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Mr.DARKER STRANGE  作者: 事故口帝
??? of the wonderland
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第二次異能大戦 #6『Skeleton of ethics』


三日。リュカとイルフェリータに与えられた、投降のリミットだ。

その三日の間に、投降すれば、リュカとイルフェリータは命を奪われることなく、監視と収容のもと、一生を研究所に幽閉されて死ぬことができた。ああ、それは、なんて不幸だろうか。

それでも、死ぬことよりはましに見える。

だから、リュカ達は選択したのだ。何よりも自分の幸せを優先して、それによって何よりも互いが幸せになる。そんな、奇妙だけれど美しい関係性で、二人は選択したのだ。

最高に幸せな、二人で好きなように生きていく世界を。

始めよう。

別に、示し合わせたわけではない。しかし、彼が動いたのは。彼女が動いたのは。研究所が動いたのは。

全くと言っていい程、同時であった。

『アリス・ヴズルイフの遺産』にて、ぐちゃぐちゃの足元で、リュカとイルフェリータは空を睥睨した。

異能大戦の第一幕に、瞳を向けた。


「異能、解放……ッ!!」


切っても切れない数奇な運命は、異能大戦に想いを馳せる。呆れたような青年の哄笑が、響いていた。



いつだって、雁字搦めだった。

始まりは、まだ物心もついていない、あのいつかの記憶だった。

小さなお友達。といっても、自分も小さかったのだけれど。そんな小さい記憶の中で、一際可愛かった自分は、引く手数多だった。もちろん、まだ保育園生だとかそれくらいの年齢の話だ。それは、友人の数に恵まれる、といった方が正しいだろう。

しかし、それが決して友人に恵まれる、という表現に直結するかというと、そうでもなかった。

きっと、誰もが特別を求めている。それなのに、誰もが特別を得られるわけではない。この世の不条理は、簡単に特別を安売りしない。

自分とだけ遊んでほしいという友人の願いは、大人からすれば可愛らしい嫉妬だったろう。しかし、それに揉まれた少女は、怖がっていた。自分と仲良くしたいはずなのに、どうしてそんなんい怖い顔をするのか、心底意味が分からなかった。

それが嫉妬という感情であると知ったのは、物心のつき始めた小学生の頃の話だった。

好きだった人を取られて怒り狂った友人は、知らず知らずのうちに彼女の想い人を取ってしまった罪過に阿り自分を処した。

昨日の敵は今日の友ともいうが、昨日の友が今日の敵になるという存外貴重な体験を、自分は酷く冷静に受け止めていた。

中学、高校と、着々と八方美人の癖がついて、摩耗によって飛び散る火花の始末にも慣れてきて、燃え広がらない工夫ができるようになって、そうしてやっと、気付いたのだ。

どうしてこんなに、雁字搦めにされているのだろう?

何かの行動に伴うリスクが、他の人とは圧倒的に乖離していた。あんなに活発であった自分は、いつの間に動きを縛られていた?

この糸は誰の物?この手枷は誰が嵌めたの?この足枷に意味はあるの?縛り上げる麻縄は、嬉しくないよ。傷つくなんて、嬉しくないよ。

雁字搦めに捕らわれて、身動きすらも取れなくなって、鋏は、思わぬ所に降ってきた。

「研究所は、貴方を歓迎します。」

歓迎していないような表情で云われた言葉に、萎縮したのを覚えている。しかし、雁字搦めの生活で鍛えた観察眼は、しっかりとその瞳の奥を捉えた。

迎え入れてくれたクールな先輩の奥底に、嬉しさだとか、喜びだとか、そんな感情が浮かんでいるのを、捉えた。

糸を解いて、手枷を外して、足枷を砕いて、麻縄を千切って。そして始まった研究員としての生活で、やはり柵は自分を捉えた。

人間関係の雁字搦めを嫌って、どうして人間関係に飛び込んだのだろうか。どうして、もう大丈夫なんていう理想論に身を任せたのだろうか。

ただただ、自己嫌悪した。まさか、そんなはずはない。そうやって塗り固めた時間は、その分だけ重く自分にのしかかり、跳ねのけることも出来ずに沈んでいった。

異能患者の候補として話が来たのは、そのときだった。

歓迎の色をそのままに、柵に関わってこなかった先輩は、苦々しい表情でその話をしてくれた。きっと、どこまでも自分を慮ってくれたのだろう。

しかし、それでも。この雁字搦めから解放されるなら、と。自分は、異能患者としての道を選んだ。

今、自分を雁字搦めにするのは、戦うための手段だ。決して、自分を縛る枷じゃない。

ああ、十分だ。

耳元で、先輩の声が聞こえる。満足に喋ることすらできなくなった言語中枢が、幸福物質に浸される。

異能が瞬く。


「パラベラム・【全象器】」


雁字搦めの心地よさに、少女は微笑んだ。

異能大戦へと参戦する、アスト・ペクトの宣誓であった。



一瞬だ。

翼を広げる鋼鉄の鳥、そこから放たれた小さな点が、まるで転移でもするかのように、その座標をブラして、暴れながら落ちてくる。

落下傘、またはそれに準ずるマルテュリオンの一切を使うことなく、それは生きるために戦いに来た。

「異能戦闘部隊員、【全象器】アスト・ペクトさん……」

高速機動はテレポートと呼んで差し支えまい。遥か先で、指先程の小ささにしか見えないが、あの小さな転移、もとい高速移動を繰り返されれば、油断に刃を差し込まれれば、一瞬のうちに呑み込まれる可能性もある。そして、作戦が機能しなくなる可能性がある。

小さく、リュカは傍らのイルフェリータの手を握った。


「「異能、解放……ッ!!」」


不可視のエネルギーが、立ち上るように、噴きあがるように、まるで火山のように、圧倒的な実感を伴って吹き荒れる。

風圧となって森林を席巻する暴風たちに構わず、重なった異能詠唱によってそれぞれの力が実態を成した。

片手でイルフェリータを抱き寄せるリュカは、その腕の中の少女から噴き出す蒸気に痛覚を蹂躙され、筋線維一本一本に針を通されるような激痛に空元気の冷や汗をかいた。

痛い痛い痛い痛いイタイイタイ。

だから、力になる。


ふわり、浮き上がった。

イルフェリータを、というよりリュカを、もっと言えば人間を、軽々と追い越す背丈。空中でユラユラと浮遊する中であっても、その脅威的な大きさが見て取れる。

白く、細長い円柱。その先は、空気抵抗を減らすために丸みを帯びており、対極の尾には、物騒なブースターが火を噴いている。

端的に言えば、ミサイル。リュカに言わせれば、異能で作り出した武装。


「死神のッ!力っ……!」


ふわりと、どこからともなく浮かび上がってきたミサイルの数、およそ五発。空中で好き勝手に揺れているそれに、リュカは視線を寄越すことすらせずに命じた。

行け。

ふわりと浮かび上がっていた能天気なそれが、突如命を持ったかのように矛先を定め、多少の時間差はあれどその標的へと進んでいく。

ブースターの圧倒的な推進力に任せて、吹き飛んでいく。片手で指した目標、落下し続けるアスト・ペクトへと、絶対の破壊力、近代武装の真髄を叩き込む。

空気を切る弾丸は、リュカの指示にどこまでも従順に従って落下するアスト・ペクトの周辺にばら撒かれる。

彼女の定まらない座標をまんべんなく破壊し尽くすために、ばら撒かれる。そして、爆ぜる。

轟ッ!!地の底から響き渡るような重低音が大地を揺るがし、距離を喰らい尽くしながらリュカ達にまでその衝撃波を叩きつける。

朝の明るさを塗りつぶして、更に明るい極光を撒き散らして、世界を蹂躙して、轟く。

「痛みを武装に変換する、もう一つの異能の力。」


イルフェリータとともに水面に飛び込んだ時、リュカは知ってしまった。

この世界の、この惨状を生み出した原因。その元凶、原初である力が、自分に宿っていると。それを、知って、己を知って、リュカはある仮説を立てた。

自分に宿っている異能の力は、一つではないのかもしれない。

イルフェリータに証拠なき世迷い事を叩きつけるわけにはいかない。リュカは、脳髄の奥でひりつく記憶の中から、全ての人物の瞳を照らして、そして、現実に目を向けた。

皆、自分より混濁が薄い。

異能を宿した者は、リュカの経験則的には現在百パーセントの確率で瞳に淀んだ黒が流れ込む。

自分自身の濁った瞳もそうだが、イルフェリータの白い瞳の奥の淀みだってそうだ。現在進行形でミサイルをぶちこんだアスト・ペクトも例に漏れず真っ黒な瞳をしている。

しかし、リュカほどではないのだ。

記憶に出てきたダーカーの中でも、リュカが出会ってきた異能患者の中でも、リュカに匹敵する瞳の濃さを持っていたのはたった一人。

天剣礼華だけだ。

もし、異能の数や強さによって瞳の異常が変化するのなら、天剣礼華と同じほどの淀みを有するリュカには、彼女に匹敵するなにかがあるはずだ、と。

そして、その理屈に当てはめたとき、彼女にはそれがあった。異能が、二つあった。

リュカも苦しめられ、しかし所有権を認めさせた黒い霧。そして、イルフェリータの蒸気に焼かれても、まるで溶けるようにして人体を回復させた『超再生』。

もちろん、ほんの少し回復が早い。そんな体質レベルの話ならば、リュカもそれを異能にカウントしなかった。しかし、残念ながら、リュカはその超再生を前に、彼女を殺しきることは無理だと判断したのだ。

