Mr.DARKER STRANGE 第五章『錬金術師』
第五章『錬金術師』
研究所が把握しているダーカーは、現存するダーカーの約五割と言われている。
確認されたダーカーの数と、死傷者の数を照らし合わせて、そこに自分たちが集めた想いの数まで計算に入れた結果の、存外信憑性のあるものだ。
演算によって限りなく正解に近い数字が出されているのは、それでけではない。異能の種類数、東洋帝国の文化圏から推測した生み出される可能性のあるダーカー、そんな観測すらしていない存在ですらも、『デュカイオ・シュレー』は把握しているとされている。
異能は、人が死ぬ間際の想いが宿ったもの。
それほどの強い念が、簡単にカテゴライズされ異能になるのは難しい。では、どうして異能は生まれたのか。
それは、その地に伝わる伝承や、言い伝え。当時の世間が関係していた。
天使や魔女、錬金術師は、その地区一帯に伝わっていた宗教や、漠然としたやけくそなイメージから生まれたと推測されている。逆に、魔法少女や淫魔など、狭義の想いは、魔法少女が神聖化されているといっても過言ではない保育区、淫魔のようなものは繁華街などで生み出されたと考えられている。
そして、ナイト・リゲルの異能、ナースも、その一つであった。
『フレンダーの審判』が起こった当時の東洋帝国は、それはもう酷い有様で、病院などの医療施設は軒並み崩壊。人々の心に医療という選択肢が浮かばないほどの地獄だったそうだ。
では、そんな中でどうしてナースなどという異能が宿ったのか。それは、紛れもないナイト・リゲルの功績であった。
彼女は、たった一人教会に残り、生を求めて手を伸ばす人々を救済し続けた。そこで初めて、人々はナースに想いを馳せた。
しかし、世界はそこまで甘くない。当時幼かったナイトの手で救えた患者は、たった一人。
今のナイトならば助けられた人間も、当時の彼女には救えなかったのだ。
そんな彼女の奮闘に、死ぬ間際の人々は想ったのだ。どうか、彼女に恩恵を、と。
そんな想いは、決して多くはなかった。しかし、その一つ一つの濃度が桁違いだった。有象無象の願望でも、雑多の醜い肉欲でもない。
それは、心の底からの、文字通り死にそうなほどの、彼女への想い。天への願い。
そうしてできたナースの異能は、まるで還るようにナイトに宿り、ナースのダーカー、ナイト・リゲルを生み出したのだ。
そんな生い立ちだったから、そんな異能だったから、能力の推測も難しく、そもそもの露出の少ないナイトの情報は、『デュカイオ・シュレー』にも掴めなかった。
錬金術師レベリリオン・サブレリアが勝てる未来の見えないダーカー、それこそ、この能力不詳。ナイト・リゲル。
「キョウシュウ・ヒューマ、という人物を知っていますか?……知っていますよね、研究所の悲願ですから。」
白煙を切って、修道服を揺らしながらナイトが進む。
崩落する土塊は、残響の被害者だったとしても大きい。初動でふるい落とされた岩や石の類。それと同じくらいの脅威を、それは持っていた。
しかし、そんな所詮現存する天災に、生み出された天災が恐れをなすはずがない。
自然というのは、確かに恐れるべきものだ。それを甘く見た人類が、今までにどれほどの損害を被ってきたのか。考えれば、それらは畏怖ともしもで塗り固めなければならない爆弾であると理解できる。
そんな自然や天災も、ダーカーという災害には勝てない。
明確な目的のない、自然災害という天災は、その言葉通り自然に引き起こされるものだ。
しかし、ダーカーというのは恐ろしいことに、そこに必ず人間の意思が介入するのだ。
それが肉欲であれ羨望であれ、憧憬であれ、そこに自然などという他人行儀なもしもは存在しないのだ。
だからこそ、的確な悪意や意思を持ったダーカーは、命をその手に何度も、いくつも握ってきたナイトは、既に世界に恐怖という感情を残していない。
あるのは、目前のダーカーに対する、的確な悪意。それをどうしようかという、意思。
がしかし、そのまま攻撃のトリガーに力を込めるというのも芸がない。動きにくそうな修道服に隠された魅惑の肢体を艶めかしく揺らしながら、ナイトは矮小な錬金術師に視線を下した。
「私は、彼の味方です。あなた方がどう足掻いても、あなたが、どう頑張っても。」
「なんで、……どうして、この世界の意思に背くのですか、我らの正義に、意を唱えるのですか?」
口の端を流れる鮮やかな赤の血泡を拭い、レベリリオンは理解できないという風に問いかけた。
世界最高峰の頭脳の結晶。『デュカイオ・シュレー』は、この世界の意思と同義。
たとえそれが地球の全人類を滅ぼすことを目標として据えていたとしても、地球に住まい、『デュカイオ・シュレー』の恩恵に縋ることしかできない矮小な人類には、否定の選択肢がない。
なぜなら、それが正義だから。紛れもなく、この地球の総意であるから。
ならば、どうしてその意思に従おうとしない?それが、一介の錬金術師には不思議でならない。
どうしてこの愚かなダーカーは、後の世界の王である主人に、風 隣杯に従わないのか。そんな疑問を恐怖をかいくぐってまでもぶつけてしまうほどに、彼女はナイトの選択に隠された理由が知りたくて仕方がなかった。
それを聞いて、ナイトも理解できないという風に首を傾げる。
しかし、恐怖や焦燥や陶酔に歪んでいたレベリリオンと違って、その表情は美しく整ったままだ。
この状況の趨勢の一端を見た気がしたが、そこで馬鹿正直にそれを教えてやるほど、ナイトは悠長さというものを嫌っていない。
あくまでその余裕を指先に宿して、プルンと瑞々しく輝く己の唇に触れる。
「私のルーツは、治療だったそうです。」
「ぁ?」
「私の治療で心だけでも救われた、そんな人たちの想いが、今の私を作ってくれている。」
ナイトだけでも、彼女だけは、そんな願いの方向は、一心に、ナイトにしか向けられなかった。
誰でもいいから肉欲を発散させてくれ。誰でもいいから魔法で助けてくれ。誰でもいいからこの愚かな人間を裁いてくれ。
そんな、抽象的な願いによって生み出された他のダーカーとは違う。
