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Mr.DARKER STRANGE  作者: 事故口帝
??? of the wonderland
14/16

第二次異能大戦 #5『Sleeping Awake』


『アリス・ヴズルイフの遺産』。

世界人口のほとんどを滅ぼし尽くした大災厄の一つ。かつて、取り込んだものを増幅するという特性を持っていたために、海水を増幅して水害の帝王となった災厄。

海面の上昇は、日に日に加速していき、一時期は世界で水上都市計画が立てられるほどだった。そんな夢物語の前に、世界の方が音を上げたのはどこか滑稽にも思える。

しかし、そこで生き延びた『レガン・ヘヴィア』にとって、水害は放置しておける問題ではなかった。彼らが手に入れたのは本当に一時的な安寧だ。決して恒久的な安全ではない。

人類史最高の科学力は、未だかつて自然に勝ったことがない。

科学はいつだって受け身の先手、いつかは後手で不幸を喘ぎ、不利益なそれはやがて空虚な力となる。もちろん、自然に勝てるはずはないが。

そんな危機的状況で、『プレイト:デュカイオ・シュレー』の所長はふと思ったのだ。

『自分たちに勝てないのなら、同じ災厄に戦ってもらえばいい。』

人類が自然に勝てないのは、その強大すぎるエネルギー量と、次元の違うほどの規模のせいだ。つまり、同等のエネルギーと確かに歯向かえるような力があれば、簡単な引き算で決着がつく。

災厄は、災厄によって祓われる。

『レガン・ヘヴィア』陣営は、自らが根城とするクレーターから水を排出。持ちうる科学力の全てでもって浸水までのわずかな猶予を作った。同時に、『アリス・ヴズルイフの遺産』への侵攻作戦を開始。増水を停止させることに成功した。

残った世界の惨状に、図らずも救いの手を差し伸べたのはダーカーストレンジであった。

水によって侵された様々なダーカーストレンジが、その特性でもって水を喰らい始めた。

電子への変換、性質の瓦解、時空の逆流。方法は様々だが、その圧倒的なエネルギーに『レガン・ヘヴィア』は救われたのだ。

もちろん、それは人類の楽観的な希望的観測が、奇跡的に人間に微笑んでくれたからではない。

それは、『プレイト:デュカイオ・シュレー』の技術力、世界一位のスーパーコンピュータ『幾望』。何より所長の掴んだ最善の確固とした決意の成した『必然』であったのだ。

まさしく人類正義である研究所のその功績は、『アリス・ヴズルイフの遺産』の有用性すら暴いて見せた。

今日に至るまで酷使され続ける、『アリス』。『アリスの硝煙』の力である。


と、そんな花の蜜に誘われて、今日も森林をかき分ける来訪者が二人。

思わずなぞりたくなるほどの曲線と、つまんでみたくなる肉感。絶妙なバランスによって作り出される黄金比のような美脚。ジーンズで覆われていて尚、存在感を発揮するそれは、しかし浮いているわけではない。

彼女の体には特出すべき点がない。どの部位も、他を抜き去って優秀であるということはない。それはなぜか。

彼女の肢体は、その全てが美しく、そして魅力的だからだ。全ての値が高すぎる故に、特筆することができないように。

白い肌と滑らかな髪。アルビノを思わせるその儚い姿見は、力強く鎮座する内臓のような眼力によって否定される。強烈な印象として、彼女に弱さを押し付けられない。

胸からわき腹にかけてのラインは、決してぴったりとは言えないシャツによって、酷く扇情的に強調され、白愛の少女の美しさを、ぴったりではなくピッチリとして教えてくれる。

陳腐な感想から、本能の脈動による情欲に。

森林の中を見晴らす色素の薄い濁った瞳は、彼女を呈す確かな証だ。

少女は、イルフェリータといった。

と、するならば、彼女に降りかかるかもしれない危険に目を光らせる少年は、何を隠そうリュカである。

髪を伸ばせば女の子に間違われるであろう愛らしい童顔と、ダボッとしたパーカーのうちに匿われた確かな筋肉。その庇護欲と力強さを同時に感じさせる魔性は、容易に人を狂わせるだろう。

ずっしりと重力に身を任せる背中の荷物。背負った期待と軽い足取りに惑わずに、リュカはイルフェリータの道中を快適なものに、と奮闘していた。

「任せっきりはよくない!」と固い意思を主張するイルフェリータに、「そんなに信用できないですか……?」と悲しそうにコインを弾いたリュカ。結果は彼の手の中に、背中の荷物と軽い足取りだ。

何かにときめいたかのように頬を染め、暴れる胸に眉を困らせたイルフェリータは、そうしてリュカに荷物を預けたのだ。

「キミのそれは、美徳かもしれないけど、……なんかモヤモヤするっ!」

軽い背中とは裏腹に、軽快とは言えない足取りで言うイルフェリータ。リュカの意思が見えてくることに嬉しさはあれど、そこに甘える自分が容認できないのだろう。彼女には、まだ『何故』という疑問が浮かぶことが多い。矛先をリュカに向けて。

どうしてもおさまりのつかないイルフェリータは、しなやかな脚で小枝をまたぎ、我儘な自分を踏破した。

そんな少女の葛藤を、どこか微笑ましい目で見ていたリュカは、そこまで言うのなら、とイルフェリータに折衷案を申し出る。

「ボクもちょっと疲れたので、お手伝い、してくれませんか?」

「……手伝い?」

珍しくリュカの方から求められたイルフェリータは、当惑半分驚き半分といったような面持ちで振り返り、木漏れ日に透ける少年に問い返した。

「はい。手伝いです。」

「もちろん手伝うけど……」

「手、とか、繋いでほしいです。」

「……手……」

「、手。」

「て……」

呆気とした、というより、まだ上手くその言葉を呑み込めていないイルフェリータは、自分の手を眺めて、そしてリュカの背負った荷物を見据えた。

といっても、リュカのその言葉に、荷物変われや、という真意が隠されている筈もなく、イルフェリータはそれが確かに『手を繋いでほしい。』という要求であったと理解せざるを得なかった。

もちろん、リュカにムカついたときはわざとリュカの前で生まれたままの姿になり、あまつさえソファでくつろぐことでストレスを発散しているイルフェリータの事だ。羞恥心は追い付いてこない。がしかし、それが一体荷物を運んでいるリュカの何の助けになるのか、理解できなかった。

「それで疲れたのがどうにかなるのか?」

「はい。とっても。」

「ま、そういうなら。」

長い脚を生かした広い歩幅でリュカとの距離を詰め、対面したところでどちらの手を握ればいいのかと足を止めた。無意識に視線で問いかけたイルフェリータに、リュカは照れくさそうに左手を差し出した。

それに倣って右手を繋いだイルフェリータは、その温もりに小さく吐息した。

胸の奥を焦がすような、ジワジワと炙られるような、そんなどうにもしがたい感情が、少女の純真無垢な心臓を、幸福感で満たしているのだ。

「なんか……いいな?」

イルフェリータは、随分と男らしく笑う。

女の子のようなどこか滲み出るような微笑みではない。ニッ、と白い歯を見せて、些か強引に共感を引き摺り出すような、そうせざるを得なくなるようないい笑顔で、イルフェリータは笑う。そう、滝のように、破裂するような笑みで、笑うのだ。

「ボクも、そう思います。」

対して、どこか儚げに笑うリュカの表情は、どこか女性的にも見えた。

心底から引き摺り出された共感は、リュカの表情に小さく花を咲かせて、するりと感情を塗り替えていく。

最早洗脳に近い。それくらい、彼女の笑顔は凶悪だ。キッと睨むようにとがる眉も、何も隠すことなどないというように晒される綺麗な歯並びも、抑えつけられなかった表情筋の躍動を放っておく寛容な瞳も。

全力で笑う彼女の表情が、本当に凶悪なのだ。

本当に、恋は盲目だと、理解させられるのだ。

「たまに、また繋ぎたい。」

すっ、とリュカの方に一歩近づいて、頬で少年の肩をスリスリと撫でるイルフェリータ。その愛らしい仕草も、きっと彼女は無自覚で、先ほどとは対照的に、まじまじと見ないとわからないような小さな微笑みを湛える表情も、無意識なのだ。

