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Mr.DARKER STRANGE  作者: 事故口帝
Mr.Darker Strange
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Mr.DARKER STRANGE 第一章『天使と魔女』

第一章『天使と魔女』


教会の扉は、凄まじく重かった。鋼鉄製の両開きドア。災害時、または何かしらの事件が発生した場合には、その扉はパネル操作の自動開閉式に切り替わるらしいが、その重さには不信感を覚えずにはいられない。成人男性と同じくらいの背丈で、同じくらいの膂力であるヒューマですら、それを開けるのには苦労した。


もともと、東洋帝国は宗教的なことに排他的で、実現的な科学主義国だったのだが、そんな国の中で唯一生き残った宗教が、フレンダ―教。それは、もちろん偶然ではない。数多く存在した宗教の中で、フレンダ―教だけが科学技術を受け入れたのだ。

我々異国の宗教を受け入れてもらおうとしているのに、自分たちがこの国の科学を受け入れないのは教えに反している、と。

結果的にそれが決定打となって、フレンダー教は晴れて東洋帝国有数の法人団体へと成長したのだ。がしかし、軌道に乗ってきたときに『フレンダーの審判』による東洋帝国の滅亡。そのうえ、その事件を自分たちのせいと取られてしまってもおかしくない情報操作までされたのだ。運がいいのか悪いのかわからない。不憫な宗教と言えよう。


そんなフレンダ―教。述べたように、彼らは『フレンダーの審判』で築き上げてきたものを世界単位で壊された。それは、数世紀の苦労で立て直せるような生易しいものではなく、何度か文明ごとリセットしなけらばならないほどに難しいものだった。

では、どうしてヒューマを治療していてくれたナイト・リゲルはまだ修道服を纏っていたのか。どうして、フランダー聖教会はまだその役割を続行しているのか。できているのか。


「うっわ嘘……」


簡単だ。

周囲に、生命体がほぼ存在しないから。


「あんな大事件が起こったところで、今でも病院みたいなことやってるんだ……とんでもないモノ好きさんなんだなぁ……。」


東洋帝国全土を焼き尽くし、地図上のシミへと存在を下した大天災。立入禁止という情報統制ののち、その一帯を巨大なドームで囲まれ、完全なる隔離領域となった東洋帝国跡地に、奇跡的に残った教会。それがヒューマが眠り続けていたあの教会なのだ。

そんな長い時間の中で、ずっと、あの少女は看病をし続けたというのか。

ただ、修道女だったからという理由で、その命すら懸けてくれていたというのか。


「感謝しないと、だめだな。」


きっと、もう会うことはないのだろうけど。

修道服に身を包んだナースは、ヒューマを助けるために教会を管理し続けた。これから、少女はどうするのだろう。ヒューマのように眠り続けていた厄介な患者は居ないようだった。これまではヒューマを看病することが生活の一部となっていたのだろうが、その生活すらなくなってしまったら、少女は、ナイト・リゲルという女の子は、果たして、何を生きる目的としてこれから過ごしていくのだろうか。


何もすることがなくなって、この『フレンダーの審判』の残骸の中から抜け出すこともできず、このまま死に果てるのか?

やけに重かった教会の扉。やけに長い教育ビデオ。やけにひと肌を焦がれる視線。

あれは、「いかないでほしい」というメッセージだったのではないか?


走り出していた。

荒れ果てて走りにくい煉瓦道を。苦労して歩いてきた長い道のりを、体力の残量なんて気にせずに。

少女の想いを、踏みにじってしまうかもしれない。

しかし、それはヒューマが成しえないといけない目的だ。そのために、足を動かし続ける。

教会まで、あと数mもない。ただひたすらに、その重い扉へと突き進む。


「やっと、着いた……」


そうして、約3分の全力疾走を経て、ヒューマはフレンダー聖教会へと舞い戻っていた。

外から見れば、本当に普通の教会だ。幼いころに文献で読んだ、教会の模範のような建物。多少大きさはあるが、その中に数々の特殊機巧が眠っていると考えると、どこか末恐ろしいものがある。

目の前には、重い扉。その厚い扉に両手を押し当て、ぐぐ、と押していく。額に浮かんだ汗を振り切って、その扉の先の存在に想いを馳せながら。


「ナイト!」

「すー、はー、すー、はー。うめぇ……イケメンの寝たベッドの残り香うめぇ……これで一生おかずには困らな……」


視線が交差した。

ナイトは、ヒューマが看病されていたベットの上でシーツの匂いを嗅ぎながら恍惚の表情を浮かべており、きれいな顔立ちを随分ともったいなく歪めていた。

固まったまま動かないナイトをそのままに、ヒューマはお構いなしに、特に反応することなく進んでいく。そして、テーブルに置かれた携帯端末を手に取った。


「ごめん。これ、もらってもいい?」

「私の性処理人形になる覚悟ができたときに、返しに来てください。」

「了解した。」


ガタリと扉を開いて軽々と外に出て、一言。


「よかった~、連絡手段どうしようかと思ってたんだ~。」


ナイト・リゲルへの感情など、実は特になかったことを思わず漏らしてしまったのだった。



荒廃した街。言えば簡単だが、その実、東洋帝国の荒れ方はどこか気味の悪いものがあった。

津波、地震、洪水。そんな自然災害という類の痕跡が、一切ないのだ。

ボコボコに叩き割られた煉瓦道は、まるで巨大な手に抉り取られたかのように不自然な曲線に、まんべんなく蹂躙されていた。ビル群に至っては、上から下から、場所によっては横からも、至るところから撃ち抜かれていた。割れた窓ガラスの残骸は地面に白くカーペットを敷き、ひしゃげた煉瓦はそれを彩るように散布される。

川にかかる橋も、その強固な作りに見合わぬほど粉々に砕かれており、川をせき止めるほどだった。

何より酷いのは壊れた街並みではない。


この暗い夜の闇の中ですら見えてしまう。

それは、まるで大瀑布のように立ちはだかる漆黒のどす黒い壁。世界から拒絶されたような疎外感、自分一人しかいないのではないかと錯覚してしまいそうな昂揚感、それに対しての理解が得られない、理解したいという好奇心。そのどれもが非日常の感覚で、まっとうに生きていれば知ることのない感情だろう。

これこそ、『フレンダーの審判』跡地を立ち入り禁止にしようとする世界の意思。東洋帝国跡と、それ以外の世界を隔てる巨大なドーム、『隔界(ガクカイ)』だ。


「これを越えないと、一生残骸の中か。んじゃま、がんばりま」


ボゴォ!

