Mr.DARKER STRANGE 第四章『ナース』
第四章『ナース』
東洋帝国。といっても、既に滅んで廃れているため、東洋帝国跡地と呼んだ方が適切であろうか。
ともかく、その廃墟の集う死んだ国は、まるでその大厄災を覆い隠すように蓋をされている。
それは、概念的な話ではない。もちろん、情報操作や統制でできるだけ早く風化させられるように手は仕掛けてあるだろうが、この件に関して、蓋をするという表現は、物理的な意味になる。
超巨大なガラスドームが、その東洋帝国の跡地には覆いかぶさるように展開されているのだ。
何度見ても爽快なそのガラスドームは、月明かりを反射して疑似的な星空を映し出し、無機質な美しさを、作られた感動を提供してくれる。
いっそ冷めてしまうほどのあからさまな美しさの下に広がるのが、未だ幾多の死体が放り出されている被災地だと考えれば、その安っぽい美しさも何とか儚き美麗という領域までは昇華させられるのではないだろうか。
それが、侵入者も脱走者も、その存在自体を許さない無慈悲なものだと知れば、もはや視覚的な美しさでさえも、それが綺麗だと実感できなくなるだろうが。
しかしそんな堅牢なガラスドームは、ヒューマたちだけは存外簡単に侵入できる。
それは、魔女たちの拠点とする地下水道が、ガラスドーム内の地下に通じているからだ。
研究所の警備と違い、このガラスドームは国ひとつを囲んでいる。ガラスを破壊不可能なほどに強化することはできても、蜘蛛の巣のように陰湿に張り巡らされた侵入経路の全てを塞げる事はできない。
その気になれば出来なくはないのだろうが、それをしないということは、この場所を隠したがる世界にとって重要な情報は大して残っていないということなのだろう。
しかし、ヒューマ達にとってそこは超貴重な戦力の住まう、宝箱のようなもの。歩む歩幅は広くなり、弾む息は期待に揺れる。
ヒューマは、久しぶりのナイトとの再開に、意外にも胸を弾ませていた。
「ナイト、元気かな……」
「むぅ……」
「そんなに拗ねないでよ、別に、いやらしい意味で言ってるわけじゃないんだからさ、」
苦笑いするヒューマに宥められるも、そう簡単に割り切ることはできないのだろう。ヒューマと共に地下水道を歩くフェルモアータは、自分以外の女との再会を喜ぶ伴侶に大層ご立腹だった。
それこそ、ぎゅっと強く握りしめた手を、ずっと放してくれないほどに。
ヒューマというのは、何かに対する関心というものに絶対的な希薄さを誇る。それこそ、魔女やレンゲル、音楽や文学、サブカルチャーに至るまで。
日本人受けのよさそうな派手すぎないおしとやかな美貌。そこに、実は大きいという隠れ巨乳属性。
魔女は、そんな高スペックを持ち合わせる優良物件だ。
レンゲルも、見た目に多少いかつさを感じるが、幼い顔立ちを残しているあどけない表情は、タトゥーや刺繍を外せば絶世の美少女と言われるであろう風貌へと早変わり。
音楽に関しても、ロック系の音楽に嗜好の幅を伸ばすフェルモアータのパソコンに内包されているアルバムは、パッと見で百を数える。
日本の純文学を齧っているため、その文献も、サブカルチャーに関してはヒューマへの誘惑の参考書のような意味合いが強いが、なかなかの量を揃えてある。
しかし、ヒューマはそのどれにもほぼ興味を示さない。
ロックにほんの少し興味を持ったくらいで、それ以上はない。
そんな世界への執着の少ない青年が、どうしてそこまで気持ちを弾ませるのか、フェルモアータには思い当たるものがなかった。それこそ、ヒューマがナイトを性的な目で見てるのではないかという懸念以外。
事実、ヒューマはフェルモアータとの交わりに関しては積極的で、淫魔である彼女をヒューマが導くことも少なくない。むしろ、割合的にはそちらの方が多い。
そんな理由で、フェルモアータはヒューマへの独占欲を剥き出しで、様々な方面への牽制としているわけだ。
「あ、そろそろじゃない?段差、あるからから気を付けてね?」
「……ん……」
しかし、ヒューマの何げなく言った言葉に毎度毎度きゅんとしているところを見ると、その疑念もそのうち性欲に変質するだろうと簡単に予想できた。
暗い地下水道。水音と不気味ななにかが這いずる音が木霊する、等身大の閉塞感の中に、一片の光が割り込んだ。
それは、近づけば近づくほど大きくなり、やがて視界全部を覆ってしまうほどの光量となってヒューマ達の歩む道筋を覆い隠す。
手で傘を作ったヒューマは、その光に対して若干顔をしかめながら、再開の地へと歩みを進める。
進む先。崩壊に彩られた惨劇の国。命がなんら価値を持たなくなった街。ヒューマの目はその地へと釘づけだった。
★
フレンダー聖教会。ヒューマ達が侵入に利用した地下水道の出口から、その確固とした安全地帯である教会は、なかなかの距離でもって、舞い戻った旅人を歓迎した。
その長い道のりを迷うことなく進んでこれたのは、その長い道のりの中に生存している建物が圧倒的に少なかったからだ。
見渡す限りのビルの死骸。その中で、唯一生き残って、五体満足で立ちすくんでいる教会は、もはや異質であり、不気味ですらあった。
しかし、その異様な雰囲気、というより異能な状況によって辿りつけたことに変わりはない。
素直に崩壊したビル達に感謝して、ヒューマは残り少ない教会への道のりを歩き始めた。
教会は、まばらなビル群の中に、鉄筋コンクリートと煉瓦の塊に負けないほどの大きさで鎮座している屋敷のような場所だ。
場違いなほどに広い庭と、風変わりな中世的な装飾に、ラブホテルと揶揄されることもある風評被害の激しい教会で、都市と一体化していることから『フレンダーの審判』時は、多くの人間を匿い、生存者の九十九%が教会で保護されていた者たちらしい。
かつては閉塞感のあった、広い庭を割る舗装された道は、周囲を囲っていたビルたちの消失で壮観な眺めとなっており、どこか活き活きとして見えた。
どんな生命力なのか、変わらぬ様子、というよりむしろその根を張り巡らせて陣地を拡大する植物たちには、見習うものがあるだろう。
元気な草木に若干足を取られながらも、順調に道を進んでいく。そして、数分歩いた先、巨大な屋敷が、待ち構えていた。
「教会?」
フェルモアータの疑問が、一言でヒューマに飛ぶ。彼女の疑問もわかる。その教会は、本当に貴族が住んでいるのではと邪推するほどに豪奢で、どこか質素なものを連想させる俗世間的な教会とは似ても似つかなかった。
「まあ、確かにあんまりそうは見えないよね。」
よっ、とフェルモアータを抱き寄せ、自然にお姫様抱っこスタイルに。もちろん殺菌は済ませた後だ。そうして満足そうに頭を擦り付けるフェルモアータをやさしく撫でて、ヒューマは意を決してその扉を開いた。やけに重たい、その扉を。
「ナイトー!居る~?」
片手で抱えたフェルモアータを両手で抱えなおし、半ばほどまで開いた扉に身を滑り込ませる。
明るく照らされているはずの玄関ホールは暗く消灯しており、人の気配は全くない。ヒューマが目覚めてから、ナイトはこの教会に一人。玄関ホールに電気をつけることすらもったいない。そう考えていても、不思議ではない。
暗いホールをすいすいと迷うことなく抜け、己が十年を過ごした、ナイトが十年を費やした病室の扉に手をかける。
重い扉、しかし、そこに人の気配はない。扉を抜けたとしても、その予想は、覆らない。
その後、教会中を探しに探したが、ナイトの姿は見つけることができなかった。
二手に分かれて行われた大捜索は、玄関ホールで何の成果も得られずに合流した二人の疲労によって、割と早い段階で打ち切られたのだった。
そして、後ろ髪をひかれながらも教会から出たヒューマとフェルモアータは、その状況に腰を折った。
庭に設置されたこれまた洒落た机、それに付随する椅子に腰を下し、ここまで歩いてきたのに目的に在りつけなかったという徒労感と、脱力感に苛まれる。
歩いているときはそこまで感じていなかったそれは、ゆっくりと息を吐けば顕著になり、じっとりとヒューマ達にのしかかった。
「まさかナイトがいないなんて……」
「無駄足……疲れた」
二人して月下の月明かりの中で表情を曇らせる。
ヒューマ達に課された今回の遠征目的は二つ。ナイト・リゲルの勧誘と、アヌビス・メーデンの勧誘。
簡単に言えば戦力増強だ。
作戦立案に携わることの出来ないヒューマ達に預けるには最善の案件だ。
ヒューマがナイトに会いたかったのも相まって、その仕事は適任であったのだが、こうして落胆を隠せないところ見るに、どうやらナイトが居なかった場合は最悪の采配となってしまう不親切な計画だったと思わざるを得ない。
そうしてどれくらい経っただろう。
白く、掠れた筆が書き殴った様な雲が、月を覆い隠して自身の姿すら黒く染めた。自然、月からの光を手に入れることのできなくなったガラスドームは、その明るさを著しく落とす。
光は、閉ざされる。
「じゃ、開戦を祝して。」
「え……?」
「くそったれ」
ヒューマの拳が、フェルモアータの顔面をぶち抜き、ひしゃげる顎骨の音すら叩き割って続く力を叩き込む。血液の残滓、骨折の音色、嗚咽の木霊。全てを置き去りに、フェルモアータにしては大きい体躯が、上空へと叩き飛ばされた。
★
跳ねる歪曲力が身体をなじり、それに叱責されるようにたわむ両足が斜めに地面に突き刺さる。そして、既に停滞の選択肢を排除した紛れもない力が、地面を抉り取って青年を空へと導いた。
自由落下によって落ちてくる途中の肢体の襟を掴み、空中で遠心力を上乗せ、上乗せ、上乗せ、重ね、課して、付与して、叩き込んで、ぐるぐるとまわるヒューマが地面へと照準を向ける。
そして、遠心力の乗った身体が、人の動体視力を越えて地面にめり込んだ。