だからこそ、リュカの無意識も、そうしてやすやすと引き摺り出される。

伝染した微笑みそのままに、リュカはその手を握る力を強めた。

「はい。そうですね……」



研究所、と称される組織の根幹には、思考という絶対のプロセスがある。

人間の完全なる集中状態。所謂ゾーンといわれるような状態を、意識的に引き出すことのできる人材が、その研究所には揃っていた。もちろん、特殊な才能だ。そうまでして安売りされていい才能ではない。

しかし、そんな才能も、研究所の所長の前ではどうにも陳腐に思えてしまう。

所長は、知らないのだ。

ゾーンという状態を知らない。

的確に言えば、所長はゾーンという状態が継続しないという必然に、いつだって疑問を抱いているのだ。所長には、それがわからない。どうしてゾーンという状態があるのか、分からない。

世間にゾーンだ、完全集中だともてはやされる所長のそれは、所長が所長となる前から。所長が、研究所の所長となる前から、この世界に降り立つ前から、休むことなく行われ続けてきたことだ。それに今更付加価値がつくなど、世界はどうにも甘いものだと、所長は識る。


「音声ログを確認。映像は入りません。『幾望』が使えないとなると、映像の選別までは難しいと思われます。」


忙しなく動く研究室。まるで管制塔のような様相を呈している研究部、臨時通信回線室は、所長との対話に用いられる謁見機をわざわざ持ちこんで、喧騒の中でその指示を仰いでいた。

有り余る施設数の中から、大型ホールをまるまる一個使い潰して設立された臨時通信回線室は、約五百人の二十四時間勤務によって稼働していた。

五百人という人数を、二十四時間使い続ける。徹夜という概念を知らない徹夜家の彼らからすれば、二十四時間寝ずの作業というのは簡単だ。むしろ、その後数日は寝なくても大丈夫だ。しかし、所長たっての希望で、この作戦は二十四時間の短期決戦で片づけるという宣言が出された。

そのため、研究員たちは忙しなくキーボードを打ち、流れてくる微量なノイズをヘッドホン越しに感じ、視界に映る十六等分の支離滅裂な映像たちを血眼で探っていく。

既に二十時間を超えた作業時間の中で、今日も今日とて指揮を執るビリーが小さく報告した。

それが、音声の傍受と、映像の断念。

『うぅ……ありがとねぇ……?みんなにも伝えてあげて……?』

そんな朗報を聞いた所長は、ビリーにのみ繋がっている謁見機からの声を皆に代弁してほしいと申し出た。

研究所約一万人の大所帯をまとめ上げるその手腕は、やはりそういった気遣いが肝で、そのいつでも自分の芯を持ち

「そんな時間はありません、マイ・レディ。概要と方法を伝えていただければ、後は帰ってていただいて結構です。」

『あぇ……うぅ……そうだよねぇ……ごめんねぇ……?』

と、実質的に一万人の研究員をまとめ上げているのはビリーだ。決定権では上回る所長であっても、彼女の働きの前に発言権までは優位に立てない。そうでなければ、ビリーが不憫というものだ。

そうして冷たくあしらわれた所長は、小さく謝罪を溢して、しかし確かにその意図をくみ取って、約コンマ数秒。概要書類を作成して、臨時通信回線室職員チャットへと送信した。

それに少し見直したように頷いたビリーは、再び瞳に軽蔑を宿して、振り返った眼下の大型ホールに無線によって声を響かせた。

「これより、作戦の進行は共有された作戦概要に準拠します。作戦の不明な点は、マイ・レディの概要に必ず記載されています。質問は時間の都合上受け入れられません。」

つらつらと声を流すビリーは、目端でオルガノン部署にアイコンタクト。指先を跳ね、謁見機を指せば、それが親愛なるマイ・レディをさっさと片付けろ、という命令であると察することができる。

最後まで心配そうに『あ、あ、あ、……ビリーちゃんっ?』と不安症を展開していた所長も、自分の管轄外のオルガノン部署によって運ばれていく。

ビリーに忠誠を誓っている彼らにとって、所長というのは所謂雇い主。身を粉にしてまで尽くそうという心持までは持ちえない。やめろ、という命令がない限り、彼らが汲み取るのはいつだってビリーの意思だ。

やっとのことで面倒くさい上司を排除できたビリーは満を持して宣言した。

「これより、第二次ダーカーストレンジ・ラベリング、『アリス・ヴズルイフの遺産』哨戒作戦を開始します。」

カチカチとボタンを確実に押し、取り出した糸口を、音声を刻み込む。

『……るっ!……ので……て……ボク……』

それは、微笑ましい男女の会話だった。それは、決して邪魔されるものではなく、邪魔することを憚ってしまいそうなほどに神聖な、そんな会話だった。

そうして盗聴していることに、どこか後ろめたさすら抱いてしまいそうなほどに。

音声は切り替わる。微笑ましい会話はぶつ切りのノイズの奥に消えていき、ビリーのボタン操作が的確に音声を切り替えた。

『ダーカー』

『ダーカー』

『ダーカー』

幾度となく繰り返される、言葉。同じ声で、同じ声で、二種類の声によって奏でられるその言葉は、ほとんどを意味のない空虚な言葉として作られていた。しかし、そんな言葉の中で、たった一度だけ、どうしようもなく聞き逃せない声があった。それを、見逃すことを憚るような声があった。

こうして盗聴している暇などないと、奮起してしまいそうになる程、それはおぞましい。

『ダーカー。』

彼は、その言葉の意味を知っていた。

ビリー達にすら詳細を告げられていない言葉の意味を、まるで知っているかのように語る。そして、所長にすら知り得ない可能性のある、なにか決定的に違う記憶を、マルテュリオンの盗聴性能越しに送り込んでくる。

概要の全てをはかり知ることはできないが、それが意味のある言葉だと認識するには充分過ぎた。こうしてもしも、という葛藤に悩まされていることがどれだけ馬鹿らしいか、思い知らされた。

「対象は、『アリス・ヴズルイフの遺産』、森林に確認された、二人の男女。研究所の規定により、彼らが世界の禁忌を侵す恐れがあると判定されました。よって、研究所は遠隔哨戒、対象の判定を行います。」

果たして彼らは、秩序を乱す無法者なのか、そうでないのか。

ビリーの冷たい声音に、ホールにて作業を中断した研究員たちが耳を傾ける。ビリーの背後にて現在位置の特定、更に、あわよくばの映像データの特定を急ぐオルガノン部署の面々も、小さく頷きながら主の宣誓に耳を傾ける。

静寂に支配されたホールの中に、演算機の奏でる電子音が充満する。張り裂くように、ビリーの凛とした声が続く。

「判定方法は、『幾望』による異能判定とします。データベースに一致する異能が存在した場合、彼らを亀裂と判定。実施予定の『アリス・ヴズルイフの遺産』崩滅作戦の殺害対象に加えるものとします。」

研究所の技術力の結晶。

澗を越えるマルテュリオンの中から、特定の言葉を探し出し、それを研究所に届けるシステムを作り上げた彼らが、たかが映像を探し出すことにどうして苦戦しているのか。

それは、頼みの綱である最強のスーパーコンピュータ『幾望』を、対象の異能判定に使用しなければならないからだ。

異能の種類、発動方法、運用形態。様々な情報からそれを分析し、データベースに登録されている危険因子の異能と照合する異能判定システム。その仕事に全スペックを使い倒すために、研究員たちは最強の手札を封じられた状態で前線を強いられているのだ。


今から対象の少年たちに課されるのは、その些か先進的な異端審問だ。はたして、お前たちは敵か?という問いかけだ。

是非で飛んでくるのは、平穏と『異能の砲撃者』のどちらかだ。そして、その砲撃者の力がどれほどのものなのかは、想像に難くない。

完成された完成品。そうでなければ完成を認めない研究所の、完成品だ。それがどれほど脅威となるか。

熱を逃がすように、ビリーは話を締めくくる。

「では、四時間後の安眠のために、頑張りましょう。」

羽撃たいた鋼鉄の兵団に、研究員約五百名の睡眠が委ねられていた。



『座標ダブルアリア、バーバル、オクト。効果範囲内。』


機巧のかき鳴らす不協和音は、その木漏れ日の中では、酷く不愉快なものだった。

まるで羽虫の大群が襲い掛かってくるかのようなプロペラの回転音と、無粋なモーターの響く音。重力を味方につけているのか、地面を突き抜けていくような重低音は、腹の底をなぞられているようで気色が悪い。

そんな絶望的な気分の中で、リュカは、イルフェリータは、それを見つけた。

刹那、空走る雷鳴に、リュカは、乾いた瞳が嫌にひりつくのを感じた。心底、末端に熱が灯されるのが分かった。

けたたましい駆動音と、羽音のようなモーター音。それに目を細めたのは、本当に一瞬だった。

息を吐くことすらもなく、閉口したまま喉を絞められ、這いずる肺腑の空気が爆ぜる。超速のなにかが、確かな攻撃となってリュカを貫いた。

果たして、それは一体何だったのか?