顔面にめり込んだのは、なんだったか。

殴られたといわれたら、拳による一撃が脳内によぎるが、そのたった一撃の衝撃で意識の半分ほどをえぐり落されるほど、人の体は脆弱ではないはずだ。

もちろん、それが世界で戦うボクサーのものであったなら、死んでいてもおかしくはない。そう、それが拳でないと断定したのは、それが拳で繰り出せるはずがないと決めつけたのは、ヒューマの眼前で牙を光らせる笑顔が、女の子のものだったからだ。

その風貌だけが、女の子のものであったからだ。



「ったく、なンで突然、イケメンの東洋人を探さネェといけないんだよ……とうとう性欲が我慢できなくなったか?ド糞女……」


普段の異性への興味の無さから、突然入った「男を探せ」という依頼。ため込んできたこれまでの孤独を晴らす気かと、何度目かわからない軽蔑を心中で広げる。

暗い夜闇の中、突然舞い込んできた依頼。冷たい電子音と、憎たらしい女の息吹。たったそれだけの要素で形作られていた捜索任務は、一見ただの雑用にも、誘拐にも思える。

しかし、これまでの経験則から。これまでのド糞女と称される彼女の生き様から、その依頼がただの人探しでないという謎の安心感も、ないわけではなかった。というか、むしろそちらの方があり得る。

確信を得た情報しか流してこない、周到な女だ。きっと、その依頼には大きな意味がある。


見た目の荒々しさに反して、存外まともな思考力で言葉をはかる少女。それは、糞女こと魔女からの依頼を受けた、憎悪の天使、その人であった。名は、レンゲル・ライレイ。

東洋帝国跡地にて、魔女からの指令で孤児院探しを行おうと跳ねたとき、突然の依頼の変更に苛立って数個のビル群に八つ当たりをした少女だ。


そんなレンゲルは、ビルの屋上のふちに立ってあたりを見回していた。

魔女からの依頼から数時間。残骸と粉塵を切り分けて飛び回るも、お目当ての東洋人は見つからず、休憩がてら思考の海にダイブしていたところだった。


「もうヒと頑張り!レンゲル・ライレイ、コードネーム【天使】。ゲート展開。周囲汚染警戒レベル4。」


ヴン、と、空気を震わせる電子音が鳴り響き、レンゲルの頭上に円環を出現させる。

バリバリと電気的な火花を散らしながら、無から点が、点から円が。徐々に広がっていく円環は、やがてレンゲルの頭をすっぽりと覆うくらいの大きさに展開して、その拡大をやめた。

続く機械音、少女の円環がスチームパンク風にいななきだす。


まるでタービンでも回しているかのような大仰な音と同時に、円環が回転を始める。

レンゲルの頭上で浮遊する円環は、次の瞬間にはその軌跡に残像を描くほどに加速し、火花を散らしながらなにかを吸い込み始めた。

円環の中にギュルギュルと吸い込まれていくのは、空気。人々が生きる世界での、生命線そのもの。


「っ、ッ、ガ、アッ!!」


呼吸を乱しつつ、見開いた瞳が夜を睨む。そして。


「み、つけた……あ、は?」


ボン!

踏み抜いた足は、ビルを丸ごと倒壊させるほどの力を伴っていた。力は順調に染み渡り、亀裂と抱き合いながらコンクリートと煉瓦に激突。土煙を伴いながら、粉々になったビルが半ばからへし折れる。

周囲の惨状に比べてまだマシだったそのビルは、まだ周りのビルの方がましだと思えるほどに完膚なきまでに破壊しつくされ、レンゲルにたった一度きりの跳躍の力を提供した。

儚いビルの最後の叫びも聞かぬまま、レンゲルの刀が鞘ごと振りぬかれ、眼下の東洋人の顔面に直撃した。


「キャ……ハハっ!!」


空中でぐるりと舞った青年は、思い出したかのようにひしゃげ、空気を押しつぶすけたたましい音とともに吹き飛んだ。残響すら途絶えるほどの衝撃、しかし、レンゲルの刀はまだ抜かれていない。

それは、まだただのジャブ。本当の攻撃とは呼べない。

牽制、または挑発ともいえる、屈辱的な一撃だ。


「まさかァ、死ンでねえよな?原初のダーカーぁ」


バチバチという不気味な音をたてて、天使の声が響く。


「……キョウシュウ・ヒューマァ!!」


濁った瞳の天使は、天才的な機巧制御によって可能となった超人的な立体機動と、研鑽によって培われてきた異能と体術の合わせ技の片鱗でもって、東洋人、ヒューマへの挨拶とした。


地面をえぐり取りながら。数多の瓦礫に揉まれながら。幾多の破壊をもたらしながら。ヒューマの体はやっとのことで暴力のジェットコースターから抜け出した。

その惨状は、酷いものだった。


見えない列車に引きずり倒され、骨の髄まですり潰されたのではというほどの暴虐の軌跡。

立ち上る粉塵と、舞い散る残骸の残骸は、もはや原形すら留めておらず、壊したものを壊してすりつぶす。そんな破壊の権化の所業が、ヒューマを襲ったのだから。


「原初のダーカー?……馬鹿っぽいなぁ」


しかし、青年の体に、欠損はなかった。普通なら、四肢が千切れ飛んでいても不思議ではない。攻撃力にすべてのリソースを振っているような、化け物の攻撃だ。たとえ異能に脳を歪められているとはいえ、無傷の青年の姿には、どこかおぞましさを感じずにはいられない。


服に散りばめられていた街の死骸を払い落とし、ヒューマ待ちの天使は市街に次の攻撃の一手を探す。

そんなレンゲルの様子は、お前のことなど眼中にない。好きに仕掛けて来いという、真っ向勝負の挑発だ。

精神をかき乱すためのインビジブルなファイティングポーズ。だが、ヒューマの脳内に、それに対する感情は細胞レベルで存在しない。

あるのはただひとつ。


「異能の使い方もわかんない一般人崩れに、原初の異能力者(ダーカー)なんてさ。」


個人ではなく、略歴しか見ていない。そんな自分本位の二つ名への、微かなる苛立ちだった。



ビルの谷間。といっても、そのビルはすでにビルの体を成しておらず、どちらかと言えば残骸の隙間と言った方が正しかった。

己がぶち壊してきたものと、己をぶち壊した厄災の残骸と、随分感慨深い場所だなと苦笑するも、芯から沸騰した苛立ちの所為で上手く笑えない。


「東洋人の生き残リは、ほとんどがダーカーに発症シてる。だから、きっとあいつがお前を探してルのはとんでもネエ奴だからだ、って思ったんダ」


色刀(しきとう)の持ち手を、噛み跡の激しい爪でコツコツと叩きながら、一変した冷静さで言葉を淡々と並べていく。その感情の突然の冷却には、思わず人格の変更すら疑いそうになるが、どうやらそうではないらしい。