服のなびく影ほどしか視認できない速さ。それは、生み出す方も人間業ではないのだが、耐える方も人間とは言い難い。
何事もなかったかのように地面に降り立ったヒューマは、自分が成した現状の庭荒らしに向かって警戒を解かない。
事実。それは、人間ではない。
「異能解放」
バッ、と飛び上がった影が中空で小さく唱える。
それは、異能行使器官を動かすために脳に生体電流を流した瞬間、脳から口腔に伸びる筋肉の収縮経路が自動的に動いてしまう現象だ。
その言葉をキーワードに異能が発動するのではない。異能が動き出すとき、それを知らせるように、知らしめるように、体が勝手に口に出す。異能が、力が、死が、動き出したぞ、と。
身構えるヒューマに、影は容赦なく吶喊した。その速度は、音速にすら届きうる。
しかし、ヒューマが叩き落としたはずだった人影は、目前に迫っていたはずの影は、いつの間にか消え去っており、代わりに、土産代わりに突き立てられたナイフが、ヒューマの右腕で血を煌めかせながら嗤っていた。
「どうして……?」
不可解な現象に、自分の視力にすら疑念の目を向け始めたヒューマに、期を狙っていたように土煙が舞い落ちてくる。
芝生と砂利の入り混じった庭からの怒りの主張を、腕で振り払いつつ、眼前に突如現れた影に間一髪で拳を打ち込んだ。
ダァン!と、到底拳からなったとは思えない音が土煙を貫き、風圧が視界を広げる。されど、その土煙に乗じた人影は捉えられていない。
余裕をもってヒューマの拳を回避した陰は、ヒューマの股下を過ぎ去り、背後からさらに追撃を仕掛ける。
しかし、そんな見え透いた攻防に後れを取るほど、ヒューマのダーカーとして質は低くない。
振り向きざまに叩き込まれる回し蹴りが、その顔面を捉え、頭蓋ごと脳髄を抉り取り、……ヒューマの足に、三本に及ぶナイフが、突き立てられていた。
もちろん、人影は捉えられていない。
看破出来ない攻撃方法。それが異能を用いたものであることは確定している。それが、自分への攻撃に大してナイフをカウンターする反撃系の能力だった場合、それは攻撃という概念を縛る概念操作系のダーカーだ。能力を見抜くことは難しくなってくる。
現状の不利に歯噛みしつつ、依然止まぬ人影からの攻撃に対して、変わらずに反撃を叩き込む。
しかし、叩き込んだはずの反撃は消え失せ、逆に自分にナイフというプレゼントが残される。
体中に突き刺さったナイフを傷口の浅いものから抜き取り、微かな流血に顔をしかめる。
このまま刺突に体を蝕まれれば、血液の足りなくなった脳が正常な判断を下せなくなる。その時こそ、この不可視の敵との決着の時だ。今は、倒すことではなく、攻撃を受けないことに専念する。
固まった方針に体を明け渡し、拝借したナイフを超速で上空にぶん投げる。
弾丸の如き速度で射出された都合七本のナイフ。それらは、何も捉えることなく突き進み、行けるところまで飛びすさぶ。
脱兎の如き速度で撤退するヒューマを大人しく逃がすはずはなく、不可視の追跡者は人影となって追撃に全神経を注ぎ込む。
ヒューマの向う先は、教会。
しかし、教会の中での戦闘には多大なるリスクが付きまとう。そう、追いかけてきている人影は、フェルモアータではないのだ。
二手に分かれての探索の時に、入れ替わられた可能性が高い。つまり、フェルモアータは教会内部で放置されている可能性が高いということ。
そこに付け込まれれば、状況は不利を越えて敗北への道筋を可視化させる。
必要なのは、教会に入る前に人影の追跡を一瞬でも振り切り、反撃の作戦をコンマ数秒で練り上げる超演算。できるか、できないか。
やるしか、ない。
振り向いて、睨みつけて、ありったけの空気を叩きつけて、
「異能、解放」
知りもしない異能を、発動させようとした。
その行動に、意味はない。その詠唱は、異能を使おうとした瞬間に、使おうとする意思の通り道に、口の筋肉を動かす神経があるから発生するものだ。逆にその筋肉を刺激しても、異能は発動しない。ヒューマのそれは、完全なるブラフだった。
異能の力。知らない力。一瞬で、その趨勢の決着を、もみくちゃにしてしまう、無理解の力。
取れるのは、回避、防御、相殺。
人影は微かな思考の空白の後、それがブラフであると確定付けた。一瞬たりとも、進むことをやめなかった。
「ッ……」
消失した人影が、テレポートしたようにヒューマの頭上に現れる。一瞬の下降。煌めくナイフは、寸分の狂いなくヒューマの身体の中心を掻き切り、縦一門に斬撃を走らせ、爆散した。
「引っかからないのは予想外だったけど、そのお陰で正体がわかったよ。魔法少女さん。」
炎を纏った爆炎が小さいながらも振り撒かれる。草に燃え移らない程度に明るく灯る、爆炎の灯火。
それは、自然と互いの表情を明るく照らし出す。
ヒューマの合点がいったという表情も、それに言及されたことについて、無表情で沈黙を貫き通す、アヌビス・メーデンの姿も。
「なんっですぐ気付くのよ!!ここまでの仕込み台無しじゃないっ、どうしてくれるわけ!?」
黒いレインコートを羽織って、おそらくその中に服は一切来ていないのだろう、ボディラインがくっきりと見て取れる扇情的な姿のアヌビスは、そっとフードをかきあげ、整った表情でヒューマを睨みつけた。
「僕が異能を使えないって確信できるダーカーは、この世界で五人だけ。そして、うち四人は僕が味方だって確信できるダーカーだ。魔法少女さんがあそこで躊躇しなかったから、気付けたよ。」
「ぬ、ぐぐぐ……」
ヒューマは異能の使用方法を知らない。
異能の使えぬ原初のダーカー。その情報を知っているのは、直接戦った魔女とレンゲル、共に過ごすフェルモアータ、そして、ヒューマのことのほとんどを熟知しているであろうナイト。
最後に、擬態の異能、アヌビス・メーデン。
以前の武器屋での邂逅で、ヒューマは自分が異能を扱えないことを明かしている。ヒューマから異能の単語を聞いたとき、アヌビスはそれを思い出し、かつてのヒューマの発言を信じて飛び込んできたのだろう。
「そして、偶然僕の銃の弾丸を叩き斬ってくれた。」
ヒューマが武器屋から拝借した銃は、もはや数百年前に開発された、銃弾の火薬と砲身の螺旋によって推進力を得る、古式の銃だ。
その火薬の暴発率は高く、ナイフの接触だけで爆発してしまうほどだ。そんな弾丸を、ヒューマは胸ポケットに入れていた。もちろん、炸裂したのはヒューマの胸元だ。ヒューマの胸元は相応の火傷と爛れた裂傷が刻み込まれている。
そして、それに上乗せで、ナイフからの傷もある。絶対的危機にあるのは、ヒューマであるといえるだろう。しかし、その表情は互いに反対だ。
アヌビスは、苦渋の表情を浮かべ、ヒューマは微笑を湛える。
アヌビスの身体に、傷はほとんどない。強いて言えば、レインコートがほんの少し焼けたくらいか。それでも、この多大なる隙と、実質的な能力の解明を成された。
力関係は、ほぼ同等にまで均衡していた。
「まあ、そんなことどうでもいいよね。僕は、どうして君が敵対するのか知りたいな?」
そんな拮抗した雰囲気を感じさせずに、ヒューマがアヌビスに問う。
彼女は、一度はヒューマに敗れ、既に戦意を失っているものだと思っていた。しかし、彼女はまたこうしてヒューマに刃を向けている。その理由を、ヒューマは欲す。
されど、コミュニケーションというのは難しい。返ってきたのは、ナイフの切っ先だった。
それを数本の頭髪の犠牲にとどめて回避し、ぼやけるアヌビスに目を凝らした。
そもそも、ヒューマが狙われる理由というのが、不確定すぎるのだ。魔女たちがヒューマを狙ったのは、研究所側にヒューマを回収させないため。根底の戦闘狂の部分が疼いた結果と取れる。
だが、アヌビスはそんな柄ではないはずだ。かつてアヌビスがヒューマを魔女から狙われていることに対して心配して接触した、という言い訳じみたことも聞いたが、それも本当とは言い切れない。
彼女が研究所の誘いに乗せられてまんまと操り人形になり、ヒューマを襲ってくるとも考えられなかった。
なぜなら、ヒューマは確信したから。
彼女が、アヌビス・メーデンという人間が、紛れもなく、絶対的な『変態』であるのだ、と。
変態というものを、ヒューマはダーカーと同義の意味で捉えている。
というより、ダーカーには変態が多い。
それは、自分含めて百パーセントの経験則だ。
そして、ヒューマの考えるダーカー理論。能力は、それを必要としているものに宿るのでは、という予測が正しければ、変態はダーカーになりやすいというふざけた結論に帰着するのだ。
とはいえ、アヌビスがヒューマに刃を向けるのは事実。同じく変態であるヒューマには分かる。
あの眼は本物だ。あの眼は、いつかのナイトが、いつかのフェルモアータが浮かべていた表情と同じ。
確実に、ヒューマを喰らおうとする眼だ。
懐にしまっていた弾丸の紙箱をまさぐり、残弾を確認。銃に装填されている分が十一発、弾丸の紙箱で出番を待つ弾丸が五発。
肝心の銃は腰に差してある。撃てる。
このまま教会に入る選択肢は除外。ヒューマ目がけて迫ってくるアヌビスは、その手にナイフを構えて命をすするために疾走する。ならば。
敢えて、ヒューマはその人影に向かっていった。触れ合える、切り裂ける、突き刺せる。その距離は、既に必殺の間合いだ。しかし、アヌビスは一切動かなかった。それどころか、ヒューマがすれ違ったのにもかかわらず直進を続け、やがて力を失ったように霧散する。
「やっぱり、擬態!」
「なんでバレてるのよ!!」
ヒューマは向かってきた人影を確かに蹴り砕いた。殴り飛ばした。しかし、手ごたえどころか手痛いナイフの反撃をもらった。では、それはなぜだ。
攻撃を加えたのは、こちら側だ。なのにも関わらず、どうして自分が攻撃を受けている?
