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Mr.DARKER STRANGE  作者: 事故口帝
Mr.Darker Strange
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Mr.DARKER STRANGE 第二章『淫魔』

第二章『淫魔』


隣杯(りんはい)孤児院。それは、院長である(ふう) 隣杯(りんはい)の考えで始められた子供たちへの救済だった。


東洋帝国は、その国柄からストレス耐性が無く、娑婆の凶悪事件が報道されるだけで株価が大暴落。かと思えば、突然跳ねる折れ線に人生を狂わされるものも多くいた。

ただ、影響を受けるのは株式だけではない。如実に表れるのがそれであっただけで、データ化することはできないが、感覚という観点で一番の被害を被るのは国だ。


政治家、または主導者陣営の者たちは、俗世間の乱れに対する対応に過剰に熟考してしまうことが多々ある。それによって遅れた国の責務は数知れず、それによって衰退したモノも数える気にもならないほど積み重ねられている。

そして、国が感化されればそのもとの民は大きく揺さぶられる。ただでさえあまり柔軟な考え方のできない人種であるのだ。それに対して新たな火種を国が放り込んだら、どうなるかくらいわかる。


そう、国民は自分たちで悲観を始め、己の手で己の首に手をかけ始める。もちろん、物理的な話だけではない。自害以外の手段として、自分の子供を捨て始める者も多くいた。

もちろん、許されることではない。しかし、その荒れ果てた現状を見て、それに対して異議を唱えられる者は、それこそ他国の人間くらいであった。


そうして順調に国力を落し始めていた東洋帝国は、幸か不幸か、自壊する前に『フレンダーの審判』によって滅んだのだった。

国が滅んだというのに、世界がそこまで暗い雰囲気に呑まれなかったのには、そんな理由も存在した。

むしろ、それが神からの救いだったのではないかと思案すらはじめ、『フレンダーの審判』などという大仰な名前まで付ける始末だった。

と、そんな世間に一石を投じるべく再燃した隣杯(りんはい)孤児院は、意外にも多くの寄付によって成長し、国から認定保育施設とされるまでになっていた。


そんな巨額の寄付たちの中には、我が子になるはずだったその子供たちに対する、微かなる憂いもあったのかもしれない。

つまり、(ふう) 隣杯(りんはい)は慈悲深い聖母のような認識であり、国ぐるみで信仰に近しいものにまで膨れ上がった称賛を一身にたたえる、聖人だったということだ。

決して、人体実験の立役者になどなるはずのない人間だったのだ。



華迎流国(かげいりゅうこく)南西部。高くそびえたつ五重塔。東洋帝国でも稀に見られた雅な塔の建築法だが、この国の建築様式は東洋帝国のそれとは大きく違っていた。


東洋帝国の塔は、五重塔の名前の通り、平屋が五戸積み重なったようなものであるのに対し、華迎流国(かげいりゅうこく)の塔はその高さに階数を重視していない。

積み上げられるところまで、伸ばせるところまで、天すら貫くように。数えるのも嫌になるほどに連なった塔と、その塔の集合群がこれまた広範囲に広がる。随分と窮屈な様相を呈すその雑多な街並みこそ、華迎流国(かげいりゅうこく)発展の中心地。迎都(げいと)晴動(シードゥオ)である。


「八万の品じゃないよね?材質的に世代が二個くらい前のやつだ。それに、弾丸式の拳銃はもう鉄屑みたいなものだし、いい在庫処分だよ。三万でいい。」


そんな都心の喧騒の中、一人の青年がカウンターに肘をかける店主に小さな声で交渉を持ちかけた。

温泉地の密集度と、温度の高さに振り切られた飲食店の参列具合からじりじりと肌を焦がす外から一転。キンキンに冷やされた店内は、どこまでも物騒な光景が広がっていた。


壁に敷き詰められた銃器、その下に並べられたダンボールからは、弾丸、液体弾丸など、消耗品への確固たる万全さが見て取れる。さらに、カウンターのショーケースに並ぶ拳銃やライフルの類は、到底普通の人間が手にすることはないであろう超威力の円子原粒銃(センディレア)。高度科学技術によって開発された、レールガンすら超える砲撃を、人間が撃つことのできる規格外のものだ。


しかし、青年が手にしているのはそんな超技術の結晶体ではない。彼が持っているのは、時代遅れの弾丸射出式拳銃。既にガラクタとされる金属の塊を持つ手。そのしなやかな肢体は、黒いジャケットを纏い、袖を肘までまくっている。


さすがに、その晴動(シードゥオ)名物の暑さに嫌気がさしたのか、汗を浮かべながら交渉に精を出す。

青年の賢明な交渉に、というより要求を聞いた店主は、胸ポケットから取り出した紙をカウンターに置き、それにボールペンをタン!と突き立てた。


「その銃を売るのに、僕はこんな資格まで取らないといけねえ。その鉄屑の銃を売るために、何十万、何百万の金を積んでるんだ。」


彼がカウンターに叩きつけた紙。もとい銃の販売資格証明書。店主の顔写真と氏名。取り扱える銃の種類から金額帯の設定。営業時間から行動範囲の制限まで、事細かく記載されたその証明書一枚をひけらかすのに、どれほどの執念と金が必要なのかは、想像に難くない。


「この紙切れに付いた金を否定できるんなら、その要求も通るだろうよ。」


ボールペンが青年に手渡される。

しかし、そのボールペンを取ることができるだろうか。安っぽいインクで、彼のこれまでの努力を塗りつぶすことができるだろうか。そんなことが、まかり通るはずがない。

表情を変えずにそのボールペンを拒み、青年はその資格証明書に手を伸ばす。

そして。


「おまえッ!!」


びりびりと、軽快に音を鳴らして、青年が紙切れを紙屑へと変えていく。


「偽物だ……この証明書も、あなたも。」

「キョウシュウ・ヒューマ……!」


ショーケースから取り出した円子原粒銃(センディレア)が火を噴く。

それは比喩ではない。『デュカイオ・シュレー』のテレポート技術に感銘を受けて、というより商機を見た兵器製造系の先手必勝的特許の取得で生まれた銃。

粒子の情報を曖昧にして直線的に撃ちだす超エネルギー砲。それは、ほぼすべての障害を、障害と捉えることのできない孤独な弾道。

何者にも阻めない、唯一の絶対的な直線。


「なっ!?」


しかし、逆に言えばそれは、直線に対する最強を立証する代わりに、それ以外への対応に最弱だと吹聴するようなもの。初動さえ見極めることができれば、躱すことは容易い。


壁に敷き詰められた物騒な銃器の数々どころか、壁すらぶち抜いて粒子に帰っていくエネルギー。霧散したそれを掻き分けて、青年の拳銃が店主の頭を強打する。岩を砕くような破砕音が嫌な想像を掻きたてる。曰く、脳髄の噴出。


「早く脱いだ方がいいですよ。その着ぐるみ。」

「異能、かいほ……!」

「動きにくいでしょう?」


店主の手から奪い取った円子原粒砲(センディレア)が、次はその主へと向けられる。銃に、感情はない。だからこそ、信頼もない。持てば武器となろうとも、奪われれば敵のもの。それは脅威を下す武器にはならず、逆に己を下す脅威となる。

その店主の行動は、まさしくそれであったのだろう。


撃ち放たれたエネルギー光は、確かな血液の雫を伴って、着ぐるみと称された店主を打ち抜いたのだった。



ヒューマの暴れた後の店内は、酷い有様だった。

荒れ果てた店、そこには、兵器級の円子原粒砲(センディレア)が二発もぶち込まれたのだ。紛争地帯でもそうそうあることではない。

強化壁に守られていなかったら、ここまで被害は落ち着いていなかっただろう。

だがしかし、それは荒れていないということではない。そのままことを済ませるのに適している様子でないことは確か。ヒューマが着ぐるみを纏った人間をバックヤードに運ぶことは不思議なことではなかった。


「さて……と。多分だけど、ダーカー、だよね?お姉さん。」


お姫様抱っこというメルヘンな所業から一転、優しく下されたバックヤードのベッドは、薄汚く安っぽい物だった。贅沢なことは言っていられないが、こんな粗悪な寝具で果たして安眠に就くことはできるのかという疑問は、どうにも収まることができなかった。