ナイトは、明確に、ナイトのために、ナイトだけのために生み出された想いによって生まれ、生き永らえているダーカー。本質は、世界の意思を背負うセクタと遜色はないのだ。
彼女も、誰かにとっての愛すべき、救うべき人だったのだから。
「だから、私もそう願うのです。私が救った彼を、彼しか救えなかった私を、どうか恩恵のもとに導かんと。」
与えられた恩恵は、信じられないほどに大きかった。それによって命を救われたことが、何度あっただろう。
だから、ナイトはそれを授けてくれた人に感謝を忘れられないし、どうしても想ってしまう。
だから、次にそれを返すのは自分だ。
あの日、貰いすぎてしまった分を、全部、全部、自分が返すのだ。
けれど、そう簡単にことは進まない。たくさんの幸福を貰ったのに、自分はその幸福を返す手段を知らない。当たり前だ。誰かに与えることは簡単でも、貰ったものを返すというのは彼女にとっては困難を極める。だって、彼女には既に返すべき人がいないのだから。
であるならば、不幸を貰い受ければいい。
もう、自分が享受されていい幸福は終わった。
次は、これからは、不幸を貰い受けて、あるべき場所に戻す番だ。
救われない人の不幸を貰って、その不幸を自分のものにする。そして、それを天誅とする。
いわば不幸の仲介者。命を尊ぶ、命の操り手。
それが、あの日命を救ってもらった自分が、死に絶えていった彼ら、彼女らに返せる、善行の証明である。
彼らが死んだことは無駄ではなかったのだと、声高に叫ぶ、たった一つの手段である。
そんな、遺志を継いで、意思を超え、意志を手向ける少女の、決意と覚悟の一戦。それが、こうして仕組まれた戦場の種明かし。
ここで『デュカイオ・シュレー』の暗躍を止めて、少しでも命の重さを大きくする。そのための攻防であり、仕込みであり、待ち伏せであり、彼女の成す、他の誰でもないナイト・リゲルの成す、恩返し。
「そしてあなたは、こうして現れてくれた。自分から研究所という絶対の城を捨て、この最恐を求めて、ノコノコと。」
ナイトの力では、研究所は最強の城。攻め入ることなど不可能だ。それこそ、魔女たちのように徒党を組むか、更に強力な異能を持つダーカーを探さなければならない。侵入すら、容易ではないだろう。
しかし、この封印施設なら、『デュカイオ・シュレー』の幹部級の人間が来てもおかしくない上に、セキュリティの総合的な難易度が確実に落ちる。
たとえセキュリティシステムが『デュカイオ・シュレー』の本部と同等レベルのものであったとしても、それを最強の城たらしめている地理的な要因が、この封印施設にはない。
だから、この錬金術師を打倒して、少しでも研究所側の戦力を落とす。それが、ナイトがヒューマに与えてあげられる恩恵。
ただ唯一の誤算だったのが、研究所の超重要人物であるダーカーが来ていたこと。
幹部級の重鎮どころではない。計画の一端を担っているといってもいい、風 隣杯に一番近い存在がノコノコと現れたのだ。ナイトからしてみれば嬉しい誤算。
がしかし、レベリリオンからすれば恐ろしいまでの不幸である。
そもそもの異能が不明瞭、その上、なんの対抗戦力の算段もない相手。自分が唯一勝算のない相手と遭遇してしまうのだから。
「舐めてんじゃねえぞ所詮、医者が……」
恥も外聞も放り出して、自分を取り繕うことさえ投げ出して、レベリリオンは怒りに拳を震わせた。
爪を食い込ませ、神経質なほどに汚れから隔絶された手袋に血を滲ませて、彼女は震えていた。
怯えていた。
敬愛する主に頼まれた仕事であるのに、それを遂行できない。ましてや、恐怖で戦う意思すら出てこない自分に、心底失望し、憤怒した。愚かだ。
命など、とうに主に捧げていたはずなのに、どうしてこんな安っぽい恐怖に震えなければならないのだ。
いや、違う。それは、ただの恐怖ではない。自分の命が惜しいという自分本位な恐怖ではない。
寵愛を賜った主から、直々に下された命令に、たったの一片の奮闘すらなしに命が絶えることへの拒絶。
あくまで主のための、あくまで自分などという矮小な存在などを気にかけるということではなく。
止まった震えのまま、すっと息を吐いた。歪曲した息から、音が漏れた。
「異能解放」
一瞬のノイズ。
ナイトの眼球に投影されたのか、はたまた、確かな実態としてこの世界に顕現したのか。不可解な三角形によって生み出される多角形の虚無が、時間の流れの合間合間を虫食いのように奪い去って、円滑な世界の侵攻を妨げる。
それは、ともすれば見慣れた光景で、見慣れてはいけない光景。
「そのガキごと、ぶっ殺してやる」
紛れもない、異能の気配だ。
レベリリオンの足元でノイズが瞬く。
錬金術。それは、等価交換を原則とする物質の変換だ。ただ等価交換と言っても、そのためには物質に価値を付けなければならない。
しかし、果たして。その基準は一体なんだったろう。
物質すべてに当てはまり、何にでも明確に数字を付けることのできる単位のようなもの。それは、一体なんだろう。
泥から金を生み出す。それは、錬金術ではなく、最早魔法の類だ。
錬金術ならば、泥ではなく、その金と同等の何かを用意しなければならない。だが、金と同等のもの、という漠然とした価値観は、人間の主観によって容易に覆る。
そこで、全共通の価値の指標が必要なのだ。全ての物体に、価値を教えなければならない。
だから。
計る。測る。量る。
★
錬金術師としてレベリリオンが最初にした作業。それは、価値付けだった。
視界に入ったものの全てが、どれくらいの価値なのか。それを考える中で、自分が見て一目瞭然の価値のはかり方を探さなければならないと聡明な彼女は、数分の熟考の末に気付いたのだった。
科学者であるレベリリオンが、物に対しての価値の付け方を考えつかない。
たとえ頭の方がイカれていたとしても、『デュカイオ・シュレー』にいる以上、彼女の頭はイカれているだけではない。しっかりと切れる。
そんなレベリリオンが、価値のつけ方に見当がつかないなどと抜かすなら、彼女はその研究所の器にない。だからこそ、実際彼女は数多の価値の基準を想起した。
原子の数?配列?金額換算?