解明は、簡単だった。
相手がアヌビスだと判明した時点で、そのからくりは技から小細工に格を落とす。
ナイフは、アヌビスに擬態していた。
ヒューマがアヌビスだと思って全力の反撃を仕掛けたのは、アヌビスに見せかけたナイフ。
アヌビスに叩き込んだ攻撃は、寸分の狂いもなく作用した。切っ先を鋭く光らせるナイフに。
アヌビスを蹴れば、ナイフが足に。アヌビスを殴れば、ナイフが拳に。アヌビスを避ければ、ナイフは、意味を無くす。
自分のみでなく、物にまで擬態の異能を実行できる。それだけで、アヌビスの戦闘の幅が大きく広がる。予測しなければならない手が、幾多にも渡り、断たねばならない死の運命が、酷に過ぎる包囲網を大きく広げる。
そんな一手間違えれば即死の地雷地帯を、大胆不敵に駆け抜ける。悪態をつくアヌビスは、見抜かれた策をすぐに放棄。潜んでいた土煙から罵声を飛ばす。
「降参、いや、和解しない?僕たちが戦っても、なんの意味もないと思うんだ。」
巻き上げられて散布されていた土煙は、わずかだったその体積を完全に無くし、視界をわずかに明瞭に。
一度言葉を切り、出来るだけアヌビスの機嫌を損ねないように己の中の語彙から最適解を導き出す。
「どうしてわかってくれないの?前も言ったのに。私は、あなたに犯されたい。最高の快楽を、快感を、絶頂を、幸福を、性愛を、淫蕩を、ありったけの性を、キョウシュウ・ヒューマから享受したい。」
「魔法少女さんは、僕がその気になったら……そういってた気が」
「我慢できない……情報屋とあなたが組んだってことは、裏ではもう知れ渡った常識。それなのに、私にはなんの音沙汰もない。ずっと、情報屋と愛し合って、私なんか、眼中にないんでしょ!?」
当たり前だ。
どうしてフェルモアータと関係を持ったら、わざわざアヌビスを抱かないといけないのだ。と、常識を語る少女に常識を説きたくなるヒューマだったが、それが無駄だということもまた常識。甘んじて受け入れて、かみ砕いて、飲み込んで、消化した。
跡形もなく。
「だから、私に負けて……それで、私を認めて?自分が愛するに値する存在だって。この女に、自分を刻みたいって、一緒になりたいって、そう言って?」
アヌビスは、快楽主義者。ヘドニストだ。
だからこそ、快楽の頂点に属する性行為に異常なほどの憧憬を馳せる。しかし、破瓜には個人差はあれど多少の痛みを伴う。それを許容できるほど、彼女の快感への想いは甘くない。
だからこそ、異能を用いるダーカーに、自分を犯せと渇望する。
ただ、その実。アヌビスのいう犯すという言い方は、語弊しかない。
彼女は、あくまで痛みを感じさせないように最大限の快感を味わわせてくれと要求しているのだ。それは、犯して、というよりも、愛して、という部類に入るだろう。
それなのに、アヌビスは犯してという言葉をやけに誇張して口にする。
「どうして、その言い方に拘る……?」
何度、ヒューマはどうしてと問うただろうか。
口に出さなくても、ずっと、その心中では常に疑問が膨れ上がり、謎となって、毒となって、身体中にまき散らされていく。浸透していく。
脳内で巡り巡っていた疑問が、徐々に答えへと形を変えてヒューマの口腔に充満する。しかし、それを吐き出す前に、アヌビスの我慢が限界に達した。
「ねえ、犯して?」
アヌビスの姿がぼやける。そして、ヒューマに対して都合十本ほどのナイフの包囲網が牙を剥く。
眼前に迫った一投目のナイフを、取り出した拳銃で叩き落とし、続く二、三のナイフたちも同じく弾き落としていく。弾かれたナイフたちはその勢いのまま地面に突き刺さり、そうならず空を舞うナイフたちも遅れてその後を追う。
しかし、それでもヒューマは異能を扱えないダーカー。問答無用でそれらをさばき切れるほどの方法は持ち合わせていない。
確かな実体をもったナイフは、ヒューマの迎撃圏をかいくぐり、その肩に突き刺さる。
痛みに動きが鈍れば、それに追随するナイフの対応にも手が出なくなる。空振った拳銃を持つ左手をナイフの切っ先が掠め、それでも飽き足らず脇腹の肉もいくらか抉りとり地面へ。
完全に後手に回ってしまっている状況に歯噛みして、その力すら惜しいと最後のナイフを弾く。
が、その再起の迎撃こそ、ヒューマの読み違いだった。
ナイフに拳銃をあてがった瞬間に、ヒューマの脳裏に一つの懸念が滲みだす。
アヌビス・メーデンはどこに行った?
「ぁ、」
一瞬前までナイフだったそれは、アヌビスへと姿を変えていた。否、それは最初からアヌビスであった。彼女の異能は、擬態だ。
ヒューマの首を掻き切ったククリナイフ。動脈から噴き出すどす黒い血の中で、おびただしい生命の雫の中で、アヌビス・メーデンは笑っていた。
★
ずっと、誰かに成りたかった。
自分より美しい人がいて、自分より可愛い人がいて、自分よりかっこいい人がいた。
その人たちに比べれば、自分はこんなにも醜い。
そんなアヌビス・メーデンに初めて芽生えた感情らしき感情は、劣等感であった。
彼女の周りに容姿の整った人間が多かったということもある。しかし、彼女が美しさや愛らしさを求めたのは、その家庭環境にあった。
父の暴力と母の叱責。妹からの人格否定。
それは、地獄のるつぼに相応しき光景だった。
しかし、外面を取り繕うのは得意だったアヌビスの家庭は、常に綺麗で、常に羨望の眼差しを向けられていて、それこそが、とんでもなく気持ち悪くて、そのすべてが自分のせいであると、たったひとかけらの憂いもなく思っていたのだった。
美しい人になりたい。そうすれば、父は拳を振るわなくて済む。
可愛い人になりたい。そうすれば、母は舌を汚さなくて済む。
かっこいい人になりたい。そうすれば、妹は発破をかけずに済む。
自分が誰かになれたなら、自分が望む、その人になれたなら、世界は何もかもが美しく、自分はとても可愛く、最高にクールな日々が幕を開ける。
そんな子供の考えの一番の誤算は、その考えが上手く行ってしまったということだ。
父の前で、アヌビスは美しい女性であった。母の前で、アヌビスは愛らしい娘であった。妹の前で、アヌビスはかっこいい姉であった。
自分は、誰にでもなれる。自分は、誰かに擬態する才能がある。
勘違いでも驕りでもなく、それは事実で、アヌビスは誰かになれる才覚を持っていた。
そうして自分の手で恵まれた生活を掴みとったアヌビスは、いつしかある疑問に頭を悩ませることが多くなった。
誰かになりきっているときは、自分は誰かであった。
しかし、誰かでない自分は、いったい何なのだろう。
誰でもない、誰にもなっていない、本当の自分は、どんな人間なのだろう。
なにが好きで、なにが嫌いで、なにに腹を立てて、どんな人に恋をするのだろう。
なにも纏っていない自分は、自分というのは、存在しているのだろうか?