それはつまり、異能が異能を認めたということ。

それが、異能であるという証拠。

二つの異能を有した天剣礼華と同じ瞳の濃さを持つリュカ。出来すぎな話ではある。しかし、出来ているのだから駄目ではないだろう。

リュカの二つ目の異能。死神の力、というのも。

おかしくはないだろう。


炸裂するミサイルの波動。彼女を運んできた飛行機は、翼を折られ、その過程すら爆炎に遮られ、やがて細切れにされた鉄くずとして森林に降り注ぐ。アスト・ペクトのいる一帯を爆撃した結果だ。彼女を運んできたそれが生き残れるはずもない。

そして、アスト・ペクトを無力化できるはずもない。


「死ね。」


確かな残像と共に聞こえた声に、リュカは胸に抱いたイルフェリータを弾き飛ばした。

近接戦闘において、彼女を近くで守りながらでは分が悪い。そもそも普通に戦ったとして未知数の相手だ。そこで戦闘から省かれたことに、イルフェリータも文句は言わなかった。

そんな彼女に場違いな安堵をして、おぞましいほどの無表情でリュカは繰り出される掌底に応じた。

この一瞬でリュカのもとへと距離を詰めたアスト・ペクトの掌底に、的確なガードを返した。

「がっ……っあ?」

バキリ、と。肉からなるとは思えないほどに甲高い音が筋肉を引き裂いて、リュカの右手を血まみれの肉塊に変貌させる。

次いで、アスト・ペクトは雁字搦めのホルスターから弾丸をばら撒いた。アスト・ペクト、リュカ含め、空中をバラバラに舞い落ちる弾丸の雨の中、アスト・ペクトは疑問符を浮かべるリュカに向けて吶喊した。

数歩の距離。しかし、ばら撒かれた弾丸が邪魔だ。どうして彼女は、そんな不利を自分に強いた?

「異能……?」

少女の手は、弾丸に触れ、それを溶かすように取り込みながら、一切を呑み込んだ。

そこに異能の気配を感じたリュカと、だからどうした、とでもいうように必殺の間合いに体を滑り込ませたアスト・ペクトの拳が交差する。

ガァンッ!!と、まるで弾丸にでも撃ち抜かれたような音でもって、アスト・ペクトの拳がリュカの鳩尾をぶん殴った。

「ゴっ……ばぁッ!?」

痛みの変換が間に合わない。続くアスト・ペクトの手が、またしても降り注ぐ弾丸を取り込んだ。打ち込まれるのは、弾丸に匹敵する威力の掌底だ。

ガァンッ!!と。続く攻撃は、ばら撒かれた弾丸の雨が降りしきる間は、際限なくコンボを繋ぐことができる。

連打が連打を呼び、一撃一撃が弾丸数発分の威力を振りかざすそれが、アスト・ペクトから幾たびも放たれる。十、二十、三十。四十発、入っただろうか?

数えることも痛々しい出血に、リュカの顔面の半分は血液の仮面に塗られていた。しかし同時に、弾丸が地面に落ち切った。掴み取る弾丸のなくなったアスト・ペクトの拳は、普通の威力と変わらない。イルフェリータよりも弱い。小さな衝撃が、ボロボロの鳩尾に触れた。

反撃は、今。

「異能、解放っ」

痛み。受け取った痛みは、想像以上だ。

アスト・ペクトが現れるまでの時間、ずっと蒸気に焼かれて生み出したミサイルたち。今の一瞬で、あれくらいの武装ならば作り出せそうなくらいの痛みを享受した。

生み出すのなら、なんだ?

流石に、またしてもミサイルで無差別爆撃というわけにはいかない。あれは、空中から現れるであろうアスト・ペクトを、限りなく他を巻き込まないという前提条件の上で狙い撃ったものだ。近くにイルフェリータがいる中で使えるほど万能な手ではない。

もはや惰性のような一辺倒の思考放棄で、リュカは小さな拳銃を生み出した。ハンドガンに分類されるのであろうそれは、銃に対しての経験のないリュカにでもよく馴染む。

生み出したハンドガンをアスト・ペクトに向けた。

この距離なら、外せない。

「っ、」

しかし、弾丸が放たれることはない。

一瞬、見切りをつけて拳銃を捨てる。役目を全うする間もなく解された拳銃は、小さくガラスのようにひび割れて、やがて溶けるように消えた。

不可解な能力の不発に。いや、自分の覚悟の不発に、リュカは思わず飛び退き、歯噛みして己を恥じた。


痛みの残量は無制限に近い。ミサイルのように超威力の武装を作る必要のない今、リュカの選択肢にある武装は基本的にどれくらいでも作り出せそうだ。

一瞥したアスト・ペクトが一度引いたところを見て、リュカは『それ』を口にくわえた。

リュカとアスト・ペクト。ともに引いた今、二人の間にある距離は、リュカの稚拙な弾丸もアスト・ペクトの大振りの衝撃も簡単には当たらないほど遠い。

だから。

「!?」

ばっと手を広げたリュカの腕には、二十個に及ぶであろうグレネードが踊っていた。自由落下に伴って落ちていくそれには、ピンも猶予もありはしない。

引いて攻撃に手をつがえていたアスト・ペクトには、それを防ぐ手段がなかった。細腕をクロスさせて咄嗟のガードを整えるも、そこに大した意味があるとは思えない。

リュカの両手、口元、それぞれにピンと猶予というグレネードの残滓。少年はニッと笑った。

その距離は、必撃だ。


爆発は、一瞬。

音を超越した、もはや超音波の如き高音が、アスト・ペクトの耳朶でかき鳴らされる。鼓膜を引き裂くようなそれに気を取られているうちに、全身を引き裂くような痛みが実体となって少女に襲い掛かる。全身の傷。といっても、それはほんの少し血液が噴出するほどの所謂かすり傷ではない。

それは、たった一つの傷口から蛇口のように赤黒い血液が漏れ出すような重き一撃である。その後をなぞるように高温を伴った爆風が駆け抜けたことで、大量出血によるダメージは限りなく少ない。しかし、爆風によって全身の骨を粉砕するほどの重傷を負ったのも事実。

爆ぜる距離に詰まったのは、アスト・ペクトの座標だ。リュカの身勝手なグレネードのしわ寄せが、些かバイオレンスにアスト・ペクトを弾き飛ばす。

一瞬の悠久に受け取った痛みが、アスト・ペクトの意識に小さく亀裂を植え付ける。広がっていくそれに待ってくれるはずもなく、背後に広がっていた森林に激突した。

柔らかな緑の色とは正反対に、脇腹を砕かれるその痛みは、常に視界に警戒色を走らせるほどに強烈だ。赤い血液に汚されるほど、鮮烈だ。


くぐもった爆発音の充満する中、吹き飛ばされたアスト・ペクトは、背にした木に手をついて絞り出した声に嗚咽を絡ませた。

なんとか立ち上がろうとはするも、その痛みには彼女も感情を吐露せざるを得ない。ただ直立するのみで割れるような痛みに晒される少女は、口から無意識に垂れる唾液を拭って敵を見据えた。

「ごめんなさい。自爆は、痛いじゃないですか?」

ベコベコにへこんだ黒い盾を持った敵を、見据えた。

イルフェリータを守らなければならないリュカにとって、爆発、炸裂系の武装は非常にリスクが高い。イルフェリータがいなければ、今後の戦闘でのもしもの場合の時に対応する術がない。彼女だけは、守り通さなければならない。

だからそうして、分厚くて持ち運ぶことすらできないような使い勝手の悪い盾を、わざわざ痛がって生み出したのだ。

判断は、一瞬だった。もはや人工知能にも引けを取らないのではないのだろうか。それほどまでに感嘆してしまいそうな速度で、アスト・ペクトは缶をあおり、何かの液体を体内へと入れた。