何度でも考えた。しかし、そのどれもが自分には当てはまらないと、直感で、しかしはっきりと確信した。
それが、物理的に難しい、概念的に難しい、感覚的に難しい。
では、物の価値への指標を、彼女は何と定義したのか。エッセンスの数だ。
錬金術はかつて、四元素の法則によって成り立っていると考えられていた。
もちろん、錬金術が本当に存在していなかった時点で、その四元素の法則は既に否定されているのだが、その考え自体は確かに存在していて、仮説だけのものだったとしても面白い考え方だということは事実だった。
そんな四元素の法則は、空気・闇・球・光の四つの要素によってこの世界の全ては作られているという考えで、錬金術はこの四元素の形を歪ませることで、等価交換の交換を行うというものだ。
その物質の内部にある四元素の量はそのままで、四元素の配置を変えるだけ。それが、等価交換の等価を実証する。
多くの文献に目を通してきたレベリリオンの脳内で、そのかつて科学だったオカルトを救い上げようとする手が確固とした決意でもって差し出された。
それが、レベリリオン・サブレリアの能力の目覚め。錬金術師としての、開花。
四元素の総量を指標として行う錬金術。古代アンダレア式錬金術。
物質にありもしない四元素を付与して、あまつさえそれを弄ろうとする、概念レベルの異能。
それは、レベリリオンの錬金術を、確かな力を認める、最初の一歩であった。
★
ノイズは、足元から両足を駆けあがり、やがてレベリリオンの白衣の中に潜り込む。
そして、何かに当たって弾ける。
それが何か予想することのできないナイトは、恐れるべきだ。警戒するべきだ。応戦の構えを取るべきだ。
しかし、彼女の無表情は揺らがないし、その凛とした佇まいに恐怖は感じられない。
「ちょっとは見ろや!怯えろや!」
レベリリオンの手が空気を掴んだ。比喩的な表現ではない。彼女の五指は、確かに空気を掴んだ。物質に四元素を定義して、その支配権を掴んだのだ。
まるで透明なベールを掴むように空気を掴むレベリリオンの指先には、掴まれるという元来存在しないはずの経験にエラーを示す空気たちの白いノイズが迸っている。
そんなダーカーの異能を最大限解放した所業に、とうとう破壊力が伴い始める。
四つの光り輝く橙色の球体が、レベリリオンの右腕を周るように周回し始めた。とてつもない光量で周囲を焼き尽くすそれは、決して目くらましなどという平凡なものではなかっただろう。
事実、その球体は徐々に加速し、透かした背景の色を白に帰すほど高エネルギーの集合体となっていた。
そして、それに押し出されるように、レベリリオンの手のひらから花弁のような光が四枚咲き誇る。
美しい光景だった。まるで、嵐を抜けた荒野の中で、一つ小さく、けれど確実に、その色を美しく放っているような、そんな孤高の美しさをもつ花のような。
それは、ただの高エネルギーの塊だった。美しさだとか、神秘だとか、そんなメルヘンチックなものではなく、ただただ事象の結果として訪れた、必然。
感情に投げかけられるものなんて、ない筈だった。しかし、それなのに美しさを享受してくるそれを神秘的といわずして、何を神秘的だといえばいいのだろうか。
思考力さえ奪い去られそうな神秘の輝き、しかし、それは最初から一貫して目的のために生み出されたものだ。ナイト・リゲルを消し去るために生み出されたものだ。
花弁の中心から、閃光が一条のエネルギーの塊として放たれた。
レールガンの如き超加速、そして、それに迸るノイズ。周囲に立ち込めていた粉塵はもちろん、地面を転がっていた石すら砕き、あまつさえをそれを支えていた地面さえも抉り取りながら、その真っ直ぐな破壊力の光は、ナイトめがけて駆け抜けていく。
そしてダメ押しとばかりに、その一直線の光に円環が纏われる。まるで衝撃波のように展開されたそれら数重の円環は、ある種の加速器だったのだろうか。円環の中心で更なる加速を享受した光は、一切の無駄なく空気を切り裂く。
加速のエネルギーの反作用を受けて、円環は徐々に大きく薄くなり、やがて消える。
本当に衝撃波のように消えたそれへのイメージはあながち間違っていない。
実際、弾けた空気が似たような動きでそれに続いている。
レベリリオンの放てる、錬金術の成せる大砲。
魔法のようにスピーディーでも、神力のように尊くも、愛されるほど美しくもない。しかし、それは確かにそこに存在している。
その力は、ゼロから生み出されたのではない。その力は、空気が力を変えて、無理やりではあるがレベリリオンに力を貸したもの。この世界が、レベリリオンに味方したもの。
全能感の果て、最高の高揚感の果て、
「私の集大成、空気変換式元素砲を、喰らいやがれ糞カスがァ!!!」
そのレベリリオンの言葉すら置き去りにして、彼女の生み出してた些か悪質すぎるエネルギー砲、フィロソフィアはナイトの頭蓋目がけて突き進んでいった。
たった一度の能力行使。しかし、それに伴う犠牲は恐ろしいほどに大きい。