誰かになることが多くなった。
その時だけは、自分を見失う疑問を抱かずに済んだから。誰でもない時間が少なくなった。自分でいるとき、自分が分からなくなるから。
いつしか、アヌビスは完璧な擬態を求めるようになった。そうしないと、自分を喰らわんとする不安が、疑問が、終わりのない問いが、心をいっぱいにしてしまうから。
彼女のヘドニストのルーツも、そうした疑問からの逃げ道として、些か変態的に培われたものだった。
いつでも、アヌビスはアヌビスであることを恐れる。アヌビスでない誰かであることを望む。
誰よりも自我を恐れ、誰の自我よりも確固として擬態を求める。そんな難儀な少女の終着点こそ、『擬態』の異能、魔法少女のダーカー。
アヌビス・メーデンであったのだろう。
★
倒れ伏したヒューマの足を杖でつつき、眼球の動きを確認し、唾液の分泌量に喉元へと目を凝らす。
屋敷のような様相を呈す教会の庭、暗くなった月光の注ぐそこは、酷く血腥い雰囲気に満ちていた。
地面に仰向けに倒れる青年、原初のダーカー、キョウシュウ・ヒューマは、首から大量の血液を吐き出しており、それに汚された綺麗な芝が赤黒く煌めき、鈍色の草がささやかな風に揺れていた。
依然止まらない出血は、血溜まりを広げ、芝生を侵食していく。
ヒューマをそんな状態にしたダーカー、アヌビスは、自分で生み出した惨状に言葉を失い、ヒューマの傷口に自分の服のフリルを巻きつけた。
乱雑すぎる止血。止血にもなっていない形だけの医療行為。しかし、満足といったように微笑むアヌビスは、自分の指先の血液を舐めた。
「ねえ、私を愛してくれる気になった?」
瞳に危うげな輝きを宿したアヌビスが、ヒューマの唇に顔を寄せる。恍惚とした表情で、死体寸前のヒューマへと口づけを敢行する。
アヌビスの薄めの色合いの唇は、女性的な肉付きに富んでおり、それが至極の感触であろうことは、触れずとも感じ取ることができた。
そんな唇が、多少偏愛的であっても想い人の唇に触れるのだ。それは、人類が遥か太古から培ってきたもの、ヒトの本懐であり、限りなく正解に近い接吻。なにも、不思議でない。必然の、理。
アヌビスの唇が、躊躇など感じさせないほど滑らかな動きで青年のものと重ねられる。
しかし、その寸前。
「異能、解放。」
円環の螺旋が、アヌビスの眼前をすり抜けた。というより、その螺旋は、絶対的にアヌビスを狙っていた。
アヌビスは間違いなく避けたのだ。もし回避行動に対して怠惰であったら、その正体不明の光は間違いなくその横顔をぶち抜いていた。
端正な顔立ちを不可解に支配されたアヌビスは、その光の発生源に目を向ける。
まるで魔法陣のような円環の連なったレーザーのような輝き。それに破壊力というものが備わっていたのかは触れてみなければわからないが、アヌビスのダーカーとしての本能が確かに警鐘を鳴らしている。それは、危険だ、と。
震える眼光をぎょろりと転がして、淫魔のダーカー、フェルモアータが見えない表情で佇んでいた。
絶対的に分かったことは、それが、彼女の逆鱗に触れたということだけ。
アヌビス・メーデンは、順序を誤ったのだ。
★
消毒液を浴びて、スプレーを吹かし、殺菌シートで仕上げれば、彼女の身体は完全な清潔感を取り戻し、万全の状態へとなる。
アヌビスの擬態奇襲に、ただでさえ戦闘力の低いフェルモアータはまんまと昏倒させられ、今の今まで教会の中で眠り呆けていたのだった。
しかし、それを責めるのは酷というものだろう。
フェルモアータに突き立てられたナイフに盛られた毒は、バトラコトキシン。
少量で多量のネズミを、または十数人の人間を、アフリカゾウでさえ死に至らしめる、自然界に存在する毒の一種だ。
オットーランド毒素規定で、所有自体が犯罪となる第二級猛毒。さすがに、最強の毒、とまでは言わないが、青酸カリが甘く見えるほどの毒であることは確かだ。
では、そんな毒を突き立てられた少女、フェルモアータは、どうして立ち上がって、そこでアヌビスを睨みつけている?
疑問符の飛び交う脳内、しかし、その膨大なQに対応している時間はない。それは、今この状況を呑みこんでしまえば、疑問ですらなくなる些細なものだ。
しかし、逆にその疑問に呑みこまれてしまえば、永遠に体内を巡り、やがて死に至らしめる。そんなものだ。
ならば、聞いてしまえばいい。この状況を呑みこむために、呑みこまれないために。
「どうして?私が使った毒は、たとえダーカーでも最悪死ぬような毒だったはずよ。」
擬態のダーカーは、警戒を決して解かずに拳を握りかためる。
そんなアヌビスの問いに、フェルモアータは納得がいったというように、微かな達成感に似た感情を滲ませた。彼女自身、自分がどうしてそこまで昏倒してしまったのかわからなかったのだろう。
「毒……なんの体液……?」
フェルモアータに宿ったのは、人々が死ぬ間際に抱いた情欲の想い。淫魔の異能。
それは、精液、愛液、唾液の類からエネルギーを徴収し、それだけで生きていけるようになるという異能。
一見すれば他より劣っているように見える異能だが、その実そこにかかっている人体の変質は存外多く、その異能を体現するのにどれほど肉体が妥協したのか、考えるのも嫌になるほどだ。
そんなフェルモアータの異能は、体液からのエネルギー徴収。
バトラコトキシンは、毒だ。決して、体液とは関係ないように見える。
「体液……私にとって、…………食糧……」
蠱惑的な舌なめずりで艶やかな唇をなぞるフェルモアータは、かつて邂逅した魔法少女に初めて自分の概要を明かす。
その言葉を聞いて、心当たりでもあったのか、アヌビスは冷や汗を滲ませながら口角を歪めた。
それは、虚勢の笑顔ではない。だからといって、本当の笑顔というわけでもない。それは、ダーカーという異能力者の規格外さに歪めた表情が、奇しくも笑顔に見えただけ。
アヌビスの感情は単一色。しまったという、後悔。過ちは、その反動を力、場所、何もかもを寸分違わず叩き返してくる。
「ヤドクガエル、いや、モウドクフキヤガエル。ゴールドポイズンフラッグでもいい。」
バトラコトキシンは、とある蛙が纏っている毒であり、かつて人類の狩りの手助けをしていたほどに入手が容易だった、生物から採取できる毒である。
諸説はあるが、食べた虫の毒素を纏っているという説や、独自の毒素生成器官を保有しているという説、モルヒネによって起こった一種の突然変異種だという説。
信憑性は様々だが、未だ不確定の塊であるゴールドポイズンフロッグ、別名モウドクフキヤガエルの体液に分類されるであろう毒、彼らが武器とする毒、それこそが、バトラコトキシンだ。
ごく少量で人間を容易く死に至らしめる、とてつもない、紛れもない、猛毒である。そしてそれでいて、体液だ。
「…………とっても、……力、湧く。」
「馬鹿なのッ!?毒が、あの猛毒が……」
ぼんやりと淡い光を灯すフェルモアータの両目が、ノイズが走ったかのようにブレる。
「どうして力になるのよ!!」
に、っとフェルモアータの口角が吊り上る。それは、アヌビスのように結果的な笑みではない。
明確に、フェルモアータが感じて、フェルモアータが表に出した、絶対的強者の余裕。否、これから始まる暴虐への、期待だった。
バトラコトキシンは、猛毒と言われる毒だ。
しかし、それを体液と捉えたときに、その内包されるエネルギー量はどれほどのものなのだろうか。
グラム単位の小動物から、トン単位の巨大生物まで歯牙にかける、猛毒。死を食い荒らすほどの、エネルギー。筋肉を強制的に従わせるほどの力。
体液と考えたらなら、それは間違いなく、フェルモアータが摂取してきた中で、一番のエネルギーを含んでいた体液だったろう。
「異能、解放。」
ノイズが、色濃くなっていく。
徐々に広がった刹那の砂嵐は、一瞬の間フェルモアータの顔を半分覆い隠し、黒い電撃のようなものを迸らせながら霧散する。
フェルモアータの異能が、体液を取り込んでエネルギーとするものだというのは、アヌビスでも理解できただろう。
しかし、そこからの情報は本当にゼロ。情報屋の情報ほど、手に入れ難いものはない。
そこから始まるフェルモアータの攻撃手段が、アヌビスには皆目見当もつかなかった。
そこで、ようやっとその解明の手口を思い至る。
フェルモアータの初撃。口付け間近のアヌビスに放たれた、謎の光。
それは、アヌビスを通り抜けて教会庭の木々に降り注いだはずだ。