「イルッ!!隠れてッ!!」

吐き出したのは、不要になった空気ではない。そんな生命活動を差し置いて、リュカは少女に声を上げる。ただ、イルフェリータのために、目を見開く。

「どこから……っ?」

モーター音、プロペラの音。それが小型の哨戒機体の駆動音だというのは理解できた。しかし、だからといってそれがここまでの速度の攻撃を繰り出せるかというと、そうではない。

何より、理由が見つからない。そんな騒音を立てる理由がない。

しかし、もしそれがリュカたちを観測するための視覚で、それを伏する知覚があって、何者かがそれに準じて刃を向けたというならば納得できる。

羽音による隠密性の欠如。しかし、それによって生まれるのは、どこからともなく死を香る、顔も見えない相手の優位。確かにそこに横たわる、どうしようもないリュカの不利。

つまり、羽音はリュカ達の情報をスナイパーに送り、それを受け取った何者かが小型の哨戒機には到底出せない火力でリュカたちを殺す。

突如現れた刹那の罠に、リュカたちはまんまと引っかかったのだ。

周囲を見渡せば、十機にもなる哨戒機が、虎視眈々とリュカたちを取り囲んでいた。

しかし、幸いなことに彼らはイルフェリータも囲っていた。リュカのみでなく、イルフェリータにさえその牙を向けた。

リュカは、そこで本気を出さざるを得なくなったのだ。元来どちらに転ぶのかわからなかった勝負を、彼らはどうしようもなく自分たち不利に傾けてしまった。

リュカに、危機感を与えてしまった。

「諦められないですね……」

リュカの背後に、川を通したのだ。


「異能、解放。」


ずわっ、と溢れ出した黒煙が束ねり合い、絡まり合いながら羽撃く。墨汁をぶちまけたような濃く深い黒は、その色に微かな隙を匿っていた。それこそ、まるで翼を作る羽毛のように。

ノータイム。なんの情緒もなく繰り出された異能の宣誓に、感情を有さない人工知能はどこまでも冷静に対応した。

腹の下に携えたカメラのようなものをリュカの黒い霧に向け、三つのプロペラでは絶対にできないであろう高速機動で森林を駆けまわる。

四方八方、まるでリュカの全てを撮り尽くさんとばかりに巡るそれらは、アクロバットに声を挟む。

『該当異能、【天死体】。天剣礼華、異能比率26%。その他一件、類似異能。可能性は低いと思われます。』

ご親切にリュカに教えてくれたわけではないのだろう。きっと彼らが声を届けたのは、どこからか射的に興じている悪趣味なスナイパーだ。

そんな戦線強化の手管を見逃してやる通りはない。軌道を予測、地面を捕捉、向かう跳躍に無礼を襲う。

踏み切ったリュカの体が、弾かれるように木々を裂く。

爆ぜた地面の土塊が飛び交い、その先で木々をへし折りながら小さな機体を追うリュカ。

あと一歩、あと一指、しかし、手が届かない。

ならば。

「異能、解放……。」

増幅した翼が、獲物を狩る獣のように爪を光らせて鉄を食む。天剣礼華の異能によって生み出される生物にとって有毒な黒い霧。無機質であり、生命体にない機体にそれが通じることはない。が、原罪の露呈。生物を暴く漠然とした暴力のみが、爆発的な力を発揮するわけじゃない。

それは、『彼女』の視覚を害した。

『プロトコル夜間ひこッ……』速度を一瞬下げつつも、瞬時に視界不良への確かな対応を施した哨戒機。その判断能力はおそらくシンギュラリティに達している。

しかし、哨戒機は知るべきだった。

それに近づくまでに、それを捉えるまでに、あと一歩、あと一指、あと、ほんの少し。そうして目をギラつかせる化け物が、背後に迫っていると。

「反則は、お互い様。」

リング外からの無作法な一閃。リュカは、その主に身をもって示してやる。目つぶしという反則でもって、思い知らせてやる。まずは一機。

「異能、解放。」

そして、再び高らかに反則の声を上げたのは白愛、イルフェリータであった。

一対一のリングの中で、意気揚々と参戦を掲げる。彼女らしいその振る舞いに笑みを溢し、リュカは二体目の撃墜に力を込めた。それでも後ろ髪を引かれているのは、やはり抜けきれないイルフェリータへの心配からか。

そんなリュカに己を示すように、イルフェリータは手ごろな哨戒機を指さして、はめ込んだような笑みで。女の子のようなお淑やかな笑みを浮かべた。

「邪ー魔。」

ピンと弾いた指先に応えるように哨戒機がポトリと地面に落ちる。都合二機の動きを止めたイルフェリータは、仮面のように厚い可愛らしい笑みでリュカを見た。

丁度一基を踏みつぶしたところだったリュカはその笑みに嬉しさ半分、怖さ半分といった感じで応じる。

「いつも通りの笑い方の方が……ボクは好きですよ……?」

恐る恐るといったリュカに、イルフェリータは満面の微笑みの無表情で首を傾げた。

「アタシは、守られてるだけの女の子でいいんだろ?」

リュカ単身で立ち向かい、その戦力に含まれなかったイルフェリータは、その認識に乗っ取って笑顔を浮かべていたのだった。

些か遠回しすぎる抗議だが、イルフェリータの機微をここ二か月で完全に熟知したリュカにとっては会心の一撃。思わず「スミマセン」と頭を下げて厚いお面を外してもらう。

「どうやったんですか?今の。」

残っている機体が中空に逃げおおせ、リュカ達を確かな脅威と認定したところで、少年は先ほどのからくりをイルフェリータに問うた。

今もジュウゥ、と蒸気を立ち上らせて蹲っている哨戒機は、どこか可哀そうですらあった。そんな所業を成したイルフェリータはこともなげにタネを語る。

「全力で蒸気を出しただけだ。体のエネルギー半分くらい使って。」

少し疲れたように語る彼女は、「そしたら」と言葉を繋ぎ、既に残骸となった機体を指さした。

「回路でもイカれたのか、動かなくなった。それだけ。」

その哨戒機にどんな趣向が凝らされていたはわからないが、流石に普通以上の高熱が気化して入り込んでくることまでは予測できなかったのだろう。外装の耐久力とは裏腹に、内側のライフは少なかったようだ。視れば、イルフェリータのまわりには、まだその残滓が肌を刺す熱として残っていた。

「どうする?あの上のやつ。」

「うぅーん……あのまま映像を送られたら、またさっきの狙撃が怖いし……」

先ほどの雷鳴のような狙撃。速度の異常さに軽視されていたが、狙撃の這いずった後の地面は、爆撃でも受けたかのように抉れており、イルフェリータのような少女一人くらいならば消し炭にしてしまえるような威力が伺える。

あれほど哨戒機に周りを張らせたうえで、狙撃がリュカを捉えない筈がない。何らかの目的があって、それはリュカから狙いを外した。

それがなんなのか、どんな理由があるのか。リュカにもイルフェリータにもはかり知ることはできないが、手加減をされていたという事実は消えることはない。あれ以上の威力が、速度が襲ってくる未来から、目を背けられない。