「けド、お前もしかしテ、つまんないヤツ?」


しっかり、はっきり、レンゲルは口が悪く、戦闘面でイかれていた。

背筋を駆けあがる悪寒。見て見ぬふりをしようとそれを振り払っても、次の悪寒が体に纏わりついて離れない。観念して地面を蹴り、ヒューマの細い体が瓦礫を駆ける。


そして、その横を一閃が駆け抜けた。

斬撃の軌跡とは、いわば残像。それは、過去の事象の痕跡に他ならない。

つまり、視認している段階で、そこに実体はすでにない。なのにも関わらず、ヒューマのコンマ数ミリを割りながら滑り込まれてきた残像は、まるでガラスのように背景を透かし、その強大すぎる風圧と威力に依然脅威を放ち続ける。

口内に侵入して暴れだした瓦礫の一片を、唾液と一緒に吐き出し、その斬撃の被弾地に目を向ける。


「刀の威力じゃないな……」


爆撃でもあったのかと見紛うほどのクレーターが手を取り合い、炎すら纏いながら地面に這いつくばっていた。

地面を抉り取り、それを溶解させてしまうほどの摩擦力、斬撃自体の攻撃力。当たっていれば、ヒューマの体は真っ二つだったのではないだろうか。


そんな反則級のダーカーの真髄を前にして、ヒューマの態度は全くと言っていいほど変わらない。いや、変える必要がないといった方が正しいかもしれない。

その斬撃に死を予感したのも確か、ヒューマが異能を扱えないのも確か。

しかし、突然ぶん殴られて、身に覚えのない称号で己を計られたのも確か。それにイラついたのも、確かにあった激情だ。


「ねえ、天使さん。天使らしく、か弱い人間を救済してあげる気はない?」

「あァ?」

「いや、ほらさ……僕は異能の使い方も知らないし、天使さんが言うような強い異能力者でもない。だから、こんな無駄な時間、やめないかな?って。」


ヒューマの語り口は、十メートルほど離れたレンゲルに届くほど、それでいて強さ、きつさを感じさせない、優しい声だった。

それに対するレンゲルの辛辣な態度は、想定内と言えば想定内だが、ヒューマの言葉に大した関心を持っていないことへの見えない侮蔑でもあるのかもしれない。


「じゃア、天使らしく救済しテやる。」

「そうか、ありがた」

「死は、救済ダろ?」


色刀(しきとう)の刀身が煌めく。薄紅色に染まる美しい太刀の色。それに倣うように、これから繰り出される斬撃も、美しい太刀筋とともに美しい血の花を咲かせるだろう。


「対話の意思は、見せたからね!」


そう吐き捨てて、次は少女の斬撃に対して余裕を持って駆けだす。

振り上げた刀を柔らかく振り下ろし、それに対して大きすぎる破壊力の塊が、ヒューマが先ほどまでいた残骸の集合体を叩き割る。

吹きすさぶ暴風の余波で、そこに集積していた塵芥が舞い上がる。微かに視界を濁した粉塵に顔をしかめ、レンゲルが再び刀に手をかける。

そして、レンゲルの頭上で駆動する円環が、その機巧音をより大きく響かせる。空気を吸い込み終わり、その駆動音が打ち止めとなった時、レンゲルの次の一手の装填が完了する。


「ごめんね、これで終わりだ。」

「ハ……ぁ?」


が、しかし、その剣は準備と同時に意味をなくした。

粉塵から現れたヒューマが、右手を掲げて、それをレンゲルへと向けたから。


「てメぇ!あれは、ブラフ!?」


ヒューマの手。それは、開かれたままレンゲルに向けられている。それは、まるで砲口をターゲットに定めた砲台のようであった。

予想外のヒューマの一手、レンゲルの反応が遅れる。


ヒューマの、異能の使い方がわからないという自己申告が本当だとしたら、粉塵が巻き上がった時点で逃げるはずだ。戦闘力がない時に向かってくるなど、本当の死にたがりだ。

しかし、命の取引に一度は誘ってきた身だ。それはないだろう。

つまり、あの視界不良に応じて逃げるのが、ヒューマにとっての最善だった。

実際、その視界不良を叩き割るための剣を、レンゲルは装填していた。

では、それが覆るとしたらいつだろう。その可能性は、そう多くはない。例を挙げるなら、ヒューマの言葉が、嘘だったとき。


「糞野郎ガぁ!!」


色刀(しきとう)にため込まれていた空気が、刀身から原子サイズで噴き出す。

斬撃に纏う推進力は、その空気をさらに小さく圧縮し、超高濃度の空気による、中距離斬撃を完成させる。


空気をバリバリと叩き割る耳障りな音。世界の終わりすら予感する不吉な音に、ヒューマは笑顔で向かい合う。

ヒューマとレンゲルの間には、ほぼ数mの距離しかなかった。レンゲルの繰り出す斬撃のスピードと射程、破壊力を鑑みれば、それはほぼゼロ距離と変わらない。

空間がゆがむほどに力強い圧縮された空気は、馬鹿正直にヒューマのど真ん中を狙って撃ちだされた。そして、見切られたまま粉塵の中に消えていく。


「異能……」


空振りの斬撃。

しかし、それは当たらなかっただけで攻撃力がなかったわけではない。ヒューマの背後の粉塵がバッと晴れる。きれいな夜闇と残骸の街並みを背負い、ヒューマの体がレンゲルへと全力疾走を始める。

レンゲルの斬撃には、絶対的に予備動作が存在した。


それこそ、天使の輪。レンゲルの頭上で浮遊する円環機巧の駆動だ。

つまり、連続での斬撃は不可能に近い。今のレンゲルは、なんの攻撃手段も持たない、一般人同然。


「馬鹿らしいよね」


ヒューマとレンゲルの距離が、消失した。

そして、ヒューマの口づけが、二人を本当の意味でのゼロ距離にした。


「ッ!!」


舌を絡める生々しい音と、それに付随する唾液がぬらりと糸を引き、きらりと瞬いた。

呆気にとられていたレンゲルだったが、すぐに正気を取り戻し、密着したヒューマの唇に彼以上に吸い付き、その凶悪な牙で噛み千切った。

唾液と血液の入り混じった半透明の液体が、再び周囲にまき散らされる。そして、そんな液体を掻き切って、レンゲルの色刀(しきとう)がヒューマの胴体にクリーンヒットした。

