三
一人でも柚の元に行こうとした春太郎を、決して行かせまいと、彼を止めた者がいた。
「こんな結界、俺なら壊せる」
猫又、そして狐火よりも凄まじい妖力がある月尾には、結界を壊すことは不可能ではなかった。だが……
「待て。相手の狙いは、月尾に結界を壊させることかもしれない」
「どういうこと?」
本人よりも前に、玉緒が聞いた。
「柚が狙いなら、人間には効かない結界を作ったところで無意味だ。この屋敷の中には柚と、得体の知れない何者かがいることは間違いない。その何者かは、柚を捕まえれば妖怪が来ることがわかっていた。そして結界を壊せるのは月尾だけだ。単なる深読みならいいが……」
並の妖怪には壊せない結界を壊せるといえども、簡単にというわけではない。かなりの力を消耗することになる。ましてや月尾は、古椿の霊に力を分け与えたばかりであった。
凄まじい力は減少してしまうのだ。
「すぐにへばりはしねぇよ。それに、妖怪が三体もいるんだ。人間の一人くらい助けられなかったら、妖怪の名が廃るぜ」
瞬間、月尾の周りに柔らかい風が纏わりついた。
千年を生きている妖怪の意地が、厄介な結界に手をかざす。頑なに傷さえも受けつけなかった結界には、亀裂が入った。
部屋の四隅にある行灯が、一斉に火を灯した。お蔭で辺りが見えるようになり、自分がいるのは大広間のような場所で、目の前にいるのは知らない誰かであるということがわかった。
先ほどまで春太郎だった人物は、明かりとともに、姿を変じている。
(やっぱり、旦那さまじゃなかった……!)
思わず、美人と言いそうになってしまった。
端正な顔は芸術でもあるかのようで、油断しそうになる。
「邪魅」
「…………」
男の声だった。てっきり女だと思い込んでいたので、意表を突かれる。
ここまできて、彼の存在を疑ったりはしない。彼は紛れもなく妖怪で、自らを邪魅と名乗った。
「まさか見破られるとは思っていなかったよ」
そう言ってはいても、驚いたような表情はしていない。
「あなたの目的は……?」
どこか氷のように冷たい笑みを張り付けた男は、意外にも渋らずに教えてくれるようだ。
「君が捕まれば、妖怪が助けに来るだろう?私はね、私のように強い妖怪が仲間に欲しいんだ」
(もしかして、月尾のことじゃ……)
邪魅は、柚の近くには妖怪がいることを知っている。そして強い妖怪とは、月尾のことを指しているに違いない。
「昼間は人間に化けて、あるいは姿を隠して、夜になれば当たり前のように町を跋扈していたのに、寂しいものだ。今では数すら減っている」
「な、何の話を……」
「君の大好きな妖怪の話だよ」
(玉緒たちのことは好きだけど、妖怪とか怪異が好きなのは旦那様の方だし……)
「猫又に古椿の霊……私の力に触れても、低級な妖怪が生まれるばかり」
相生村で生まれた二人の妖怪は、邪魅の力に触れたことで、妖怪と化していた。二人が同時期に誕生したことを月尾は気にかけていたが、ただの偶然ではなかったということだ。
「本来の力を行使できないのは、この世界がとても住みにくくなったからだ。きっとあと少しで、妖怪たちが過去の遺物、いや、忘れ去られてしまう日が来る。そうなる前に、人間たちにわからせないと」
「わからせるって……」
「妖怪は恐ろしい存在だ。その恐ろしさは背中合わせにあって、忘れさせてはくれない。人間に畏怖されてこそ、妖怪という存在は成り立つ。そうだね、もう一度、何百年も前のように、妖怪が妖怪でいられるような世界にしたいんだ。今の世では私の力は弱まってしまっている。だから、彼の力を借りたいんだ」
柚には理解できなかった。
妖怪の価値観も、今を生きる柚に昔の価値観もわかったものではない。
どのような手段で邪魅は理想を叶えようとしているのか、恐ろしくて聞けなかった。
「私は怖い……今だって、おしっこ漏らしそうなくらい怖い。それじゃあだめなの?」
「ならどうして、妖怪と一緒に住んでいるんだ。恐ろしい存在たちと寝起きをともにするなんて、できたものではないだろう」