「貴方に危険が及ぶのは」

「ふッ」

「うごっっ……イルに危険が及ぶのは、避けたいですし……ッ……」

例のごとく鳩尾を貫いた的確な一撃。その拳ならば、あの哨戒機もKOで沈むだろう。ジワジワと効いてくるストレートな拳骨の痛み。イルフェリータからの打撃ならば甘んじて受け入れてもいいと、どこか遠い目で憂うリュカ。そんな少年に、イルフェリータは空を見上げて問いかけた。

「なあ、アレ。」

すっ、と指さしたイルフェリータの先、リュカたちの位置を絶対に見失わないように、遥か上空で円を描きながら旋回する哨戒機達。その機巧の腹に、イルフェリータはどこまでもずば抜けた観察力で証拠を見つけた。

二面のひし形を貫いて、刺された十字架の中心に聳えるディーバの文字。

その頭文字が何を意味しているのか、リュカも、イルフェリータも、どうしようもなく理解していた。

「まさか……」

飲み込んだ情報。それは、確かにリュカに一時の停滞を強いた。しかし、それに行動を制限されるほど弱いメンタルで、イルフェリータに理性を貫けるはずがない。すぐさま背負った鞄の中からマルテュリオンを引き抜き、丁寧に張られた製品保証のステッカーを見た。

数億人に減ってしまった人類を世界と称するのなら、世界的に普及している、家電に成り変わった最新技術。瞬く間に広がったそれは、圧倒的な技術力とそれをサポートする裏方の優秀さによって存在を確固としたものにしていた。

いくら製法を公開していないとはいえ、類似品を作られれば市場競争が始まるのは必至だ。しかし、誰も類似品を作れなかった。それが、我が物顔で市場にのさばるのを、誰も反対しなかった。そこに、不満を抱かなかった。抱けなかった。

それほどに困難なものだった。それほどに安心できるものだった。それほどに、信じたくないものだった。

哨戒機の腹で、嘲笑うようにリュカ達を見下ろす忌々しいロゴ。笑い声に耳を澄ませば、残響のように響くそれが、己の握りしめる給水用のマルテュリオンからも聞こえることに気付いた。

それが、誰の差し金なのか気付いた。


「……研究所……ッ!!」


己を殺しにわざわざ出向いてきた殺人鬼が、今まで自分たちを生かしてきた超技術の生みの親。かつて引き分けた、異形の集団。

『プレイト:デュカイオ・シュレー』の、手札。

瞬間、旋回を続けていた哨戒機が、リュカ達から距離を置いた。それは、もちろんリュカ達を見逃そうという意志の表れではない。彼らは更に高度を上げ、森林を見下ろすように、リュカ達を見下すように、個々が距離を置いて憐れな獲物を見据えていた。

なんで、離れた?

「イルっ、ここはあぶッぐぅっ!!!」

花火のような爆ぜる連鎖音が鳴り響き、螺旋を描きながら大気を喰い荒らす光弾が森林へと着弾した。

傍から見れば、まるで隕石が落ちたのではないかと思うような轟音だったろう。そう信じ込んでやまないほどの衝撃だったろう。疑えないほどの閃光だったろう。

しかし、違う。

木々を薙ぎ倒し、薙ぎ倒された木々を木っ端みじんに消し炭に。もはや隅にすらならないそれは、抹消、といっていいかもしれない。

被害は森林だけには収まらない。それを支える土壌への被害も甚大だ。引き抜かれ、薙ぎ倒された木々の足跡がわからないほどに、破壊の威力はやすやすとクレーターを作り出し、一瞬のうちに岩肌を剥き出しにした。

剥ぎ取られたベールを取り繕う暇もなく、ボロボロの森林の中で、立ち込める煙にむせたリュカは、庇ったイルフェリータの安否に全神経を研ぎ澄ませた。その時ばかりは、飛来する死に目を向けられなかった。

「イる、」

「何してんだッ!?その怪我、心配されんのはキミの方だろ……!?」

もちろん、彼に心配の資格はない。

全くと言っていい程に傷を負っていないイルフェリータとは対照的に、リュカの傷は酷いものだった。

天剣礼華と戦った際、黒い霧に蝕まれたリュカは片腕を割った。しかし、今はそれよりも酷い。抉られた脇腹からは、血液よりも臓物の一端が覗き、焼け焦げた断面に痛ましさが募る。煤の軌跡によって示される爆風のログは、その衝撃がリュカの体をまんべんなく駆け巡ったことを教えてくれる。

数えきれないかすり傷、切り傷や出血も、リュカへ降りかかった確かなダメージを証明する証拠となった。

そんな状態の相手に心配されることが、どれほど苛立つものなのか、心底それを理解したのであろうイルフェリータは、ほぼボロ切れのようになってしまったリュカのパーカーを剥ぎ取って、その肩を抱きながらクレーターを離脱した。

それを大丈夫だと制しようとしたリュカも、流石にその重傷には体が動かなかったのか、倒れ込みそうになった己の身体をイルフェリータに任せるしかなかった。

「どこに……向かうんですか……?」

気管支のダメージはそこまででもないらしく、存外流暢に問いかけたリュカに、イルフェリータはほんの少しの思考の後場所を告げた。

「キミとアタシが出会ったところ。」

「……あの綺麗な池……ですか……?」

「うん。あそこなら周りが崖だ。狙撃の難易度も上がるはず。絶対に安全とは言えないけど、体勢を立て直すぐらいはできるだろ。」

取れる部分を的確に取り、取れない部分は無理に取らずに切り捨てる。イルフェリータの判断は、そういったリスクとリターンの駆け引きを極限まで切り詰めた結果だ。

許容できる最低ラインのリスクで、受け取れる最大限のリターンを渇望する。この場での交戦は、なんの利益も生まない。停滞などもってのほかだ。

「それに、移動が楽だ。」

「い、移動……?」

いつも通りの男らしい。というよりイルフェリータらしいニッ、とした笑みを浮かべ、同時に冷や汗も浮かべ、イルフェリータは森林をかき分ける。

クレーターから離脱し、既に森林の濃い緑に揉まれている二人は、先の見えないほどの緑の視界不良の中で進んでいく。

そこで先ほどの超威力を放たれれば、次こそリュカの致命傷はま逃れないだろう。今回彼の損傷がここまでで済んだのは、一重に相手に殺す意思がなかったからだ。

研究所の手札であるスナイパーが何を考えているのかをはかり知ることはできないが、それが研究所側からの命令であれ油断であれ、次の一撃に殺意が乗らないとは限らない。

最後に見た景色が極光と爆ぜる森林になったとしても、おかしくはない。

リュカを支えたままの牛歩で比較的安全地帯に向かうのは、甘すぎる考えだ。

彼女が移動について考慮しているのは、酷く冷静沈着な判断であるといえよう。

「さて、飛ぶぞ。」

「え」

リュカは、全体重をイルフェリータに預けるほどの支えられ方をしている。イルフェリータが崖から飛び降りれば、それに歯向かうことはできないくらいに。

眼下、流れる川。目下、浮いた体。

足場なし、重力あり、不可逆と、必然的な時間経過。落下する二つの影は、大河の水に容易く落ちる。水飛沫とともに、その二つの矮小な影は、呑み込まれていく。

イルフェリータが移動に重きを置いたというのは、賞賛すべきことだろう。何度でもいえる。それは彼女がどこまでも人を慮れる精神を育てていたからだ。しかし同時に、こうも言える。

その方法は些か、野蛮が過ぎると。



空を泳ぐ感覚は、何回目だろうか。

そんな支離滅裂な自問自答を繰り返して、リュカは水面の自分を見た。

初めて自分という存在を知覚したとき。そして、自分の中の誰かを知覚したときに焼き付けられたイルフェリータの熱。そうして今、自分は何を自覚するのだろうか。

もちろん、そんなルールが明確に定まっているわけではないのだが、リュカの中にはどうにも排しがたい確信があった。


「貴方は、ボクに何をくれる?」


水中にめり込んだリュカは目を見開いた。




イルフェリータの言った移動が楽、という言葉。いくらマルテュリオンが普及している社会であっても、こんな辺境の地でそれが手に入るはずがない。そもそも、大型輸送マルテュリオンは軍事マルテュリオンに指定されることもある。一般人には到底運用できない。ましてや、そのマルテュリオンの唯一の製造元である研究所と、今、現在進行形で刃を交えているのだ。