「おーい、死んでないでしょ?」


傍から見れば、イケメンが初老で小太りなおじさんに声をかけている、ともすれば介抱に見えなくもない構図だが、ヒューマにはその本質が見えているらしい。

彼の見立て通り、お姉さんという言葉はどうやら的中していたらしい。


まるで魔法が解けるようにチープな輝きをまき散らしながら、おじさんが霧散する。正確には、少女が纏っていたおじさんの着ぐるみが消失する。

現れたのは、その着ぐるみに似合わぬ可憐な少女であった。


クリーム色のショートカットを丁寧に切りそろえ、バランスのとれた美しい体つきを惜しみなく晒す少女が、純粋無垢な寝顔を晒して横たわっていた。

そう、惜しみなく。衣服を一切纏っていない状態で。


「変態さんなのかな……?」


さすがに苦笑を禁じ得ない少女の様相に触れつつ、その異能に感心した。

ヒューマがその正体に気付けたのは偶然だ。窓から差す光が不自然に歪み、店主に影を落とさなかったことを、たまたま訝しんだだけなのだから。

どうやら、骨格から変質させるような化け物じみたものではなく、視覚情報を誤魔化すほどのレベルのようであった。


少女の身の振り方もそうであるが、能力の成熟度が恐ろしく高い。あのまま気づかなければ、後ろから撃ち抜かれていても、何も不思議ではなかった。


「ん……ぅん……」


ヒューマの感心をよそに眠り続ける少女は、寝息とそれに絡まる微かな声を伴った吐息を艶やかに響かせ、静かに寝返りをうった。


「よいしょ」


しかし、そこまで時間を浪費できるほど、ヒューマには余裕がない。少女の脇腹を無表情でつつき、覚醒を促す。

「ん……んあ……あ」と、艶めかしい声で呼応する少女。しかし、ヒューマが求めているのはそんなものではない。若干の苛立ちを込めて、少し強めに頬をつねる。すれば、眠りかぶっていた少女もさすがに覚醒の予兆を示し始める。


「う……ぅう……ッ!あんひゃ、らりを!?」


ぐりぐりと抓られる頬は、柔らかく伸縮しながら、しかし確かな抵抗でヒューマの手から逃れようとする。それによっておぼつかない発音であったが、そこに追及の意があったことは、少女の表情と態度、この状況から読み取ることは容易い。

些か迫力に欠ける詰問の果て、少女がぷるぷると身体を震わせて、涙を瞳に溜め始めた。

さすがにこれ以上は趣味の域に入る。そんな歪んだ性癖は持ち合わせていないため、ぱっと手を離してベッド脇のパイプ椅子に腰かける。


「いらい……うぅ……」


未だに違和感の残る頬をうりうりと撫でまわしながら、少女が恨みがましい視線でヒューマを射抜いた。先ほどの殺意はどこへやら、すっかりただの女の子というような雰囲気へと変貌した少女は、何気なくぱっと自身の体を見た。

衣服の残滓すらない。生まれたままの自分の姿を。


「ッ~~~~~~~~っ!!!!」


既に恥ずかしさすら超えたのか、はたまたそれが深層心理から出た本性だったのか。

真っ赤だった顔を青く染めなおした少女が、若干の期待のこもった眼と、ふるふると細かく振動する体でヒューマを見た。

そして、小さく小首をかしげて、上目遣いで、そのうえ、甘ったるい舌っ足らずな声で云う。


「なに……するつもり?」


まるで何をしてくれるんですか?と問いかけられているようなズれた態度に訝しみつつ、無言で少女に毛布を投げる。もちろん近くに落ちていたものだが、全裸で居続けるよりはマシだろう。そんな気遣いにしては些か雑すぎる考えで満足し、ヒューマはパイプ椅子に座りなおす。


「名前、聞かせてもらっていい?」


有無を言わせぬ声音で、そう言った。

ヒューマは、この一瞬でどこか確信に近い何かを少女から感じた。それは、彼女の変態性だ。

何かを喋らせることすら躊躇うように、ヒューマの質問には余計な情報が一切ない。ただ一点。名前を教えろ。それだけだ。


「……なにもないの……そう…………じゃなくて!私の名前はアヌビス・メーデン!ダーカーよ。」


彼女の異能。何かに疑似的に成り替わることのできる能力。

もちろん、たったそれだけで彼女の異能の真髄が見抜けるはずはないが、それが人間業ではないという認識には、大して労力を要することなくたどり着いた。それは、化け物だ、と。


「僕はキョウシュウ・ヒューマ。一応ダーカーだけど、異能は使えない。ちょっとだけ、口が悪いくらい。」


ニッっと笑ったヒューマの自己紹介に、裸に毛布一枚の少女、アヌビスは眉を顰めた。彼女は、ヒューマのことを知って接触してきている。ヒューマのプロフィールに関して知らないということはないだろう。しかし、異能が使えない。原初のダーカーである男が、能無しの男。それはさすがに知らなかった。


拍子抜けしたように、ふっとアヌビスの興味のカテゴリーから原初のダーカーが消え去った。

代わりに、キョウシュウ・ヒューマという男が、確かな願望でもって、優先順位へのランクインを果たす。彼はすでに、アヌビスの獲物だった。


「ごめんだけど、これでも体は動くほうみたい。君の隠密向きの異能は、戦闘向きじゃない。異能なしの僕でも勝てるから、妙なことは考えないでね。」


長い脚を開き、その膝に肘をつき、組んだ指を眺めながら、しかし途絶えることのない警戒心で、ヒューマはアヌビスに釘を刺す。


ゾッっと、突然の敵意のこもった視線にさらされたアヌビスが、頬を上気させて震える。

期待を裏切らない変態性を垣間見ながら、何とか見ていないことにして、曇った表情を隠すように口元を押さえる。

そして、安っぽいパイプ椅子から立ち上がり、ベッド脇に置いてあった拳銃を手に取った。ヒューマのその一連の行動を不思議そうに眺めていたアヌビスは、いったんの納得を作り出し、纏った毛布を名残惜しそうに見つめてどこからか杖のようなものを取り出した。

メルヘンな煌びやかな杖かと思えば、その杖は少女の可憐さに似合わぬ古臭い杖だった。

そう、それはまるで、一本の木を削り出したような、武骨な杖だった。


ねじれた枝の絡まり合う中には、微かに、しかし確かに輝きを主張する宝玉が小さく埋め込まれていて、アヌビスがそれを振れば、キラキラと、その杖のいかつさに似合わぬメルヘンかつチープな輝きが円を描いてアヌビスの頭上に顕現。徐々に高度を落した円環が、ゆっくりとアヌビスをその中心に誘う。

そして、円環に全身を晒したあとの少女の体には、これまた装飾過多なフリルとリボンに彩られた衣装が。


「便利だね。」


拳銃のマガジンを抜いてその感触を手に馴染ませていたヒューマが、脇目に見ていたその変身劇に感想をこぼす。


「み、見てたの!?もう!変態っ!」


どっちが?という言葉をぐっと飲み込んで、ヒューマはスルーという作業に全神経を総動員する。というより、それで顔を真っ赤にするのもよくわからない。

平然と裸でいたのなら、それは見られても構わないということではないのか。理解を放棄した無理解の中で、ヒューマはそっと銃に弾丸を込めた。


「僕に接触を仕掛けてきたのは、原初のダーカーの異名と、あわよくば利用しようとしていたから。違ったら訂正してほしいな。」

「あ、合ってるわよ。ただ、私は……情報屋から魔女があなたを狙ってるって聞いて、心配で…」


魔女。ここ最近で一番インパクトのある二文字だったかもしれない。

その邂逅は、永い眠りから覚めたヒューマへのリハビリにしては、荷の重すぎる相対者であった。

彼女の魔法力は、きっとまだ本気ではなかった。さすがに、ヒューマの嵐の中では最大出力だったようだが、それを生み出した本人に対しては、異能への警戒を怠らない勤勉さが裏目に出た。カウンターを警戒して、加減していたのだろう。


「でも、どうして君が僕を心配してくれるの?」


そして、何故。心配したくせにその銃口をこちらに向けてきた?