「玉緒と月尾は特別だから。……月尾は、あんたの仲間になんかならないよ。月尾には大事な主がいるから」
「ふふっ……」
邪魅が浮かべたのは、ぞくっと身の毛もよだつ酷薄な笑みだった。
「なぜ月尾が彼に従っているのか、経緯はわからないけど、彼は犬神の主たる器ではない」
月尾の主も、自分の主も同じ。主を貶されて、反駁する気になった。
「自分が誰の主になるのかなんて、力は関係ないじゃない」
「……妖怪と人間は違う。気まぐれに弱い人間の僕になんか、なりはしないんだ。わからずやには思い知らせるしかないな」
今度は不敵な笑みを浮かべた。しかし、目は笑っていない。
(私にはお守りがある……)
邪魅の手が、柚に迫った。
大丈夫、大丈夫……と、声にすら出していないのに、心の中の声が途切れそうになる。
殺されてしまうのではないかという戦慄が、身体中に走った。
寸前に邪魅の手が迫ったところで、柚は固く目を閉じた。
「……!」
ぶんと、重い空気を切り裂く音が響く。
邪魅が後ろに飛び退いて、柚との間に一定の距離ができる。切り裂き、柚の前に現れたのは……
「伊佐三さん!」
恐る恐る目を開けて見えたのは、獣の姿で鋭利な刃を煌めかせる、鎌鼬の姿だった。
「こんなときはちゃんと名前を呼ぶんだな」
どうやら、伊佐三が助けてくれたようだ。
「お前の主が慌ててたから、こりゃあ何かあったと気まぐれに来てみてよかった。これで、あのときの借りが返せた」
伊佐三が営むお化け屋敷で起こった事件の犯人を捕まえたのは、柚たちである。当の柚には、恩を感じてくれるほど、何もしていないと思っているが、律儀にも伊佐三は忘れていなかったようだ。それは、伊佐三の意外な一面だった。
柚に感じ入る隙を与えないように、伊佐三が叫ぶ。
「早く逃げ……」
言い切る前に、伊佐三は弾き飛ばされた。柚の目には、鮮やかな鮮血が飛んでいる。
「鎌鼬が私に歯向かうとは……身の程をわきまえろ」
低い声で囁く邪魅には容赦がない。
激しい力で伊佐三は床に叩きつけられた。腹部からはどくどくと流血している。
自分を助けるために、伊佐三は大怪我を負った。邪魅に捕まらなければ、こんなことにはならなかった。早く、助けないと……
様々な思いを交錯させ、柚は伊佐三に駆け寄る。
(ばか……)
伊佐三は春太郎と別れた後、どうにも引っかかるものを感じて、彼の後を密かにつけていた。そして柚が真先家に捕らわれていることと、結界が邪魔をしていることを知る。
春太郎たちとは別の場所で様子をうかがっていると、なんと結界が徐々に脆くなってゆく。もしや月尾が結界を壊そうとしているのかと察して、伊佐三でも壊せるくらいに結界の効力が弱まったときに、鎌を振った。伊佐三が通れるくらいの穴が開いて、屋敷の中に侵入する。
いち早く柚を見つけたのは、伊佐三だった。
柚を捕えているのは、足が竦むような恐ろしい妖怪だ。力の差は歴然としていて、柚を助けに行ったところで、己がやられてしまうか、悪くて共倒れか。
だが、と伊佐三は考えてみる。
ここで見捨てれば、寝覚めが悪くて仕方ない。思えば柚は、不思議な人間だ。今まで人間を助けようなんて、一度も思わなかったのに……
間もなく、春太郎たちも駆けつけてくる。うまく逃げられるかもしれない。
だから、柚には一目散に、逃げてほしかった。
邪魅に抉られた腹部が痛くて、声を出すことはできない。逃げずに自分に駆け寄ってくる柚を、怒りたかった。
(大丈夫……)
今日は何度、その言葉を呟いたのだろう。
春太郎がくれた札を持っている限り、妖怪の攻撃は効かないと、信じている。
だが、本気になれば伊佐三でも壊せる札を、邪魅がどうにもできないわけがなかった。
伊佐三に放ったのと同じ衝撃が、柚を襲う。お守り袋はあっけなく壊れて、柚は鎌鼬の上に倒れこんだ。
「しまった……人間は弱いから、加減が難しい」
月尾を仲間にするには、柚を脅すことが効果的だと考えて、殺すつもりはなかった。しかし、彼女はぴくりとも動かない。
屋敷を駆け巡る、複数の足音が迫ってきた。