空気を伝達する振動は、音を越えて封印施設の入り口通路を破壊しに掛かり、ほぼ倒壊寸前までに追い詰められている。ボロボロと崩れ落ちる天井は、既に眼下の獲物を押し潰そうと牙を煌めかせている。
それを後押しするように、エネルギー本体の破壊力も様々な機器を破壊し、崩壊させ、突き進む。
目の前、憎きナースに向けて。
もはやその前に、障害というものは、存在しなかった。
「きゃはっ、ひひっ、っはぁ!!死んだ、なあ、死んだよなぁ??」
それは、破壊という言葉とは程遠い。もはやそれは蒸発だ。
本当に、原型の一欠片も残さないような超威力。
触れられた壁面はもれなく溶岩のように煮え滾り、熱に耐えきれなくなり爆発する。連鎖する崩壊は留まることを知らず、それがたった一発の魂の成したものだとは、到底信じられなかった。
「ビビらせやがって、結局ぅ?ただの修道女でしたっってかァ?キャっハハ!!強キャラぶってんじゃねえぞこの糞ビッチがァ!!!」
いつもの上品な佇まいは霧散して、汚い言葉と罵声に塗れた半狂乱の絶叫が、ひび割れながら木霊する。
よくもここまでの精神を日々覆い隠しているものだ、と感心こそすれ、その姿は百年、千年の恋も冷めるほど醜悪だった。
揺らす焦げた赤髪。その奥に鎮座する濁った瞳は、本当に紛れもないダーカー。
そして、その背後に立つ修道女の瞳も、泥濘のように濁っていた。
「が……あぁ?」
乱れた前髪を通して、レベリリオンはそれを見た。
それは、焼け焦げた前髪が眼球に張り付き、自分の仕事を放棄した視覚の不良でも、あまりの完璧主義によって脳が生み出した幻覚でもない。
もしそうであったなら、どれほどよかったことか。
「本当に、品性の欠片もないのですね。人類の脳と言われる研究所も、所詮は猿の集まり、ということでしょうか?」
「て、め、……なんで、いきてやがぁ……あ……」
おかしい。脳内で、そんな言葉が一瞬で量産された。
真っ白の脳裏にぎっしりと敷き詰められるその言葉の羅列が、ゲシュタルト崩壊して、増幅して、やがてレベリリオンの脳の処理能力を越えた数へと到達する。
そして、事実、現実を処理できなくなったレベリリオンは硬直した。
これまで作り上げてきた必殺を無傷で受けられた虚無感。これからの戦闘への戦略構築と、行き詰まりの焦燥感。そして、死にたくないという、惨めな命乞いの感情。
全てが心中を満たして、心の動きを内側から封じ、体の動きはそれに呼応して死んだ。
「異能、解放。」
修道服を広げて、下着姿を露出させたナイトのその言葉で、やっとのことでレベリリオンが再起する。
ヒラリと、縦に割るように開かれた修道服は、普段覆い隠している豊満な肢体を惜しげもなく晒し、真っ黒な修道服と真っ白なナイトの肌の対比がどうしようもなく美しい。
どこまでも扇情的なその行動に、ただひとつ不可解な点があるとすれば。
傷と痣に背徳的に傷つけられた肢体。
それを見て、再び、思考を止めてしまったレベリリオンは、悲しく眉を歪め、苦笑するナイトの姿を見た。
声を、聴いた。
「きっと、そうですね。」
まるでピンポン玉のように吹き飛んだレベリリオンが、封印施設の中心に叩きつけられた。血塗れの攻防に、決着は遠い。
★
アヌビスの下敷きになっている青年は、血液に塗れて、それでいて美しさを損なわない美貌の持ち主だった。
見た目的には細く、綺麗なバランスの高身長なのだが、よくよく見ればしっかりと筋肉がついており、健康的な色香を感じさせる。
そんなキョウシュウ・ヒューマと、淫魔の情報屋フェルモアータを叩き伏したアヌビスは、その力をとてつもないものに変化させており、ダーカーの勢力図にその滑らかな肢体を些か鮮烈に割り込ませる。
「はやくっ、起きなさいって!」
自分で昏倒させ、あまつさえ瀕死状態にした女の言うセリフではないが、ダーカーの器である。そんな常識の欠如は、もはや正常とまで言えた。
ぐにっ、と、一際強くアヌビスの手がヒューマの頬をつまんだ。
すれば、今の今まで抜けていたヒューマ体中の筋肉に力が入るのが確認できた。
アヌビスの位置を微かに高くした筋肉の起床。それは、等しくヒューマの起床だ。
待ち望んだ邂逅に頬を緩ませながら、アヌビスはヒューマの唇をそっと撫でた。
「やっと起ぎッだぁ……がっ!」
ヒューマの右手が、アヌビスの口腔に突き立てられていた。
口内に感じた血の味は、ヒューマによってもたらされたアヌビスの傷ではなく、アヌビスによってもたらされたヒューマの傷。そこから流れ出した血液によるものだったろう。
「へ……ぇ……?」
濁った疑問符を叩き割るように、ヒューマの指はアヌビスの喉元にまで侵攻する。そして、喉元を内側から抉り取った。
ごぽり、と溢れ出てくる血液が、ヒューマの指を真っ赤に染め上げ、それだけでは飽き足らず腕を伝って胴体にまで血だまりを広げる。
嘘のような高い音を生み出し、悲鳴になり切れなかった嗚咽は、悲痛なまでに周囲に響き渡る。