疑問は尽きない。ヒューマの問いにもっともなものを感じたのか、アヌビスの返答を聞くのはさほど難しくなかった。


「私が、君を殺すため。あわよくば、犯してもらうため。」


それまでのアヌビスの雰囲気が一変した。

濁った瞳に浮かぶのは、思考を淫蕩に浸した頓狂な狂喜。そして、それに追従する期待と落胆。されど捨てきれない希望。


今までどこか少し変態だがまともだ、そんな雰囲気であったアヌビスの評価が、ヒューマの中で即座に書き換えられた。

彼女は、正真正銘ダーカーだ。あの天使や魔女と同じ、イかれた思考回路に対して、何の違和感も抱かず、そこに良心の天秤も、感情の呵責もない。ただ、己が欲望に酔いしれる。


「期待してたのよ?だから、服も着てなかったし、誘ってたのに。」


彼女はいわゆる、行き過ぎた快楽主義者(ヘドニスト)だったのだろう。そこには、ただ羞恥と凌辱の引き金となる淫乱さをたたえた思考しかなく、その先にあるレイプまがいの己の快感を夢見て秘部を濡らす。それこそ、過程も、矜持も、感情も、なにもかもを快感で塗りつぶして、なんの違和感もなく代替品としてしまえる、過剰な快楽への執着が生んだ異常性。変態性。


「誰にでもそんなことを?」

「普通の人に処女を奪われるのは気持ちよくなさそうじゃない。ダーカーだったら、処女膜が破れる痛みもどうにかできるかと思って。」


なるほど。たしかに、快楽主義者の彼女にとって、彼女自身の快感の捉え方からして、性行為は快感の頂点。それを渇望するのは不思議ではない。

しかし、その絶頂の前に痛みという正反対の感覚があるのだ。気後れする、というより、実行に移せない気持ちも、理論的に考えれば理解できる。もちろん、貞操観念に関してはゼロ点だが。

と、まぁそんな疑念も、ダーカー、それも原初のダーカーの力ならどうにかなるのではと考えたわけだ。

飛躍しすぎた意味不明な思考も、快感を目前に期待した人間の象徴的なものだ。特に驚きもしなかった。


「まぁ、貴方にその気がないのは分かったから、その気が起きたら連絡を頂戴。私は、いつでも濡れてるから。」


そうして杖を振ったアヌビスから、シャッと紙がヒューマの手中に収まった。そこに書いてあるのは、彼女のパイプマーカー。連絡先だ。

性的な繋がり予備軍二人目の加入に苦笑いしながら、ヒューマはそれを携帯電話に挟み込み、背を向けるアヌビスに問うた。


「情報屋。」

「三番街のソープ通り。そこの『KIND』っていうラブホ。そこにいるわ。」

「ありがとう。」


次こそは本当に背を向けて、アヌビスは杖を手中で消し去り、小さくほくそ笑んだ。それは、彼女なりの期待の証だったのかもしれない。

自分の悲願を叶えてくれるかもしれない存在との遭遇。ただただ露出で感じた快感の余韻。そして、己の貞操を賭けて獲得したスリル。彼女にとってこの数分は、きっと満ち足りたものであり、そうして笑みを零してしまうほどには愉快なものだったのだろう。

扉を抜ける直前。ぼそり、と、アヌビスの唇が震えた。


「何を対価として要求されるかは、私は知らないけどね。」


まるで嵐の前の静けさ。ヒューマは二度目のダーカーとの接触にして既に、危険の匂いを嗅ぎ分けられるようになっていた。今回も、もちろんしっかりと嗅ぎ分けた。

今度は、どうにも勝てばいいというわけではない、厄介な相手らしい。



繁華街を抜けて日雇いバイトの溢れる雑多地区。さらに抜けたところに、三番街は存在する。

晴動(シードゥオ)は、四つの地区によって構成されている。


市場、商店、スーパーに百貨店。様々な商業施設の並び立つ第一地区。

武器、護身用の防犯グッズなど、野菜と肩を並べるには血の気の多いものを売る第二地区。

映画館、劇場、遊園地など、数々の娯楽施設が密集する第四地区。

そして、華迎流国(かげいりゅうこく)の中心を担う、首都の中心地。第五地区にして中央地区と呼ばれる、この国の要。政治関係の建物が形作る区画。


そんな四つの地区は、かつて五つの地区であった。

区画整理によって消えた第三地区。それは、人々の居住区を担う場所であった。

しかし、景気の向上が功を奏し、居住区の住民は多くが海外や他国、または第二地区内に併設されているタワーマンションに移住。ほぼ廃墟状態となった第三地区は、第一地区と併合され、その短い歴史に幕を閉じた。


そんな区画整理によって消えた今となっては幻の地区。

それは、すべてがすべて取り込まれたわけではない。その地区は、確かなる土地を魂と意地で守り抜き、精根尽きた人間たちの欲望のたまり場となった。


ホテルと風俗の立ち並ぶ、地図には載っていない幻の第三地区。通称三番街。簡単に言えばそこは、色街。性の乱れる、春を売る夢の街であった。

華迎流国(かげいりゅうこく)は、全面的に金銭のやり取りのある性行為を禁止している。特殊売春法。

つまり、三番街のやっていることは法律スレスレ。ほんの少しがさ入れが入れば、叩けば叩いただけ埃の出てくるきな臭い街でもあるのだ。


しかし、一括りに三番街と言っても、我こそはと声を上げる店の数々に共通点は少ない。

本番行為を禁ずる店や、逆に本番行為を提供する店。女性専門の店も存在する。様々なフェチズムを満たすために、人間の底辺たちが一から築きあげたのだ。

この三番街で満足しない男はいないと、数々の重鎮に言わせるほどに、三番街の色街としてのポテンシャルは高い。


そんな店の中には、実店舗を事務所として、サービスの提供場所をラブホテルに設定する、いわゆるホテヘルと呼ばれる業種が存在する。そのため、ホテルの使用率は存外に高い。

中でも、高層ビルほどの高さで天を衝く世界最大級のラブホテル『KIND』は、隠す気など無いほどに高く高く伸びており、その肝の据わり方に思わず笑ってしまいそうになる。


三番街。

長い四肢とそれをバランスよく御す抜群のスタイル。整った顔立ちで惜しみない微笑を浮かべる青年は、うっとりと己を眺める通行人を避けながら、ホテル街を歩いていた。

何を隠そう、キョウシュウ・ヒューマである。


アヌビスによって情報屋の情報を掴んだ。あとは、その情報屋とどう接触して、どう金銭面の融通を聞かせてもらうかだ。

アヌビスが何を要求されるかわからないという言葉を残している以上、金銭だけを要求されるということはないはずだ。もし対価を払うことになったら、その金銭ではない方のものを払わせてもらうしかない。


「でも、こんなところで会えるのかな?」


あまり公にできる街でないことは確かだが、人間の欲望は根強い。まだ昼を迎える前だというのに、ホテル街には人が溢れていた。


露出度の高い服で勧誘に精を出す売り子に、ホテルに入っていく若い少女と中年の男。挙動不審な足取りで煌びやかなイルミネーションのゲートをくぐる若い男。

人々の特徴は様々だが、その目的の先に『性』の一点があるということだけは一貫している。感情の起伏は、人ぞれぞれ。しかし、彼ら彼女らから確かに発される、どこかはち切れそうな期待感は、感応して周囲の雰囲気すら淫靡なものに変質させて見せた。


ヒューマも、例外ではなかった。胸の奥から臓器を押しつぶす、お世辞にも心地のいいとは言えない感覚が、泥濘のようにわだかまっている。


「ホテル……ここ?」


そんな状態のヒューマの腕に、華奢な少女が腕を絡める。

柑橘系のいい香り、しかし、香水ほどわざとらしくはない、純粋なる少女の匂い。ほんの少し鼻腔を掠めただけでどこか色気を予感する不思議な少女に、しかしヒューマは動揺することなく合わせた。


「うん。ここでいい?」


ヒューマが合わせてきたことに大した驚きもなく、少女はこくりと頷いた。

一切の打ち合わせなく、突然始まった演劇。当たり前にその激流に乗って、なんなら乗りこなして、ヒューマはそのアンサーが正解だったと悟った。

どうやら、彼女の考える計画に、ヒューマは巧く乗ることができたらしい。



超高濃度の消毒液を腕に吹きかけ、それでも足りないと除菌キットの一式で全身を洗浄する少女。

一見すれば行き過ぎた潔癖症な少女という認識だが、それがシャワーを一時間ほど浴びた後だというのだから、そんな普遍的なものでないのはさすがに理解することができた。


「フェルモアータ……情報屋。」

「キョウシュウ・ヒューマ。原初のダーカーらしい、ってそんなことは知ってるよね。」


長い消毒。どちらかというと殺菌、滅菌を終えて、その背丈のわりに豊かな胸囲をはち切れんばかりに主張して、情報屋フェルモアータは己の素性を明かした。

ホテルまでの茶番劇のときも思ったが、どうにもマイペース。この場合は、行動の突拍子の無さが、彼女こそが世界の中心であるとでもいうように、それが正解とでもいうように、決定づけられているように目立った。


そんな突然の会話イベントの全てにしっかりとアンサーを返すヒューマは、今回も例外なく己の情報を吐露した。それが、情報屋の前でするにしてはリスクが大きすぎるというのは、ヒューマにもわかっている。