どこか、燃料のような臭いがした。

「うそ……」

アスト・ペクトの靴底、といっても数センチ空けた空に、燃え上がる炎があった。突き刺さる炎があった。

ジェットエンジンのように燃え盛るそれは、細いアスト・ペクトの体を軽々と持ち上げ、空中へと誘った。そして、くるりと身を翻し、意図も容易く火力を増した。まるでミサイルのように、アスト・ペクトが吹き飛ぶ。

しかし、それはグレネードに吹き飛ばされた先ほどとは違う。彼女は、確かな戦略として、自らの意思で舞い、目論見通りにリュカから距離を離すことに成功した。

倒れるように空に逃避したアスト・ペクトの肢体は、しかし血だらけで痛々しい。


リュカたちと到底人力では埋まらないであろう距離をとったアスト・ペクトは、全身から軋む肉体の音に無表情を顰め、雁字搦めから抜き取った注射器のようなものを腕へと突き刺す。

細長い円柱のようなそれは、リュカの見た通り注射器であったようで、ボールペンのような手軽さで押し込まれた水色の液体は、彼女の体に確かに注ぎ込まれた。

研究所の技術ならば、瞬時に回復にまわせるエネルギーを作り出していても不思議ではない。新手の傷薬のようなものだろうと判断したリュカに、アスト・ペクトは冷酷にも言い放った。

「死ね。」

たった数ミリ。もし、リュカが痛みにたたらを踏まなかったら、もし、標的がイルフェリータであったら。

見ることすらできなかった水色のレーザーは、容易に二人に風穴を開けていただろう。それこそ、目前で蒸発した盾のように。

「は……?」

空から突如飛来したそれは、まるで隕石のような速度でリュカの頬を掠め、未解析の物質は破壊力を撒き散らし、彼の背後にて炸裂した。些か呆気なさすぎる風切り音で、地から響き渡るような轟音を響き渡らせて。

がしかし、残念なことに。それは宇宙から飛来した位置エネルギーの塊でも、解析不能な不可解な岩石でもない。それは、紛れもない攻撃だ。悪意を持って放たれて、衝撃でもってリュカたちを殺そうと放たれた、攻撃だ。

偶然では済まされない、手段なのである。

「ねえ。」

「はい……やはり相手も甘くない。研究所の敵なんですから当然かもですが。」

次弾の装填に、また先ほどのように注射器の予備動作が必要だとしたら、二撃目の光線が今すぐに飛んでくるという事態にはならない筈だ。というより、予備動作なしにあれほどの力があったとしたら、既にリュカ達に命はなかっただろう。

リュカのグレネードに追い詰められた末に出た、本能のような一撃。それが、あの切り札的なものだったのだとしたら。

あれには、相応のリスクが存在する。それこそ、追い詰められたときにしか出したくないほどの。

それが、自身の体への影響であれ、予備動作に必要な怠慢な隙であれ、切り詰められるほど小さくないというのも事実。もちろん、それが脅威にならない、と楽観できないのも事実だ。

空に浮かび、こちらの出方を窺うように止まるアスト・ペクト。単純なる痛みの影響か、何かしらの理由があるのかはわからないが、高所の有利を取られてしまっている状況はあまりよろしいとはいえない。

「作戦は、やらないとダメみたいです。」

困ったように笑うリュカと対照的に、それを向けられたイルフェリータの表情は芳しくない。不満そうに、それでいて不安そうに。泣きそうな瞳に未練をためながらも、覚悟に噛み締めた歯根はゆるぎない。少女のその些か歪な覚悟の表情は、きっと自分を通したリュカへの心配だ。

だから、リュカのその言葉に素直に応じられない。しかし、そんな生き方こそが正しいと、イルフェリータはそう主張したのだから。叫んだのだから。

自分勝手に命を懸けるリュカと、自分勝手にそれを心配するイルフェリータと。

自分勝手な心配と、自分勝手な覚悟と、自分勝手な嬉しさに表情は濡れて、少女は少年に託すのだ。その楔を突き刺すのだ。

「隙を見て、『アリス』に向かう。」

「はい。」

決断の言葉をイルフェリータに譲ったリュカは、分かっていた選択に嬉しそうに応じた。それは、自身を偽らない。自分勝手な願望を語るイルフェリータが、リュカを信じた。リュカに託して、幸せを掴み取ることを許容したということだ。

リュカを、信じたということだ。

思わず零れた場違いな笑みをパンと叩いて、そんなリュカに、イルフェリータは後ろから少年の背を指した。すっ、とあてられた指先の感触に驚きつつも、リュカはなんですか?と言わんばかりに瞳を閉じた。

「絶対に、忘れるなよ……」

「はい。」

拗ねたようにねだるイルフェリータの言葉に頷いて、つままれた背の感触に微笑んで。


「アタシは、絶対に幸せになる。」


どこまでもわかりにくい、「信じてる。」という言葉を、伝えたのだ。

リュカはアスト・ペクトに、イルフェリータはアリスに。互いに背を向けて、走り出した。手向けた互いへのエゴは、どこまでも強固に繋がって。いつしか、その始まりを蝕んでいくだろう。愛を、育んでいくだろう。

血生臭い一時の別れに互いを託して、倫理は、崩壊を始めた。



痛みというのは、所詮人体の生み出「痛い」す危険信号だ。それ「痛い」を馬鹿正直に「痛い」震えあがって行動「痛い」を阻害されることな「痛い」ど、愚の骨頂。万死に値する。

それ「痛い」は所謂、警告「痛い」音であるのだ。警告音は、それを受け「痛い」取って反映するための概念。その警告音をただ恐れるだけ「痛い」恐れて泣きじゃくることが、どれほど無価「痛い」値で無意味なものか、彼女「痛い」は知っていた。


「い、たいよぉ……」


確かに、知っていたのだ。

愕然と、アスト・ペクトが肩を落とした。

空中で己を確定するアスト・ペクトからは、今もなお血液が滴り落ちており、関節はどこか不格好にひずんでいる。ほんの一合の打ち合いで、リュカもアスト・ペクトもそこまでの重傷を負った。それこそ一重に、互いが異能を用いるが故の、規格外の戦闘の結果だった。

『アスト・ペクトさん、今回の戦闘限界は、貴方に一任されています。』

嗚咽に痛みを掻き抱くアスト・ペクトの耳元で、小さく凛とした声が聞こえた。

それは、研究所NO.2。オルガノン部署を統括する、かつての先輩であるビリー・ブー=オルガノン。今回の作戦において、自らオペレータの役割を担った、苦労性の常識人だ。

彼女の強引な進言によって、戦闘限界、帰還の意思はアスト・ペクト本人の意思に帰着する。どこまでも身内に優しい、どこか笑みのこぼれてしまいそうなビリーの言葉。

しかし残念なことに、彼女が振りまく冷たい雰囲気のせいで、普通の人は気付かない。

どれだけビリーという人間が、日々を慮っているのかを。

『貴方が限界だと感じたら、生命の危機を感じたら、こちらからもオルガノンの決死隊を送りますし、逃亡してもらって構いま』

「パラベラム・【全象器】」

ビリーの案じる声さえも、今だけは、無視をした。


あれほど欲していた自分を案じてくれる声を遮って、アスト・ペクトはまたしてもその異能のトリガーを引き絞る。それが、どれほどの苦痛を彼女に強いるのか、どれだけの痛みを生み出すのか、知っていながら、身をもって感じていながら、アスト・ペクトは、目を見開いた。

眼前に立ちふさがる脅威に、真っ向から、立ち向かった。

『アスト・ペクトさん!?……ッ、貴方は、まだ調整もままならない異能患者です。ここで負けたとしても、なにもおかしくないっ。誰も、貴方を責めないっ!』

戦闘服の奥で誰かが、話しているような気がする。

(私が耳を傾けたくなるのは、あの人だけ、なんだけど。)

だから、それを誰かだと断定するのに苦労して、話しているような気がする、と気がするのにも苦労して。ほんの少し、笑みを見せる余裕ができた。

他の人が冷静でないと、自分が少し冷静になれるというのは、存外本当だったようだ。自分を案じてくれるビリーの動揺具合に、思わずアスト・ペクトは自分の心に温かいものが芽生えるのを感じた。どちらかといえば、それは冷静になるというより、正反対の奮起だったのかもしれない。

湿っぽい、激烈な起爆剤だったのかもしれない。

なんて言っているのか、分からない。そう自分に言い聞かせて、どうしようもなく嬉しくて、そして、アスト・ペクトはどこまでも穏やかな表情で、晴れやかな表情で、眼前、脅威に奮起した。

「死ね。」


(他の誰が責めなくても、私が、責めるんですよ。ビリー先輩。)


