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棗ノ怪異物語  作者: 夏野
濡女ノ怪
20/29

(う……寒い……)

 早朝、浦野家から叩き出された柚は、寝間着のまま花乃屋を目指していた。寒さが骨身に染みて、眠気は吹き飛んでいる。

 まだ棒手振(ぼてふり)の声も聞こえていない。まったく、なぜ追い出されなくてはいけないのかと憤慨もしたいが、寒いという気持ちの方が勝っている。

「にゃー」

 玉緒は猫の姿のまま、心配してついて来てくれた。というより、一緒に追い出されたという表現が正しいのか……

「こんな刻限に追い出されて、私たち可哀想ね」

 花乃屋に着いた柚は戸に手をかけるも、開いているわけがない。もう少しで両親は起きるだろうが、とにかく寒いので、待たずに裏から声をかけることにした。

「おっかさん、おとっつあん、開けて」

 柚、と寝ぼけた声で応えてくれたのは、定次だった。次いですぐに、小松が戸を開けてくれた。

「どうしたんだい、そんな格好で……」

 起こされた二人は、驚いた様子で柚を見る。

「鬼婆に追い出されたのよ」


 君江は庭の畑を見て、顔をしかめた。

 早朝に追い出した女中の顔が頭に浮かんで、さらにむっとする。

「春太郎!」

「そんなに大声を出さなくても、聞こえますよ」

 君江の機嫌は、最高に悪かった。春太郎は毎日これでもかというくらい溜息を吐いている。

 しかも寝てる間に、柚が追い出されてしまった。柚のことを気に入っていないのは明白だったが、まさかそこまでするとは思わなかった。

「もう一度よく、清之進さんと話してきなさい。弟だからといって、遠慮することはありませんよ」

 清之進に家督を譲ることを、君江は気に食わないのだ。

 兄妹二人が下した最良の決断だと何度説明しても、君江はわかってはくれない。

「何度話したところで同じです。私も兄上も不服はないというのに、どうしろというのですか」

 不服なのは君江だけだ。君江が納得してくれれば、すべて丸く収まる。

「……随分と反抗的になりましたね。あの女中の影響かしら」

「私が反抗的かどうかはともかく、柚は関係ありません。母上がなぜ柚を気に入らないのかはわかりませんが、彼女はとても(たくま)しくて、仕事でも役に立つんですよ」

「まあ!仕事の手伝いまでさせてるんですか!何を考えているのです。春太郎は、あの女中を甘やかしすぎですよ。庭に畑まで作らせて……」

「そもそもあの畑は、滝が若い時分に作っていたものです。柚が作ってはいけない道理はありません」

 清之進に家督を譲ることもだが、春太郎の柚に対する態度も、君江は気に食わなかった。

 柚が来てから、春太郎は変わってしまった。

 今までは何でも言うことを素直に聞いていたのに、逆らうようになる始末である。あの女中が春太郎を変えてしまったのだと、君江の怒りの矛先が柚に向けられていた。

「母上、畑の話より家督の件について、ご納得いただきたい」

「私は貴方のためを思って言っているのです。罪人の家族がどれだけ(みじ)めか、わかっているでしょう」

「…………」

 春太郎の父、つまり君江の亡夫は、汚職をした末に切腹している。同心株も取り上げられ、親子は肩身の(せま)い生活を送っていた。

 いま再び罪人の清之進が当主になれば、春太郎の立場が昔のようになってしまうのではと、君江は危惧(きぐ)している。

「では母上は兄上に、どうしろと……」

「私のように、浦野家から離れてもらえばよいのです。そうすれば口さがない者の声は少なくなるに決まっています」

「兄上は野上殿と暮らすので、この家にはおりません」

「いくら離れて暮らしていても、当主の位がある限り、また事を起こされては私たちに類が及びます」

「……縁を切ろと仰るのですか?」

 あまりにも非情だと、春太郎は君江を見つめる。しかし君江は動じなかった。

「もういいです。私は仕事に行きますので……」

 春太郎は憮然(ぶぜん)とその場を去った。

 清之進が帰るまで、あと八日……


「はあ……何なんだあの婆は……」

 ぐったりとした様子で、権助はおもんと共に花乃屋を訪れていた。

「千蔵の旦那より恐かった……」

 とおもんまでもが、被害に合ったようだ。

 同心の井口千蔵より恐れられているのは、君江のことである。

 権助とおもんは、柚が追い出されていることを知らずに、浦野家を訪ねていた。春太郎も見知った仲の二人は、いつも玄関からではなく、裏庭に回って訪れる。で、裏庭で柚の名前を呼ぶと、君江に怒鳴られてしまったという。

「不審者だの、出ていけだの散々言われて、こっちは旦那の知り合いだって言っても、聞く耳すら持たねぇ。しまいには、おもんを行儀が悪いだの(けな)すもんだから、思わず怒鳴ってみたが……」

「え!あの鬼……大奥様に怒鳴ったんですか?」

 柚はとても、言い返せる気がしない。

「それがいけなかった……鬼の形相(ぎょうそう)で、散々説教されたよ」

 君江からすれば、気安く裏庭から訪ねてきた町人の二人が許せなかった。しかも目の敵にされている柚の名前を言っていたので、余計に気に触ってしまったのである。

「こりゃあ柚も逃げ出すに違いないってここまで来たってわけ」

「まあ、追い出されたんだけどね……」

 柚と権助は、同時に溜息を吐いた。

(旦那様は大丈夫かな……)