「柚!」
春太郎たちが飛び込んできたときには、終わった後だった。
横たわる柚と伊佐三、二人を見下ろす邪魅の姿がある。
「もう少し早く来てくれれば、彼女を殺さなくて済んだのに」
柚はうつ伏せに、血を流して倒れている。誰がそうしたのかは、一目瞭然であった。
玉緒は目がくらくらした。
大好きな柚が……信じられない光景である。絶対に、許せない……
誰もが柚と伊佐三を見て、固まっていた。邪魅は己の失態に、気を抜いている。
重くどよんとした空気に溶け込むように、静かに玉緒は猫の姿に変化した。玉緒が俊敏に邪魅に飛びかかるまでは一瞬の出来事だった。
邪魅は避けたが、玉緒の爪は、油断していた邪魅の頬を深く引っかいた。
「…………」
おびただしい血が出ているが、邪魅は無表情に頬に触れる。再び襲いかかろうとする玉緒を仕留めようと、一撃を繰り出した。だが、狐火の姿になった弥市がそれを弾く。
玉緒と弥市は、邪魅に敵意をむき出して立ちはだかった。
「主、やめろ!」
春太郎もまた、敵意を向けていた。とても禍々しく、淀んだ敵意である。
月尾は主のしようとしていることがわかった。
彼は、邪魅を呪い殺そうとしている。
風史編纂係を務める者は、身を守る札をつくることができる。しかし、その能力は守るだけのものではない。表が守る力であるとすれば、裏は呪う能力だった。
誰かを呪うことは、浦野家の掟で固く禁じられている。春太郎は禁を犯そうとするほどに、邪魅が許せなかった。
「止めるな……」
「俺一人で、充分だ」
きれいな黒い毛並みだった。月尾が変じた姿は、柴犬なんて、可愛いものではない。狼のように大きな体躯で、牙をむき出しにしている。
柚が怖がるだろうと思って、見せられなかった姿だ。
「つまらなくなったから、今日は帰るよ」
月尾が襲いかかると、邪魅はその言葉とともに姿を消した。
身体が、痛い。起き上がることができない意識は、自分は死んでしまったのかと覚悟させられる。
(伊佐三さん、ごめんね……あの世でちゃんと謝るから……)
果たして死後の世界に、妖怪はいるのだろうか。ぼんやりと、そんなことを考える。
「……け」
微かな声が聞こえた。伊佐三の声のように聞こえる。
(怒ってるかな……)
たとえ謝っても、伊佐三は許してくれないかもしれない。だって、自分を助けてくれた所為で、こんな事態になってしまったのだ。
「どけ……!」
「うわっ!」
柚は反射的に起き上がった。
身体は重く感じるが、痛みは消えていた。
「いつまでものしかかりやがって。傷が悪化して死んだら、どうしてくれる」
目の前には、不思議にも血が止まっている伊佐三がいる。
「やっぱり怒ってる……」
死後の世界で会えたのか。でも伊佐三は、死んだらと言っていた……
「柚!」
後ろを振り向くと、呼びかけた玉緒たちが勢ぞろいしている。邪魅の姿はなかった。
玉緒は目に涙を浮かべながら、柚に抱きついた。
「よかった……死んじゃったかと思ったよ……」
わんわん泣き出した玉緒に、柚は状況が理解できた。
てっきり自分は死んでしまったかと思ったが、生きていたらしい。伊佐三も大怪我はしているが、無事のようだ。
きっと玉緒たちが、邪魅を追い払ってくれたのだろう。
「玉緒、皆も助けに来てくれてありがとう」
誰しもがほっと一息を吐いた。
伊佐三は多少弱っているが、話すことが億劫ではない様子で、柚は怪我一つ負っていないとわかって、春太郎は軽口を叩いた。
「幽霊になっていれば、研究のし甲斐があったんだがな」
これも、安堵のなせる業である。
「何をされるかわかりませんので、幽霊になっても旦那様のところには現れません」
「……無事で、よかった」
こちらは本音のようだった。
(旦那様も心配してくれたんだ……)
もしかしたら心配してくれないと思っていたとは、失礼で言えない。
春太郎の顔を見ていたら、彼に変じていた邪魅に抱きつかれたことを思い出してしまった。
「…………」
「何を怒っている?」
「お、怒ってないです!」