斬撃の最高点を越えて、打撃としてすら一級品の刀が、ヒューマの腹肉を割り、千切りながら通過していった。


血液が弧を描き、その衝撃の美しさと規格外さを、衝撃波の可視化として知らせてくれる。

ヒューマの体は、血液の糸を引きながら再び瓦礫の山にクレーターを作り出した。


「気持ちワりぃ、気でも狂っタか?そレとも、それガ異能の発動条件……?」


思案するレンゲルに対して、ヒューマの現状は些か厳しい。

空気圧縮の恩恵に縋ってないとはいえ、レンゲルの太刀筋は鋭い。空気という不確定的なものを、斬撃として飛ばすのだ。

剣の技量だけでも、レンゲルは異能レベルであるはずだ。では、それをもろに貰ったヒューマは。


「死んでなくて、安心した。」


噛み千切られた口回りから噴出する血液が、痛々しくヒューマの表情を彩り、端正な顔立ちを背徳的に汚す。腹からあふれ出る血液は存外少なく、傷口も内蔵にまでは到達していないようだった。

本当に皮一枚。

咄嗟の偶然的な回避本能が、何とか重傷への糸口に待ったをかけた。

ただの偶然で片づけていいほどの事象ではないが、天文学的な割合ではあり得なくはないだろう。

とはいっても、さすがにそれ以外の傷がほとんどないのは、何かしらの介入を疑わざるを得ない。

ダラダラと垂れていく血液は、自分の意思に関係なく、留まることなく流れ落ちていく。粘り気のある血液の中には、肉片だろうか。弾性のある感触も、同時に地面を赤く汚す。


「僕、もう無理みたい。殺して。」

「っち、キモい。」


そして、命乞いすら超えた死に乞いで、ヒューマが敗北を認めた。


「結局、本当にダーカーの力ハ使えなかっのかよ。」


レンゲルの失望は、変わらなかった。

異能が使えることをちらつかせ、レンゲルの斬撃を避けたところまでは、よくやったといえるだろう。

しかし、そこからの行動に一貫性が見えず、最後まで意味が分からなかった。

舌までねじ込んだキスも、攻撃という手段に手を伸ばさなかったことも、急におとなしく降参したことも。

全ての行動は、レンゲルの精神を逆撫でし、苛立ちを募らせるばかりだった。

そのうえで、降参して殺してくれ?不完全燃焼にもほどがある。


「もう、イイや。」


もはや怒りすら湧かなかった。

甲高い音とともに円環の上がぎゅるりと歪み、不自然なたわみとなった空気が徐々に吸い込まれていく。

その空気は、そのまま色刀(しきとう)へと流れ込んでいき、最終的にレンゲルの剣技によって最強の斬撃というセカンドライフを手に入れる。

それによって散ることになる命は、たったひとつの儚いものだけれど。


「ンぁ?」


と、成るはずがない。


「天使さんのその輪っか。きっと、空気を吸い込んで刀に送ってるんだろうなって思ってさ。もしかして、ワープゲートみたいにどこかに繋がってるのかと思って、瓦礫を何個か入れてみたんだ。キスに夢中で気づかなかった?」


どうしてキスなんてしたのか。たしかに、レンゲルは見た目が整っている。少々顔面の装飾の治安が悪いだけで、それは絶世の美少女と称されても問題ないほど整ったものだった。最後の情欲をキスとしてぶつけたとして、何とか理解できないことはない。

しかし、舌までいれて口内をかき乱してのは、唾液を絡み合わせたのは、そんな肉欲の暴走の為ではない。


意識を、逸らすため。

レンゲルのそれがファーストキスだったなら、他に恋人がいたなら、ヒューマの見た目に魅力を感じたなら、逆にその行動に不快感を感じたなら、なんにせよ、確定的にキスという行為には相当なリソースを費やされる。それがディープキスだったなら尚更だ。


そうして無防備になった円環に、ヒューマは拾った瓦礫を投げ入れたのだ。空気を吸い込んで刀へとつなげるワープゲートへと。

その作戦が成功したということは、少なからずレンゲルはキスに意識を数瞬持って行かれたことになる。


「可愛いところ、あるんだね?」


メキィ、と。レンゲルの持つ色刀(しきとう)が軋んだ。


「……確かに、てめえのキスは、あの糞女よリ巧かっタよ。けどなぁ、愛の無え口づけなんテ、大して美味くねエんだよ!!」


円環が、駆動する。


軋みながら、しかし確かに空気を吸い込み始める円環の機巧。

それは、再び牙を剥くための咆哮だ。反撃の狼煙だ。

しかし、ヒューマの命がけの駆け引きが、そこまで簡単に崩れるほど、世界というのは鬼畜ではない。


この世界の法則として、自然の摂理として、絶対的にリターンには多大なるリスクが必要だ。

逆に、多大なるリスクを払い、賭けに勝ったのなら、勝手にリターンが返ってくるのだ。

円環からのワープゲートによって刀へと移動した瓦礫が、メキメキと侵攻して刀を内から壊していく。


「糞野郎ッ!!」


その前に、たった一撃でも叩き込めたなら、レンゲルの魂の絶叫が、微かでも運命の風向きを変えたのなら、きっとその刀はヒューマに届く。だから、賭けずにはいられない。


ヒューマがそうであったように。大一番の賭けに勝った勝者に、さらなる勝負を仕掛けるなら、自分も、その大一番の賭けに臨まなければ勝つことはできないと。


ズレロ。


刀身が、消失した。

いつの間にか、レンゲルの刀は振り切られていた。

きっと、その魂を込めた太刀筋は、レンゲルの振るってきた今までの剣撃の中で一番の出来だった。

たった十余年の年月であろうと、その中の一番がどれだけ多いな意味を持つのか、どれほどの覚悟と勇気の上に成り立ったものなのか、ヒューマにも理解できた。


だからこそ、その大一番の賭けは、分からなかった。


「じゃあ、誰にも救済されない天使さんを、僕が救ってあげます。」


ぼろぼろの鉄屑が、ひしゃげながら地面を転がっていた。

色刀(しきとう)の中に転送された瓦礫は、確かに実体となって機巧を食い荒らし、レンゲルの最高の太刀筋のほんの一瞬前に、力尽きたのだった。


皮肉にも、彼女の最高の一撃は、(から)(つるぎ)によって成され、消えた。


「死こそが救済、ってことで、よかったよね?」


ヒューマの長い腕が、立ちすくんでいたレンゲルの頬をぶち抜く。

「あぐっ!」という痛々しい声が漏れれば、次の瞬間には顔面を貫くヒューマの足が高く高くレンゲルを痛めつける。


どさり、と地面に転がったレンゲルは、反撃の手を探して己の刀を縋るように舐った。

しかし、返ってくるのは血と塩味のある持ち手の硬い感触のみ。今まで酷使されてきたことへの恨みを晴らすかのように、清々しいほどの壊れ方をした色刀(しきとう)