ばっと振り向き、その着弾跡を視界に収める。そこに、物質は存在しなかった。
「へ……ぁ……?」
正確には、先ほどまで生い茂っていた木々は、その姿を小さな枯れ木の残骸に変えており、すでに生きているという様子はない。
まるで、維管束ごと押しつぶされて、養分の流動が経たれたような、干からびたような。
その症状には、見覚えがあった。
バトラコトキシンは、神経毒の一種だ。
筋肉を収縮させて、心臓発作を起こし、死に至らしめる。本来なら、それが木々にまで影響を及ぼすことはないだろう。しかし、それがダーカーというフィルターを通した後ならば、話は変わってくる。
フェルモアータは、体液内の微かなエネルギーを肥大化させて自分が動くことすらできるほどのものに変えている。
それは、最初から大きいエネルギーを取り込んだ場合も例外ではない。
バトラコトキシンを取り込んで、それを信じられないほど大きく肥大化させて、植物すら枯らす毒に昇華する。
フェルモアータの手中から、光り輝くエネルギーが一直線に駆け抜けてくる。その速度は、アヌビスの瞬きで簡単に侵入を許してしまうほどに速く、偶然狙いが外れなければ確実に魔法少女の命を刈り取っていたであろう一撃だった。
取り込んだエネルギーを肥大化させ、放出する。淫魔の成す、生の砲台。
ほんの少しの油断と諦観で、死を猛烈に近づける、猛毒だ。
★
逃げる、逃げる、逃げる。
戦闘向きでない異能。互いにそれは変わらない。
エネルギー効率吸収、擬態。なんなら、自分の方が戦えるという自負すらあった。
しかし、相手はそれ以上の攻撃力と鋭い眼光でもってそんな考えを打ち砕いた。
その上、彼女の能力の開花は、自分の突き立てた毒の牙によって覚醒してしまったもの。ここまで墓穴を掘るという言葉の似合う人間も、そう居はしないだろう。
逃げ続ける。自分を偽ることすら忘れて、アヌビス・メーデンは逃げた。
淫魔のダーカー、今、この戦場で一番の火力を誇る、戦闘向きでないダーカー、フェルモアータから、脱兎のごとく、逃げ出したのだ。
「私……愛されたいだけなのにぃ……!なんで、愛されてるあんたが邪魔すんのぉ……」
瞳を潤ませながら、涙だけは必死で堪えて、それでも溢れ出してしまった涙は見ないふりをして空気に溶かし、足を動かす。
教会に侵入したのは、フェルモアータの攻撃が直線的なことを見越して、回避行動のとりやすい曲がり角を欲したからだ。
もちろん、長い廊下で会敵してしまえば、ノータイムでの死を意味するのだが、逆にうまく巻くことができたのなら、フェルモアータを倒すことも可能だろう。
「異能解放……ずっ……」
鼻をすすりながら、異能発動器官が駆動する。
アヌビスの身体がぼやけ、霧に包まれたように輪郭を溶かしていく。そして、霧がゆっくりと晴れ、やがて輪郭が形を取り戻し、そして。
全く変わらないままのアヌビス・メーデンが、そこにいた。
「あれ……なんで?……なんでぇ……」
異能が、今まですっとできていたはずの擬態が、発動しない。
アヌビスが獲得してきた、たった一つの手段が、通じないという土俵にも立てない。
それを使うことすらできない。
今までの人生を、その擬態で作り上げ、その擬態を磨き、その擬態が自分の価値だと思っていたアヌビスにとって、それは今までの人生の否定に他ならない。
お前の今までは、無駄なものだった。
お前の人生には、価値がない。
そういわれることと、何が違っただろうか。
思えば、自分が分からなくなったのも、擬態に失敗した時だった。
友人との会話で、擬態する人格を間違えた。
自分は、その友達の前で暗い女の子であったはずだったのだ。
けれど、寝ぼけナマコだったのか、心労が祟ったのか、あろうことか反対の人格で、明るく気さくな人格で、友人に話しかけてしまったのだ。
それはそれは驚かれた。
見た目は同じなのにも関わらず、中身が丸々違う人間なのだから。
普通であれば、ただの冗談でも済んだであろう。しかし、冗談で済ますにはアヌビスの擬態は完璧すぎた。
それをアヌビスだと認識できないという奇妙な感覚に、友人は戸惑い、不信感から疎遠になっていった。
これまで完璧にこなしていた擬態を失敗してしまったという矜持への傷と、その友人との関係への不安。
そうして、そんな感情すらも本当の自分は抱いていなかったのではないか?そんな懸念からだった。
自分が分からなくなった。アヌビス・メーデンはなにが好きで、何に腹を立て、何に対して笑うのか。
いつだって、擬態はアヌビスを救ってきた。しかし、いつも自分を追い詰めるのは擬態で、いつだって擬態に一番縋りたい時に、裏切られた。
それでも生きて、生きて、生きて。
自分はそれで、何に為れた?
こうして裏切られて、擬態を使うことすらできなくなって。
どうして、擬態できなくなった?
そんな疑問だけが、脳内を巡り巡って、かつての自分の言葉が脳裏に浮かんだ。
完璧に、擬態したい。
そうだ。完璧だ。完璧な擬態。それはもはや擬態でない。何かになるのも、偽物じゃない本物だ。擬態を越えた、変質だ。
完璧な擬態を、変質を。
そうすれば、自分は愛してもらえる。
家族が自分を愛してくれなかったのは、擬態が出来ていなかったから。
それじゃあ、キョウシュウ・ヒューマが自分を愛してくれないのは。
「擬態が、完璧じゃなかったから。」
完璧に擬態して、もはや別物になれば、それはすでにアヌビス・メーデンではない。
アヌビス・メーデンを受け入れてもらえないなら、フェルモアータになればいい。彼女に擬態するのではない。彼女になるのだ。本物だ。
自分こそが本物のフェルモアータであると、誇らしく笑って、そうして、ヒューマからの愛を享受すればいい。
簡単なことだった。そう、本当に簡単だった。いまから、完璧な擬態に、変質に、近づこう。
「私は、今から、偽物じゃない。」
ニヤリ、と。それは、心の中でくすぶっていた、咆哮していた。紛れもない、アヌビスの感情。
彼女は、既に擬態を見限った。
もう、偽物に用はない。ただの擬態に、用はない。
変質だ。そして、成りたい何者になるための、変身だ。
彼女は、
「本物だ。」
バツン!と、アヌビスの瞳が弾けた。
決して多くはない血液を右手で拭い、美しいショートカットを艶やかに赤く染める。
止血の必要もないほどの量の出血。しかし、それが瞳からのものだというのなら、いくら出血が少ないといっても痛覚に訴えられるだろう。
激痛が、骨を軋ませ、血液を揺らし、脳髄で暴れる。そんな痛みすら、今は心地いい。
自分は、アヌビスは、アヌビス・メーデンを捨てることで初めて、本物になれる。
ノイズが、世界を塗りつぶす灰の嵐が、微かな残滓となってアヌビスの瞳に重なるように現れ、小さな破砕音を潰しながら消えていく。
幾ばかの千鳥足の末、幾ばかの壁への衝突の末。
「見つけた。……泥棒猫……」
ヒューマの唇を奪おうとしていたことをまだ根に持っているのだろう。鋭い視線をアヌビスへと向けるフェルモアータが、その激情のわりに可愛い表現で擬態のダーカーをそう称した。
しかし、そこにいたのはすでに擬態のダーカーにない。それはすでに、本物を探し求めるダーカー。
何物でもないダーカーでない。
何者でもあるダーカー。
ただの、そんなダーカーだ。
「異能、解放」
フェルモアータがしなやかな砲身を、強大な力をたたえる手を、その照準を、狂いなくアヌビスに向ける。
そして、重苦しい湿った音を響かせて、都合三発の弾丸を放った。正確には、弾丸ほど生易しいものではない。それは、当たれば必殺の一撃、掠れば致命傷の大打撃、存在が危険の塊である毒の砲弾。
砲撃する淫魔のダーカー。迎え撃つのは、変身のダーカー。偽物を捨てた、本物のダーカー。
「異能解放」
眼前で煮えたぎるように隆起する毒の弾丸。
それを見逃せば、アヌビスは跡形もなく枯れ果て、微かなゴミとなってこの教会を汚すことになるだろう。
しかし、それを見逃さないという選択肢があるのなら、それを実行できる力があるのなら。
それは、紛れもない。反撃の狼煙だ。
「……ん…………それ……」
フェルモアータが訝しげにアヌビスを見た。
深く、泥濘のように沈む淫魔の瞳に、魔女が映っていた。
それも、見た目だけでない。
突き出した右腕は、なにか見えないバリアでも張っているかのように毒の弾丸を封じ、べしゃりとすり潰した。
不可視の暴力。超常の力。魔力を媒介として運用される、排斥されしほどの強大な力。