 家督について、君江がすんなり納得したとは思えない。苦戦していることは間違いないのだが、清之進が帰るまでの日にちは残り(わず)かである。

 君江と会って疲れていた権助とおもんは、饅頭(まんじゅう)を食べて早々に帰って行った。

 店番を任された柚は、のんびりと考える。

 悩みに悩み抜いた春太郎が兄と決断し、何もかもが上手くいくと思いかけた瞬間、嵐がやって来た。浦野家のこともだが、柚は自分の立場も心配している。

 すっかり君江に嫌われていることは自覚していた。なので……

「女中を辞めさせられたらどうしよ……」

 そう(つぶや)くと、玉緒は心配そうに鳴いた。

 畑も作らせてもらえるし、帰ってくる清之進とも、もっと話してみたい。それに、風史編纂係の仕事をするのも……

(楽しい……って、怪異に巻き込まれるのは嫌だって、散々思ったじゃない!好奇心旺盛(おうせい)な主の影響で、感覚が麻痺(まひ)しちゃってる……あ!女中の仕事を休めるってことは、怪異とはしばらく無縁になるってことよ。何だか気軽になって……)

 と、そこまで考えると……

「げっ!……旦那様!」

 いつの間にか春太郎が目の前にいて、まるで怪異に出会ってしまったかのような声をあげてしまった。

「気を落としているかもしれないと見に来れば、随分元気そうで安心した」

「ははは……」

 怪異と関わりたくないと思っていた矢先、怪異を調べる人物に出会ってつい本音が出てしまった。

 昨日ぶりだというのに、春太郎の嫌みも懐かしく感じる。

「家にいると母上がうるさくて仕事ができない。しばらく上がらせてもらうぞ」

「あ、ちょっと……」

 小松と定次が不在と知ってか知らずか、遠慮のないことである。

(逃げてきたな……)

 君江の被害に遭った人たちはみな、柚の元にやって来る。

 はてさて、どうなることやら。嵐は簡単には去ってくれないようです。


「お前は風史編纂係の職を手放して、茶屋になる道を選んだか」

 にやりと笑い、十手をちらつかせながら花乃屋を訪れたのは、井口千蔵である。

「それも悪くはないと思うが、母上は発狂してしまいそうだ」

 春太郎も幼馴染みの気安さで返した。

「井口の旦那、毎度ありがとうございます。今日は特別におまけしてあげますよ」

「俺はお茶を買いに来たわけじゃねぇ」

 柚は思いついて、そっと千蔵に聞いた。

「井口の旦那も、あの鬼……大奥様の被害に遭われて来たんですね」

「ふっ……そろそろ鬼婆が来ていると思って、浦野家には行ってねぇよ」

 清之進が釈放される間近、きっと君江が来ているだろうと千蔵は推測していたのだ。そして、春太郎が花乃屋に逃げていることも、的中させていた。

「さすがですね」

「まあな。ところで春、仕事を頼みたいんだが……」

 柚はぎくりとした。春太郎に頼みたい仕事というのは、つまり怪異が関係しているのではないかと、勘が働いてしまった。

「私はお邪魔のようなので……」

「よし、すぐに行こう」

「って、早!まだ何も言ってないじゃないですか!」

「春は話が早くて助かる」

 行きたくないという気持ち以前に、柚は店番を任されている。今回は大丈夫そうと胸をなで下ろした矢先、小松と定次が帰ってきてしまった。

 案の定、春太郎には供を命じられるも、嫌だと駄々をこねれば、小松に(しか)られて、否を言えなくなったのである。

「怪異が絡んでいるんですか……?」

 もしかしたら、怪異ではないかもしれないという一縷(いちる)の望みをかけて尋ねるも、すぐに千蔵からは「そうだ」と返事をされる。

「ここ数日、栗摩(くりま)沼で怪しい女の目撃例が増えている。ある者は沼で幼子を見かけ、一人でいるものだから声をかけてみれば、いきなり牙を剥き出しにされて腕を噛まれそうになったそうだ」

「ひっ!」

「とても人間の形相ではなかったとか……」

 柚は想像して、腕に抱く玉緒を強く抱きしめる。

「またある者は、若い女が(うずくま)っていたので声をかけると、その女はむしゃむしゃと狸を骨まで食べていたとか……」

「ぎゃっ……!」

 柚の身体が震え始めた。

「またある者は老婆がいて……」

「もうやめてください!」

 たまらず、柚が声を上げる。

「ふん、春の手伝いをしている割には臆病だな」

(どうせ臆病ですよ!その臆病者を、主はこき使うんですよ!)

 柚が(にら)んでいることなどものともせず、春太郎が聞いた。

「怪我をした者は?」

「今のところいねぇな。腕を噛まれそうだの掴まれそうだのはあるが、実際に怪我をした者はない」

「幼子に若い女に老婆……」

「誰一人、同じ容姿を見ていねぇんだ。てんでばらばらばな何者かを目撃してやがる」

「ほう……」

 一行は、栗摩沼に着いた。

 誰の姿もなかったが、見えないだけでいるのではと、柚は気を抜かなかった。

「あとはよろしく頼む。なあ、春……」

 案内を終えた千蔵は、仕事に戻ろうとする前に尋ねた。

「鬼婆様の説得はできそうか?」

 春太郎と幼馴染みである千蔵は、君江を幼い時分から知っている。よく叱られた記憶もあるのだ。

「かなりてこずっている。妖怪より難しい……」

「そうか……俺では力になれんが、まあ頑張れよ」

「気にかけてくれるだけでありがたい」

 千蔵はその場を後にした。柚も一緒に帰りたい気持ちである。

「さて、頼りにしているぞ」

「へへ……」

 力なく笑って、だけど主との調査を待っていた自分がいることを、柚は噛みしめた。

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