切ろうとしていた無線に伸ばした手を止めた自分に苦笑して、どこまでも悲しそうな声を聞いて、どこまでも嬉しくなる。

こんなに優しい言葉を断ち切るなんて、弱い自分には無理だ。今は、無視をすることで精いっぱい。だから。

行動で、その心配に報いるしかない。


表情にも、言葉にも出ることはないけれど。確かな感情は、ずっとアスト・ペクトの胸に蟠って。いや、留まって、どんな困難でも、立ち向かう勇気をくれるだろう。

だから、あなたのためになりたい。研究所のためになりたい。世界のためになりたい。

勝ちたい。生きたい。戦いたい。

その確かなる意思を以て、言葉を失ったアスト・ペクトは、しかし誰よりも強い言葉で、案じる声に叫び返す。巡る血液に叱咤をかける。言葉をかける。命を懸ける。


もしものため、と言い訳をして持ってきていた瓶を、ホルスターから取り出した。それは、自身への希望を捨てたアスト・ペクトの、ビリーを蔑ろにする、自身を鑑みない力だった。

アブデオドa.q.とバイトキシン。何を隠そうビリーの両親が開発した、オルガノン研究所の革命。

アスト・ペクトはそれを愛おしそうに抱いて、瓶の粉末と液体を一思いに取り込んだ。

ビリーがどこまでも心配してくれた。その不可解な事象に、自身すら葬る砲撃の威力に、苦言を呈した。

勝つための方法だったはずだ。いや、自分なんてどうでもいい。そんな確率重視の切り札だったはずだ。しかし、ビリーの声を聞いた今は、そうじゃない。

彼女のために、ビリーのために、勝ちたい。そんな、感情重視のエゴだった。


「円子原粒砲、『フィロソフィア』。」


愛すべき先輩に、憧れし先輩の技の名前を受け継いで、自分の腕さえも、自分さえも吹き飛ばす圧倒的な破壊力を手に、アスト・ペクトはそれが自分の最後の一撃だと確信する。

(これが駄目なら、私はダメな子だよ。)

君はダメな子じゃない。そうやって甘やかされて、そう思われたくて、雁字搦めに捕らわれてきた少女は、今日、この時だけはダメな子でありたくなかった。

決意を共に、眼前の光景は絶望だった。しかし、負けてやるつもりはない。

かつての実験で失った片腕が、疼いていた。それは、またしても使い潰されるのかという悲観だったろうか?きっと否だ。

それはきっと、今度は使ってくれるのか。そんな喜びを孕んだ、感情の胎動であったのであろう。



「研究所っていうのは、どんなところなんですか?」


眼前で冷たい表情を宿した少年は、掻き抱いていた少女と別れてからというもの、その瞳に隙というものを見せてくれない。

それは、彼が気を許している少女がいたから生まれていたもので、決して敵に向けた隙でなかったと実感させられる。それは、唯の少女にのみ向けられた、純粋無垢な好意だ。

冷たい目、底冷えする声、怖い。怖い。そうだ。

いつだって、自分が雁字搦めの最底辺で聞いていたのは、そんな声たちだった。自分たちさえよければそれでよくて、自分たちのために人を縛るおぞましい声。

そうやって塗り固められた硬くて冷たい声が、質問なんていう意思を見せてきたことに、アスト・ペクトは無表情ながらに驚いた。

「っ……っ……っ!!」

パクパクと口を開閉して、発声しようとする少女の耳元で、歯噛みするビリーの声が聞こえた。

アスト・ペクトには、言語を司る器官への異常が確認されている。明確な情報ではストレス性の発声障害とされているも、文字を書くことも出来ず、読むのにも時間を要する様を見ていれば、問題があるのが発声だけでないのは簡単に理解できた。

研究所の中での明確な情報の最高峰は、所長の作成した資料だ。それを鑑みるのなら、研究所内でどれほど大っぴらに大嘘をかましたとしても、所長をもってすればそれが真実になる。

と、まあ簡単に言えば、アスト・ペクトには説明なんて言う高等テクニックは披露することができないのだ。

「……そうですか……。」

なにも語ることのできなかったアスト・ペクトに、少年はなぜか納得したように頷いて、自分勝手に会話を閉ざした。

小さな開けた丘の上、中空で見下ろすアスト・ペクトを見上げながら、少年は貫徹した無表情で思考に入った。しかし、それも一瞬。ボロボロの体で、無謀にもアスト・ペクトに宣言した。

「異能、解放。」

背を丸めた少年から、黒煙が噴出した。突き刺すように伸びるそれは、翼のように一対の矛となり、空へと羽撃きながら黒を立ち上らせた。

『っ……解析可能。コードネーム【天死体】、天剣礼華さんの原罪の露呈です。触れないようにしてください。』

既視感の正体。記憶を探る、過去を手繰るという行為に恐れを抱くアスト・ペクトであっても、容易に思い出せる。異能患者、天剣礼華。たった一人であるのにもかかわらず二つの異能の受け皿となり、その異能に呑まれることなく刃となった元世界トップレベルのプロゲーマー。

刀を使った戦闘スタイルから呼ばれた二つ名は『サムライ・ワン』。至極単純で馬鹿正直なそれは、それ故に世界中に広がり、一世を風靡した。

ダーカーストレンジの災害によって崩壊したオンラインゲームの繋がりによって死亡が噂されるが、今となってはそんな異能を宿した立派な研究所職員だ。

紆余曲折の人生をひた走る天剣礼華の戦いぶりは、そんなオンラインゲーム時代に知っていた。

まだ学生であったアスト・ペクトは、雁字搦めの友人に連れられて一度だけその試合に顔を出した。

疑似仮想機体によって感覚をリンクさせたアバターが、リアルタイムで戦う対戦ゲーム。数万人の観客を前にして堂々とステージに現れた天剣礼華の戦いぶり。それは、アスト・ペクトに立ち込めていた暗雲に、一差しの光をなぞるように、鮮烈だったのだ。

そんなゲーマー時代の彼女『サムライ・ワン』と、現在、異能患者となった天剣礼華の戦闘スタイルは、ほとんど遜色がない。自分の体で戦うようになった分、そのキレが増したくらいだ。

そんな根っからの戦闘狂である天剣礼華の、原罪の露呈。

彼女の発する黒い霧に体を蝕まれたものは、そのうちにひた隠した消し去ることのできない根幹の罪を露呈しなければならない。

天剣礼華の黒い霧は、意図も容易く原罪を匿う罪人を溶かし、内の原罪の露呈として全身を壊死させようとする。継続的に蝕まれ続けなければ回復はしていくが、戦闘中に効果範囲の広いそれに警戒をし続けないといけないというのは、十分すぎる脅威である。

そんな力を翼として顕現する少年に、驚きはあれど不安はない。それは、確かに驚異的な力だ。しかし、それは確かに本物の動きには及ばないし、戦闘の心得のない彼には荷が重い。

その上、その黒煙の効果は、使用者である少年すら蝕むことになる。

それに。

彼女の最大火力。自身すら喰らう円子原粒砲、『フィロソフィア』ならば。そんな煙など、ただの空気の混濁に過ぎない。

『……違う……?』

それがもし、元来の用途通りに使われたのなら。

『どうして、向かってこない……?』

ぽつり、思わずといったように呟いたビリーの声。無意識の配慮だろうか。無線越しの遠い声で聞こえたそれが、なによりも。アスト・ペクトが動いた理由だった。

「ッ!!!」

ボ、バ。と、時間軸を寸断しながら、その一コマ一コマの合間に破壊力の爆炎を差し込んできたのは。紛れもない、無表情の少年だった。

見れば、黒煙がわだかまった地面には、既に少年の姿はない。彼が現れたのは、遥か高く伸ばされた黒煙の中。原罪の露呈を強制される、地獄のような道の中。そのなにもない空中で、唯一姿を隠すことのできる、思考外の強襲。

彼が伸ばした原罪の露呈に、自身の体を顧みずに飛び込んで、アスト・ペクトどころかビリーにすら悟られないように攻撃を望む。

空中に居るアスト・ペクトへと容易に手を伸ばし、彼はなんの変哲もないグレネードを放って、自由落下という必然の退避までしてみせた。

ビリーの呟きによってそれをすんでのところで回避したアスト・ペクトは、自身のわずか上空で破裂したそれの残骸に降られ、油断ならない視線で自身を睥睨する少年に視線を返した。

純然たる脚力。そして、特異たる異能。原罪に内から壊される少年は、ボロボロにひび割れた体から緑の輝きを漏らして森林の緑に溶ける。

身を翻し、繊細な火力操作によって空中で砲台の転換を行うアスト・ペクト。円子原粒理論によって確立された超威力の爆撃は、その意図とは違う結果ながら彼女の手を、たった一発で街を吹き飛ばす超威力の砲台へと変貌させている。

少年の消えた森林にそれが向けられた時点で、アスト・ペクトの勝利は目前に迫っていた。そこで、アスト・ペクトが反動に耐え、汚染物質に耐え、ビリーの救援に救われれば、彼女の勝ちだ。