酸化していない真っ赤な鮮血は、もはや美しいとさえ感じるほどで、未だその痛みに対して理解を得られていないアヌビスの表情も相まって、猟奇的な愛に見えた。
「がぁあっかああぁぁぁっぁぁあああああ!!!!!!」
痛みを塗りつぶそうとする絶叫が、高く伸ばされるはずだった嬌声が、喉元にいる圧倒的な異物に阻まれてくぐもったまま気管支で反響する。喉元で弾けた血泡が血液をまき散らし、さらに残虐さを増す。
そして、
「うっせぇわ、キミ。」
地獄のように冷たい視線が、おぞましい憤怒を内包した声が、血塗れのアヌビスを叱責した。
空気を吸い込む音が、ヒューマの指に阻まれて汚く飛び散る。ヒューマの突然の奇行に理解を求めようとして、それでもその原動力である酸素の吸引をヒューマが許さない。
「げぁっえっ……げほッ、ぉ、え……」
ぎゅるりと、ヒューマが腕を引き抜いた。まき散らされる鮮血と、血泡とともに吐き出される嗚咽の数々が、アヌビスの緊迫した呼吸と絡み合って瀕死の音をより鮮明に響かせる。
酸素を必死で求めて呼吸に喘ぐアヌビスは、そのアーモンド形の綺麗な瞳を限界まで見開いて、眼球から切実な雫を零す。
しかし、それに対して憐れみをかけられるほど、ヒューマはダーカーを放棄していない。
「ッ!!」
仰向けの状態で器用に身体をねじり、それによって生み出した力を限界まで振り絞って拳の一点に集中させる。自分の上に馬乗りになる標的に、その拳は驚くほど速く届いた。
鈍く、重苦しく、それでいて速い。顔面へとまっすぐに吸い込まれていったヒューマの拳は、その側面を綺麗に打ち抜き、叩き込まれた側のアヌビスは声にならない悲鳴を上げて地面をゴロゴロと転がる。
それは、痛みもなく意識を刈り取られるような、超威力の破壊力ではない。ただの拳だ。
だから、昏倒という逃げ道にも、絶命という救済にも至れない。信じられないほどダイレクトに痛みが届いて、信じられないほどに真っ直ぐな悪意が顔面を打つ。
それは、まさしく、異能を使えないヒューマだからこそできた、最悪の一撃だったろう。
「えぐ……ぇあ……」
遅れてどろどろと流れ落ちてきた鼻血を拭えば、折れた顔面の骨の痛みが、脳髄を直接刺激する。
耳の中で爆弾でも破裂したのではないかと錯覚しそうになるほどの耳鳴りがやまず、揺れる視界はまだ回復の目途が立たない。
じんじんと痛む頬は、依然空気の冷たさに驚愕し、見開かれた瞳は、その不条理に不可解を示す。
「い……たい……」
「痛くしたもん。当たり前でしょ。」
顔を血だらけにした少女は、最強に成り得るダーカーだ。とてつもない異能を覚醒させて、フェルモアータを倒したダーカーだ。しかし、そんなことを忘れ去ってしまうほどに、今の彼女は弱者であった。弱々しい、ただの少女であった。
獲物であった。
★
セクタ封印施設。
巨大な円柱空間の中心部。フェルモアータが持ち込んだベッドを盛大に叩き壊して、レベリリオンが吐血した。
本来ならばその巨大な空間の中心で拘束されていたセクタは、その下にナイトが作った空間に避難させてある。丁度、フェルモアータのベッドの下に。
この戦いを見越した、用意周到なナイトらしい行動だった。
それを立証するように、レベリリオンは舞い落ちるベッドから爆散した羽根を盛大に血液で汚して、目つきの悪い双眸でナイトに呪詛をぶつける。
「きっしょ、死んどけや」
それに大した関心を示さず、ナイトは修道服のボタンを更にはずし、確定的に己の傷だらけの肢体をレベリリオンに見せつける。
普通、そこまでの傷を腹部に受けたのなら、死んでいてもおかしくない。
しかし、ナイトがそこになんらかの医療行為を施した跡はない。ただ傷口はそこに傷口として存在していて、そこから他の情報は生まれてこない。
崖の中すべてをくり抜いたのではないか、と思案してしまうほど巨大な空間で、その中心にいるレベリリオンと、入口にいるナイトの距離は遠い。
この距離感なら、レベリリオンの放つ最高の一撃、フィロソフィアの方が有利。そう確信する距離。
実際、異能のわかっていないナイトの力量を判断するより前に、あの超速の光線に焼き尽くしてしまえば、すぐではないかと、誰もが思うだろう。
しかし、それこそが甘えであったと、痛感させられる。
紛れもないナイト本人に、知覚させれる。
「お、がぁ……アッ!?」
空気が破裂して空間の断裂が広がっていくような不思議な音が響き渡る。
パラシュートの開く音に酷似した音は、その実、人間一人を数十回殺しても足りぬ、超威力の産物であった。
しっかりと地面に両足を突き立て、滑らかな肢体を晒しながら右手をレベリリオンに向けたナイトが、苦しそうに修道服の胸の布を握りしめる。
危うげに乱れていたナイトの呼吸は、落ち着くと表現するには加速度の高すぎる回復力でもって規則的なものに還っていく。
完全に万全の状態を取り戻したナイトとは対照的に、レベリリオンはその不可視の衝撃によって弾き飛ばされ、無残に壁に叩きつけられていた。壁面にこびりついた血液の量から、ダーカーである彼女でも死んでいても可笑しくはないということが、ありありと見て取れた。