軍事マルテュリオンに指定されるであろう哨戒機は、紛れもなく研究所が本気であるという証だ。

イルフェリータの言うように、ノロノロと移動していれば、そこに生存の道はない。しかし、それをどうにかするような手段も、今のところリュカ達は持ち合わせていないのだ。

だからこそ、彼女は川に飛び込んだ。リュカを連れて飛び込んだ。

「ぶはっ!」

「ハァ、ハァ、ほら、言っただろ?移動が楽だって……」

水面を荒波に掻き消して、リュカに続いてイルフェリータが水中から顔を出した。流れに身を任せて川を流れれば、足先すらつかなかった一瞬前とは一転、空気の恩恵を受けながらも水底を掴めるほどの浅瀬にまで流れ着いた。

徐々に水深を切り詰めていくそこは、紛うことなき邂逅の場所。リュカとイルフェリータの出会った、イルフェリータの母親の沈んだ、その場所であった。

「あそこの川の流れなら、絶対にこの近くを通る。上手く流れに乗れば、安全にここまで辿り着ける。地の利を活かしまくった最高の作戦だろ?」

「せめて説明しません?心中するのかと思いましたよ……」

リュカからしてみれば、体を預けていたら一転、次の瞬間には足が空を掻き、冷や汗をかく暇もなく自由落下だ。かくも恐ろしき投身離脱に、リュカが悲鳴を上げない筈がない。

「でも、あの煩い機械も振り切ったし、ここに狙撃ってのも難しいだろ。」

事実、リュカ達への狙撃の余波から逃れるために距離を置いていた哨戒機は、突如のリュカ達の喪失についてこれず、彼らが崖の下、という結論に至るころには、水流たちはイルフェリータの思惑通りに彼女らを邂逅の地へと流していったのだ。

まさに『アリス・ヴズルイフの遺産』に味方されたようなリュカ達は、地の利というよりも恩恵によって逃げおおせたわけだ。

そのとてつもない脱兎の勢いに、ついには研究所の追跡すら振り切った。研究所が背水の陣だと思っていた川は、彼らを逃がすために敷かれたレールでもあったのだ。

「振り切れたのは確かに幸運ですね。けど、あのまま逃がして貰えるとは……」

「うん……って、キミ、それっ!」

イルフェリータの機転に賞賛こそすれ、どこかもやもやとした懊悩を封じ込めたリュカ。そんなリュカの脇腹を指さして、イルフェリータは思わず声を上げた。

水を吸った重い衣服の重量を誤魔化すように浅瀬に座り込んだリュカ。その重傷は、風穴とはいかずとも、脇腹を爆ぜ、内臓をめった切りにするほどであった。その重傷が、今。抉られた肉の損失こそあれど、傷跡というものが見つからないのだ。

確かにリュカを吹き飛ばした爆風の末路、成果といってもいいだろう。そんな、決して消えてなくなっていいものではないそれが、いつのまにやら綺麗さっぱりなくなってしまったのだ。イルフェリータが目を見張るのも当然のことだった。

「怪我は!?」

「イル……」

イルフェリータの問い。もはや追及であったろうそれに、リュカはかぶせるように名前を呼んだ。

少年の瞳に浮かぶのは、憂慮だとか憂いだとか、そんな躊躇のような感情。伸ばしかけた手を引っ込めて、しかし、それでも我慢できなかった指先がひりつく。そんな感覚。

リュカは、迷っていた。それがどうしてなのかわからないイルフェリータであっても、リュカの感情くらいはわかる。この数日で相手の感情を読むのが上手くなったのは、決してリュカだけではないのだ。

しかし、その判断は、尊重されるべきだ。

時には、その選択に怒るべきだ。選択肢を奪うべきだ。言いたくないという感情を尊重するように、聴きたいという感情も、また尊重されるべきなのだ。

それでも、リュカとイルフェリータにとってはそうではない。

イルフェリータは、いつだって彼の判断を欲した。リュカの中にある誰かの思想。リュカの行き先を縛る誰かの残滓。いつだって、そんな誰かもわからない存在ではなく、リュカ自身の行動を望んだ。リュカに、リュカとして選択してほしい。自分の選択を、誰にも邪魔されてはならない、と。

イルフェリータだけは、彼に、そして己に、そう願ってしまっているのだ。

だから。そこでだけは、イルフェリータは言葉を挟めない。そこに言葉を挟んでいい存在に、彼女はまだ足りていない。二人の関係は、足りていない。

「ぁ…………れ……」

ボロボロと、涙がこぼれた。こぼれたというより、爆ぜたといった方が正しかったかもしれない。

瞳に涙をためる。そんな段階をすっ飛ばして、彼女の涙腺は抵抗をやめた。抵抗できるほど、その涙は軽くなかった。

「ぃ……い、る……」

足りない二人の距離感は、そうして涙する相手の肩を抱きよせることすら、許容されない。その選択が自分の意思だと、証明することができないから。

証明する必要なんてない。自分の感情を誰かに知らせる必要性を感じない。このうちにある無尽蔵で無理解で無関係な感情を、ただ向けることだけが幸せだと確信した。

彼女にとっての幸せが、彼女を思いやる自分の行動が、全てが全て幸せに直結して、彼女のためになると信じていた。

しかし、彼女は、当の本人であるイルフェリータだけが、それを否定した。リュカも、リュカの中の誰かも、それを信じて疑わなかったのに。イルフェリータは、それを真っ向から否定して、教えろと、強引すぎるほどに感情を問うた。

その感情の名前を問うた。感情の、主を問うた。

それから、ほんの少し。本当に少しだけれど。それが自分の感情なのか、疑うことが多くなった。

果たしてそれは、影響されたことすら悟らせてくれないほどの影響に、浸されたものなのではないのか?自分のための意思だったか?

彼女はいつだって言う。利己的であれと。

それは、人間の基本だ。利己的であることが、人間の始まりだ。感情の芽吹きだ。人格のスタートラインだ。

それなのに、リュカの感情の始まりは、利他的だ。イルフェリータのためだけの選択だ。

違う。そうじゃない。

イルフェリータは、どこまでも言ったはずだ。利己的であれ。自分の意思を、見せろと。

「……これは……この、感情は……」

身を引き裂かれるような。顎を割られ、頭蓋をへし折られるような、どうにもしがたい、とてつもない痛みは、なんだった?

感じたことのない痛みだ。黒い霧に侵された時も、狙撃の先で守ったときも、こんな痛みを味わったことはなかった。こんなにもどうにかしがたい痛みは、味わったことがなかった。

鼓動が脈打つ。いつもは、自分の命を感じる確かなる証明であったはずが、今となってはただただ無力を嘲笑う時計の針だ。

じんわりと滲んだ冷や汗が、背筋で渡って雫となった。皮膚を撫でる感触が、酷く懐かしかった。自分の皮膚に触れるなにかが、とても懐かしく感じた。物足りなく感じた。

乾いた瞳から、見当違いの痛みが伝わってくる。その痛みを贖罪にしようとする自分に、また更に嫌気がさした。

何が、正解なんだろうか。

それは、これまでずっと考え続けてきたものだった。

どんな状況でも、どんな選択であっても、リュカはそれを考え続けて、苦悩し続けてきたものだった。

そんな命題ともいえるそれを、放っておいたツケが、今こうしてたった一つの選択として横たわっている。たった一人の少女の涙に。それに切り刻まれる自分の心に、蟠っている。

答えが出ない。それでも、リュカは彼女に無言を貫き通すことを良しと出来なかった。

イルフェリータが泣いているところを見ていたくなかった。泣いている少女を放っておくような男だと、思われたくなかった。

だから、答えのない計算過程を、たどたどしくも語り出した。

「ボクはっ……ボク、は……、」

膝をつき、どうして自分が泣いているのかもわかっていないのだろうイルフェリータに、リュカは必至に視線を合わせ、そして息を吐いて自分を繕った。ただ、悲しくならないでほしかった。