だから、あと一発。その一発だけを叩き込めば。

「ぇ……?」

ガクリ、と。突如揺れた視界に、動かすことがやっとだった体が空中で派手に踊ったことによる激痛。どことも知らない骨が、何の役割があるのかもわからない内臓に突き刺さる感覚。

急いで体制を整え、骨のご機嫌を取れば、なんとか追加の激痛はま逃れたようで、心底安心し、視界の赤に呆気にとられるのだ。

緑の中、黒煙の残滓が覗いた。

「ライフルは撃てるのか……」

炎に立つアスト・ペクトは、視界の不良を拭って、その声の主へとバッと視線を向けた。

長い砲身を湛えるスナイパーライフルを持つ、少年を見た。

『彼は、あんな銃器を……持っていましたか……?』

無線越しのビリーの声。アスト・ペクトの視界を通じて共有された驚愕に、伝わらないことはわかっていながらも少女は首肯で応じた。

思えば、少年は時たま、不可解な挙動を見せることがあった。

グレネードくらいならば、服に仕込んでおけないこともないだろう。アスト・ペクトの光線を受けた時の盾も、彼らが待ち受けていた場所なのだから、用意してあっても可笑しくないと勝手に誤解していた。

どうしてその違和感に目が向かなかった。警戒できなかった?

警戒はしていたにはしていたのだろう。というより、過剰過ぎるほどにしていたのだろう。だからこそ、大きすぎる原初への警戒故に、アスト・ペクトも、ビリーも、小さな不可解への警戒が麻痺していた。それに気付いたのは、今だ。今、こうして、警戒に踊らされたことを知った。

彼女らがその違和感に気付けたのは、小さくて済んだ警戒が、既に彼女たちが感じられるほどに大きくなってしまったからだ。

その力が、確かに研究所に、手を伸ばしたからだ。

「ッ……」

『撃ったら駄目ですッ!貴方の体が!』

「ッッ!!!」

瞬間。勝負を急くのは、当然の行動だっただろう。しかし、ビリーにそれは許容できない。振り払おうとした。振り払ったはずだった。

けれど、自分にしか向けられていない、全身全霊の感情は、どこまでも。

嬉しかったのだ。

だから、ほんの少し、止まってしまった。トリガーを、躊躇ってしまった。

「ああ、装填は、一撃ずつしかできないんですね。」

再び、視界が揺れた。

今度は、確かに少年を見ていた。絶対に見放さないように。その緑に紛れたとしても見つけられるほどに、穴が開くほどに、焦がれるように、見つめていた。監視していた。

それなのに、アスト・ペクトはその思わぬ衝撃に視界を揺らした。

意識の死角を突いた少年は、次いで自我の隙間に声を差し込んだ。

「だから、弾丸もばら撒いた。」

少年との一合。

アスト・ペクトは、弾丸をばら撒き、それを掴みながら順次装填することによって、衝撃的なラッシュを可能にしていた。

しかし、少年が言った通りだ。それは、彼女の圧倒的な反射神経と、異能による破壊力があってこそできる芸当。最悪、しなくてもいい行動。

どうしてそれをしたのか。どうしてそんな不利に働いたのか。

「取り込んだ触媒を、一撃にして放つ能力。」

「……、」

驚くことすら、答えだ。静かに黙り込んだアスト・ペクトは、感情のない瞳で少年を見据え、何も言わないことすら、反応を示さないことですら答えであるということに気付いた。

少年が、それを確信していると、分かってしまった。

少年の言う通り、アスト・ペクトの能力は、どんな道具にも成り変わる、全能の力。ビリーの万能の力とは打って変わって、どんな道具にでも成り変わってしまうというジョブキラーである彼女は、そこに触媒を必要とする。

弾丸を取り込めば、銃撃を、燃料を取り込めば、推進力を、薬品を取り込めば、薬品効果を。

彼女は、銃にもなれる。ジェットエンジンにもなれる。注射器にもなれる。

本当に、全能の力であるのだ。

がしかし、その能力はそれだけではない。その真髄は、触媒を『一撃の攻撃』へと収束させるということだ。

彼女が今装填した、円子原粒砲『フィロソフィア』がいい例だ。『フィロソフィア』は、単体の触媒ではなく、二つの触媒を体の中で化合させ、それを一撃に収束させるという異能の力に頼り切ったもの。異能を最大限に生かしたもの。

そして、取り込んだものを全てを一撃にしてしまうため、連射ができない。少年に見抜かれた、この能力最大の真髄にして、最大の弱点だ。

「撃たないと、次の攻撃は装填できない。けど、軽々しくも撃てない。そんなところですか?」

ガチャリとライフルを捨て、光の破片に還るそれを目端で捉え、少年は右腕で地面を指さした。

まるで、最初からそこにあったように。すぅっ、と浮いた巨躯が、少年へと影を落とした。完全にアスト・ペクトの図星を突いた少年は、生み出したミサイルの矛先を、自然な動きで少女に合わせた。アスト・ペクトへと、定めた。

一発のそれは、『フィロソフィア』とは比較にならないほど小さな破壊力だろう。しかし、満身創痍に近い状態のアスト・ペクトと比較すれば、それが保有する破壊力は大きすぎる。

放たれれば、アスト・ペクトに阻む術はない。

「行け。」

無情なミサイルの矛先は、寸分たがわずアスト・ペクトを狙う。最初こそ遅いその速度も、やがてエンジンの馬力によって加速する。

もはや、それが放たれた段階で、アスト・ペクトが『フィロソフィア』を撃つという選択肢はなくなった。異能を介しているとはいえ、その異能も使用者の脳を使って効果を生み出している。処理速度にはある程度の限界がある。

研究部の職員であったアスト・ペクトの処理能力でも、そこから化合物を破壊力に昇華し撃ちだせるほど、異能に慣れていない。

迫るミサイルは、あと数十mでアスト・ペクトを爆散させるだろう。決着の一撃だ。

そう。

少年にとっては。


「パラベラム・【全象器】」


伸ばした掌から放たれた液体。それは、行き場を失ってアスト・ペクトの手から流れ落ち、やがて空中から地面へと落ちていく。ポタポタと滴る雫を振りほどいて、迫る巨大な弾丸に、その華奢な指先を手向けた。

人差し指で示して、中指で握った炸裂弾を取り込んだ。

「は、」

キラリ、まるで流れ星のように輝いた力が、アスト・ペクトの指先を介して放たれる。加速しきっていない規格外の巨大な弾丸へ、寸分たがわず撃ち据える。

異能によって純然たる破壊力として放たれたそれは、炸裂弾という命題を全うして炸裂し、アスト・ペクトに届くまでに、ミサイルの進撃に爆炎の最期を手向けた。

風圧と微かな火傷に顔を顰め、アスト・ペクトは内心で息を吐いた。

『水を取り込んで、アブデオドa.q.とバイトキシンの化合に不純物を紛れ込ませた……』

ほっとしたように言った無線越しのビリーにまたしても伝わらない首肯を返すアスト・ペクト。彼女のしたことは、ビリーの言葉で補完される。

全てを一撃とする。その弱点によって生み出された詰みの局面を、弱点によって克服した、というのはまた本末転倒な話ではあるが、化合の不活性化が可能という研究データも得られたのだ。研究所としても、それは悪くない判断だったろう。

アブデオドa.q.とバイトキシンの両者が、決まった分量によって発生する超火力の砲撃。それをなかったことにするために、アスト・ペクトは水を取り込んだ。飲料用にホルスターにつるしていた水を取り込んだことで、それもまた一撃の構成要素となる。分量を乱されたアブデオドa.q.とバイトキシンは、円子原粒理論の対象から外れ、無事ただの科学物質の放出へとなったのだ。

しかし、それを説明してやるほどアスト・ペクトも戦力過多というわけではない。というより、そんな言語機能が彼女にはない。

誰に言い訳したのか納得をつけ、アスト・ペクトはホルスターからジャラジャラと弾丸の羅列を取り出した。

まるで楽譜のようにアスト・ペクトの周りに張り巡らされた火薬の音符たちは、その始まりをアスト・ペクトの手中に収め、たわみながら空を踊った。

そして、銃撃が、嵐となって吹き荒れる。

重苦しい発砲音と、その連続によってかき鳴らされる銃撃の旋律。遥か上空から放たれる銃弾の雨は、容赦なく森林へと突き刺さり、破裂する木々を更にへし折りながら、緑に破壊を叩き込む。

弾丸の連なる楽譜を、撃った瞬間に取り込み、ガトリングガンそのままの原理で呑み込んでいく。そして、同時、弾丸が続く限り、楽譜がある限り、演奏は終わらない。暴虐は、止まらない。土塊を弾き飛ばし、時たま炸裂する弾丸たちは充分な破壊力で少年を蹂躙する。

銃身の冷却は、アスト・ペクトに限っては必要ではない。彼女は、決して火薬の勢いで弾丸を飛ばしているのではないからだ。炸裂の衝撃で銃を成しているわけではないからだ。

彼女はただ、銃撃の嵐を生み出す銃。それを、その身に宿しているだけだ。

自分の空想に、どうして現実的なリスクが伴う?