レベリリオンの想定した射程の数倍の距離からの命中。それは、完全なる想像外からの衝撃。
受け身を取ることすらできずに、鮮血を壁にぶちまけた。果たして受け身がそれに有効だったのかも、この際怪しいものなのだが、たとえもう一度今の攻撃が来てもレベリリオンは対応できない。
大して変わらないだろう。
ズルズルと地面を這いつくばり、なんとか補助ありの直立という姿勢に入ったレベリリオンは、『デュカイオ・シュレー』によって鍛え上げられた卓越した頭脳をフル回転させて、必死にその不可解を紐解こうとする。
心臓の鼓動がうるさい。それは、身体が破けていることを知らない心臓が、わざわざその穴に向かって血液を送り込んで、仕事を全うしたと達成感に浸る気色の悪いほどの独善的行動によってもたらされる貧血、大量出血だ。
「っっそが、」
血塊をべしゃりと吐き出して、手にしたコンクリートの四元素を弄る。そして、それを胴体のど真ん中に開いた風穴未満、致命傷以上の傷口にこすり付ける。錬金術が発動する。
コンクリートの内部に定義した四元素が、その配置を働きアリのように動かし、微かな拒絶反応を押し切って結合してくれる。
レベリリオンの傷口にべったりと張り付いて、応急処置にしては完璧すぎる止血処理が残骸によって成し得られる。満足そうにそれに頷いて、貧血にふらつく体に鞭を打ち、歩み始める。
「指先のそれが、錬金術のキーになっているんでしょうか?」
そして、またしても想像外の衝撃に叩きのめされる。
次は、肉体的な衝撃ではなく、精神にダイレクトに叩きつけられる言及だ。
ナイトの視線が射抜く先、レベリリオンの右手の指先、人差し指と中指には、第二間接にまで伸びるなにかが取り付けられている。爪のようにとがった先端は、近未来的な流線型で白い輝きを一番綺麗に魅せており、その二つの機巧から伸びるコードは手の甲を通り、絶対に直線を崩さずに袖の方に伸びて最終的に合流する。
そのコードがどこに行くのかは定かではないが、ナイトの視線を見るに、袖から服の内部を通って首元のチョーカーのような機巧に繋がっているのだろう。
「あまり戦いなれた雰囲気を感じられませんでしたので、邪推しましたが、存外間違ってもいなかったのですね。」
「だから、だから……なんだってんだよ、何が言いてェんだよォ!?」
「実戦での戦局の見極め方がなっていません。そこは、無言を貫き通すところでしたよ?」
「きっっもいんだよ!!クソビッチガァ!!異能解放ッ!」
焼き切れる脳から、どろりとどす黒い血液が鼻から垂れる。しかし、その無理やりの能力行使でも、上手く力は作用した。
数ミリのノイズが幾多の空間の裂け目となってレベリリオンの周囲を馳せる。瞬時に消失したそれは、ナイトの見えた限りではレベリリオンの両手に消えていった。
「認証コード【アルケミスト】!機巧発動『オルガノン』!」
レベリリオンの両手で瞬いたのは、二振りのナイフだった。
深紅の金属は柄と刃を分かつことなく、それを一つの金属として武器にしており、全身を紅く染めていた。
決して広くはない刃に走る金色の刺繍は、おそらく金属だろう。かすかに浮き出ているそれは、絡まり合うように収束していき、やがて切っ先近くで終息する。
賢者の石を彷彿とさせるカラーリングのナイフだが、レベリリオンの参考にする錬金術に賢者の石は存在しない。
錬金術の記述は、史実の中で多く残されている。
しかし、その残されているものの中ですら、賢者の石の存在はどっちつかずだ。
絶対的な終着点とするものも、下法の手段だと唾棄するものもある。
レベリリオンの参考にしたアンダレア式の錬金術は、物質を四元素にしか分解できない。そのため、どんなものにでも変化させられる賢者の石の作成が容易になってしまう。
しかし、実際に作ることはできないのだ。なぜか。四元素の仮説は間違っているから。
だからこそ、賢者の石は存在しないものとして扱われた。
考えてみれば当たり前だ。
現実の物の全てがたった四つの要素によって作られているなど、それが本当だとしたら、『デュカイオ・シュレー』は今より三段階は下の知能指数で結成されただろう。
では、もし後続のダーカーが、そうしてその時代の不可能を可能にしたら。
本当に、世界を四元素理論に塗り替えられる能力者がいたら、賢者の石を完成させた妄執の権化がいたら。それは酷く、恐ろしいことではないだろうか。
「キャヒヒっ!ぶっころって!!!」
腰を落とし、完全なる戦闘姿勢に入ったレベリリオンは、一対のナイフ『オルガノン』を両手に嗤った。
逆手に構えた両のナイフが、徐々に形を変える。ナイフだったそれは肥大化していき、やがてククリナイフのようなものに変化していく。
広い用途で用いられるククリナイフ。それは、もちろん戦闘面においても高い汎用性を発揮する。
ノーコストで『オルガノン』の形を変えられるのだとしたら、汎用性は更に高くなる。
賢者の石の再現武装『オルガノン』。