根元から崩壊した刀身は、微かな金属の名残だけを柄に残して、キラリと輝いていた。

ヒューマの追撃がレンゲルの後頭部を押しつぶそうとした時。


「ウヒ……け。ヒヒ、ヒヒヒ」


血液。

色刀(しきとう)にほんの少しだけ残されていた刃で、己の腕に傷を刻む。

血液。

人体の中で一番の高度を誇る牙で、唇を噛みきる。

血液。

血塗れの左手で、脇腹を抉って内臓すら手にかける。


既に、戦おうという意思は、ほぼ無いといってよかった。

それも、仕方のないことだろう。己の集大成。あと、一手、あと一瞬の時間が自分に味方していれば、その剣は最強の一手だった。


悔恨を痛覚で塗りつぶすように、感情を五感で凌辱し、自我を優しく残酷に鬱血させていく。通わなくなった感情を、塗り固められれる痛覚を、何もかもがくちゃぐちゃに織り交ざって、少女に残されていた矜持というものを醜く溶かしていく。

壮絶な敗走に身を晒されても崩れなかった精神の均衡が、自傷というキーによってかき乱される。きっと、その血まみれの手は、彼女の異能のカギだったのだろう。


「異能解放」


レンゲルの口から、信じられないほど流暢に言葉が漏れた。するりと脳内に入り込んできて、それに対する関心を抱かせる暇もなく消えてしまいそうなほど、その言葉は自然で、怖いほどに無機質だった。


「今までの、異能じゃなかったんだ……」


ヒューマの口から感嘆の声が、呟かれた。

どくん、と脈動するように体を震わせ、空間ごと揺れたのではと錯覚してしまうほどの威圧感が解放される。それはすなわち、異能の目覚めと言ってよかった。


ひずむ世界の感覚というのは、本当におぞましい。

異能の息吹は鼓動となり、その鼓動がついには咆哮へと音を伸ばし、膨れ上がっていく不快感と心臓を握りしめられているような焦燥感。


レンゲルから、目が離せなかった。


本能は、逃げろと(いなな)くだろう。しかし、その理性が、自我が、感情が、恐怖に身を震わせて動けない。力は溶かされ心は折られ、濃厚な死の気配が身体中にまとわりついて離れない。

ダーカーであるという時点で、異能を使うという時点で、相手はほとんどの場合行動というコマンドを失う。

異能なしの人間と戦うときには、レンゲルほどの基礎能力があれば異能は必要ない。だからこそ、異能を使わないヒューマ相手にその牙が振るわれるのは、完全なるイレギュラーであった。


地面に打ち擦れられていたレンゲルの体が霞んだ。ノイズが入ったように不快な音をまき散らして、レンゲルの体が点滅する。そして、腕が立ち上がった。それに付き従うように、あとから足が、胴体が、頭が、まるで再構築されるように空中で繋ぎ合わされ、黒い四角形の集合体が、何とかグロテスクな惨状をマシなものへとフォローしていた。


「キョウシュウ・ヒューマ……」


ノイズがジジジ、と震えて断絶する。血液に彩られて、赤く、ひたすらに赤いドレスに身を包み、美しい白髪を振り乱す。そんな白髪に、微かな黒が混じった。

いや、正確には、黒い煙が混じった。


土埃でも、ただの煙でもない。その黒い煙、靄のようなものは、紛れもなくレンゲルから産み落とされていた。

正確には、レンゲルの頬と、ふとももに刻まれていたタトゥー。それが、輪郭の焦点を微かに歪ませて、滲みだした黒煙が世界に溶けていた。


「ヒューマ…………コロ……??」


こくり、と首を傾げたレンゲルが、ヒューマの肢体をオッドアイで射抜く。

機巧が、いななきを始めた。



ワープホール技術の確立は、東洋帝国消滅からほんの数か月後のことだった。

オットーランド都市国家の直属、超エリートの中でも一握り、特に科学的な方向への才能が認められた者たちしか入社できない、絶対の研究機関『デュカイオ・シュレー』。


研究所長以外の素性は公開されており、ほぼ全員が名門の大学から排出された稀代の天才たちであり、世界の知能を集合させた最高の研究施設と言える。

そんな研究所から生まれたのが、これまでの常識、いや何もかもを覆す発明、ワープホール技術だった。


ワープホール技術。

送信機とレシーバーのセットで運用され、送信機の送信口から物を入れれば、半径12m内にある対応したレシーバーにテレポートさせることができるというものだ。

原理に関して、約334枚に渡る研究レポートによってまとめられたが、理解できる人間はほぼいなかった。


送信機に入れたものを、周囲の加速器で疑似的な光速以上の速度へ。そうして絶対座標を曖昧にして、同じく曖昧になった空間をレシーバーのほうで用意すれば、排水溝に吸い込まれる水のように、物は引っ張られてワープする。

物体を一度宇宙の起源レベルの時間軸に飛ばすため、人間での使用は限りなく自殺行為に近い。

そんな、一歩間違えばとてつもない殺戮兵器になりうる危険性があったため、厳格な管理体制の下、オットーランド内でゆるやかに普及していた。


そんな所謂テレポートの技術は、『デュカイオ・シュレー』内部の人間でも、自由に研究できるわけではなく、その研究に関しては素性の明かされていない所長がほぼすべての権利を所有していた。


隣杯(りんはい)先生?」


瞳に宿った明るい瞳、透き通った綺麗な白髪。そして、傷一つない玉のような肌にほんのりと暖かな赤みを乗せた少女が、不安げに名前を呼んだ。

それに反応したのは、サイドポニーとでも言おうか。必要最低限邪魔にならなければ、と、女性とは思えないほどに煩雑なヘアセットで、人間とは思えないほどの美貌でエナジードリンクを吸っていた。


「あぁ……ごめんね?不安にさせちゃったよね?うぅ……不甲斐ない先生でごめんねぇ……」


纏った白衣と理知的な鋭い瞳に反して弱々しい声音を震わせた女。少女に隣杯(りんはい)先生と呼ばれた研究者然としたその人物は、輝く瞳で己の袖口をぎゅっと握る少女に献身的にしゃがみ込み、しなやかな手でその頭を優しく包み込む。

涙の滲んだ目でその幼い体に視線を向け、心を痛めたように顔を顰める。

しかし、その感情におとなしく従うことなどできない。それをしてしまったら、隣杯(リンハイ)は彼女自身で無くなる。

「レンゲルちゃん……ごめんね?今から、痛い思いをしちゃうかもしれないし、怖い思いもしちゃうかもしれない。それに、……とってもおかしくなっちゃうかもしれない。」

何が、とは少女も、そして隣杯(リンハイ)も口には出せなかった。

滲んだ涙は雫となり、結ばれた雫は一筋の涙となり、涙は重なり滂沱となるだろう。それほどまでに心を痛めながら、なお抱きしめる力を緩めずに、隣杯(リンハイ)は言う。


「でも、私だけはレンゲルちゃんの味方。」


すっ、と。

腕の中の少女、レンゲルが、小さな希望を宿した目で隣杯(りんはい)に視線を合わせる。不安は消えない、紛れない。けれど、自分の立場に立ってくれる。自分のことをここまで分かってくれる人が、慮ってくれる人が、顧みてくれる人が、どうしようもなく救いとなるのは、必然と言えた。


