三
万石屋の神様憑きの事件は、一件落着した。
約二日、権助は飲まず食わずであったが、無事に回復の兆しをみせている。
「私を連れてきたのって、今後こういうことがあるってわからせたかったからですか?」
昨日の晩、化け物らしき存在を見た柚を、怪異の騒動があった家に連れてきたのは、図太いだとか、嫌がらせではなく、浦野家に奉公するうえでの心構えのようなものを、知ってほしかったからではないかと、主人に聞いてみる。
「そうだ。今までの女中は、夜にお化けを見ただけで辞めてしまったが、お前だけは意固地になって残ろうとしているからな」
意固地という言葉は余計だ。しかし、継父のいる家にいたくないという気持ちに嘘はないので、反論もできない。
その意固地な気持ちを除けば、怖いものは怖い。家に帰りたくないという理由がなければ、柚だって化け物を見た時点で、辞めてしまったかもしれないのだ。
今晩は耐えられるだろうか。そもそも今晩もお化けがくるのだろうか。浦野家で働くということは、これからたくさんの怪異と関わるということである。
そんな家に耐えられるのかと、聞かれているようであった。
「お前を連れてきたのは、あともう一つ理由がある」
「はい」
「実家で一番高い茶葉と、前に勤めていたという饅頭屋で饅頭を買ってこい。俺は先に帰っている」
主の命令に、柚はいったんではあるが、奇しくも家に帰ることになった。
「あ、柚!」
姿を見つけたとたんに、店先にいた定次は笑顔になる。
音を上げて帰ってきたと思われたか。不服なので、すぐに要件を言った。
「お茶を買いに来たの。今日は藩の偉い人が来るみたいだから」
棗藩で右筆役をつとめる、柚たち町人からしたら一生拝むこともないような人が、夜更けに訪ねて来るらしい。ならば茶請けも高いものにすればと言ったが、春太郎は美味しければ問題ないと答えた。お茶は値段によって違いがあるが、お菓子は安くても美味なるものがあるとは、その偉い人が言ったことらしい。
「おっかさんは?」
「ちょっと出てる。すぐ帰ってくるよ」
なんだ、いないのかと思うのは、奉公を始めたばかりの母恋しさだった。
「一番高いやつね」
と言われ、定次はうれしそうに茶葉を袋に詰めている。何がそんなにうれしいのか。不快だ。
「お金はいいよ」
「旦那様からちゃんとお金はもらってるもん。それに、お客さんもいないし、お店つぶれちゃったら嫌よ」
「心配しなくても大丈夫だよ。うまくやってるから」
勝手に無代で高級茶葉をあげて、母に怒られてもしらないと言ってやりたくなったが、やめた。
定次とこれ以上、話したくないと思う気持ちは、やはり子どもじみていると自分でも感じる。
「少しお茶でも……」
「違うとこにも寄るから」
定次だって、柚の父親とは思っていない態度に、気づいているはずだ。奉公に行ったのだって、定次に対しての複雑な思いからである。
家族に踏み入れる定次も、無理やりに柚の心に踏み込むことはしていない。これ以上干渉すれば、あからさまに嫌われてしまうと、ぎりぎりのところで踏みとどまっている。その気遣いも不愉快なところだが、同時に罪悪感だってあった。
子どもでもないのに、自分の態度が情けなくなって、だからといって心は受け入れてはくれない。
もやもやしながら隣町にある饅頭屋を目指す。働いていたのは少しの間とはいえ通いなれた道を行くと、変わらない饅頭屋の姿があった。
「柚ちゃんいらっしゃい」
すぐに辞めてしまったあとも、かつての主人である老翁は相好よく迎える。急に奉公に行くと告げて驚いていたが、柚の複雑な気持ちを察して、止めようとしなかったのは、ありがたかった。
今でも心配してくれていたようで、おまけにこそりと饅頭を多めにくれた。