しかし、アヌビスという刺客と接触した彼からすれば今更の事態だった。

というより、既に天使や魔女にも素性はバレていたのだ。まだプライバシーなどという鎧を纏っていると錯覚するのは自殺行為だろう。


「あんまり、腹の探り合いみたいなのは苦手なんだ。できれば、単刀直入に聞きたい。」


腰かけていた無駄に質のいいベッドを名残惜しく引き剥がし、自分よりずいぶん小さく見えるフェルモアータに真摯に言う。


(ふう) 隣杯(りんはい)の傘下に、アングレット・エーデルパリィっていう女の子はいる?」


ヒューマの胸、下手すればそれより低い身長のフェルモアータ。

しかし、彼女の発する威圧感や重圧は、イかれた実験動物にも引けを取らないほどに壊れている。彼女の瞳は、闇のように濁っている。


ヒューマの伝えた言葉をしっかりと受け取り、余すことなく思考する。

情報技術の発展により、情報屋という職種は日々進化してきた。そこで、彼等は電子機器への信頼を捨てた。

なぜなら、自分たちが情報を得るときの手段は、大抵ハッキングによるものだからだ。

たった5633文字のシステム言語の羅列に、絶対的だと信頼されているプロテクトは簡単に崩壊するのだ。

だから、情報屋の情報の集積場は、既に電脳世界にはない。


世界の発展と反比例して、情報屋の知識の管理はアナログ的なものへと変化していく。それは、必然的なことだった。つまり、フェルモアータ含めた彼ら情報屋は、すべての情報を、金のなる木を、その脳内に確かな質量として内包している。

それこそ、取り出すのに多少の時間を必要とするほどに。


「……情報、ある。……対価、ある?」


フェルモアータの意思が示される。そして、ヒューマの意思が問われる。

それがどれほどの情報であるのか、それに対して客がどれほどの価値を感じるのか。高すぎず、低すぎず。妥当という二文字を相手の脳裏によぎらせるその作業は、情報屋最大の技量とええよう。

もしそれが出来なければ、その客からの次の依頼は舞い込んでこない。金のなる木は、発芽しない。


「……人伝だけど、君は対価に縛りを持たないって聞いた。それがなにか、聞いてもいい?」


フェルモアータは、金額を提示してこない。つまり、彼女は金銭を要求する気はほとんどない。

では、金銭以外の対価に、全幅の信頼を置いている。それが電子通貨なのか、機会保障なのか、力なのかはわからないが、無一文を極めているヒューマにとってはありがたいことだ。

アヌビスのいうとおり、その小さな情報屋へと、本当の取引を持ちかけた。


「…………。」


すると、フェルモアータは瞳を伏せ、肩を震わせ始めた。

その突然の発作に何かの能力を疑うも、他のダーカーに見られる詠唱がなかったためその可能性を廃棄。実際、少女に戦う意思はないようだった。


では、それは何なのか。綺麗に整えられた前髪の隙間から、その表情を推し量る。

そこに浮かぶのは歓喜の笑みか、苦渋のしかめっ面か、絶望への、失望への、侮蔑か。


「ふふっ」


それは、紛れもない、期待に広角を歪める、欲望だった。


ゾッ、と駆け上がる悪寒は、きっと身体的なものへの恐怖ではないだろう。

それは、もし表現するのなら、精神的な矜持を踏みにじられる可能性への恐怖。簡単に言えば、貞操の危機である。


依然表情を崩さずに拳を握りなおすヒューマ。対照的に、汗ばんだ首元にタオルを押し当てて、その感触に垂涎の至高を邪魔されることに嫌悪すら浮かべながら、潔癖症、潔癖病の真価を発揮するフェルモアータ。この瞬間こそが、最大の契約の分かれ目であると、ヒューマは直感した。


そして、フェルモアータの顔面に、蹴りをぶち込んだ。


「ん……戦えるんだ、情報屋さん。」

「決裂???」


ヒューマの靴底を叩き伏し、がっしりと掴んだフェルモアータが前髪を揺らす。

再び、ヒューマに悪寒が特攻する。


彼女の瞳に浮かんだのは、正真正銘の失望。そして、取り戻すことは絶対的に困難であろう好感度、信頼の墜落。

フェルモアータは、目の前に差し出された御馳走に手を付けようとしていたところを、横から蹴り飛ばされたのだ。たとえその御馳走が貞操でも、人間の身体でも、沸騰するほどに、燃え上がるほどに昂ぶる精神は、絶対零度に突き落とされる。

足を引き、ヒューマが引く。


「機会……希望?……まだ、ある。」


そんなヒューマにフェルモアータは依然語りかけてくる。まだ交渉のチャンスはある。

情報を蹴り飛ばして何も得ない交渉を、蹴り飛ばすことができる、と。


長年培ってきた情報屋の勘だろうか。審美眼と言ってもいい。その些か鋭すぎる人心掌握のフィルターから見れば、ヒューマの表情は、恐怖だとか嫌悪感だとかに染まっていると思うだろう。

実際、それが普通の人間だったなら、大正解だったろう。


たとえフェルモアータのような少女からであろうとも、突然の性交渉には何かしらの懸念と嫌悪が付き纏う。その対象が、相手でなくても。


しかし、ヒューマはダーカーだ。一般人と同列に並べるには、瞳の鮮度が違いすぎる。

真っ黒な参列席の中で、ただ一人が、その黒を超越している。瞳の鋭さと表情の異質さは、絶対的なダーカーの証。ヒューマは、奇しくも、失望に染まる表情で、フェルモアータを見つめていた。


「っ!!!」


初めて、フェルモアータが瞳の奥を見せた。確かな怯えが、彼女の思考の渦に停滞をもたらした。

長い手が、五指が、フェルモアータの顔面を鷲掴みにして地面にはり倒した。頭蓋が砕けていてもおかしくないほどの重苦しい重低音を響かせて、情報屋はいとも容易く組み敷かれる。


「案外、普通のものを欲しがるんだね。まあ、ホテルに来た時点でちょっとは考えてたんだけど……でも、もういいよ。」


めり込むほどに込められていた指の力がふっと抜かれ、確かな解放感と新鮮な空気が口腔の中を満たし、肺の中を爽やかに塗り替える。大きく息を吸い込んで、そして反撃の異能に手をかけ


「だから、もういいって。」


ヒューマの靴底が、フェルモアータの腹に突き刺さった。

ボキボキと、非現実的な音が骨伝導でフェルモアータを蹂躙する。そして、伝わった音は脳内で反響し、決して途絶えることなく木霊し続ける。

それは、聞いたことのない異音への無理解を解析するための復唱であり、味わったことのない苦痛を無理解の奥に封じ込めるための逃避であった。


肺いっぱいに取り込まれていた空気は、悲痛すぎる嗚咽と、大胆に糸を引く唾液とともに吐き出され、酸素の味を伝えることなく送り返される。

無呼吸、無理解、無気力。続く嗚咽と咳き込む刹那が、フェルモアータが呼吸を得られる垂涎の機会であり、理解を享受される貴重な一瞬であり、異能を奮い立たせる、初めての咆哮だ。


「まだ。」

「げァ……ぁッ……!!!」


しかし、次にフェルモアータに届けられたのは、そのどれでもなかった。再び訪れる、無慈悲な蹴りだった。


もう吐き出す空気もなくなって、漏れたのはただただ驚愕の概念。物理的な排出物は、ほぼゼロに近かった。


「情報だけ、吐いていいよ。」


ほぼ満身創痍。といっても、外見的には大した傷はなさそうに見えるが、肉体の内部に刻まれる損傷はきっと深いものだろう。そんなフェルモアータに、なおも警戒を解かないヒューマが足を置く。そこには、即刻攻撃ができるという警告の意が見て取れる。


許されるのは情報の吐露のみ。命乞いも、吐瀉物も、血液も、懇願も、ましてや敵意など許されるはずがない。

そんな不自由すぎる自由を手に入れて、フェルモアータは呼吸に全神経を集中させた。


腹部から流れ込んでくる激痛は依然引かず。むしろ、その大きさを増しながら徐々に全身へと広がっていく。しかし、取り込んだ酸素はその痛みに優しく染み渡り、痛みに踏ん張る足場をくれた。

呼吸は許されていない。しかし、その酸素の補給が情報の提供に必要なものならば問題はない。もちろん、それは論理に基づいた思考ではなく、ただ、その全身を蝕む鮮烈な痛みへの微かなる供物として、差し出せるものを差し出そうとしただけだ。