幸せで、居てほしかった。

「ボクは、イルにこれを伝えるのを、躊躇っています。……怖がっています。」

空元気で無表情を取り繕うとしていたイルフェリータは、語り始めたリュカの声に、そんな抵抗をやめた。

「これをイルに伝えてしまったら、イルに危険が及ぶ。イルが、幸せになれなくなってしまうかもしれない……!」

「……っ、でも」

「ボクはッ!」

涙ぐんだ声に耐えられなくなって、何を話そうか定まっていないのに、強引に序章をねじ込んだ。

いつもはどれだけだって聞いていられるイルフェリータの声を、どうしようもなく遮った。

「イルが幸せになってほしいと思ってます。ボクがどうなっても、ボクの意思がどうであろうと、イルは幸せになって、どうしようもないくらい笑って、そうして、生きていってほしい。ボクは、それがボクの願いだと、思っていました。」

疑念を抱いたのは、他ならぬイルフェリータの言葉から。

自分の意思だと思っていた感情が、自分に対する一切の利己的な感情を含んでいないことに、違和感を抱いた。

普通は、どんな綺麗ごとだって自分への可愛さだとか、自分へのうまみだとか、そういった打算的な意思が介在するはずなのだ。なくてはならないのだ。それなのに、リュカの願いにはそれがなかった。願いに必要な『感情』が、どこにもなかった。

リュカは、イルフェリータの幸せを願っていた。

「それなのに、なのに……ッ……、今はイルに話してしまいたいと思っているんです。貴方の幸せを損なうかもしれない行為だ。絶対に、してはいけないはずのことなのに、イルに泣き止んでほしくて、ボクは話してしまいたいと、思ってしまったんです。」

心の底を透かされているようで後ろめたくて、リュカは合わせたイルフェリータの瞳から目を逸らした。

「貴方に幸せになってほしい。その絶対の願いが、イルに泣き止んで欲しいって正反対の願いに負けそうで……ッ」

「ぐすっ……アタシはっ!アタシは、……」

今度は、イルフェリータが言葉を遮る番だった。泣きそうな表情で云うリュカの震えた手を取って、イルフェリータは強引に視線を合わせた。

「そうやってキミが悩んでくれてることを、嬉しく思ってる!」

利己的な叫びを、少女はどこまでも堂々とリュカに告げた。

「キミの幸せなんて全っ然考えてなくて、自分勝手で、アタシの感情だけに正直な醜い心……その心で、アタシはそうやって泣きそうなキミに笑いそうになってる。」

「……っ」

「ねえ、アタシのこれって、ダメか?」

いつしか、リュカの手を握りしめたイルフェリータは、思わずといったように少年に体を寄せ、前屈みになるほど声を叫ぶ。

正反対の絶対の願いに揺さぶられるリュカに、自分のことしか考えてない感情を説くイルフェリータ。しかし、歪なのはきっとリュカの方だった。

リュカが泣きそうになって、思わず声を荒げそうになる程、悩んでくれた。リュカはそこで傷ついて、ボロボロの瞳でイルフェリータを見るのだ。彼は、確かに傷ついているのだ。

そしてそれと反対に、イルフェリータは嬉しくなっている。そうして全身全霊でぶつかってくれることに、歓喜をしたためている。

でもそれは、リュカの事を想っていないわけではないのだ。

簡単なことだった。ただただ簡単で、稚拙なことだった。

「アタシは、自分勝手にキミの傷跡で喜んだ。教えてよ……」

「ぼ、くは、……」

詰め込んだ空気は、肺腑で言葉をいくらでも抱えて戻ってきて、言語として感情を吐き出すはずだった。しかし、抱え過ぎた感情がパンクして、言葉が返ってこない。肺腑の中でわだかまった空気が、焦げるほどに戻ってこない。

そんなリュカを差し置いて、イルフェリータは声を続ける。自分勝手に、吐露を続ける。

「教えてよッ!キミの醜いとこ、汚いとこ、もっともっともっと、アタシをめちゃくちゃにするキミの感情を、教えてよッ!!」

糾弾するようにまくし立てるイルフェリータは、美しい白髪を振り乱し、流れた涙を振り払い、どこまでも醜い己を叫ぶ。

「リュカを、……教えてよ……」

ぽつり、空気が感情を切る音だけが、消えそうなほど小さく聞こえた。

思えば、簡単な話だった。

人の幸せを願う、そんな願いに、エゴが含まれない筈がないのだ。もしそこに自分の意思がないのなら、それこそ、その願いは自分の願い足り得ない。

だから、リュカは辿り着いた答えの呆気なさに吐息した。

「ボクは、イルの幸せなんてどうでもいい。」

「……うん。」

尖って、針だらけで、どこに触れても傷つけてしまいそうな、そんな爆弾のような言葉に、しかしイルフェリータはぱぁっ、と表情を輝かせて満面の笑みを浮かべた。

「イルが名前を呼んでもらえなかったときに怒るのが、とっても嬉しかった。」

「うん。」

「イルは傷ついて、苛立って、それで、とっても怒ってたはずで、幸せじゃなかったはずなのに、ボクはなにより嬉しかった。」

「うん……」

「もっと怒ってほしいって、もっと、もっと傷ついて欲しいって、思ったんです……!」

互いにナイフを取り合って、互いに互いを傷つけて、そして、相手の綺麗な身体に残った自分のつけた傷跡に、どこか嬉しくなって瞳を細める。それは元来の、自分のエゴに他ならない。

自分の願いに、違いない。

「イルが自分の裸を隠さないのも、イルの幸せを願うんだったらすぐ辞めさせるべきだった。イルのためだって、そんなウソつきの感情に従うなら……」

「……うん。」

「でも、安心してくれてるんだ、とか、男としてみてないんだとか、感情がぐちゃぐちゃで、どうしようもなくなって……」

リュカは、リュカの感情を叫んだ。


「楽しかった……!」


人の幸せを願う。それは、誰よりも自分の幸せを優先した結果だ。

貴方の幸せを願っている。それは、ただの上辺だけの言葉に過ぎない。

貴方の幸せを願っているという言葉は、貴方の幸せを見て、自分が幸せになれる。だから、自分を幸せにするために幸せになってくれ、という利己的を、必然的に含んでいるものだ。

無償の愛だとか、無理解の愛だとか、そんなものでは到底得られない。醜いエゴの、どこまでも鮮やかで、人間らしい感情。

「イルに幸せになってほしい。」

そして、その幸せを以て、リュカの幸せが完遂される。

「ボクのために、幸せにする。」

「プロポーズみたいだな……?」

ふふっ、と。堪え切れない感情を、どこまでもつまびらかにさらけ出して、涙に腫れた真っ赤な目で、幸せに塗れた満面の笑みで、自分のことしか考えていない二人は、どうしようもなく互いを想っていたのだ。



表面張力。

境界をどこまでも確かにしようとする物理が、水の我儘を許さない自然界の縮図。

空気と水の境界線にて発生するそれが、恐ろしいほどに世界を綺麗に、美しく回す物理法則によるものだというのは、既に知れ渡った平然たる事実だ。

人が想像する法則を、更に超越した現象を引き起こし、しかし、それが世界なのだから、固定されたイメージを上塗りするどこまでも強引な法則。誰が、どれくらい、どれほど強い想いでそれを信じていても、世界がそれを良しとしなければそうはならない。

地動説、天動説がいい例だ。

宗教と真実に振り回された傍迷惑な科学虐待は、命がけの究明によって正しいものだと発覚した。しかし、しかしだ。そんな当たり前のイメージを簡単に覆す物理を、人が証明しなければならないというのも、また事実だ。