後ろめたい気持ちもあるが、主人の温かさに気持ちも軽くなる。早く帰らないと昼餉の準備に遅れると、浦野家までの道を急いだ。
客人が訪れたのは、戌の刻である。
二人の供を連れ、仰々しく駕籠でまかり越したその人の名を、左近寺隼人という。
棗藩の右筆役であり、藩の重要機密を扱う書記官にあっては、右筆役の配下とはいえ登城も許されていない、風史編纂係の浦野家とはまったくもって格が違うのだ。
柚も粗相をしないようにと身構えていたのだが……
「失礼します」
左近寺の前にお茶を置く柚の手は震えている。危なっかしいが、無事にお茶も饅頭も差し出すことができた。
で、心の中でほっと一息を吐いて、部屋を出ようとしたところで、左近寺に声をかけられた。
「見ない顔だな。新しい女中か?名は何と申す」
歳は五十半ばくらいに見える。身形も立派だが、愛想よく柔らかい笑顔で話しかけてくる様は、意外にも気安い感じだった。
「柚です」
「ほう。春太郎にしてはめずらしく、かわいい趣味だ」
と言ったまではよかった。
すっと伸びた左近寺の手が、柚の尻を触る。触るというより揉んでいる。
突然の行動に、柚は少しの間動けなかった。春太郎も呆然としたが、何かを言おうとして、それよりも柚の方が早かった。
ごつんという音が、部屋の中に響いた。
「な、なにをするんですか!」
柚は持っていた盆で、左近寺の頭を叩きつけたのだ。
気づけば手が動いていた。左近寺は痛そうに頭をおさえている。
次いでばたばたと、廊下を駆ける足音が聞こえた。
「殿……!」
柚の怒鳴り声にいち早く主の元に駆けつけたのは、二人の供だ。
二人の供には、柚が盆を掲げていて、左近寺が痛そうにしている構図がすぐに見えた。二人はぎろと、柚をにらむ。
しまったと、柚は思った。相手は藩のすごく偉い人。お尻を触られても我慢しなければならない存在だったのだ。
「おのれ、なにをする!」
柚をつかまえようとした二人を、左近寺が制した。
「大事ない。それに、儂が悪い」
お前たちは大げさだと、ことの張本人は気楽である。本気で無礼討ちにでもなってしまうのではという柚の不安も、杞憂に終わった。
(あー、まずいことしちゃったな……いきなりで驚いちゃったとはいえ、あの人じゃなかったら死んでたかもしれない……)
柚は平身低頭の態度で謝罪して、部屋を出た。
「ここはどんよりとしていて暗いからな。ああいう元気な子が来てくれてよかったじゃないか」
「元気だけが取り柄のようですから。しかし、若い娘に手を出すなど、大人げないですな」
「ははっ、男子たるもの生きがいではないか。それにしても、茶と菓子の味が良くなったな」
「あの娘の実家が茶問屋でして……菓子もここに来る前に働いていた店のものになります」
「それは、悪いことをしたな」
つい触ってしまったというのが左近寺の言い分だが、もともとの非は彼にある。厳格ではないが、調子がいい。
春太郎は切り替えるように尋ねた。
「それで、ご用件は?」
「実は小耳にはさんだことがあって、調べてもらいたい」
同じ文官とはいえ、登城を許されている左近寺家と許されていない浦野家。右筆役の中でも、風史編纂係の存在は影が薄く、普段は話題にもならない。なのになぜ、左近寺は浦野家を訪ねてくるのか。
棗藩内の怪異の噂や事件があれば、それを調べるのが風史編纂係である。左近寺はちょっとした噂でも耳に入れば、春太郎に教える、というのが建前で、本当は怪異の絡んだ出来事に興味があるだけであった。怪異の探求を楽しんでいる春太郎とは、とても気が合うのだ。
左近寺が用件を話し終えると、落とすように言った。
「清之進は元気にしているか?」