それこそ、魔女の扱う、魔法。決して、ただの人間が使うことのできるような、ありふれたものではない。
そしてそれはもちろん、アヌビスも例外ではない。
それは、きっと魔女にしか扱うことのできないといっても過言ではない、そんな魔女のダーカーだけの特権だ。
なのにも関わらず、フェルモアータの相対する変身のダーカーは、その力を使って見せた。
直接戦ったヒューマならば、それに対して確信をもって魔法だといい切れただろうが、魔法の情報だけを持ち合わせたフェルモアータにはあくまで推測しかできない。
けれど、情報屋でも、淫魔でもない、心の奥のフェルモアータが、確信している。
それは、魔法だ。
ずるり、と。泥のように溶けだしたアヌビスの輪郭が完全に形を失い、真っ黒な外套を脱ぎ捨てるように消える。残ったのは、場違いな魔法少女の衣装と、綺麗なショートカットを揺らす、アヌビス。
間違いなく、アヌビスは今、魔女に成った。それも、擬態でなく、完全なる本物として。本物の象徴である異能を、その手にして。
長い廊下。教会とは思えないほどの華美な装飾を横切って、アヌビスは何の警戒もなくフェルモアータに歩み寄る。
度し難い、全能感が、アヌビスを支配していた。
自分は、すべてだ。何物でもなれる。何者でもある。
自分が何かわからない?馬鹿らしい。自分はすべてだ。何者にもなることのできる自分は、この世界の全てだ。なにも、悩む必要はない。
「異能解放」
歩み寄る足音が、徐々にその間隔を短く、しかし歩幅は大きく。
いつの間にか疾走までに速度を上げたアヌビスが、詠唱しながら廊下を駆け抜ける。
進む先、待ち受けるフェルモアータ。
それを瞳で射て、自分になる。
ショートカットが伸び、服がピンク色の輝きに溶ける。裸身を桃色に輝かせて、白い布のようなものが、その桃色を塗りつぶしていく。ひときわ大きな輝きがアヌビスを包み込む。
フェルモアータにその刃が届く頃には、それはアヌビスでなくなっていた。
長く美しい金髪を一つに結び、麗しいポニーテールを靡かせる少女だ。白銀の戦鎧を纏った姿は、さながら騎士。
背後に引いたリーチの長い両手剣まで見れば、誰もが想像する姫騎士そのものだ。
「むぅ……」
距離を詰められる不利に微かに眉を歪め、神速の剣撃をすんでで回避。すれ違いざま、手中に溜めた毒を放とうと砲口を向ければ。
同じく、すれ違いざまの一瞬の攻防に剣を賭けた騎士の誇りが、その切っ先を煌めかせながら迫ってきていた。
やむを得ず毒の弾丸の制御を放棄。廊下の絨毯を溶かしながら蒸発するそれには目もくれず、フェルモアータは騎士剣の刺突を飛び退くことで回避。
行き着く暇もなく、アヌビスの身体がぼやける。
輪郭が溶けて、その騎士だった暗黒を切り裂いて、魔女へと姿を変えたダーカーが数多の矢をつがえてフェルモアータを睨みつける。
もちろん、矢というのは弓とつがいを為す古式の武器ではない。魔女にしか扱うことのできない魔法が生み出した、どす黒い紫紺を燃やす、些か趣味の悪い矢だ。そして、その威力も、馬鹿にならない。
機関銃のような音を弾けさせて射出された魔力を破壊の力へと歪めた矢は、フェルモアータに毒での攻撃を封じるほどには効いていた。
己の眼前に放った毒の雫は、その面積をフェルモアータを覆い隠すように広げ、撃ちだされた魔力を片っ端から溶かしていく。さながらそれは、毒の盾。
しかし、バトラコトキシンは元はといえば神経毒。
酸のように融解に特化した液体ではない。
あくまで、それは強大なエネルギーが熱となって放出されているだけ。
無機物に対しては、その毒はあまりにも非力すぎる。
現に今も、フェルモアータは魔女から撃ち出される魔法を防ぐことで精いっぱいだ。
しかし、魔法というのも万能の力ではない。拳を繰り出すのに息継ぎが必要なように、銃の連射の為にリロードが必要なように。
魔法も、魔力を取り込むという工程が必要になる。
その一瞬の隙、それこそ、フェルモアータが状況を変えられる数少ないチャンス。
逆転した力関係に驕らず、自分の負債は自分のものとして受け入れて、フェルモアータは撤退という選択になんの感情も抱かずに移行した。
踏み込んだ右足。たわむ筋肉は衝撃を推進力に変え、蓄えられた過剰なまでのエネルギーがフェルモアータの矮躯をまるで弾丸のようにはじき出す。
安定しない空中。といっても数十センチではあるが、その踏みしめる場所を失った世界で、なんとかバランスを保ちながら、フェルモアータは滑空。危うげな着地を決めて、迫った曲がり角を小さな体を存分に生かして抉るように駆けた。
その超絶技巧の跳躍は、魔法の矢でも捉えることは出来ず、冷静さを欠かない端正な顔立ちがどろり、と溶けだして、アヌビスの苦渋の表情が現れる。
魔法の攻撃力と、毒の弾丸のエネルギーはほぼ同等。
先ほどと同じ状態になれば、拮抗状態が続くことは容易に想像できた。
ならば、確実的な勝利を望むなら、打開こそが必須。
再び拮抗状態の状況を作り出しておめおめと逃げられるのは愚策だ。
決めるのなら、
「でっかい攻撃を、一撃で。」
どろり、どろり。
ショートカットから、色が抜け落ちる。
煌びやかな服から、幼さが抜け落ちる。
凝り固まった表情から、負の感情が抜け落ちる。
スレンダーな肉体美から、淑やかさが抜け落ちる。
アヌビス・メーデンから、アヌビス・メーデンが抜け落ちる。
そして、躊躇が抜け落ちて。セクタが、顕現した。
★
アヌビス・メーデンの異能は、魔法少女。
その対象を限らずに、放出するセクラリア光に同等以上の光エネルギーをぶつけて、その見た目、外側、外観を、全く別のものに擬態させる。それが、フェルモアータが持っていたアヌビスの能力情報の全てだった。
自分の情報に信憑性を疑う気はないし、異能の領分である絶対的な部分を否定する気もない。だからこそ、アヌビスが能力を進化させたと、その能力がとてつもなく強大だということを認めざるを得ない。
ほぼ、確実に。アヌビスは外見を全く別のものに擬態させる能力者。
そして、それが進化して、中身まで、成り替わるようになった。
外側も、内側も、どちらも成り替わることのできるそれは、もはや本物と言っていい。
そんな、変身の能力。魔法少女の本懐らしい、反則級の能力。
全ダーカー中最強候補。アヌビスがそんなダークホースになるなど、誰が想像できたであろう。
そして、そんな現時点最恐のダーカーにすら変身することができるなどと、誰が予測することができただろうか。
「ひゅっ……!?ッ……??」
フェルモアータはその違和感に、思わず逃走をやめた。
その時だけは、追いつかれるという思考がその一端すら出てこなくなった。
その違和感とは、心臓の鼓動だ。
もちろん、急に動悸が激しくなったとか、リズムが狂ったとか、そんな話ではない。
むしろ逆だ。命をチップにした逃走劇の中で、破裂してしまいそうなほどに胸の中で暴れ狂っていた心臓が、全能感に満ち、心地いい安寧に包まれたのだ。
おかしい。そう、おかしい。それは、絶対に慌てふためいて震えるはずの場面だ。ここまでの落ち着きは、もはや異常といえる。
それでも、その脳の考えを否定するように、心臓はおかしいくらいに落ち着いている。相対的に、それが正しいように感じてしまう。
順を追って、状況を呑みこんで、脳が導き出した演算結果は、紛れもない危険信号。それに従おうとする体を、体の中心が静かに否定するのだ。
まるで自分に意思が二つあるのではないかと錯覚する奇妙な感覚。
思い当たったのは、ヒューマの心臓の感覚。
フェルモアータが息を切らし、全力で精を搾り取るとき。序盤のヒューマはほとんどの場合呼吸も、鼓動も乱さない。
その心音を聞きながら、自分の暴れる心音とのギャップに、フェルモアータは重なりを実感するのだ。
逆に、そこでヒューマの心臓も暴れていれば、共に在るという幸福感に包まれる。
今、現在進行形でフェルモアータに訪れている感覚は、肌の重なりを排除したそれと酷似している。
そう、まるで、感覚の同期。身体のリンク。
「人類……滅ぼすとしたら……?」
迸ったその考えに、フェルモアータは戦慄した。
それでも落ち着き払っている心臓を脳から切り離す。
平静を保つために、平静を必死でかなぐり捨てる。そうしなければ、自分が、自分でなくなる。 誰のものとも知らない鼓動に、己を失ってしまう。
フェルモアータがそんな葛藤の最中で思いついてしまった可能性。それは、セクタのことであった。