つまり、それほどまでに思考というのは人類にとって再重視されるべきもので、人間にとっての要であるのだ。

と、そんな理論を突き詰めた研究所が、今となっては世界を背負っているというのも、また世界の定めたシナリオだというのだろうか。

表面張力は、境界を突き詰める現象だ。

縮まろうとする水は、やがて球体を模し、しかし、世界の法則に乗っ取ってその大半の変貌を阻害される。

水と空気。水と鉄。水と人。

なんでもいい。異なる物質が境界を知っているとき、それは必ず現れる。絶対に損なえない常識として、必ず。


水面を突き破るそれは、境界をどこまでも乱すことのように思える。

境界は、絶対にぶれることはない。水に体が溶けることも、体が水に溶けることもない。そこには境界があり、自分と他人、水と火、光と闇、互いを確かに認め、絶対に混ざり合うことを許さない。

ただ。水面に落ちたその瞬間、また誰もが思うのだ。


混ざり合った。

溶けあった。

混濁して、濁って、ともに在った。


そしてただ、自分でそれを否定する。なぜならそれが、世界の法則だから。それが、正しさというものだから。

正義にすら阻害することのできない、世界が定めた正しさ。誰にも介入することのできない、変えることのできない、永久不変、存在確固とした正しさ。

だから、たとえ混ざり合ったとしても気付かない。

めりこんで、境界に溶けて、何かに触れたとしても、気付かない。

表面しか見ていない誰もが、『イデア』に辿り着けない。


「だからボクは、それが見えました。」


始まりの記憶は、酷く不自然なのだ。

ここでいう記憶というのは、もちろんリュカのもので、しかしリュカのものではない。

リュカという少年の初めての景色は、美しい森林の中に埋もれるものだ。しかし、リュカの中に居る記憶は、それとは正反対。

灰色のビル群、鈍色の硝煙、グレーの色彩。

残響の爆発音に誰もが絶望を重ね、救援のプロペラの音にさえ自害を決意した。

その時自分は立っていて、大切な少女と共にいて、確かに言葉を喋れていた。思考を確かに要していた。

自分は、子供でありながら、幼児ではなかったのだ。

一人で立って、一人で考えて、一人で決断することまではできなかったかもしれないけれど、ともに在った少女と共に生きようと決意するくらいには、自立していたのだ。

しかし、本当にどうしてだろうか。自分には、それ以前の記憶がないのだ。

戦って、傷ついて。愛し合って、舐め合って。殺して、腐って。

そして、その世界で死んだようになったことを、確かに覚えていた。それなのに、最初の景色。モノクロのビル群から前の記憶がない。

規格外な記憶力を持つ人間は、羊水の味まで覚えていることもあるらしい。もちろん、そんな超人的な記憶力を求めているわけではないが、それ以前、どれだけ茫洋としていても、どれだけ抽象的であっても、子供のころの記憶というのは、人格を作る要素だ。その人のルーツだ。

それを、ここまで綺麗さっぱり覚えていないということが、あるのだろうか?

「ボクの中にある、記憶。それが、何よりボクの中の誰かが規格外だと教えてくれました。」

「規格外……?」

「はい。ボクに宿った力のことを。」

怪訝そうな表情でリュカの顔を覗き込んだイルフェリータは、かつて行った問答を思い出した。

リュカとイルフェリータが、初めて確かな理解として互いの力を知った日。恐らく、こうして研究所に狙われる原因となった日。

「さっきの狙撃、あれは、ボクが庇っていたとしても、イルに多少の怪我が及ぶほどの威力でした。」

リュカの体を打った爆風と、森を撃った爆撃の軌跡。

あの時、リュカはイルフェリータを庇おうと、到底敵うわけのない破壊力の塊に立ち向かった。その結果が、リュカの脇腹と森林を抉った圧倒的な損害だったのだが、それも相手の手加減に生かされたようなものだ。こうしてリュカが生きているのは、五分五分、それも判断材料の極端に少ない賭けに勝ったからだ。

しかし、いくら手心の混ぜ込まれた破壊力であったとしても、所詮リュカの体一つであのエネルギーの塊からイルフェリータを守り切れるはずがない。それなのにもかかわらず、イルフェリータには目立った傷はなく、健在である白愛の美しさに、背徳的な色は見えない。

つまり。

「ボクの力は、ボクにすらわからないくらい、『何か』を持っているんです。」

イルフェリータは、取り込んだ体液を、その内部に存在するエネルギーを使って蒸気に変換。放出することのできる異能。

リュカは、取り込んだものを、自在に再現して、いつでも生み出せる。物の所有権を奪ってしまう異能。これによって、リュカは天剣礼華の黒い霧の使用権を半ば強引に分けてもらった。自分の攻撃力。自分の異能の全容すら知らないリュカの貴重な攻撃手段となったのだ。

リュカとイルフェリータが互いに共有した情報は、それくらいだ。

あの時、双方間違いなく知り得ていた異能の知識を共有した。そこに、嘘はない。しかし、知り得ない情報を話すことはできない。それを咎めるのは、酷というものだ。

だからこそ、リュカはあの時、恐怖以外の理由で躊躇しなかったし、わざわざ自分以外の人格と向き合う必要もなかった。

リュカが躊躇ったのは、水面を破ったあの瞬間。自分を貫いた情報が、どこまでも救いようがなかったからだ。果てのない戦いに、臨む切符を得てしまったからだ。

「だから、ボクはイルを巻き込みたくなかった。」

「もう、そんな寂しいこと言うなよ……」

「はい、もちろんです。ボクは、イルがいないと、幸せじゃないですから。」

困ったように笑うリュカにイルフェリータも応じた。

それがどんなものなのか知りもしないのに、そうして共に歩もうとする少女に、しかしリュカは喜びが先行したのだ。リュカの意思が、先行したのだ。


「この世界の惨状は、紆余曲折を経て彼に還る。原悪と対を成す、原初の彼に。」


瞳を閉じて、瞼の裏の暗闇の世界に身を落とす。

何も見えない。耳を塞げば、現実を強いてくるのは皮膚だけだ。そんな安心感と不安感。ないまぜの感情で、ただ一つ。その皮膚から伝わってくる現実が、どんな妄想よりも、空想よりも、空虚よりも、不安で優しくて美しくて甘美で、守りたいものだと、実感する。


「ボクは、全ての元凶なんです。」


だからこそ、既に恐れるものはない。

たとえどれほど罪深くとも、たとえどれほど穢れていても。きっと彼女は受け入れてくれる。

正義に違わぬ限り。自分の信じたものを、己を裏切らなければ、絶対に。彼女は、イルフェリータは、どこまでも利己的に、受け入れてくれる。


「キョウシュウ・リュカ。この力が、原初の異能。」


覚醒したそれが、どんなにおぞましいものだったとしても。



けたたましい警報は、既に警告の呈を成していなかった。数を重ねるほどに希薄になっていく警戒心は、四回ほどの下落によって警戒をなくす危機感を募らせていた。

大型ホールで忙しなく動く研究員たちを見守る指令室は、そんな彼らの上に存在し、ログ、稼働率、ともに様々な情報でもって彼らの仕事ぶりを教えてくれる。

そんな指令室は、暗い闇に支配されていた。漏れるのは、つい数年前に人体への被害を克服したブルーライトの明かりだけ。照明器具が設置されているのにもかかわらずそれを置きものにした指令室は、オルガノン部署の面々とビリーが入る、一種のオルガノン部署室の様相を呈していた。

彼らが照明を消している理由はただ一つ。ただ、ビリーのためだ。

ビリーは、自分の力を最大限引き出すとき、または引き出せたと確信するとき、絶対にその身を暗闇の中に置いている。

自分は元から夜行性の人間だ。体質なのだろうと、考えていたビリーは、異能患者の面々も同じような体質であることに、多少驚いたものだ。

彼女の友人であるエリーことLLも、チェスを片手に交わした雑談でアスト・ペクトも、唾棄すべきことではあるが、所長も同じようなことをのたまった。

異能患者、または異能を持つ者。それに値するものは、どこか暗闇を好む。それが、ビリーが導き出した一種の結論であった。

「通信班、【マナメト】と繋いでください。」

『コードネーム【マナメト】、通信回線から繋ぎます。』

ボタン一つ、警報音を消し去って、指示一つ、手練手管を操って、オルガノン部署のトップに君臨するビリーは、異能患者【マナメト】。研究所から破壊を飛ばす同胞に、冷たく声をしたためた。