「はい。相変わらず、本の虫です」
この清之進という人物については、また後ほど……
翌日、柚は憂鬱な気持ちで春太郎の後ろを歩いていた。
(幽霊憑きの次はお化け屋敷だと……)
朝、春太郎に今日はお化け屋敷に行くからついてこいと言われ、素直にぎょっとする顔をして見せた。
「昨日の万国屋の事件で、この家のことはよおっくわかりましたから。それに、私が行ってもお役に立てませんし、ご遠慮します」
というのも、まだ化け物を見た恐怖が消えていなかった。昨夜は何も見なかったし、不思議なことも起きなかったのだが、また化け物が来るのではとなかなか眠れなかった。
夜の化け物、幽霊憑き、お化け屋敷と三日も続いては、我が身がもたない。
「心配しなくても、今度はお前にも役に立ってもらう」
(そういう心配はしてない……)
だめだ、正直に怖いと言おう。この主に遠回しに言ったところで通じないのだ。
「あの……」
「嫌なら家に帰ってもいいんだぞ」
「なっ……」
違う、主は恐怖心もお見通しなのだ。怯えているのを承知で、お化け屋敷に連れて行こうとしている。しかも、家に帰りたくないという弱みにつけこんできた。
「い、行きますとも……」
こうして柚は、寝不足のだるい身体と恐怖を引きずって、春太郎について歩いている。
「お化け屋敷を見るのも、風史編纂係の仕事なんですか?」
「妖怪がいれば、お化け屋敷でもどこでも見に行くのが仕事だ」
「妖怪……?まさか、幽霊はいても妖怪なんているわけないじゃありませんか」
「どうしていないと言い切れる」
「だって、そんなのいるわけ……」
柚が化け物の姿を頭に過ぎらせたのと、春太郎が言ったのは同時だった。
「お前は一昨日、とても恐ろしいものを見た。それが幽霊ではないと、どうして言い切れる」
わかるのは、この世のものではない何かということ。何かを分類するなど、素人の柚にはできっこない。
しかし、呆気にとられる話だ。立て続けに怪異を見た柚だが、不可思議な存在に対して抗体ができるほどには慣れていなかった。
そうこうしている間に、件のお化け屋敷に着いた。
お化け屋敷は城下町を少し外れた、街道近くにある。街道付近にはわずかな宿場と、気持ちばかりの娯楽施設があるだけの、小さな宿場町が広がっている。その中に、お化け屋敷もあった。
「ぜんぜん人がいませんよ。流行ってないんですかね」
混雑はしていないものの、子ども連れの家族やら旅人たちの姿はちらほらと見える。しかしお化け屋敷に出入りする人はなく、静まり返っている。
「これを持っておけ」
お化け屋敷に入る前に、春太郎から手渡されたのは、昨日も見た札であった。
「私、神様も幽霊も憑いていませんよ」
瞬間、昨日やられたように、べちっと容赦なく額に札を貼られた。
「う……」
「いいから持っていろ」
この主の考えていることは、まったくもってわからない。否という言葉を言わせることもなく、春太郎はすたすたとお化け屋敷の前に進んでいく。柚もあわててその後を追った。
「いらっしゃい。お二人でござんすか」
「うむ」
木戸口にいる男は暇そうにしていたが、客の姿を見るなり居住まいを正して応対する。たいてい芝居小屋だの、こういう場にいる者は愛想のいいものだが、どちらかというと目も鋭くて怖い印象だ。それとも閑古鳥が鳴いていて、愛想よくする気力もないのか。ともかくも、二人はお化け屋敷の中に足を踏み入れた。
「中は暗いんでお気をつけて」
と言って、男から手渡されたのは、提灯だった。
入口の幕を抜けると、たしかに提灯がなければ先がわからないほど、真っ暗である。柚はあまりの暗さに二の足を踏んだが、春太郎はさっさと先を行くのだった。
「ま、待って……」