他のダーカーに成り替わり、その異能すら意のままに操るアヌビス。
彼女がどんな条件でもって変身することができるのかわからないが、先ほどフェルモアータを追い詰めた騎士風の少女は、フェルモアータの情報にはない。
あの身体能力ならば、間違いなくダーカー。アヌビスが知っていて、情報屋であるフェルモアータが知らないダーカーなど、いるはずがない。
つまり、アヌビスは自分の知り得ないダーカーにさえも、存在しない存在にさえも、変身することができる可能性を秘めている、ということだ。
その可能性を考えれば、アヌビスが今一番願う能力は、異能は何であろうか。
勝たなければ死ぬ、絶対に勝たないといけない、そんな強い想いと、圧倒的な生への執着。快楽への妄執。
きっとそんなとき、皆、望むのものはひとつ。
きっと皆、最強を望む。
「セクタの……異能……!?」
心臓が、その鼓動を逸らせる。それは、フェルモアータが辿りついた答えに動揺したからではない。
自分の支配下にない心臓が、勝手に騒ぎ出したものだ。しかし、それはごく自然に溶け込み、幾ばかぶりの心臓と思考の一致をもたらした。
ダーカー最強。
異能研究最先端の風 隣杯が、最強だと断言する、概念の操り手。
それは、人類を丸ごと滅ぼすことなど容易で、たった一人の少女に数十億の人間の命が握られているという不条理の証明に他ならない。
たった数十センチの指先に、たった数十グラムの精神に、都合数十億の命を抱える。
そんな言葉通りに規格外の異能。それは、果たしてどんな能力なのか。
結局答えの出なかったその問いに、フェルモアータはほぼ確定的な考えを手に入れていた。
フェルモアータの心臓。まるで自分のものでないように自立する鼓動の音は、明らかに自分の鼓動の音ではなく、リズムもフェルモアータの矮躯にしては遅い。
それはつまり、心臓を文字通り鷲掴みにされている感覚。
自分のものでない心臓を、押しつけられている感覚。
「身体の、共有……」
セクタの能力。それこそ、この鼓動の不可解な脈動の招待。
アヌビスは、最強の能力を求めた。それに答えた変身の異能は、セクタの姿を彼女に写し、その異能までもを授けた。だとするならば、アヌビスが発動しているこの異能を暴いた功績は、セクタの異能を暴いたという偉業に等しい。
酷く落ち着いた精神に反比例して、鼓動が妙に落ち着かない。まるで走っているような。
セクタの異能によってアヌビスが身体をフェルモアータと共有しているのなら、どうしてここまで鼓動が高鳴っている?
疾走に跳躍を重ね、鼓動を上書きして、アヌビスは一体何をしているのか?考えなくてもわかる。
自分の元に向かってきているに決まっている。
「っ……」
今のフェルモアータは、おそらく高い戦闘能力を有している。
自然界でその猛威を振るうおぞましい神経毒を、その手に宿しているのだから。
しかし、魔女の異能によって、またはそれ以外の異能によって。なにより、セクタの異能によって、その力を削がれたら、フェルモアータは容易に敗北する。
少量のバトラコトキシンを生成。きゅぽん、と空気に浮く毒の弾丸を、自分に追従するように操作し、すぐさま逃走姿勢に入る。
生み出された力は、全身を駆け抜け、様々な体位によって培われた柔軟な筋肉によって何倍にも増幅される。
ダーカーの身体能力を最大限発揮した形で、絨毯の敷かれた床に対してくぐもった暴音が響く。反動による疾走。
そうして、フェルモアータの疾駆が始まるというところで、心臓の鼓動がふっと収まった。
「っ?ぇ……?」
がくり、と膝を突き、起こるはずだった疾走の第一歩、大跳躍が、急遽キャンセルされる。
留まる場所を失った力は虚空で破裂し、透明な波動とともに霧散する。走るための高エネルギーが、たった一瞬の違和感で、霞む。消える。
フェルモアータは、いつの間にか地面に這い蹲っていた。
騒音、またはテンポという類の音の連続。それは、聞き続ければ聞き続けるほど泥濘のように脳内に沈殿していく。
それは、いつしか心地よい重さに変わり、温かさすら感じるようになる。たとえ、それが騒音だったとしても、轟音だったとしても、だ。
それが唐突に失われる。そこにかかるストレスは、騒音が沈殿していく過程の心身負荷を優に超える。
たとえ自分のものでない知らない鼓動だったとしても、フェルモアータはその心音に紛れもない生を実感していたし、暗闇の中の指標としていた。
それが唐突に失われた。フェルモアータが地に叩き伏されても、責められないだろう。
そのうえ、心音は収まったのだ。フェルモアータ自身の本物の心音になったわけでも、リンクしたアヌビスの心音が落ち着いたわけでもない。
心臓の鼓動が、消失したのだ。
「な、んで……」
心臓の脈動を特になんのモーションもなく感じ取ることは難しい。しかし、いざなくなってみれば。こんなにも、違和感のあるものだったのか。
そして、どうして、心臓が消えたのか。その漠然とした、それでいて大きすぎる不安は、確かにフェルモアータの心を蝕む。
その既に聞こえなくなった心臓ですらも。
みちみち、と。なにかが、握りつぶされるような音がした。
それは、どこからか聞こえてきたものではない。もっと得体のしれない。それこそ、概念的な音。
肉に食い込む力がさらに加重し、いつしか骨と力に挟まれた肉が信じられないほどに硬直する。
そして、耐え切れなくなったそれは、肉片に変貌していく。皮膚が力に断裂して、そこに蔓延る血液が噴出し、やがて力は骨すらも手にかけ始める。
一思いに折るのではない。あくまでゆっくりと、焦らすように。力を加え続け、自分の骨が軋む音が、骨の表面が弾ける音が、なによりその骨の中を伝達して耳朶で暴れまわる。
ほんの少し亀裂が入ったら、そこからは一瞬だ。これまでじれったいとすら思っていた粉骨は、原形すら残さず叩き折られる激痛のインパクトとなり、己の絶叫すら、骨を通じて痛みに変換される。
以上、妄想。フェルモアータが勝手に考えて、勝手に病んで、勝手に憔悴した、想像。幻肢痛と言ってもいい。
けれど、確かにそれは実態を伴って訪れ、
★
教会の中。
血塗れの死骸、その寸前の肢体が、痙攣しながら放置されていた。
その身体はどうにも、扇情的であった。
★
どろり、どろり。
セクタだったものが、一概の魔法少女に成り下がる。最恐のダーカーが、一概の変態に侵される。
自分の力に苦悩して、痛む心に鞭打って、必死にその答えを探し続けるセクタから、アヌビスはその苦悩を奪い取った。
たった数分の出来事だったとしても、それは許されざる行為で、一人の少女の懊悩への、冒涜であった。
そんな大罪をなかったことにするように、アヌビス・メーデンは魔法少女に変身した。
第三者からすれば、それはアヌビス・メーデンという少女の、本当の姿。その姿こそが、アヌビス・メーデンだ。
しかし、今のアヌビスにとって外見や異能がなにか、そんなことは関係ない。自分は、完璧な擬態。擬態を超えた変身を行える。
つまり、自分が成れば、それは自分だ。
「やっと、やっと、私のこれまでが、報われるわ」
言葉の節々を跳ねさせて、身体すら期待に跳ねさせて、心底嬉しそうにアヌビスは廊下を歩む。
そこには、一仕事を終えたことへの達成感、これからの新体験への期待、なにより、悲願の達成が目前に迫ったという歓喜。
ヘドニスト、快楽主義者。散々罵られ、歪だといわれてきた。それに耐えて、新たなステージに進んで、こうして勝ち残った。その成果が、やっと現れるのだ。
アヌビスが相好を崩すのも、分からなくはなかった。
「キョウシュウ・ヒューマ」
やけに重い扉を、息を切らしながらなんとか押し開け、だだっ広い庭に広大な血だまりを作ったヒューマへと一直線に歩いていく。
ヒューマの状態は、酷いものだった。
首からあふれ出していた血液は、鮮血だったものがどこかどす黒い粘性の高いものに変わっており、出血量が増加するたびにその傷口に血泡を弾く。
服に浸透した血液はほとんど乾ききったのだろう。既に布というより板のように固まった服が、不自然なしわでもって不可解を主張する。
ただ、恐ろしいことに、それでもヒューマは死んでいなかった。
浅く、小さい。口元で耳を澄ませなければわからないほどの音量ではあるが、微かに呼吸を続けている。
しかし、その微弱さなら、今すぐにでもその音が聞こえなくなってしまっても不思議ではない。