「レンゲル・ライレイ、その魂は、ずっと私が守り抜く。絶対に。だから……」


レンゲルを抱く力を強めて、隣杯(りんはい)が鼻先を少女の方に擦り付けた。それは、二人の不安を紛らわせるように、傷を舐め合うようにも見えた。

レンゲルの瞳にも、自然と涙が落ちる。するりと滑り落ちていく涙は、やがて隣杯(りんはい)の肩を濡らし、互いに涙という証を残して、それを約束とした。


「だから、死なないでね?私の、天使……」


余談でも、蛇足でもあるかもしれないが。

隣杯(りんはい)の瞳は、どうしようもないほどに濁っていた。まるで、ここでないどこかを見つめるように。遠く、遠くを見つめる、闇を覗く眼であった。



「ンぁあ?随分、前のこと、思い出しタな。」


異能を急発動させたこと、ヒューマから与えられた少なくない傷、自分で与えた大きすぎる傷、そして、機巧の制御に回される脳のリソース。

イかれた研究者の、イかれた実験で、【天使】は生み出された。


彼女は何も望んでいなかった。彼女は、何物にもなりたくなかった。ただ、その研究者の為になりたかった。だからこそ、彼女はダーカーとなった。


「天使さんの異能は、どんな力なの?」


と、脳の奥底から引っ張り出されてきた記憶を、頭を振って追い出すレンゲルに、ヒューマがどこまでも気楽そうに問いかけた。

その投げかけられた問いは、情報が欲しいとか、戦略の為とか、勝率を上げるためとか、そんな切羽詰まった打算によるものではなかった。ただ純粋なる好奇心。

異能を扱うことのできない青年の、異能への興味と、渇望。なにより、それに対する期待。

己から続く異能の系譜が、果たしてどのような超常の力となって世界に牙を剥くのか。それを見届けたいという、ささやかなる願い。


「ダーカーの異能は、宿っタ願いの種類にヨって決まる。」


レンゲルは、体中にまとわりついた血液に恍惚の表情を浮かべながら語りだす。


「そもそも、ダーカーの始まリはお前、いヤ『フレンダーの審判』だ。……アの時死ンだ人間の、最後に思イ描いた物。そレが、異能とナって私タちに宿った。」


指先の血液を舐めとり、それを食みながらレンゲルは前提条件に()いてヒューマに説く。

曰く、『フレンダーの審判』で人々が最後に思い描いた物こそ、自分たちの能力のルーツだと。


願ったのなら、欲情したのなら、祈ったなら、縋ったなら、欲したのなら、千差万別の思想の中で、きっと人々はイメージしやすいものを、本能的に想ったのではなかろうか。だからこそ、死人の思想は分かりやすく異能に現れた。


「こんナなりだが、私は天使。死に際ニ天使に祈ったヤツの想いガ異能となっタ。」


彼女の冠する機巧。それは、きっと彼女に宿った【天使】という異能を、最大限に使いこなすためにつけられたものなのだろう。それが本当に天使の円環のように見えるのだから、皮肉なものだ。


「でも、天使の異能って想像しにくいなあ……どんなの?」

「まァ、一度見れバいいんじゃないか?」


重力の崩壊する音、と形容すればいいだろうか。地響きが反響して、重複して、地球に響き渡るような、そんな重低音。

レンゲルの機巧から鳴り響いた異音。それは、すなわち彼女の臨戦態勢が完成したことを示す。


「それデ、満足しテ死んでくレ。」


東洋人を探せ、という魔女からの命令は、既にレンゲルの中にはなかった。ただ、殺したい。シ合いたい。


自分に異能すら使わせた。その事実は、レンゲルの中で確かな驚愕とともに、ヒューマと同じ好奇心をふつふつと湧き上がらせ、震えるほどの期待に口角はぐにゃりと歪んでいた。

レンゲルの頭上でその存在を確かなる脅威としてヒューマに刻みつける機巧は、空気を取り込み続ける。しかし、その形態は先ほどまでのものとは大きく異なる。

空気をため込んで、攻撃を溜める。そんなリロードであった機巧の空気の運用は、今や止まることなく空気を取り込み続ける。


そして、レンゲルに刻まれたタトゥーが、やっとのことでその真価を発揮する。

左頬と両足のふとももで燻っていた圧倒的な伏線は、黒煙をまき散らしながら出番への意気込みを具現化する。


立ち上る黒煙。それは、おそらく空気。円環機巧から取り込まれ続ける空気がそこから黒く変換されて出てくるということは、そのタトゥーは一種のレシーバーなのだろうか。

考察を続けながら少女の一挙手一投足に注意を示すヒューマは、長い指で目頭を押さえながら思案する。


「天使…………能力は、浄化……?」

「お前、ソの頭のキレ方はヤベえんじゃねエか?」


ヒューマの思考の果て。青年の脳が導き出した結論は、『浄化』という単語だった。ノータイムで口から零れ落ちたその答えに対して、レンゲルが微かに眉をひそめる。

合否は別として、そのヒューマの考えに対して、レンゲルは危うさを抱いた。


ヒューマのアンサーが早すぎたことにイラついたわけでも、誤魔化すためのブラフでもない。

それは、心などとうに捨てた屑ですら唖然とする、もはや気色悪いとすら称される、おぞましい者への評価だった。


「なるほど。正確には『性質操作』みたいなものかな。神聖にも、穢れたものにもできる。人をはかる天使におあつらえ向きの異能だね。」


円環から取り込んだ空気を、タトゥーもといレシーバーから放出。その段階で、体内で空気の性質を穢す。汚染された空気は、黒煙として世界に顕現した、ということだろう。


穢れた空気、障られた煙、汚染物質。呼び方はどれでも適当で、きっとどれでも当てはまらない。そして、それに触れたものがどうなるかも、わからない。ただ、絶対的にいい効果が得られないことは確かだろう。