だからそれは、際限なく暴れ続ける弾丸の嵐だ。

「おがっ!?ッッッッッッ」

縦横無尽に駆け回る弾丸の軌跡は、やがて少年すらも捉え、その脚力に任せて回避を図る少年にも激烈な銃創を幾重にも打ち込んでいく。

肉に突き刺さり、弾け飛ぶ弾丸は、その血肉を撒き散らしながら少年の絶対的な痛覚に訴えかけ、止まらない連鎖に再び上から弾丸を撃ちおろしていく。

頭から足下まで、全身を弾丸に侵された少年は、脚力に任せて飛び上がろうとした脚すらも弾丸に撃ち抜かれ、その威力に押されて上昇へのエネルギーを相殺される。

そんな少年の奮闘も無意味で、撃ち続けられる弾丸は際限なく少年へと叩き込まれる。

そして、弾丸のストックがなくなった頃。

そこには、もはや見ることすら躊躇うような肉の切れ端が転がっていた。

全身を撃ち抜かれたそれは、まるで切り開いたように内臓を取りこぼし、抉り取られた肉は弾け飛んで散乱している。おびただしい量の血液も、撃たれ続けたことによって霧散していき、霧のように立ち込めて木々の緑に赤を塗る。

弾丸の振動に順応した手がどこか寂しくなるのを感じながら、アスト・ペクトは無意識に小さな笑みを浮かべた。自分は、初めて、誰かの役に立てた。

違う。なりたい自分になれた。なりたくなかった自分から、解き放たれた。

今、その無線の向こうでこちらを案じてくれているビリーに、感謝を伝えられた。

ただそれが、アスト・ペクトの言葉なき完遂が、何より、少女を震わせた。



どうしても、イルフェリータに任せられない役目があった。

彼女の蒸気は、効率的にリュカに痛みをもたらしてくれる。

しっかりと痛いけれど、死ぬことはないし、なにより、イルフェリータがリュカを傷つけているという意識をあまり持たずにいられるというのが一番の利点だ。どこまでも彼女に傷ついて欲しくないというエゴで、リュカは痛みを武装とした。

戦場で共に戦うことで、信頼を返した。

しかし、どんなに睨まれても、どんなに殴られても、リュカは絶対に譲れない役目があった。


記憶が、こんな時に限って暴れ出す。

ぐちゃぐちゃのぐずぐずにはち切れ、八つ裂きにされた体。もはやどれが痛覚なのか、どれが触覚なのかわからない。そこに、激痛という概念すら、存在していなかった。

そんな些か寂しい操作スロットのせいだろうか。そこに、記憶という部外者が入り込んできたのは。

「そう……いえば…………」

小さく、掠れて、消えてしまいそうな声で、リュカは想起したそれに眉を顰めた。

辛うじて顔の体裁を保っている表情を、苦悶とはまた違う、諦めたような感情で満たした。

そういえば。

「あの人は、……誰にも負けてなかったな……」

記憶の主。リュカの中で、リュカならざる意思を介在させる何者か。その記憶では、彼は負けたことがなかった。

リュカが見た記憶の中で、精神的に追い詰められたり、攻撃を受けたことくらいはあった。しかし、彼はただの一度も、こうして圧倒的な力の前に倒れたことがなかった。

あったとするならば、それは血みどろの記憶。仰向けに倒された自分に馬乗りになる、レインコートを羽織った女の子。しかし結局あの時も、その記憶は勝利を示していた。続く下からの拳で、可愛らしい敵を排除していた。

誰にも負けなかったその人が、あんな絶望の中で死んだのだとしたら。

救いたかった女の子を救えずに、人類さえも巻き込んで、世界すら滅ぼして。あれほどの強さを以てしても、希望を見られなかったのだとしたら。

こうして立ちはだかった初めての壁に足踏みしている自分が、たどり着けるはずがないな、と。

どうして、マイナス思考というものは蓄積していくのだろうか。

幸せも笑みも喜びも、浮かんでは消えてなくなっていくのに、このマイナスの感情という厄介な存在は、まるで刻み付けるように心の下の方に沈殿していき、いつか取り払われる幸福の時まで我が物顔で住まい続ける。

たとえ幸福に取り除かれたとしても、またしてもそれに住みつかれれば意味はない。本当に、疫病神のような存在だ。

またしても、そんなマイナス思考が胸中を満たした。

重い。心臓の鼓動が、ここまで煩わしく感じたことはない。

ああ、これが、最後なのだとしたら。

「せ、……めて、……イルだけ、は」

【僕がこんなことを言うのもおかしいかもしれないけど、君は諦めるのが早いよ。】

視界が、ブレた。黒く噴出する何かが、散乱する肉片を弾き飛ばして、ダクダクと流れ、こぼれる血液を噴いた。リュカが生み出した黒い霧ではない。そんな、生易しいものじゃない。

それはもっと鮮烈で、黒であったのに、黒以外の色がいくらでも見えて、まるで無限の世界に捕らわれたような際限のない色が見えて。

そして、それがただの黒だと、深い深い黒だと、なによりも知っているのだ。


「ぇ……?」


おかしい。

声が聞こえた。聞こえてはいけないような声が聞こえた。

黒の何かに覆われて、上空から睥睨していたアスト・ペクトの姿すら見えなくなって、そして、リュカはあってはならないそれに思わず瞳を剥いた。

自分と空気の境界が曖昧な体を引き摺って、這いずるようにして起き上がる。抉り、引きちぎられた木の幹を背にして、黒の何かに囲まれて、声を問うた。

もし。もし、リュカの聞き間違いでないのなら。その声は、その優し気な口調は、そのどうしようもないほどに不幸な声は。

リュカの中の記憶の、その主の声では、無いだろうか。

【ダーカーでも、最後まで頑張ってみるものだよ。僕みたいに上手く行かなくても。】

声は聞こえているのに、姿が見えない。

しかし、その声が言っていることが、まるで沁みるように分かった。思わず首をブンブンと振って頷きたくなるほどに、その言葉を待ちわびた。

【これは、僕のエゴなんだけどさ。】

黒が、一層深く立ち上った気がした。


【好きな女は、絶対に離したらダメだぜ。】

「っ……ぉ、……」

【遠慮なんてしなくていい。だから、】


パッと空いた黒が、その残滓すら残さずに消え去った。


【君は、幸せになるんだ。そのための、痕跡だよ。】


白愛の少女が、酷く恋しかった。ボロボロの体で、閉ざした瞳に水分を充填し、信じられないという眼差しで見る。視る。みる。

ああ、そうか。そんな納得が、小さく胸中を満たした。

いつの間にか、景色が変わっていた。先ほどまでの惨劇の森林ではない。晴れた空がよく映える、高い高い、雲の上。

そして何より、彼女が居る。

「り、リュカ……っ!」

いつもの勝気な態度とは正反対に、酷く心配そうに涙ぐんだイルフェリータに、思わずリュカは笑ってしまったのだった。



ひとしきりお説教を受けて、リュカはボロボロのグロテスクな身体に包帯を巻いて応急措置とした。

普通なら死んでいてもおかしくはなかったが、本当に誤差の範囲ではあるが治癒していた傷のお陰で、リュカの状態は何とか致命傷で済んでいた。といっても致命傷だ。このまま単身アスト・ペクトに乗り込んでも、また銃弾サンドバッグのお仕事が待っているだけだろう。

知ってか知らずかリュカを逆転のチャンスであるこのイルフェリータのもとへと導いたあの声は、そんな状況の中のとてつもない幸運といえた。

「結局、どうやってここに来たんだ?」

そう問われても、リュカとしても詳しい原理はわからない。しかし。

「いつか、越えますよ。あの背中を。だから、その時に。」

それが追うべき背中で、それが越えるべき背中で、それが支えるべき背中であると、リュカはどこまでも感じ取ったのだ。

だから、釈然としないイルフェリータに困ったように微笑んで、リュカはそっと立ち上がった。ふらついた体を支えてくれるイルフェリータに感謝して、自分が立つその光景に感嘆した。