ダーカーというのは、異能を発動するときに体内エネルギーの多くを消耗する。
そのため、異能発動器官が脳を歪ませ、ダーカーとなった瞬間、身体はできるだけエネルギーを保有しようとする。
簡単に言えば、筋肉量が増えるのだ。それも、今までの体型を維持したまま。
体型が変わってしまえば、異能発動器官がそれに合わせてエネルギー運用を演算しなおさなければならない。
そのため、ダーカーは基本的に太らないし、痩せない。
そのうえ、見えない筋肉量が従来の人間より多い。
ダーカー特有の化け物じみた身体能力はここからきている。
そんな身体強化は、回復力に関しても例外ではない。
エネルギーを回復に回せば、異能を扱うことはできなくなる。そのため、ダーカーは死ににくく、回復効率のいい体をしていることが多い。
そんなダーカーの基本性能をフル活用しまくって、やっとのことでヒューマはこの僅かな時間、酸素を味わうことができる。
あおむけで倒れるキョウシュウ・ヒューマは、生を謳歌することができる。
「ねえ、起きなさいよ。もう邪魔する人はいないのよ?はやく起きなさーい?」
そんなヒューマの上に馬乗りになり、血塗れの頬をつんつんとつつきながら、瀕死の青年に云う。立て、愛せ、と。
それは、ここまでの重傷の人物に大して使われるべき言葉ではないし、たとえヒューマが五体満足の状態だったとしてもアヌビスが使っていい言葉でもない。
ゆさゆさと体を揺らし、まるで癇癪を起こす子供のように頬を膨らませるアヌビス。そこに可愛げなどなく、欲望に淀んだ瞳がギラついている。
不満そうに「む~、」と声を吐いたとき、状況が動いた。
★
最恐のダーカー、セクタは、その身柄を『デュカイオ・シュレー』に我がものとされている。
既に彼女は、研究所側の人間なのだ。その事実は揺らがない。で、あるならば、彼女が封印されていたフェルモアータのアジトが、研究所側の施設であるということも、必然であった。
足場の悪さにイラつきながら、しかし品格を穢さないように悪態の言葉をなんとか呑みこみながら不機嫌そうに進む影が一つ。
それは、綺麗な赤髪を寄せて、その視界を明瞭にする。
どこまでも効率のみを重視したヘアスタイルで、研究者の右腕、異端の錬金術師、レベリリオン・サブレリアは、確かな足取りで進撃を開始した。
木々の生い茂る森を抜けて、小さく開けた広場に出る。といっても、自然に見えるように研究所側が工夫した結果であるため、そこに大した感慨は抱かない。
普通の人間が見たら、その偶然に顔を輝かせるのだろう、そんな嘲りを含みながら、入口へと歩みを進める。
その入口は、特に変わっているようには見えなかった。戦略輸送マテリアルの特殊搬入口は、相変わらず気味の悪い形をしているし、無機質な殺菌消毒口には消毒液の独特な匂いが蔓延している。
そんな実用性重視の完全なる効率主義の入り口は、そのプロテクトの全てを放棄して、隷従するようにその口を無防備にあけていた。
「っ!?なんで……研究所と同じレベルのシステムが、破られた……!?」
驚愕に普段の冷静さを忘却したレベリリオンは、自分の異能の存在すら忘れて思わず制御システムに端末を繋いだ。
映し出されるのは、これまでこの場所を誰が、いつ、どのようにして通り過ぎたのかという記録。
人感センサーカメラ。
記録は断続的に行われており、数週間以内の記録は一人のサキュバスがすべての画角を埋め尽くしていた。
「このプロテクトを、解除した……?いや、しかし、そんな素振りは……」
フェルモアータがアジトとしていた封印施設。
セクタを封じ込めたこの場所は、相応のプロテクトがかかっており、並大抵のハッキングシステムや破壊行動では破られないようになっている。
決して、一概の情報屋が、一概のダーカーが、こう何度も侵入を繰り返せるほどに、甘いものではないのだ。
しかし、実際フェルモアータは我がもののように出入りしているし、直近では靄のかかった男も連れている。
異能感知のセンサーにかからないということは、普通の人間である可能性も考えられる。
そんな侵入記録の中で、フェルモアータがプロテクトを解くという挙動をしたことが、一度もないのだ。本当に、ただの一度も。
最初にフェルモアータがこの施設に侵入してきたのが約一カ月前、その時も、多少警戒の色を滲ませてはいたが、フェルモアータは意図も簡単に入口から侵入し、それ以上もそれ以下でもなく、普通に出ていった。
では、このプロテクトを解き、あまつさえ崩壊にまで導いた人物がいるはずだ。
その人物が壊したシステムに偶然たどり着いたフェルモアータが、偶然そこを気に入り、偶然セクタに気付かなかっただけだ。
では、必然的にその場所を見つけ出し、明確な悪意を持ってそのプロテクトを破壊しつくしたのは、いったい誰なのだろうか。
遡る。記録されている限りの履歴を遡り、誰がこのプロテクトを破壊したのか導き出すために、警戒も忘れて、一心不乱にボタンを連打する。
流れていく画面の時間表示は、既に二カ月前を越え、三カ月前に突入している。
施設のプロテクトと防御性能を過信しすぎた。半年に一回という巡回期間の中で、ここまで好き勝手にされているなど、予想できなかった。
「糞虫が、……見つけ出して拷問して、一生研究所で哭きながらの生活にさせてやる……!」
途絶えた録画履歴が、やっとのことで復活した。
期間は約四カ月前。まるで研究所側の巡回ペースを知り尽くしたように訪れた人影は、軽やかにプロテクトを解除し、内部から制御ハードを破壊して、この入口をただの穴に変えた。
虫唾が走る。この施設を作るために、自分の敬愛する人がどれほど心を痛めたか、どれほど時間を費やしたか。あの人を冒涜した無法者に自分が天誅を下さねばならない。
そんな思考に脳が焼け、映像への認識が遅れた。
「は……ァ……?」
研究所で働いているダーカーは、セクタを含めて四人。そのほとんどが強力な力を持ったダーカーで、風 隣杯直属の研究所防衛システムだ。
しかし、その中でレベリリオンだけは、力に恵まれなかった。
かつてのレンゲル・ライレイのように、レベリリオンの異能は完全なる生産職。戦闘向きの異能ではなかったのだ。
レンゲルのように肉体的に鍛え上げられたものがあれば、それを生かして戦闘職に成れただろう。しかし、研究所の職員として研究も行わなければならないレベリリオンは、そんな鍛錬の時間はなかった。
彼女はどこまでも非戦闘タイプのダーカーで、どうしようもなく弱かった。
だから、彼女は確認されているダーカーの情報を片っ端から記憶している。
自分がダーカーと戦わないといけなくなったとき、自分がダーカーのことを知り尽くしていれば、足りない戦闘力を知識で補い、足りない能力を戦略で補うことができる。
そう、知識、知略とは、人類の磨き続けてきた遺産だ。人類が他の種族に負けない、唯一の矛だ。
レベリリオン・サブレリアは、対ダーカー戦略的戦闘の第一人者。彼女のデータベース上で勝つことが困難な事例など、ほとんどない。
そう、能力が不確定の女。その不可解なダーカーを除いては。
映像には、まるでシェフ帽子のように長い修道帽子をかぶり、抜群のスタイルを修道服で覆い隠す、無表情の女が映っていた。
「こいつッ、まさヵ」
「こいつ、とは些か育ちの悪い話し方ですね。かの『デュカイオ・シュレー』の研究員が、そんな粗暴な話し方だと、品格が疑われますよ?」
背後からの声に、レベリリオンは戦慄した。
カメラの映像からの声じゃない。それは、明確に肉の音を伴っていた。確実に、己の背後から聞こえてきた。
ゾッ、と背筋を駆け上がる悪寒。それは脊髄を経由して嗚咽を促し、それでも足りぬと脳裏に最悪の映像を投影する。
この声、そこからわかる背丈、耳の痛い罵声すら美しく包み込む完成された口調、妙に扇情的な衣擦れの音。紛れもない、それは。
「おっ、が」
ボッ、と。白煙が迸り、続く衝撃波が崖で爆裂する。
唐突な暴風に押されて顕現した爆炎は花火のように周囲に広がり、美しく花を咲かせた。
そして、そんな超威力に押されて喀血を漏らし、紙屑のように施設の中へ吹き飛んだレベリリオンは、その偶然にしては出来すぎた邂逅に咆哮した。
セクタ封印施設。その高い高い天井に向けて、仕組まれた不幸を嘆いた。
「ぁんでだよ!!ナイト・リゲルぅ!!!」
それは、美しき修道女。そして、ナースの少女。
ナイト・リゲルの、物語への再臨であった。