あれは夢だった。夢なら、早く忘れようと、自分に言い聞かせる。
「なるほど……兄上が助けてくれたのか」
「え?」
春太郎は柚の背中から、あるものを剥がした。
「あ、硯さんたち!」
甲冑を身にまとった九体の小さい妖怪は、清之進の牢獄で見た、硯の魂である。
「それって、旦那様からいただいたお札ですか?」
お札を入れたお守り袋は、木端微塵になってしまったはずだった。
「兄上が書いたものだ。硯の魂に持たせていたのだろう」
清之進は硯の魂に、柚の様子を見るように命じていたが、その際に、自身で書いた札を持たせていたのである。
「…………」
春太郎は複雑だった。
自分の札は壊れても、兄の札は無事だった。柚を守ったのは、清之進の作った札である。
「伊佐三さんも、無茶をしますね」
「いつからいたんだ?」
弥市と月尾が、彼を労わりながら聞いた。
「柚がおしっこ漏らしたって、言ったときかなぁ」
「漏らしてないし!漏らしそうって言ったの!」
傷口をつついてやりたくなったが、可哀そうなのでやめた。
それよりも柚が気になるのは……
「月尾……」
玉緒だけは柚に抱き着くために人の姿に戻っていたが、月尾は獣の姿のままだった。
ずっとなってくれなかった獣の姿を、柚は初めて拝めたのである。
(しまった……!)
すぐに人の姿になろうとするが、柚にじっと見つめられて、動けない。悲鳴も上げなければ、怖がる表情もせず、月尾の予想とは違った。
「かっこいい……!」
柚は動物をかわいがるのと同じ感覚で、月尾に抱きついた。柔らかい毛並みが心地よい。
「怖くねぇのか……?」
「ちっとも。こんなにかっこいいなら、早く見せてくれればよかったのに」
予想外の反応だが、褒められていい気分になる。
柚に愛でられている月尾に嫉妬して、玉緒は唸っていた。
(いろいろと、想定外だった……)
柚を攫い、月尾を仲間にする計画は、うまくいくはずだった。
失敗したのは、邪魅という存在に臆することなく歯向かった、妖怪たちがいたからだ。
たった一人の弱い人間のために、命も惜しまない妖怪たちは、長年の時を生きる邪魅にとって、稀有な存在である。
(だが、やはり利用し甲斐がある)
稀有なのは、柚もだ。妖怪たちを動かせる柚は、利用価値のあると踏んだ。
(それに、もう一人……)
犬神の主としては分不相応だと思っていたが、彼は禁じ手を犯そうとした。
誰かを呪おうとする心は、簡単に芽生えるものではない。そして、実行できる者も限られている。
(彼を利用した方が、面白いかも……)
(風史編纂係の仕事は己に合わないと言い聞かせていたつもりだが、本当に合わないとはな……)
浦野家の血を引く兄こそが、浦野家を継ぐべき存在だと頑なに信じて、自らは余計な意思を持たないようにしていた。
柚を殺されたと勘違いした春太郎は、邪魅を呪おうとした。それは浦野家において、決してしてはならないことである。
あとになって春太郎は、自分がしようとしたことに打ちのめされてしまった。
自分は、浦野家に相応しくない。
兄を思えば致し方ないと考えるべきだが、正直にがっかりしている。
――風史編纂係って旦那様の天職みたいなものなのに、何だかもったいないですね。
柚はそう言っていたが……
(俺も、そうだと慢心していたよ)
一件落着してから、柚は再び清之進に会いに行った。
「柚ちゃん、ごめんね」
清之進には精一杯、申し訳なさそうにされた。
「悪いのは邪魅っていう妖怪で、清之進様は悪くないです。きっと、私が真先家に行くことを読んだんですよ」
あの日、真先家の家人たちは親戚の家に行っていたようだ。奉公人たちは各々どこかに行っていたようだが、なぜ真先家を一人残さず出てしまったかは、記憶にないという。
誰の仕業かは、言わずもがなだった。
「あの後、長一郎様にもお会いできて、本も渡しました」
「柚ちゃんはいい子だね」
清之進に頭を撫でられれば、一層に恥ずかしい。
子どもに思われているのではと柚は思ったが、清之進は妹のように可愛がっているのだ。