内包された莫大なエネルギーから四元素を取り出し、それを再配合することでその刀身の形を変える、錬金術の最高峰。錬金術師であるレベリリオン・サブレリアが生み出した、世界に一つの魔装。
跳ねたレベリリオンの速度は、そう速くない。もちろん、ダーカーとして強化された身体能力だ。普通の人間からすれば超速の動きだろうが、ナイトからしてみればそれは跳躍でもなんでもない。ただの移動だ。
それに、賢者の石が関わっていなければ。
「けへ、へ?」
口から漏れる気色の悪いうわ言。しかし、オルガノンの切っ先から射出されたミリ単位の糸は、虚空に微かな赤の残滓のみを残して、しっかりとナイトのふとももに巻き付いた。
加速が、来る。
「ッ!」
初めて、ナイトが防御姿勢を取った。その計算されつくした体面積の最小防御は、自分に降りかかる傷を限界まで小さくしようという執念が見え隠れする。
ぐん!と糸の加速に乗って白衣を翻すレベリリオンの刃が、赤く煌めきながらナイトの顔面目がけて突き立てられる。それを、完璧な反射神経で回避し、続くレベリリオンの第二の刃も超防御繊維で編まれた修道服を束ねることで防御。完全無傷の状態でレベリリオンの猛攻を防ぎきる。
防いだオルガノンを防御繊維越しに弾き、崩れた体制のレベリリオンの心臓に人差し指を指す。
それは、ただの接触。しかし、不幸の媒介者であるナイトに触れられたのなら、それは等しくなすりつけられた、ということだ。
「いったい!けど、憎ぐいい!!」
「む」
ナイトから付与された不幸の効果が見えないレベリリオンは、さらにそのオルガノンの形状を変えて追撃に出る。効果が見えないといっても、彼女の放つ絶叫から、絶対的に激痛という効果は生まれているのだろうが、それが攻撃の手を止められなかった時点でそれは効果足り得ない。
歯噛みする暇もなく、ナイトは次の手を模索する。
しかし、それを大人しく待つレベリリオンではない。
ククリナイフであったオルガノンは、次の瞬間に長刀に姿を変え、二刀流の構えでレベリリオンの斬撃がナイトに迫る。
戦闘への心得のないレベリリオンとはいえ、掴めないリーチに対応するのはナイトにも難しい。
レベリリオンのその異質すぎる、ダーカーとしての生を全うしすぎている戦い方は、本当に厄介と言わざるを得ない。
とうとうレベリリオンを敵と見定めたナイトが、己の懐を微かに掠める。
刹那、彼女の手には、十字架が握られていた。
銀の装飾を輝かせるそれは、ただの十字架ではない。十字架を模した釘だ。手のひらに収まるサイズのそれは、確かな質量でナイトに微笑みかけ、力を貸そうと尽力する。
大きさから何まで投げナイフのような造形ではあるが、しかしそれはそこまで単純なものでない。
二刀流のオルガノンが、その一撃目の刃をナイトの眼前に突き付けたとき、それを弾く十字架が瞬いた。
「は」
赤く、赤く。何よりも鮮烈に輝きを撒き散らすそれは、ナイトから不幸を吸い上げて力とする。そして、やがて収まった光の先。
現れたのは、全身を裂傷に苛まれたレベリリオンだった。
彼女は、おそらく。この地球上で、五体満足なのにも関わらず一番の傷を受けた者だろう。
千切れかけた四肢と、めった刺しにされた首元は、もはや接合されているのかも怪しい。しかし、痛ましい傷跡はそれだけではない。
膿んで白く固まり始めた風穴も、でろりと剥がれ落ちた背中の皮。逆向きに曲がった両脚は、既に骨折などという次元にはないだろう。
顕現したのは傷跡だけではない。
紫色の毒々しい斑点、女性的な膨らみを有していた胸は、片方だけがアンバランスにしぼんでおり、眼窩でわだかまる内臓の異常は、涙となって世界に溶けた。
「私の力、それは、不幸の媒介者。」
遅れて噴出した血液と絶叫に大した関心を示さず、鬱陶しそうにレベリリオンを蹴り飛ばす。
一直線に地面に叩きつけられ、バウンドして血を床にこすり付けながら静止するその様は、見るに堪えないほど痛々しい。
しかし、そんなレベリリオンに構う隙すら見せず、ナイトは錬金術師の心を折るために全身全霊を賭ける。それこそ、圧倒的な力の開示。
彼女を彼女たらしめる、ナイト・リゲルの象徴。それこそが、
「不幸を私の身体に貰い受け、それを罪人に付与する、そんな能力。」
ナイトは、あえて自分の異能、ナースの能力を明かす。
不幸の媒介者。それは、この世界に蔓延る不幸をナイトが自分の身に患い、今の今まで蝕まれ続けてきたということに他ならない。
それが物理的な傷であれ、精神的な傷であれ、病であれ、痛みであれ、そこにどんな苦痛が伴うのか、どれほどの覚悟が必要なのか。それは、ナイトにしか語れないし、彼女にしかそれを口に出す資格はない。
「今あなたに付与したのは、私の持っていた不幸のほぼ半分です。もう、動けなくなるのも時間の問題ですよ。」
ずるり、と片腕を引き摺って血液の軌跡を地面に描くレベリリオンは、それに対して凶悪な笑みで返した。
ナイトの能力通りなら、レベリリオンに課せられているのは不幸を媒介するナースの半生、それに匹敵する重み。外側だけなら噴出した血液だけに見えるが、その実不幸には内部疾患が多い。