同時に、その痛みは次の一撃への恐怖も教えてくれる。もしこのまま痛みの鎮静に時間を割けば、些か暴力的すぎる催促状が、その長い脚に乗ってやってくることになる。

肺の中の酸素を総動員して、心の中の気力を総動員して、瞳の中の滂沱を総動員して、声という延命を絞り出す。


「あ……リィ……アリィなら……いる……」

「それだ。」

「はっ……ァぅ……研究施設、『デュカイオ・シュレー』ぇ……」


言えることは言ってとばかりの懇願の視線をヒューマに向けて、フェルモアータは呼吸という贅沢に酔いしれた。


研究施設。細かく指定された『デュカイオ・シュレー』という施設名。

それは、ヒューマにとって全く知らないものではない。隣杯(りんはい)孤児院の定期検診、子供たちのメンタルチェックなどを請け負っていた、世界屈指の研究機関だ。

慈善団体である孤児院に、民間医療は都合が悪いだろうという国の配慮で、他国とはいえ国営の研究機関に託されたその仕事。考えてみれば、おかしな話だ。ただの子供たちに、世界最高レベルの医療が施されるなど。


しかし、それが、研究機関側に、『デュカイオ・シュレー』側にメリットがあるのなら、話は別だ。

いや、むしろ適当と言っていい。彼らは、その頭脳からすればしていないことと同義の医療行為を施しただけで、相応又はそれ以上の恩恵を受けることができるのだから。


「なるほど……結局、隣杯(りんはい)先生とは敵対することになるのか。」


確かな納得と落胆を含んだ声で、ヒューマが呟いた。

浅い息のフェルモアータは、ただただ生の実感に感嘆し、歓喜し、絶対的なこの場の支配者である青年を、虚ろな目で眺めていた。

その口の端から垂れた一筋の唾液が、いやに艶やかだった。



携帯から伸びるコードがノートパソコンに繋がり、パソコンからあふれる情報がヒューマの視界に吸い込まれる。

ヒューマの拝借した携帯から始まるその循環が、今は彼の行く末を決めるための人生のルート選択だ。

選択肢は無限大。本当なら有限の可能性も、彼らダーカーは無限にできてしまう。それこそ、犯罪から戦争まで。


異能症の弊害か、世界からの妙な疎外感とでも言おうか、形容しがたい感覚に包まれ、ヒューマはイヤホンを乱暴に耳に差し込んだ。

流れ出すのは、所謂ハードロック。音楽に対して娯楽を見出していないヒューマにとって、今の音楽は耳を塞ぐための大音量でしかなかった。


わずか数十分で習得したブラインドタッチを駆使して、『デュカイオ・シュレー』の概要を調べる。

モニターに表示される情報の数々は、ほぼすべてが国家機密のプロテクトで守られている。

研究機関、それも世界最上級のものだ。情報の秘匿性は高く、そこに付け込める可能性は限りなく低いだろう。

どんなに情報を蒐集しても、ほぼすべてのサイトにアクセスができない。その苛立ちは半端なものではなく、思わずエンターキーを叩く音も高くなる。


「どうしようか……」


研究所の所属は、オットーランド都市国家。

しかし、研究所の規模も、施設数も、下手すれば所在地も、存在していないのではと邪推してしまうほどに、痕跡というものが根絶している。

それを探ろうと調べれば、あるのは厚いプロテクト。八方塞がりとは、まさにそのことであった。


「協力……必要?」


意外なところから差しのべられた手に、ヒューマは思わずイヤホンを取った。

ヒューマの暴力のあと、己の命を愛おしそうに眺めていた少女、フェルモアータは、どこか悲壮感の漂う様相でベッドに倒れ込んでいたのだが、どうやらあそこまでの暴虐ののち、まだ懲りてはいないらしい。思わず苦笑いしそうになるほどの欲望への忠実さ、しっかりと頭がトんでいる。


「何かできるの?」


検索エンジンに打ち込んでいた文字を半ばで投げ出し、ベッドでいやらしく寝転がるフェルモアータに概要を問うた。言葉は質問の形をとっていたが、彼の手がキーボードを離れた時点で、それは手伝ってほしいという意思表示に他ならない。

フェルモアータはもう、ヒューマがその取引に応じることを、確信していた。


「情報屋、ハッキング……する。」


情報屋の情報は脳内。所謂アナログなところに保管される。もちろん、形の残りにくいように。

しかし、それが組織単位の研究機関なら話は別だ。それほどの情報をアナログな不確定的ものに刻むのは得策とは言えない。

多少の危険を伴っていても、電子の世界に漂流させておいた方がいい。それを見つけ出して読み取れるものなど、数えられるほどしかいないのだから。


情報屋としてのフェルモアータの実力は計り知れない。

しかし、目覚めただけのヒューマのことを発見し、それを瞬時に三人のダーカーに売り捌ける程度には、完成した情報屋なのだ。

彼女が国家機密にアクセスできたとしても、きっとヒューマは驚かない。


豊満な双丘を卑猥にたわませながら、フェルモアータがヒューマの肩に顎を乗せて、ヒューマ越しにパソコンを見た。そして、正面からヒューマに抱き着き、彼を挟んでパソコンを操作する。

硬い胸板に押し当てられる柔らかい胸。危うい柔らかさをヒューマに伝えるそれに大した興味を抱かず、青年もフェルモアータの背に腕を回して己の足に座りやすいように固定した。

数回、マウスがカチカチと押された後、名残惜しそうにフェルモアータがヒューマから降りる。


「あと四分。」


ぽつりと呟いたフェルモアータは、消毒液を浴びるようにかけ、下着が透けることも気にせずにひたすらに殺菌に励む。

ヒューマの背後で勝手に動くパソコンの画面には、いたく武骨な文字列が。


「なにもしなくていいの?キーボード触ってないし」


ヒューマのイメージとして、ハッキングというのは、暗い部屋でコーラを飲みながら、絶対に意味のある単語は打っていないであろう速度でキーボードを虐待するものだと思っていたのだが、フェルモアータのしたことはほんの少しのマウスの稼働だけだ。キーボードに関しては触ってすらいない。


ハッキングというのは、そんなにも簡単なものだったのだろうか。そんなことを考えそうになるが、画面に映し出された文字列の難解さには、さすがに理解を示せなかった。

分かるのは、絶えず新たな文字列が追加されていくということと、常に最下に表示されている数字が増えていくということくらいだろうか。

そんなハッキングへの疑問を投げかければ、スペアの消毒液をキャリーケースから取り出したフェルモアータがぽつりと答える。


「ハッキングソフト、入れるだけ……」

「そうなんだ……」


ロマンの消失とともに、どこか多く語らない職人のような貫禄を感じ、少し笑いそうになる。当の本人のフェルモアータはといえば、スプレーを吹きかけその上に消毒液を浴びせ、おまけとばかりにレーザー光のようなものを体中の汗腺に照射していた。


一人で病院の薬品庫かと錯覚するほどの量が入ったキャリーケース。ホテルのエレベーターに乗り込んだ時に気を遣って持ったが、ヒューマですら両手で持つことになるほどの重さだった。あの中に何L入っているのかは計り知れない。


そうして一連の殺菌を終えたのか、ベッドに消毒液をドボドボと注ぎ始めたフェルモアータがヒューマの方を脇目に微笑む。いや、それはそんな優しいものではなく、もっと生々しい。野性的な。


持ってきたホテルのドライヤーで消毒液塗れのベッドを乾かし始めるフェルモアータが、ヒューマが本題に入ってくるのを待っているように見えて思わず聞いてしまった。


「情報屋さんは、どんな想いが宿ったダーカーなの?」


腰元まである髪をきゅっと後ろに縛り、魅惑的なポニーテールを作り出すフェルモアータは、その質問に大して無感情に答えた。


「……淫魔……サキュバス?」


薄々、感じてはいた。

彼女の眼に宿る野性的な生への執着。しかし、それはもっと原初を見つめていた。つまり、『性』。

人が出会い、愛し合い、産み落とされ、そんな生物のサイクル。そのひどく蠱惑的な世界の作り事態に背いた、人類単位の夢。

東洋帝国の人間は、それが能力として宿るほどに大きな願望として、相当の人数が死に際に性欲を、情欲を、肉欲を抱いたのだろうか。


「252人、食べた。」


文面から推測するに、252人の人間と性行為をしたということでいいのだろうか。サキュバスという情報を共有した時点で、食べたというのは十中八九、性的な意味であろう。

では、その現実離れした数字は、彼女の嘘なのであろうか。身体を交える行為を、本当に252人行ったのなら、むしろ人を食すカニバリズムの方が現実的に思えてくる。


魅惑的な体つきは、確かにそれを可能とするほどの魅力を備えている。しかし、まだそれが理解できるほどには、ヒューマの倫理観は成熟していなかった。成熟するつもりは、なかった。