一人では入れなかったであろう場所は、誰かと一緒であっても怖いものは怖い。
まずはじめは台の上に並べられた、生首たち。作り物かと思われたそれの一つが、ぎろっと二人の方を向いた。
「うぎゃっ!!」
続いて井戸から這い出る女のお化け。他にも追いかけてくる亡霊や宙に浮かぶ火の玉……そのどれもに柚は悲鳴を上げるほど怖がっていたが……
「俺には何が怖いのかわからん」
と、堂々と言ってのけるのは春太郎だ。
(妖怪がどうのこうの言ってたけど、何しに来たんだ……)
お化け役の人も、春太郎のような存在には困り果てている。いえいえ、十分に怖いですよ。この主が恐怖に鈍感なんですと言ってあげたい。
でも……
(なんでお客さん、いないんだろ……)
作りも手が込んでいて、子どもだましの域を超えている。春太郎は別として、柚の反応は大げさではないのだ。
盛況ではなくても、もう少し客足があっておかしくはない。
「にゃー」
あとは出口を目指すだけのところで聞こえた。春太郎も立ち止まっているので、彼にも聞こえているらしい。
猫の声がして、確かめようとした柚は、化け物を見てしまったあの日の記憶が蘇り、決して声のする後ろを振り返ってはいけないと、必死に自分に言い聞かせている。すぐ後ろに化け物がいる……そんな気がしてならない。
早く、先に行きましょうという声は、押しつぶされて出なかった。
春太郎は怖いものなしに振り返っている。今度は、後ろはどうなっているのかと聞こうとするも、がたがたと何かが落ちるような音がして、柚も反射的に振り返ることになった。
通ったときには整然と並べられていた荷物が、見事に崩れている。春太郎と柚以外に、人はいない。ではなぜ荷物は崩れてしまったのか。もともと不安定な置き方をしていたのが崩れたのか。それとも……
(妖怪……)
って、そんなわけはない。己の突飛な考えのお陰で冷静になれた。こんな考えが浮かんでしまったのも、連続で不思議なものを見ている所為だ。
「あっ……!」
荷物の崩れた場所を照らすと、荷物の下敷きになっている猫がいた。
抜け出そうともがいているが、重くてびくともしていない。柚は急いで荷物をどけてあげた。
人間にはそう難ではない重さであったので、すぐにどけることができた。しかし猫は弱々しく横たわっている。
「怪我してるのかな……」
春太郎が猫に提灯を近づけたそのとき、猫の目がきらりと光って、柚の腕をかいくぐり走り去ってしまった。
さすが野良猫、人に懐かず助けてくれた人間にもぷいとするのだと呆気にとられるか、それとも元気に走っていく姿に安堵するべきか。ともかく、化け猫ではなかった。
二人は気を取り直して、出口を目指す。
やがて明かりの漏れる出口が見えた。
「ありがとうございました」
提灯の明かりを消して、出口にいる男に手渡す。男は提灯を近くに置いた後で、出口の幕を開けた。
「紛れ込んじゃった猫ちゃんはいたけど、普通のお化け屋敷でしたね」
「やはり何も起きないか……」
また眩しい外の世界へと出た。外も、お化け屋敷の中も、何も変わったところなどない。
(もしかして、お札が効いたのかな)
春太郎は何か気になることを呟いていたが、何も起きなかったのであればそれでよし。立て続けに怪異に見舞われるのは、まっぴらごめんだ。何も起きなかったことがうれしくて、すがすがしく空を仰いでいると、たくさんの視線を感じた。
通行人たちの視線が、柚にじっと集中している。指をさす子供までいて、母親にたしなめられていた。
なんだなんだと狼狽えていると、柚の元に駆け寄ってきた壮年の女が言った。
「お尻のとこ、破けてるわよ」
「え……!」
あわてて後ろを触ってみると、着物は真一文字に破けていた。