晴れ渡る空と、激闘の余韻の残る木々の残骸。そして、流れる大河と切り立った崖。しかし、今ばかりは。その全貌を眺めている。

大河に目を凝らすのではなく、崖を見上げるのではなく、木々をかき分けるのではなく。今、こうして、見下ろしている。眺めているのだ。

膨大な森林と巨大な大河に立つ、ぐちゃぐちゃの巨人。

大災厄。ダーカーストレンジ、『アリス・ヴズルイフの遺産』に、リュカは立っていた。

「結局、あの日はいけなかったから、初めてです。ここに来るのは。」

リュカが景色を見下ろしたそこは、巨人の胸元付近だろうか?辛うじて人型であるのがわかる。ぐちゃぐちゃの巨人はそれくらいの曖昧な造形だ。正確にそこが人の部位に当てはめたときにどこであるかはわからないが、広がっている膨大なそこから眺める空は、いつもより簡単に手が伸ばせて、些か親近感が沸いた。

あの日。『アリス』の力にあやかろうと出発し、研究所の襲撃を受けたあの日。リュカの火傷の具合を見逃せなかったイルフェリータが、即刻行軍を中止して帰還することを決めたのだ。食糧的にもそこまで逼迫していたわけではなかったため、今日まで不自由なく生活することはできたが、この場所にこれなかったということは、どこかリュカの心にしこりを残していた。

「ねえ。本当に、やるのか……?」

と、そんな後悔をひとりでに解決したリュカは、晴れやかな表情で包帯の結び目を更にきつく締めた。

しかし、不安に駆られたイルフェリータの追及は、傷だらけのリュカに配慮しない。どこまでも彼の理性を危うく溶かして、どこまでも彼の人格に向き合って、どこまでもその目を突き合わせて。イルフェリータは、本当に最後に、その是非を問うた。

「相手が、思っていた以上の力を持っていました。なにか、危ないモノを隠し持ってると思うんです。」

実際にアスト・ペクトと戦ってきた。アスト・ペクトから重傷を賜ったリュカだからこそ、わかることもある。戦闘だとか戦争だとか大戦だとか、人生すらなにもかもが素人なリュカが、それでもアスト・ペクトから感じ取ったのだ。

あれは、誰かのために命を懸ける人間の瞳だ。

淀み切っていても、濁っていても、そこにたった一片の光が差していなかったとしても。どんな瞳をしているのか見ることはできるし、瞳から教えることも出来るのだ。

「これ以上、ボクたちには手札がありません。だから、ボクの我儘に付き合ってくれませんか?」

「……どうせ、するんだろ。」

「ごめんなさい。」

ふてくされるように顔を背けたイルフェリータに、幸せそうに謝罪するリュカ。それでも支える手に力を込め続けてくれるのは、きっと、彼女なりの了承の印なのだろうか。

都合のいいように受け取って、リュカはイルフェリータの支えを受けながら歩き出した。

その歩みを止めない。というより、案内するように、導くように支えてくれるイルフェリータには、全く頭が上がらない。

小さく、リュカは思考した。

ボクは、ボクだ。


三日後の旅行が楽しみだ。そんな感情を所有していたとしよう。

自分は、その三日後への期待を胸に、それをモチベーションとして生活を育んで、辛いことも乗り越えて、眠りに就こうとしていた。そんな時に、ふと考えたとしよう。

果たして、こうして三日後の旅行を楽しみにしている自分と、いざ三日後の旅行をしている自分は、同じ自分なのだろうか、と。

もちろん、突然自分が他の人間に成り変わるなんて超常現象に不安しているわけじゃない。それは、本当に感覚的な問題で、漠然とした、茫洋とし過ぎた不安なのだ。

三日後の旅行を楽しみに眠る自分、二日後の旅行を楽しみに眠る自分、明日の旅行を楽しみに眠る自分、旅行を楽しんで眠る自分。

そのどれもが、自分である。しかし、そうして眠りに就くたびに、明日の自分は本当の自分なのか。今日眠りに就いた瞬間に自分は死んで、自分とは何もかもが同じ、明日の自分が生まれて、生きていくのではないか。

そんなことを、考えてしまうのだ。

いわば、リュカが犯そうとしているのは、そんなレベルの茫洋とした、なによりおぞましい、倫理の罪だ。

「ここが、『アリス』……」

膨大なぐちゃぐちゃの巨人の上で、聳え立つ巨木のような太く、巨大な壁。世界樹のような様相を呈しているそれは、円柱というには形が崩れ過ぎてはいるものの、確かにそれが円柱だと理解できた。だとするならば。それは、ぐちゃぐちゃの巨人の首ということになるのだろう。

そんな肉の壁に、ぐちゃぐちゃのひび割れた壁に、一つ、巨大な割れ目があった。横一閃に走るそれは、どこか目を彷彿とさせ、瞼から覗く眼窩に酷似していた。といっても、そこから覗くのは巨大な瞳でも眼球でもないのだが。

そこにあるのは、というより、その奥に広がっているのは。ただただ膨大な空間だ。部屋のように囲まれた空間だ。

パックリと割れた些か気味の悪い入り口の奥、先の見えない暗闇の中。しかし、そこにこそ、リュカ達の勝機がある。

小さく、息を吐いて。

「あ、あの……イル……?」

「なんだ……?」

「ボクが、いえ、ボクを、ちゃんと見つけてくれますか?しっかりとボクを、教えてくれますか?」

それは、いつかのように、とても分かりにくい質問だった。

本当にわかりにくくて、伝わらなくて。しかし、それでも。その分かりにくい質問が、どうしようもなくわかってしまって、深いところまで読み取れてしまう偶然があるのだ。

といっても、今回のそれは偶然ではないのだろうが。

かつてのリュカのわかりにくい質問。自分の所在地を問うたその質問に、イルフェリータが的確な答えを返せたのは、彼女自身がダーカーストレンジに住まい、その知識が豊富だったからだ。しかし、今回は違う。それは、もしリュカという存在を知っていても理解できるか未知数な、そんな質問だった。

それでも。それに理解を示して。それを正当だと肯定できたイルフェリータは、あの時よりも、リュカに近づいたということなのだろう。

だから、何も恐れることはない。

「アタシが一緒に居たいのは、キミだ。他でもないキミだ。どれだけキミとおんなじでも、キミじゃないと駄目だ。」

「っ……」

そっと握られた手に思わず赤くなったリュカを見て、イルフェリータは悪戯が成功した子供のように、イルフェリータらしい笑みで続けた。

「だから。絶対に、キミを一番に抱きしめる。キミがキミだって、キミが大好きなのがアタシだって、不安にもなれないくらいに。」

イルフェリータに譲れなかった役割に、今更不安がった姿を見せて。しかし、そうして頼もしすぎるくらいに笑ってくれるイルフェリータの姿を見て、リュカはまたどうしようもなく、得体の知れない温かさに身を任せてしまうのだ。

奮起して。数分後の、三分後でも、二分後でも、一分後でも。

彼女がくれる抱擁を楽しみにして、それを受け取るのは紛れもない自分だと戒めて。倫理と、なにより自分自身に覚悟をぶつけた。

リュカを歓迎するように開いた入り口に、躊躇うことなく飛び込んだ。

『アリス・ヴズルイフの遺産』、取り込んだものを増幅する、得体の知れない部屋へと。

足を、踏み入れた。


「ってことだから、今から諦めて帰ってもいいぞ?」

と、ゆっくりと巨人に着地した招き倒したい客に、イルフェリータは堂々と怒りを向けた。

招き、そして、倒したい客に、リュカにあそこまでの怪我をさせた敵に。アスト・ペクトへと、怒りを向けた。

「目的、世界を守る。警告、大人しく殺されろ。命令、世界に手を出すな。」

アスト・ペクトのその言葉は、突然の宣告を受けたイルフェリータからすれば不可解でいて理不尽なものだった。リュカから、この世界の惨状の原初、その力が宿っているという告白を聞いた後でも、その意見は変わらない。

どうして、自分たちがそんな世界なんぞに構ってやらなければならないのか。

ただ、そんな思考だけがぐるぐると渦巻いていた。

だから。

「残念だけど、アタシの見込んだ男は、そんな命令に従ってやるほど意志が弱くない。」

どれほど、彼女が声を説いて、何度も怒って、衝突して。そして、お互いに吐露して、その土壌で、確固とした基礎の上に立つ絶対の城。それが、リュカの意志である。

それが、こんな陳腐な目的に、警告に、命令に、屈するはずがない。

なにより。

「大好きなアタシを助けてくれないほど、ヘタレじゃない。」

ギギギ、とまるで金属の擦れるような音と共に、リュカを呑み込んだ不気味な扉が開かれる。

まるで瞳を開くように。視界に世界を捕らえるように。開かれる。その奥で行われた倫理の崩壊が、切り札として顕現する。

「い、……る。」

「ああ、大丈夫。キミが、キミだよ。」

ボロボロと涙をこぼして。どうしようもないジレンマに悩まされて。自分が解析されて、自分が作られて、自分と全く同じ自分が、生み出されて。果たして自分は、本当に今まで生きてきた自分なのかわからなくなる。そんな薄気味悪いおぞましさの中で。