「言いたいことは分かるよ。」

「怒る……?」

「ううん。結局助けられたから、当然のことじゃないかな。」


フェルモアータが自分の異能の原点を明かしたということは、というより明かされた異能のことを考えるのなら、彼女が要求する情報の対価が何なのかは想像に難くない。

先ほど、その取引を求めた瞬間にヒューマからの拷問が始まったのにも関わらず、再びそれを提案してくる肝っ玉には驚かされるが、それほどまでに彼女は飢えていたのだろうか。性的に。


「…………?」


ベッドにちょこんと腰かける少女を見ながらそんなことを考えるも、きっとそれはフェルモアータの心の奥にある、絶対的に変わることのない確かな性根のようなものなのだろう。不思議そうに首をかしげる仕草は可愛らしくあり、艶やかでもあった。


「サキュバスについて、聞いてもいい?」

「……興味…………ある?」


あまり心地のいいものではないであろう質問の返しとして、フェルモアータは意外そうに目を丸くした。

異能は、その基となる想いは、死人の念。志半ばで死に絶えた人間たちの鬼哭だ。

そんなものに脳を弄られた。同じダーカー同士とはいえ、デリケートな質問には変わりないだろう。

それこそ、異能の使えないヒューマからならとくに。


ヒューマが知りたいという意思を首肯として示せば、フェルモアータは小さく俯いて思考を始めた。

そして、口下手なりにポツリポツリと、単語をラブホテルの部屋に落とす。


「最初から、セックス……好きだった。……けど、異能で……体液で、生きれるようになった。」


フェルモアータが異能に目覚める以前。

異能は、脳に異能を扱う器官を追加するだけで、人格を歪めるほどになることはない。

つまり、最初から性行為に関して悦びを見出していたフェルモアータからしてみれば、その異能の発現はありがたさすら感じるものだった。

そんな都合のいい話を聞いていれば、異能とは、あるべき人間に宿るのではないか。と、何の根拠もなく考えた。


「体液っていうと……やっぱり精液になるの?」

「一番……お腹ふくれる。愛液は、……二番目。」


男からの搾精。淫魔、サキュバスのイメージはそんなところだが、どうやらフェルモアータの場合は女性の愛液からでもしっかりとエネルギーを徴収できるらしい。


「それが、情報屋さんの異能……になるのかな。」


体液。精液から愛液。下手すれば、唾液や汗に至るまで。

身体から排出されるすべての液体から養分を取り込み、それだけで生きていけるようになる常時発動型の異能。と、いうことなのだろうか。

それならば、体液からの感染症への耐性、少ない養分を余すことなく吸収する超摂取力。そして、決して多くはないその養分を大きく肥大化させて、人間の身体すら動かすほどに昇華させるエネルギー論を真っ向から否定する人体からの変質。

サキュバス的な変化と言っても、それだけの能力となるのだ。彼女の話した内容が異能の全てだったとしても、妥当なものだろう。


「魅了。…………血流を、ちょっとだけ弄れる。男の人……限定」


えへへ、と。初めて年相応の反応を見せたフェルモアータは、まるで「嬉しいでしょ?」とでもいうようにドヤ顔を決め、きらん、とその瞳を瞬かせた。

可愛いが、その実喋っている内容は百年の恋も冷めるような低俗なものなのが、少しだけおかしくて、ヒューマはパソコンをぱたんと閉じて微笑んだ。


「ハッキングって、どれくらいかかる?」


その質問は、二回目のものだった。

一度目の質問では、四分(よんぷん)という答えを頂戴した。

では、ヒューマが二度目の質問を投げかける意味は何だったろう。もしそれが何かを暗示した問答だったのなら、唐突すぎて、分かリにくすぎて、合わせることができるのは奇跡に近い所業で。

まるで、ホテルの前の茶番劇のようで。


「一晩は……かかるかも……ね?」


小首を傾げて、その角度が自分が一番可愛く映る角度だということを完全に理解しているのだろう。それとも、それすら、男を食うための本能だとでもいうのだろうか。


長い長い夜。獣のような咆哮が、ラブホテルに響き渡る。


ヒューマの貞操は、些か刺激的すぎて、それでいて繊細すぎて、切り取ったどんな瞬間ですら消し去れないほどのインパクトを、快楽を教えてくれる、そんな忘れられない夜に、消えたのだった。



ベッドに横たわる、二つの肢体。

それは、些か艶めかしく、どうにも扇情的だった。


時刻は既に昼を過ぎ、夕方の時間帯までさしかかろうかという瀬戸際だった。それほどまでに白熱した夜を終え、シャワーまで済ませた二人は、一糸まとわぬ姿でベッドで隣り合っていた。


ヒューマの差し出した腕にそっと頭を乗せ、その心地よさに目を細めるフェルモアータ。それは、恋人のようであり、熟年の夫婦のようであり、たった一夜の愛を誓い合った、爛れた若者にも見えた。

シーツを纏ってはいるものの、その巨乳の輪郭をとてつもない迫力で主張するフェルモアータは、ヒューマの胸板に頬を寄せて、そっと口づけをした。


彼女は、シャワーを浴びたからこそ普通の状態だが、その体力の消耗は普通ではなく、ダーカーであるフェルモアータの体力をもってしても息を切らしていた。

その原因は、言わずもがな。そのフェルモアータの横で愛おしそうに彼女の頭を撫でるヒューマだ。サキュバス、淫魔を退けるほどの体力。

低俗な言い方にはなるが、所謂絶倫というやつだった。裸で甘えてきたフェルモアータに再びムラつき、一晩に渡る大戦争の延長戦に突入しようとしたところをさすがにギブアップされたことは、記憶に新しい。

まるでマーキングするように、長い舌でヒューマの頬を舐るフェルモアータ。それを笑顔で抱きしめて、ヒューマは小さく呟いた。


「なんだか、君がすごく愛おしいんだ。」


ひく、と耳を震わせるフェルモアータ。その表情には、薄いながらも幸せへの紅潮が見て取れる。


「でも、きっと、これは本物じゃない。この一夜だけで育んで、その一日で忘れ去る。そうしないといけない、そういう類の感情だと思う。」


252人。彼女が交わってきた、彼女が一夜限りの愛を囁いた人数だ。それは、彼女の中に自分を愛するための、住まわせるためのスペースなどないことを自覚させる、そういう数字だ。だから、この一夜のことは思い出として、そこに愛を見出すことなど、許されない。許されたい。許され難い。


フェルモアータは、輝かせた表情を悲しそうに俯かせた。


「僕は、それでも君を忘れたくない。この感情が偽物でも、こうしてもう一度、この感情に出会えるように、何度でも、君とひとつになりたい。」

「ぅ……うぅ…………」


フェルモアータにとって、その言葉は毒であった。彼女は、様々な人間から一夜限りの愛を受け取って、蝕んで、食んで、喰らって生きていく。そういう生き方を選んだ、選ばされたのだ。

しかし、このヒューマの言葉にイエスと返してしまえば、その生き方を否定することになる。

自分が、何のために生きるのかわからなくなってしまう。


取りたい。その手を取りたい。行きたい。彼と、その優しい距離感で。まぐわいたい。

その、絶対に敵うことはない彼と。愛したい。愛されたい。愛し、合いたい。

それは、一夜を明かした後の、血迷った思考に思えた。だからこそ、彼女の、フェルモアータの答えは、すぐには出なかった。


「僕を、選んでくれないか。この253人の中から、僕だけを」


フェルモアータ組み敷いて、情熱的に唇を奪う。この夜で、何度も貪った唇だ。けれど、そのキスが、一番甘い気がした。

真っ赤な顔でヒューマの顔を見たフェルモアータは、その細長い指先で、シーツに隠れたヒューマの下半身をなぞった。そして、自分が何度も啼かされたそれに触れる。変わらぬ硬さで今だその存在を主張するたくましいモノに、最後の砦は木っ端みじんに叩き潰された。


「ひゃ……ひゃいぃ…………」


シーツをヒューマから奪い取り、真っ赤な顔を隠したフェルモアータは、搾り取られるように痛む胸を押さえて鳴いた。その痛みが、存外心地のいいものだと気付いて、胸のときめきの感覚に気付いて、たった数瞬前の自分の選択に、フェルモアータは高らかなる賞賛を送った。



世界一の研究機関と名高い鬼才の集まり、『デュカイオ・シュレー』は、相応のセキュリティーに守られており、場所を特定することは容易だとしても、侵入は難しいということだった。

まだどこか熱に浮かされたようなフェルモアータからもらった情報は、有意義でもあり、さらなる課題を算出する途中経過のチェックポイントとなった。


ヒューマのために動いてくれているフェルモアータは、自分のアジトとなっている場所の鍵とともに、頑張って、と活力を渡して情報収集のため闇の中に消えていった。

その目から察するに、きっと次に会ったときは今日とは比較にならないほど搾り取られることになるのだろう。そんな未来への苦笑を胸に、期待と淫欲に濡れた両手を握りしめた。

そして、相対するそれに確かなる意思を告げる。


「世界最高峰の研究機関『デュカイオ・シュレー』に行きたい。手を組まない?魔女さん。」


信じられないものを見たというように、というより、その鮮烈な初対面の戦闘をものともしない胆力に苦笑いすら浮かべて、呼ばれた魔女は顔を覆った。


ヒューマを襲撃した天使、レンゲル・ライレイは、魔女からの指令を受けてヒューマを襲いに来た。

ヒューマをそこまでの脅威とは思っていなかった魔女、天使陣営は、その『言葉』に圧倒され、屈辱的な敗走を喫したばかりだ。


では、その引き金となった天使襲撃の裏で、魔女が訪れるまでの間、その当の魔女は、何をしていた?