「ハぁ……正解なのがタチが悪リィ……。だガ、てめぇが想像の何倍もやベエってのはワかった。」

「そうかな?僕はただの一般人だよ。」

「ほぅ……異能が使えないってのも嘘ダなァ。」

「そうかな?僕はただの一般人だよ。」

「…………フレン、イや。」


黒煙をくゆらせて、レンゲルが言葉を区切る。その根絶された会話は、戦いの開始を意味する。

仁王立ちのレンゲルの背後に、立ち上る煙が収束した。渦を巻くように、流線型の曲線美が形となり、その煙の不確定さを確かなものへと変貌させていく。


鈍色の汚染された空気は、吸い込まれ、絡まり合って一つの刀となる。レンゲルの右手の中で禍々しい形相を示すそれは、歪んだ空気を内包した障られた剣。

色刀(しきとう)とは比べ物にならないほど危険で、人が扱うには些か武器としての性質が異常すぎる。まさしく異能の剣。


刀身の先をゆっくりと走らせて、片手に剣を片手に血液を抱く少女は、円環を揺らして微笑む。背後に残る黒煙の穢れは、まるで翼のようにうごめいていた。


「救済……享受」


黒煙がたわむ。しかし、ヒューマの視線はそこにない。

一足先に上空に視線を移し、飛び上がったレンゲルの姿を捉える。機動を予測されたことに大した関心を見せず、ショートソードほどにまで長さを抑えた刀を振り下ろす。

彼女がいるのは上空だ。そこで刀を振るっても意味はない。しかし、それがただの刀だったらの場合だ。


斬撃の延長戦に現れた黒煙が、その大質量の全体重でヒューマを叩き潰そうと飛来する。

ヒューマの視界に映る一帯すべてを飲み込んだ黒煙。それは、ただ視界を潰す目くらましではない。その黒煙の一粒一粒が、レンゲルの異能によって汚染された間違いない有害物質。


一切の躊躇を捨てたレンゲルが、立ち上る黒煙の中へと飛び込む。一筋の矢のように貫かれたレンゲルの軌跡が、ヒューマを取り巻いていた黒煙を一切吹き飛ばした。

最早銃弾と言えるほどの加速で、レンゲルの刀が地面を刺す。霧散した黒煙の中、ヒューマの存在を探すため、禍々しいオッドアイがその荒野を睥睨する。


「ニげた……?」


レンゲルの呟いた言葉が、ポツリと落ちる。

しかし、違う。彼がいなかったのは、その衝撃から逃れたとか、なにかしらの勝利的算段があったとか、そのようなものでは一切ない。


「き……くなぁ」

「ンぁ?」


瓦礫に紛れて血に紛れるヒューマが、困ったような表情で立っていた。その姿は、凄惨なものだった。四肢こそもげていないが、黒煙に侵された体は黒くひび割れ、その亀裂に生命力の漏れ出る緑光を滲ませる。ガラス細工のようなある種の美しささえ感じる黒煙の被害。

それに、満足そうに表情を歪ませ、レンゲルが姿勢を落とす。


次の跳躍は、もう寸前に迫っていた。

背中に背負った黒い翼が、少女の高速の機動にブレながら汚染物質を振りまく。


「喰ラえァ!!」


構えた刀は、いつしか長刀となっており、切っ先に集中した遠心力が死を乗せてヒューマ目がけて煌めく。


「あーあ。もう」


ヒューマが、いつか見たように片手をその切っ先に向けて掲げる。それに付随する多少の苛立ちは、声となって響き渡るが、レンゲルにはもはや気づけない。そこで攻撃をやめる選択肢は、すでに少女にはない。

だからこそ、その決着は、目前に見えた。


「よくないよ、それは。」


黒煙が、ヒューマの手に触れる寸前に、爆ぜた。ヒューマをよけて飛散していく汚染物質は、やがて地面を蝕み、いくばかの轟音の果て、瓦礫の山を叩き割った。


目を見開いて驚愕に支配されるのも一瞬。瞬時にその支援の招待に気付いてレンゲルが飛び退く。次の瞬間、コンマの差で不可視の暴力がヒューマの周辺を叩き潰す。

地面すら割りそうな、というより実際に亀裂を走らせるその攻撃の正体は何だったろうか。


不可視、不干渉、不可解。絶対的に防ぐことのできないチート級の攻撃だった。その反則さだけなら、レンゲルすら凌ぐのではないかと、棒立ちのヒューマは呑気に考えた。


「君は?」


空中で止まっていた何者かが、そのパーカーをたなびかせて舞い降りる。そして、その何者こそ、先ほどの暴虐の主。不可視の女王であるのだろう。


「うん……【魔女】、そう名乗らせてほしいかな。」


透き通った声でヒューマを射抜く魔女は、存外に華奢だった。


何かのゲームだろうか。キャラクターシルエットとタイトルロゴの入ったTシャツに、灰色のパーカーを羽織っている。パーカーから覗く胸囲は凄まじく、人間離れした、とまでは云わないがあまり見ないほど立派なものだった。

目鼻立ちの整った表情は、どこか歓喜のようなものに染まっており、上気した頬は色気を感じさせ、彼女の女の部分を露見させる。

あまり長くはない黒髪を揺らしながら、魔女はヒューマとの間にある数mの距離を徐々に詰めていく。


「ねえ、その『擬態』、もう解いていいよ。」


そして、ゼロになった距離でヒューマの唇に指を添えて、上目遣いでそう言った。


「異能はまだ眠ってても、ダーカーとしてポテンシャルで、君はそんなに弱いはずないもんね。」

「……あのさ。」


柔和な笑みを崩さないまま、そのうちぼんやりと感じ取れるイラつき。魔女の画策した通り、その化けの皮が剥がれるのではと、期待するレンゲルの手前。

ヒューマの手が、魔女の右乳を鷲掴みにした。


「な……ぁ……!?」


ボッ、と頬を染めて狼狽する魔女の嬌声を尻目に、ヒューマの手は休むことなくその曲線美の輪郭を歪ませ続ける。指の隙間から零れ落ちるそれをすくい、さらに深く手中に収めて揉みしだく。


「僕は一般人だし、ちゃんと天使さんの攻撃も貰ってる、って何回言わせるの?」

「いゃ・・。そ……あっ……やめっ!!」


真っ赤な表情そのままに、魔女がヒューマの手を絡め取って乱雑に弾く。

息を切らしながら胸部を抑え、ジト目で睨んでくる魔女にたいして悪びれず、ヒューマが言葉を続ける。


「ダーカー2人が一般人に掛かってくるって、やってることリンチと変わんなくない?」

「……じゃあ、君がレンゲルになにをしようとしてたのか、説明してもらえるかな?」


若干の怒りすら滲ませながら、ヒューマの声が魔女に飛ぶ。しかし、魔女もそれで納得するはずもない。返す言葉でヒューマの挙動の不自然さに言及する。曰く、それは目覚めている異能の一部なのではないか、と。