「リュカ……」


しっかりと、見ていてくれる少女がいた。自分が、自分だと、分かってくれる少女がいた。


なあ、ボクじゃないボク。

ボクが、ボクだったよ。だから、その命はボクの好きなようにしてくれ。


蹲りながら、嗚咽に呑まれながら、しかし、喜びと愛しさのないまぜになったぐちゃぐちゃの感情の抱擁に包まれるリュカの背後で、微かな声明の息吹がした。


「ボクがボクで、よかった。」


イルフェリータとリュカの抱擁の後ろ。『アリス』の中で、生きた。

そこはとても、懐かしい匂いがした。



よくない。よくない。本当に、よくない気がする。

「あの……部屋は……」

真っ暗なオペレーティングルームで。都合一人の処理能力では到底駆使できないであろう数のモニターに囲まれた女は、底知れぬ恐怖に瞳を見張った。

研究所が長らくエネルギーの効率生産のために使用してきた『アリス・ヴズルイフの遺産』の増幅作用。『アリスの硝煙』。

その破壊作戦を立てたのは所長とその女で、それについて目が眩むほどの情報を調べ尽くしたのもその二人だ。だから、その部屋がどれほどおぞましいものなのか、いや、その行動がどれほどにおぞましいものなのか、分かる。わかってしまう。

ビリーには、分かってしまう。

「どうして、自分を増やそうなんて、考えられる……?」

泣き崩れるリュカと、それを抱くイルフェリータ。その背後で、五人のリュカがアスト・ペクトに視線を向けていた。


取り込んだものを増幅する『アリスの硝煙』の力。それは、人すらも生み出し、たった一片の違いもないようにそれを増幅して見せた。

はたしてそれがどれほどおぞましいことで、自分を失いかねないことなのか、思考実験でしか自己を投影しえないビリーにはわからない。しかし、それがどれほど猟奇的で、おぞましくて、それでいて、倫理を冒涜しているのか。それだけは、わかる。

「アスト・ペクトさんっ、警戒を!増やされたのは、負傷した対象です。隙を見れば逃げられます。オルガノン部署の待機座標を送りますから、そこまで逃げて下さい!」

大丈夫。大丈夫だ。

他のオペレータの指示を聞かないのは知っている。

彼女がいつもオペレータを困らせるのは、そのオペレータを認めていないから。または、その自分の現状に嫌悪感を抱いているから。しかし、どうしてだかアスト・ペクトは、ビリーのオペレートでは指示に従ってくれる。

もし、自分の心からの心配が伝わっていて、それに従ってくれていたのなら。ビリーの本心に気付いてくれるなら、また、逃げてくれるはずだ。今度こそは、

『どうして、逃げないんですか……っ!』

半ば、分かっていたようなものだった。

どうしてだか、その任務に臨む前のアスト・ペクトは、いつもとは違う表情をしていた。いつも無表情で、何を考えているのかをはかり知ることはできないけれど。

チェスをして、質問に必死に首を振って応えてくれて、助けに来てくれた相手への感謝を必死に伝えようとして。

自分を大切にすると、約束したはずなのに。そうして、ビリーはどうしても知ることのできないアスト・ペクトの心の中に、小さく問いかける。帰ってくることがないのを知っていて、問いかける。

約束したからだ。アスト・ペクトは、約束したから。そうやって約束したから、自分を大事に。自分可愛さで、ダメな子にならないようにしたいという願いで、役に立ちたいという願いで必死に戦おうとしているのだ。

「ぁ……」

アスト・ペクトに繋がっているマイクに、思わず息を呑んだ。

「もう……逃げて……」

リュカの手にしたコンバットナイフが、アスト・ペクトに突き立てられる。

噴出した血液は、彼女の培ってきた体術によって行われた急所外しの結果だ。痛々しいながらも、そこに危うさはない。反撃は一瞬、飛び退いた勢いでホルスターからばら撒いた弾丸を掴み取り追撃してきた少年のコンバットナイフに触れる。

刹那、ガラスのように割れたそれが光となって霧散し、武器を消し飛ばすことに成功する。

そして。

『異能、解放。』

         『異能、解放。』

   『異能、解放。』         『異能、解放。』


             『異能、解放。』

リュカであり、リュカでなかった五人の声が、バラバラにしかし均等に、詠唱を紡いだ。

それは、計り知れない絶望感だ。

五人が五人、その手に各々の武器を持って、その武器を以てしてアスト・ペクトを殺そうとしている。

コンバットナイフが、ライフルが、グレネードが、ミサイルが、トマホークが。もはやそこに、アスト・ペクトの助かる選択肢は、見出せなかった。

彼女はもう助かる気はなかった。


だから。



アスト・ペクトは最後に、自分に課した。

ここで楽になる。ここで、ビリーの命令を無視して、ダメな子から脱却するエゴは、確実に相手を殺して、その上でのみ許される。だから。

リュカ達の猛攻を前に、アスト・ペクトはホルスターから見慣れた瓶を取り出した。そして、流れるようにそれを取り込んで、一撃を紡いだ。

(さよなら、マイ・レディ。)


「フィロソフィア」


世界の消失は、一瞬。しかし、計り知れなかった。



「イルっ!!イルッ!!」

「うぅ……だ、い、じょ……ぶ?」

血まみれのイルフェリータを抱きながら、リュカは枯れ果てるほどに喉を酷使した。

痛いイタイイタイ。どうしようもなく痛い。

蒸気に焼かれても、霧に蝕まれても、銃に殴られても、機関銃にひき肉にされても、それでもどんな時よりも、比較できないほどに、痛い。心が、こんなにも、悲鳴を上げている。

「い……痛い……」

「だよ……痛いのは、アタシだっての……」

フィロソフィアが着弾する一瞬。

増えたといっても彼らはリュカだった。イルフェリータへの被害を最大限に抑えようと、生み出せるだけの武装を生み出して、生み出せる分の防御でもって、自分たちの命すらもなげうって、フィロソフィアの衝撃からイルフェリータを守った。

しかし、その勢いを完全に殺すことはできなかった。

それなのに、イルフェリータは、唯一のリュカを庇ったのだ。

その細い身体で、リュカのためだけに、命を張ったのだ。ただ自分のエゴのために。自分が幸せになるために。

その結果が、そうして血まみれで転がる、イルフェリータの惨状だ。

ぐちゃぐちゃの巨人から遥かに弾き飛ばされて、森林に激突して、それでもなお収まらなかった勢いが、地面との摩擦力によって如実に現れる。

血肉を引き裂かれたリュカと、半身を焼き尽くされ、ウエストを抉られたイルフェリータ。

痛い。痛い。

駄目だ。

「もう、イルに……そんな顔はさせたくなかった……」

確かに、そこに灯が宿った。小さく。しかし確実に。


痛みを武装に変換する異能が、もしオーバーヒートしたら、どうなるのだろう?

堪え切れないほどの、思わず叫び散らして、暴れまわって、のたうち回って、どうしようもないほどの痛みを、一身に蓄えた痛みを武器にしようとしたら、どうなるのだろう。

痛みを武装に変換する。それは、痛みのレベルに応じて、生み出せる武装が変わるということだ。

切り傷からミサイルが生み出せないように、逆に、腕が千切れた状態で竹刀を出すという行為に意味はないのだ。

「生きてるんですね。」

だから。そうして目の前で体の半分をなくしながら呆然としているアスト・ペクトに、最後の一撃を入れる。

どんな痛みより、イルフェリータを傷つけられたときの方が痛かった。心の痛み。精神的なものだ。しかし、それが、おそろしいほどに大きかった。もう、どうしようもないほどに。

その痛みは、きっと。所詮この世界の武装には変換できないだろう。

なら、もしこの痛み全部で武装を作ったら何ができるのだろうか。

「そ、れは……?」

いつしか、リュカの右腕が、白いノイズに侵食されていた。

ピンクや青、どこか気味の悪い電子的な色を蓄えたノイズは、リュカの腕を呑み込んで、というより、誘って。そこにある『何か』を、リュカに差し出していたようだった。

ゆっくりと、それを引き抜いた。

ズズズ、と空虚な鞘から取り出したのは、ノイズと同じ色をした得体の知れない光の剣。

「ボクは、ボクの意志で決めたよ。」

アスト・ペクトへ向けて、それを振り下ろす。


「研究所は、ボクの敵だ。」


フィロフィアの衝撃が稚拙に見えた。

世界の消失とは、こうあるべきだ。その力の果て。青空にすら不可解な亀裂を走らせる一撃は、ガラスの割れるような甲高い音によって終息した。

第二次異能大戦の始まりは、この世界の始まりに酷似していた。


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