ヒューマを差し置いてでも向かいたかった場所とはなんだ?彼女たちがヒューマを探していた理由は何だ?ヒューマが彼女たちに協力を求める勝算は何だ。

彼女たちは、


「潰すんでしょ。『デュカイオ・シュレー』いや、(ふう) 隣杯(りんはい)を。」


魔女、天使。組んだダーカーが向かう先は、果たしてなんだったか。

そう、それこそ、『デュカイオ・シュレー』襲撃。もとい、破壊。


ヒューマが研究所を訪れなければならない理由があるように、魔女やレンゲルにも、破壊への理由があるはずだ。それが、妄執であれ、怨嗟であり、憎悪であり、悔恨であったとしても、その目的に遜色はない。

『デュカイオ・シュレー』への侵入だ。ヒューマと彼女たちには、明確な協力関係への架け橋がある。


「そこまで知ってるってことは、情報屋とも繋がったってことでいいのかしら?」

「うん。一晩みっちり。」

「そういう話じゃない!!!」


シリアスな雰囲気を纏っていた魔女からの確認の言葉に、天然ボケをかまして赤面させるヒューマ。

貞操観念が崩壊していそうな魔女だが、その実初心なのだろうか。そこには、性というものへの耐性がほとんどないような気がした。


「と、とにかくだよ。私たちは、ダーカーなんかを生み出した『デュカイオ・シュレー』に復讐したい。だから、あのイかれ女と話したいなら、その前に済ませてもらえる?」


かぶりを振って頬の熱を大気に逃がし、暗い間接照明の淡い光に瞳を光らせる。ヒューマより高い位置で話しているとはいえ、彼女のその姿は普通よりも大きく見えた。

しかし、そんな重圧感に苛まれてなお、ヒューマはその言葉を聞き逃すことができなかった。赦すことができなかった。


「ダーカーを、生み出した?」


ダーカーとは、『フレンダーの審判』で死に絶えた人間たちの、最後の想いが収束し、異能となって人に宿って生まれる。つまり、ダーカーを生み出した、という言葉の真意は、『フレンダーの審判』を引き起こしたという告白とそう変りない。


しかし、世界一の研究機関であれ、国単位で滅ぼすことなどできるのだろうか。

けれど、それが『デュカイオ・シュレー』に行える可能性があることを、世界は知っている。

ワープゲート技術、テレポート技術。世界のルール、理を捻じ曲げかねない超技術。そんな神の所業に近しい、異能とも呼べるそれを、産み落としていたから。


それでも、ヒューマの疑念は晴れない。それは、違和感だ。絶対的に根底に横たわっている前提が、その関与を明らかに否定する。

そんなヒューマ浮かない表情を汲み取ってか、魔女が訂正した。


「生み出した、というより、宿らせた……ね。魂の収束、凌辱、そんな薄気味悪い研究を、嬉々としてやるような、頭のおかしい連中だったのよ。」


『フレンダーの審判』その未曾有の大厄災。そこで生まれた死人の念を、辱めて、奪い去って、かたぐり寄せて、意思も尊厳もごちゃ混ぜにして、それをひとつの『異能』として器に注ぐ。


研究所が『フレンダーの審判』を起こしたわけではない。つまり、その研究が立ち上がったのは大厄災の後。魂を弄る絶好の機会を、研究者たちは逃すことなどできないと、躍起になってその技術力を発揮したのだろうか。

それは何ともまあ。


「まともじゃない。」

「……そうね。目に見えないものを集めて人間に宿らせるなんて、文字通り机上の空論に思えるわ。」


魂の、というよりその最後の想い。たとえ時空を弄る禁忌に手を染める研究者たちであっても、どんな顕微鏡を通しても見ることのできない概念を操るのは、既に科学の領域にない。それこそ、理を捻じ曲げる魔法に相応しい。彼女の操る異能にすら届きそうな研究者のマッドサイエンス。科学的な範疇ではない。

まともじゃない、と称されるそれが、倫理的なものか技術的なものか、捉え方は様々だろうが、ダーカーという精神疾患の魔窟にとっては、技術的なものでしか捉えられなかった。


「けれど、彼女はそれを成し遂げた。その証拠を、君も目にしているはずだろう?」


ヒューマの目線よりさらに高い、高い壇上から、魔女は体重を感じさせない動きで地面に降り立ち、ヒューマに視線を合わせた。


魔女の言う、『デュカイオ・シュレー』の研究の証拠。それを、既にヒューマは見たことがある。認識している。

果たしてそれがどのような原理なのか、どのような経緯で行われたものなのかはわからないが、魔女の言わんとすることを、ヒューマは明確に理解した。


「天使さん。」

「そう。あの子の円環機巧と異能は、奴らに植え付けられたものだ。」


天使さん。レンゲル・ライレイの異能。それは、物質の神性を操作する物質制御の一種。それを清めることも、穢すこともできる、そんなまさしく天の使いである天使に相応しい能力。

しかし、残念ながら戦闘向けかと言われると、頷くことはできない。

『デュカイオ・シュレー』は戦闘力を重視したのだろう。彼女は作り変えられた。


円環機巧から空気を取り込み、それをタトゥーに仕込まれた放出機巧から汚染空気に変換して放出。汚染空気を覆うように神性の空気を纏わせて形を固めることで、それは相手を障る魔装となる。

どうしようもないほどに、戦闘向きの。


「ってことは、魔女さんも?」

「ううん。私は、天然のダーカー。きっと、あの研究所でさえ、ダーカーを生み出す技術は抱えきれなかったのね。私みたいに、弄られていないダーカーが、何人も生み出されてしまった。情報屋も、そのうちの一人よ。それに、貴方も。」


魂に干渉する所業。人間には身に余る技術。

何らかの影響で、異能を器に注ぐ前に漏洩させてしまったのだろう。魔女をはじめとした天然のダーカーが、世界各地に生み出された。

ヒューマの世迷いごとレベルの空想になぞらえるなら、その異能を欲している、その異能を与えるに相応しい人間へと、異能は宿ったのだろう。


ヒューマが遭遇したダーカーは、魔女、天使、淫魔。そして、武器屋で相対した魔法少女風の女。いずれも、天使以外は天然のダーカー。それは、ヒューマも例外ではない。

異能の扱い方がわからないとはいえ、原初のダーカーであるヒューマは、どうしようもなくダーカーなのだ。


「そうだ、なら、僕が原初のダーカーっていうのは?魔女さんの話が本当なら、ダーカーに順番があることの辻褄が合わない。」


ダーカーが自然発生的に生まれたものだと認識していたヒューマは、異能の扱い方すら知らない自分が原初のダーカーなどという大層な肩書きを背負わされていることに不可解な感覚を抱いていた。

それもそうだ。いつ、どこでうまれたのかも、何人居るのかもわからないダーカーの中で、自分が一番最初にダーカーになったなど、世迷いごとと切り捨てられて不思議でない。


しかし、そこに『デュカイオ・シュレー』が関わっているのなら、その限りではない。

ダーカーが人の手によって生み出されているのなら、ダーカーひとりひとりにナンバリングがされていても不思議ではない。そう、ヒューマの疑問は、答えへと変わるのだ。

と、なっていれば、話は早かった。


ヒューマは、生み出されたダーカーではない。研究所の取りこぼした異能の宿った、天然のダーカーだ。誰かにナンバリングされるなど、不可能。ヒューマの体目的で看病をしてくれていたナイト・リゲルがいなければ、彼は生きてすらいない可能性すらあったのだから。

