意を決したように、言った。
「先代は……店を追い出されたんです」
「え……!だって、お店の主だった方ですよね。どうして……」
「いま店を継いでいるのは、先代の養子で茂介さんっていうんですが、その茂介さんが追い出したんですよ。茂介さんが店の主人になったときは、まだ先代は店にいたんですが、どうも先代のことを邪魔っ気にしていて、ついには追い出したんです」
信兵衛は跡継ぎのことが心配だったと、弾正に漏らしていたという。伊作の言ったような経緯があったとすれば、心配になるのも無理はない。
「ごだごだがあっても持ちこたえていますが……近頃は新しく雇った手代と組んで、何やらひそひそと話し込んでいるときが多いんです」
「その手代って……」
黄梅堂の手代と聞いて思い浮かんだのは、玉緒が焦がれている弥市だ。茂介とよからぬことを企てているらしい手代が弥市ではありませんようにと、玉緒のために祈る。
しかし、杞憂には終わらなかった。
「弥市って名前なんですが、素性もしれない怪しい奴で……どうしてそんな男を雇ったのか、奉公人たちは首を傾げてますよ」
弥市のことについて、玉緒に告げるべきか迷ってしまう。弥市はよからぬことを企むような男ではないと憤慨する姿も浮かぶし、落胆する姿も浮かぶ。
しかし、茂介と弥市が企んでいることは、何なのだろうか。調べれば調べるほど、黄梅堂の事情を知るだけで、怪異とは遠ざかっていくように感じる。
「先代が盗人に盗られたものはわかるか」
黙って伊作の言葉に耳を傾けていた春太郎が聞いた。
「……それは、わかっておりません」
伊作の手前、屋敷の中を調べることはできずに、二人は弾正の家に帰った。
一方、玉緒は黄梅堂の屋根裏に潜んでいた。
できるだけ黄梅堂を探ってこいと春太郎に命令されたわけだが、人間にこき使われている自分に、ふと情けなくなる。
これも亡き信兵衛のため。
信兵衛の飼い猫だった自分と、黄梅堂の手代の弥市との不思議な縁はうれしくもあり、何だか恥ずかしくもあり。今回は弥市に見つからないように、店の中に忍んでいるため、余計にこそばゆくなるのだろう。
しかし忍び込んだところで、何もわからなかった。あくせく働く奉公人たちは、無駄話の一つすらしていない。不首尾に終わるのも嫌なので、粘って様子をうかがっていると、弥市の声が聞こえた。
「落ち着いてください、茂介さん」
玉緒が覗き見る部屋の中には、頭を抱える男と弥市の二人だけがいる。弥市は茂介と呼んだ男を宥めている様子だ。
弥市にときめく気持ちを抑えて、音をたてないように目と耳を集中させる。
「私はこの店を継ぐべきではなかった……先代は伊作に継いでほしかったんだ」
「そんなことはありません。あなたに店を譲ったではありませんか」
「あとで気が変わったんだ!大事なあれだってもらっていない……」
「…………」