論争になったところで仕方がない。といっても、その行動に正当性は付けられないだろうが、まあイかれた者同士通じるものがあったのだろう。


「なんだ、綺麗な人なのに野蛮なんだね、魔女さん。」

「貴方も、顔だけはかっこいいのに……残念。」


互いに顔面を狙いあった拳が、ほんの数センチで静止していた。

互いの攻撃と互いの回避行動が奇跡的に合致し、なんとかノーダメージで交わされた打撃は、おそらく威力に遜色はない。しかし、異能の力が宿っていた分、命拾いしたのはヒューマの方だったろう。


「フッ!」


ぎゅるりと空中で回転するヒューマの体から、ブレるように回し蹴りが炸裂する。空間すら霞ませる超速の蹴りに手を添え、魔女の異能が火を吹いた。


魔女。魔法、魔術、魔導。呼び方は様々だが、確かに共通することは、その媒介に魔力を必要とすること。史実に残るように、迫害の歴史に塗れた、血生臭く、それでいていつの時代も人々の創造の中で生き永らえるほどの魅力も持ち合わせる。そんな魔女の能力。


ヒューマの体が、彼女に触れられた足を起点に吹き飛ぶ。

膝から下がなくなっていてもおかしくはない威力の不可視の波動。それは、軽々とヒューマを吹き飛ばし、瓦礫の山へと誘った。


「異能解放」


ぐわっ、と飛び上がった魔女は、纏った魔力を腕に溜め、ヒューマの消えた瓦礫の山へと火炎の爆撃を叩き込む。

続いて、空中で人間とは思えないほど軽々と身をよじり、己の生み出した紅蓮の中に飛び込む。そして、再び顕現する不可視の破壊力がヒューマに降り注ぐ。


「っ……!」


しかし、そのまま残骸に溶けることを、ヒューマが良しとするはずがない。

残骸を押しのけて地面から伸ばされた青年の腕が魔女の手首を掴み、のしかかっていた瓦礫の全てを払いのけてヒューマの全身が地面に両足をつき、回帰する。

そして、その勢いそのままに魔女を空へとぶん投げる。魔女自身が発動した見えざる暴虐が、その体を蝕むことを予見して。


「馬鹿っ」


ばっと広げた腕から不可視の破壊力を顕現させる。しかし、それは攻撃用ではない。自分を守るための、防御用の結界。屈辱的な能力の運用に歯噛みして、魔女は上からの破壊力を叩き伏し、続く第二の腕で眼下のヒューマに破壊力を叩きつける。


それを見越して周囲のひときわ大きい瓦礫を掲げていたヒューマは、多少のダメージを負いつつも五体満足で魔女の攻撃圏から離脱。


「危ないな……下手したら死んでたよ?」

「殺すためにやってるの。下手こいたから死んでないの……よッ!!」


ヒューマの余裕そうな顔面に、煙に巻かれる魔女の右手が向けられる。そして、吹きすさぶ暴風がその煙を一瞬で引き裂き、射出された赤黒い破壊力の奔流が世界を駆ける。


さすがに分が悪いと思ったのか、防御ではなく回避に走るヒューマ。その選択は最善だったろう。彼が飛び退く前の瓦礫に着弾したそれは、一瞬で地面をバターのように溶かし、続く発光で爆ぜ、眩い光とともに爆風を解き放った。


ほぼ無傷でその猛攻に耐えきったヒューマは、そのしなやかな手で前髪をまさぐり、漏れ出た命の雫を拭った。すれば、それを合図としたように額からドロドロと血液が流れ始める。途絶を知らない血液は、どこか危うい流れ方で放出され続ける。


たとえダーカーの身体能力であっても、その流血量はバカにならない。そもそも、ダーカーに損傷を与えられるほどの魔法を扱える魔女が、異常なのだ。

さすがに余裕を纏うことのできなくなったヒューマが、血液に対する関心を喪失して魔女を睨む。

そして、


「邪魔」


暴風が吹き荒れた。

地面を抉りながらそれに煽られる魔女は、しかしそれでも後退を余儀なくされる。異能を使おうと思えば使える。けれど、きっとその異能を使ったところで大した意味がない。

目の前の圧力に、まるで灯火のようにかき消されてしまう。それが、容易に想像できた。

歯噛みしながら耐える。それも我慢が利かなくなり、以前威力を増す暴風はさらなる負荷を少女たちに与え続ける。


魔女は両手で地面を掴み、不可視の破壊力を地面に突き刺して己の体を縫い止める。

レンゲルは、汚染物質の刀を地面に、根を張って自立を確かなものにする。

その暴風の正体は、なんだったのか。


始まりは、魔女が観測した限りヒューマの「邪魔」という言葉。しかし、彼は異能を解放していない。

というより、異能を思い出しているのかさえ怪しい。

では、それは異能ではないのか?そんなはずがない。たった一人のちっぽけな人間が、この暴風を、今はすでに嵐のような様相を呈しているこの惨状を引き起こせるほど、人類は壊れていない。

壊れているとすれば、そんな嵐のなかで、ふらつくどころか一切その体を微動だにしないヒューマのことだろう。


ダーカー二人の攻撃を封じて尚足りないほどの風量の中で、いつしか余裕そうな佇まいはその存在を取り戻しており、しかし無表情で魔女たちを睥睨する視線は、おぞましさを感じずにはいられない。


そのうえ、その暴風の異質さだ。たしかに暴風自体も普通に生きていたら感じることはないほど強いのだが、そこにはあまり特異性はない。おかしいのは、魔女たちの捉える風の見え方だ。


普通にしていれば、それはただの風だった。いや、実際ただの風なのだろう。けれど、一瞬、まるでノイズのように走った異常から、その風圧に黒を感じ始めた。

透明なはずの風が、まるで微かに黒を纏っているように見える。奇妙なその感覚は、視界の不良とともに謎の圧迫感を与えてくる。次の行動に移ろうという思考を、どうしてか阻害してくる。

本当に、邪魔なものをどかそうとするように。


「一応聞かせて、アングレット・エーデルパリィって知ってる?」


そんなとてつもない大嵐の中で、いとも容易くヒューマの問いが魔女たちに届いた。


隣杯(りんはい)の……手駒のこと……?」

「やっぱり、先生が関わってるよね……」


ヒューマの姿が遠のいていく。


「ありがとう。また、会おうね。」


黒い嵐は、それを生み出した術者自身すらをも取り込んで、包み隠して、覆い隠して、その姿をまるでまやかしであったとでもするように溶かしていく。

まるで、都合の悪いものを見えないものとするように、鮮烈すぎるのにも関わらず、その痕跡を残さない黒の背中に、少女たちの歯噛みする声が飛ぶ。


「ッ!ま、待テッ!!」

「ぐっ……」


いっそ晴れやかに、青年の背中は嵐の中に消えていった。

天使は、魔女は。

キョウシュウ・ヒューマの真髄を見ることは、叶わなかった。


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