そんなヒューマの疑問に、魔女は不思議そうに首を傾げた。それは、どうして知らないのか、そんな疑問、というより、驚愕にすら近かった。


「あなたは裏の世界では有名なのよ。それこそ、『デュカイオ・シュレー』のせいで。」


魔女から明かされた諸悪の根源は、どうにも聞きなれたものであった。


「っていうのは?」

「……一番最初。研究所が一番に手に入れたダーカーの異能。それが、あなたの持つ異能よ。」


魔女の左手がヒューマの左胸を押す。心地のいいその感触と体温が胸を圧迫し、自分の心音が普通より大きく響き渡る。身体の中を振動となって駆け巡るその胸騒ぎに、魔女は更に言葉を重ねた。


「あれは『フレンダーの審判』から、三日も経っていなかった。あれほど開発に時間を要したワープゲートの技術開発を一度中止して、その上でとてつもない速さでプロジェクトが立ち上がった。ダーカーを生み出すプロジェクトが。」


未曾有の大厄災。その恐慌に紛れて、『デュカイオ・シュレー』は密かに稼働中のプロジェクトのすべてを凍結した。

もちろん、再開前提の休止のような意味合いだったのだが、だとしたとしても異例のことだ。

そして、最速で組み立てられたダーカー作成計画。その研究に対して、全研究員を当てたのだろう。


「そして、初めて奴らが手に入れた異能。どんな能力だったかは知らないけど、研究所側はその原初の異能が欲しくて欲しくて堪らなかったみたい。」

「もしかして……僕を捕まえるように?」

「そんなものね。貴方の居場所は、どうやってか掴んでいたけど、なぜか研究所側は手を出せなかった。」


ヒューマの想定を肯定する魔女は、『デュカイオ・シュレー』ですらどうにもできなかったなにかしらの障害について、言及ついでに口にした。それを受けたヒューマは、たった一つの可能性に思い当り、思わずピクリと反応してしまった。

フレンダー教会で、いまだ途絶えることのない医療行為に励む少女。動機は何であれ、ヒューマをここまで生き永らえさせてくれた、恩人のような存在。


「もしかして、あの人もダーカー……?」

「あの人って?」

「ナイト・リゲル。」


ヒューマを自分好みの性奴隷にしようと画策していた、隠されし変態。

その胆力と忍耐力の強さには驚かされるが、事実、彼女からはどこか危うげな、濃密な死の気配が、微かに顔を出していた。そして、しっかりと、瞳がどす黒く濁っていた。


「僕のことをどうしてか看病し続けてくれた女の子。修道服を着た、ナースの子。」


思い当たった可能性を口に出し、逆に何故その発想に至らなかったのか不思議に思う。

気付ける要素は、あったはずだ。

彼女は、どういうわけかヒューマの言動についてきていた。常人には理解できない、ダーカー特有のイかれ方。それを、何の違和感もなく肯定してきたのだ。


そうして特徴をポロポロと零せば、魔女は動揺したようなヒューマに驚きつつ、その名前に再び首をかしげた。


「ナイト……リゲル……って!あいつ、まだ生きてたの!?」


ヒューマの両肩をがっしりと掴み、ガクガクと揺さぶる魔女。その食いつきようが理解できないヒューマは、数秒前の魔女のように首を傾げ、どうしたのか?と瞳で問いかけた。


「私が裁いた、というより粛清したレイプ魔よ。気に入ったイケメンを逆レイプして、いたぶり尽くして殺す。三人は殺してるわ。」


既知の関係だったという魔女の口ぶりからは、どこか諦めのようなものが見えた。

力の抜けるようにヒューマの肩から手をおろし、俯いて首を振った。

存外、大変なことをしているのだな、という軽い憐れみを感じつつ、ヒューマは手で先を促した。


「その変態のせいで、研究所側は手を出せなかった。だから、同じダーカーに情報を流して、リゲルを始末しようとしたのね。」


研究所側の戦力では、リゲルというダーカーを打倒するには心もとなかったのだろう。そこで、彼らはダーカーを逆に争わせようと仕向けた。それこそ、ダーカーの頭のおかしさに付け込んだ方法で。


「原初のダーカーが、東洋帝国にいる。その情報をわざと流したのよ。それで、ダーカーは喜んで戦おうとした。けれど、リゲルに退けられて撤退ってところかしら。」


本当に、どれほどリゲルに世話になったかわからない。

いつかの性奴隷という選択に対して、一晩くらいは体を貸し出した方がいいだろうかと余計な思案を始めるヒューマ。

そんな(どお)りはないのだが、それ以外に返す方法がないため、こっそりと選択肢の中に紛れ込ませた純粋なるリゲルの身体への興味も、ないわけではなかった。


「私はその時にあの研究所を見限った。」

「見限った……?もしかして、魔女さんは研究員だったの?」


状況把握の細かさ、語り草からもしもとは思っていたが、魔女の出自は、その研究所だったらしい。

科学という技術の最高点に辿り着こうとして、道を誤ったマッドサイエンティストたちに見切りをつけた少女が、その技術の餌食となって科学ならざる力を振るう。

そして、その力をかつての己の居場所に向ける。どうにも皮肉な構図だが、分からないわけではなかった。


きっと、彼女は自分の正義に従って動いている。リゲルを粛清した。つまり、それはリゲルの目に余る犯行を見逃すことができずに、自分の力でもって、自分の判断で行ったことの証明だ。でなければ、粛清などと大仰な言葉は使うまい。

だからこそ、彼女は研究所の破壊を望む。『デュカイオ・シュレー』に、刃を向ける。


「末端の末端よ。そんなに大したことじゃない。それに、私はあの子の改造を止められなかった。」


あの子。それは、十中八九天使、レンゲルのことであろう。寂寥の念に塗られた表情は、魔女らしからぬ暖かさに満ち、違和感すら感じさせた。

魔女が研究所を去ってから、天使の異能を手に入れた『デュカイオ・シュレー』は、【天使】レンゲル・ライレイの覚醒実験を開始。一人の可憐な少女を、立派な戦略兵器に作り替えたのだった。


「そうしてあの子に異能が宿った時とほぼ同時に、私にもこの【魔女】の異能が宿った。」

「魔女さんは、どうしたの?」


それこそ、彼女の言う天然のダーカーというものだろう。

魔女の異能は、まるで力を渇望する魔女に狙い澄ましたように現れ、奇跡の残滓を振りまき脳を作り変えた。


「あのイかれた研究所を、壊しに行った。もちろん、隣杯(りんはい)も殺したわ。」

「殺した……?」


辻褄の合わない魔女の言葉。その言葉が正しいのなら、研究所は滅んでいるはずであり、今、こうして面倒なセキュリティーに頭を悩ませることもなかっただろう。

どうして、研究所は存続しているのか。魔女の中で、イかれた女としてまだ延命しているのか。


「あの女は、死んだ肉体から脳髄を切り離して、自分を脳だけで延命させた。」

「脳だけで……?じゃあ、今は、脳みそだけの状態で生きてるってこと?」

「ええ。数々の研究者が夢見た、思考しか必要としない、理想の状態として、ね。」


食べることも、動くことも、ましてや死ぬことすら可能性としては低くなる状態で、思考することにだけ時間を割くことのできる脳髄の身の延命は、科学者の臨んだ最後の姿と言えた。


そんな状態ですら未だにダーカーへの妄執を捨てきれていないところを見ると、その想いは並々ならぬものなのだろう。それこそ、自分の命も、惜しくないほどに。


「あの時は、あの子を連れ出せたから良しとしたけど、詰めが甘かったのは事実だわ。」


未だ廃れることのない悔恨を滲ませながら、眉間を揉む魔女が苦労性な性格にまっすぐに苦悩する。

その姿勢に確かなる賞賛を送りながら、ヒューマは今の数分で手に入れた情報の大きさに手ごたえを抱いていた。


今は脳髄だけとなってしまった諸悪の根源の研究者と、それによって生まれた悲しきダーカーたち。

そして、その反逆の獲物となる『デュカイオー・シュレー』。ヒューマが欲した情報は、つつがなく伝達された。後顧の憂いなく、戦える。


自分には、そんなイかれた研究者ですら欲した、得体の知らない力が宿っている。

それがどんな能力なのか、そしてなぜ十年もの眠りの牢獄に入らなければならなかったのか。わからないことは、その研究者本人に聞けばいい。


「ねえ、魔女さん。」


ヒューマは、小さく息を吸い込んで魔女を見た。


「僕は、隣杯(りんはい)先生と話したい。そのあとは、研究所ごと滅ぼしてくれて構わない。なんなら、僕も手伝う。だから、」


だから。

「ボクと組もう。」


誰よりも異能を知らないダーカーは、誰よりもダーカーらしい表情でそう言った。

濁りきった瞳と、澄み切った目的に、魔女は小さく身震いして、上気した頬を左手で隠したのだった。


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