今も、レベリリオンの臓器には生々しい斑点が数えきれないほど広がっているし、粘度の高い血液はその臓器間を鉛のように鈍く這い、細菌を体中に伝達させる。
「り、……はぃ……ぁ……ま」
鈍色の血液と真紅の血液が混ざり合い、地獄の様相を呈しているレベリリオンは、その瀕死の重傷、重症を抱えながら、今すぐにでも消えてしまいそうなか弱い声が紡ぐ。従順な子犬のように、手懐けられた忠犬のように、脳裏にこびりついて離れない、主の名前を。
しかし、それでも、命のタイムリミットは延びてくれない。
血液が流れ落ちれば命は亡くなるし、脈動は遠のく。
這い蹲った状態で、それでもまだ忠誠心に身をつがえるその胆力には、ナイトも思わず称賛を送りたくなったが、それを手向ける相手を間違えすぎた。それは、賢い指導者に向けるべきものであり、決してイかれたマッドサイエンティストに送るべきものではなかった。
「もう、楽になりませんか?あなたは、これ以上戦うべきではないです。」
ぼろぼろになったレベリリオンの姿を見て、誰がまだ戦える、立ち上がれと叱責することができるだろうか。彼女はすでに、その身に余る厄病を、自我を塗り潰される裂傷を、鮮血の手向けを、死んでもいいほどに叩きつけられている。
まだ生きていることが不思議なほどに。
しかし、レベリリオンはその逆境すら乗り越えて、まだ戦おうとするのだ。
ナイトの言葉すら薪に変えて、心の暖炉を燃やし尽くす。たとえ暖炉が壊れようとも、絶えぬ炎に従い続ける。変わらぬ愛に、殉じ続ける。
「っ。デァ、らぁが……」
長刀を地面に突き立て、それを杖として立ち上がる。
彼女の身体は、きっとナイトの全力の治療でも治ることはない。もうきっと、絶対に完治することのない傷だ。病だ。
しかし、そんな血塗れの身体に鞭打って、まだ立てる。戦える。自分にはまだ力があると、レベリリオンは咆哮する。そして、ナイトの前に立ち続ける。
「おるが、のん……最後の、ぉ、仕事だ……」
長刀がその刃を縮ませ、オルガノンが元のナイフの姿へと回帰する。
切っ先を鋭く光らせる賢者の石の複製に、ナイトは正面から向き合った。
確信したからだ。
これからレベリリオンが行うことは、確実に今までのレベリリオンを越えてくる、と。
獣は、死に際が一番恐ろしい。自分の矜持も、誉れも、時には同胞すら牙とする。そして、自分ですら知らなかった才覚を発揮するのだ。
それこそが、まさしく異能と呼ばれるに相応しい、ダーカーでなくとも発動させることのできる、本能なのだろう。
そんな本能を、あまつさえ異能を有しているレベリリオンが発揮してしまう。
「認証コード【アルケミスト】、『オルガノン』『フィロソフィア』並行発動。」
ボッ、と。賢者の石が、オルガノンが、低くうなった。その初動の音は、続く爆音にかき消される。
爆ぜる刃が赤色の光をまき散らし、それに呼応するようにバチバチと弾ける火花がレベリリオンの周囲を照らし出す。
ノイズさえかき消す大質量のエネルギーの螺旋が、オルガノンの刃で暴れ出す。
オルガノンは、四元素を無限と言っていいほど保有する最大の変換媒体だ。その賢者の石に内包された四元素を、フィロソフィアと同じ原理で超エネルギー砲に改造する。そして、それを放出するのではなく、刀身に秘めることで、確実的なヒット、必殺的な一撃。
レベリリオン・サブレリアの異能が、完成する。
「名付けるなら、『アリステ・レイエス』……」
何にでも識別名称を付けてしまうのは、科学者の職業病か。苦笑しながらも、己の人生最後の命名に満足感を滲ませるレベリリオンは、病魔と鮮血に蝕まれた体を滑らかに揺らしてナイトに会敵する。
「さようなら。マイ、レディ。」
暴風が吹き荒れる。
レベリリオン・サブレリアのこれまでの人生と、それに付き従ってきた賢者の石が共鳴する、錬金術の頂点。
『アリステ・レイエス』、それはレベリリオンが万全の状態だったならば、幾度もの斬撃を、斬撃とは言えないほどの破壊力をもたらす恒常兵器と成り得るものだ。しかし、その身体の状態を見れば、レベリリオンが振るうことのできる斬撃の数がそう多くないことは一目瞭然だ。むしろ、ここから攻撃が繰り出されるという方が不思議に思える。
しかし、彼女は撃つ。
ナイト・リゲルの半生に蝕まれながら、レベリリオン・サブレリアは自分の一生を撃ち放つ。
「……その心意気が、次は全うな性根に宿ることを祈ります。」
かち合わせられた赤の斬撃は、地面を繰り抜き、地盤を揺るがし、世界すら轟かせるほどに爆音を響かせ、やがて収束する。
高エネルギー。それも圧倒的すぎる力の奔流だ。世界に存在できるのは、ほんの一瞬。それは、その攻撃の主も、同じだったろう。
ただ、崩壊の旋律の中で。透明な破壊力の中で、唯一色を持っていた火花が、何よりも美しく見えた。
封印施設会敵戦。
鮮烈すぎる幕引きは、勝敗を爆炎ごと覆い隠したのだった。