「エリー、追撃は可能ですか?」

『ごめんなさい……。推測の域は出ないのだけれど、地下道に水流、機械的な移動手段。そうね、私達が予測していなかった手段で逃げられたわ。』

「あそこまで緑が深いなら、地理的な恩恵にあずかったと考える方が妥当でしょう。……確かに、自分も考えが甘かった。」

『狙撃は、『イエ』が観測してくれれば続行可能よ。多少の地形的な不利も、私の異能なら応用が利く。』

「この作戦は、もともと貴方に重きを置きすぎています。どうか、無理しすぎないでください。」

『あら、ありがたいわね。でも、私達にはこの世界を守る義務がある。』

汎用状況分析人工知能、モデルスカイ『イエ』。三つのプロペラ駆動と、微弱な重力操作による高速機動によって、プロペラ機の応用力の高さと近代エンジンの性能の高さを共存させた、研究部の徹夜の賜物だ。

そんな完成されし完成品は、研究所印を腹に抱えて獲物を見つけた。

「座標、ダブルアリア。チャーチル、オクト。目標を発見しました。どうか、本当に無理をしないでください。」

念を押すように、戦えという命令と、戦い過ぎるなという私情を伝えた。

いくら遠距離からの射撃といえど、相手は所長が警戒心をあらわにした世界の破壊者、になり得る者だ。矛先に据えることすら、危険が伴う。

しかしそれでも、LLは言った。

『明日、チェスをしましょう?』

ふっ、と息を吐いて。というより、微笑を溶いて。

「遺書は、破っておきますね。」

爆ぜる。iターミナルから伝わってきた圧倒的な振動が、大型ホールを地から揺らした。

正義は確かに、残光へと走り出す。



焼けるようだ。

肌にひりつくのは、冷や汗でもあり、焦りでもあり、なにより高揚感であった。その全てがまとわりついて、そうしてそれを覆い隠す様に、確かにそれはリュカの皮膚を覆っていた。

焼けるようだ?笑ってしまう。それは実際に、焼けている。

「んっ……ん……っ」

口の中でじゅる、ちゅぱ、と這いずり回る異物が、どこまでも愛おしく、リュカはそれに極力触れないように舌を引っ込めた。

まるで生きているかのように口内をなぞって、撫でるように、求めるように転がりまわって、イルフェリータの舌が、触れる唇の柔らかさが、温かさが、どこまでもリュカの集中力をかき乱す。ぐちゃぐちゃの口づけが、リュカの口内を搔き乱す。

苛烈になっていくその深い蹂躙に、リュカは目を回しながらも必死に舌を引いた。

しかし、それが逆にイルフェリータの気に障ったのか、少女は更に過激に舌を動かして、真っ赤な顔でリュカの舌を搾り上げる。

体をガクガクと震わせながら、もはや自立すらできなくなったイルフェリータを、リュカはその細い腰に手を回すことで支えていた。まるで恋人のように絡まり合う舌。愛し合うように押し付けられう唇。抱いたウエストを撫でそうになって、リュカは寸前でその命令を弾き落とした。

「ひひゃ!もっろらへ!」

恐らく、「舌、もっと出せ!」といったのであろうイルフェリータは、そんなディープキスに最初は目をぐるぐるとまわしていたが、一度舌を入れてからというもの、全体重でリュカにしなだれかかりながら、その快楽を全身全霊で貪っていた。

体液を貰うためだから、舌は関係ないんじゃ?と無粋な疑問を抱くリュカの視線に気づいたのか、恥ずかしそうに眼を見開いたイルフェリータは、しかしそれを上回るなにかに感情を打倒され、トロンとした瞳で、その奥にある何よりもギラギラとした相反した艶やかな瞳で少年を黙殺する。

大人しく舌を絡めれば、イルフェリータの体からは更に力が抜けていき、押し付けられる胸やふとももの感触が流れ込んでくる。

一見、とうとう一線を越えたカップルのようにも見えるが、別に二人が性欲に呑まれた獣になったわけではない。最期のキスとしゃれこむほどに平凡な思考ができるかというと、彼らに限ってそれはないだろう。

それは、愛を貪る行為ではない。体液を抽出する、補給行為だ。

絶えず啜られる唾液は、思わずクラクラしそうになるほどにイルフェリータに奪い取られ、それによって生成した蒸気は、絶えずリュカに纏わりつき、その皮膚を焼いている。

じゅるじゅるじゅる、と下品な水音を滴らせるイルフェリータに、肩をタップして「もう大丈夫です。」という意思を伝える。肩からも目線からもその意思を受け取ったイルフェリータは、どこか名残惜しそうに唇を引き、しかし身をくねらせて再びリュカの唇を奪い、じゅるるる、ずろろ、と一際激しく彼を吸ったのち、大して体液を吸うことなく離れていった。

互いの唇を繋ぐ銀の糸を拭うのがどこか惜しくて、リュカは唇を噛んで頭の中の淫靡な空気を抜いた。頬に張り付き、空を走り、イルフェリータの首元を経由して彼女の唇に繋がるそれは、噛み切られたリュカの唇から漏れる血液によって徐々に赤く染まり、出来過ぎたように繋がった。

名残惜しくそれを拭って、抵抗するイルフェリータの口元も拭う。

繋いだ手を更にきつく握って、リュカは晴れやかに呟いた。


「異能、解放。」



ピ、ピ、ピ。

点滅を繰り返す緑に、呼応するように渡る電子音。心電図に似たそれは、汎用状況分析人工知能、モデルスカイ『イエ』に残された寿命を示す音色だ。一秒を刻むそれは、やがて五百を刻み、勝手に爆散して消え去るだろう。

イエの機巧は、その内部に含まれた軍事マルテュリオンの保護に、大きなコストをかけている。そもそも、偵察を主とする機体であるため、相応以上の耐久力は持ち合わせていないし、その必要性がない。今回のように規格外の相手だったからこそ不覚を取ったが、通常偵察任務だったなら彼らは無傷で帰還しただろう。

ボロボロに爆散した彼らに、どうして残り時間があるのかと聞かれれば、それが先述した話に繋がってくる。彼らは、確かに異能の攻撃に耐えうる耐久力を持っていなかった。しかし、軍事マルテュリオンの流出を防ぐために、相応のコストをかけている。

軍事マルテュリオンが挿入されたプラグは、ゼロ距離の爆弾を嘲笑えるほどに硬く保護されており、機体墜落から五百秒で自爆。技術流用の道を完全に爆破し、絶つようにプログラムされている。

つまり、彼らにとっての本当の死は、蒸気に焼かれた少年からの突然の破壊力ではなく、それに撃ち落された後の己の本能の末路だ。

それを知ってか知らずか、少年、リュカは、ぐしゃぐしゃに破壊された装甲と、それに絡まり合っていた回路とひしゃげた回路盤の惨状に小さく嘆息した。

「丈夫なんですね。」

『……研究所は、完成された完成品しか生み出さない。私たちのモットーです。』

一瞬のホワイトノイズ。しかし、存外流暢に話し始めた声に、リュカは感情の希薄な微笑みを、雰囲気だけで返した。といっても、繋がっているのは音声のみだ。それが伝わるはずもないのだが。と、そんな憂慮をする暇もなく、イエに搭載された音声伝達機巧から女の声が続いた。

『私は、『プレイト:デュカイオ・シュレー』所長秘書兼オルガノン部署部長、兼異能戦闘部隊隊長、ビリー・ブー=オルガノンといいます。』

知的な美声をノイズに揉まれながら、些か華美すぎる肩書を一切の迷いなくひけらかした女。ビリー。

研究所の手札の一つ。所詮末端の寄せ集めだろうと思っていたリュカにとって、イエの裏側にそこまでの大物がいたというのは驚きも、嬉しくもある誤算であった。

そして、天剣礼華を筆頭とする変人が出てこなかったことも、また嬉しい誤算だった。

瞠目したリュカは、研究所の前に秘匿など無意味だろうと、半ばあきらめ気味に名を名乗る。

「リュカ、と言います。姓も肩書も寂しいので、雑な自己紹介ですけど。」

もはや残骸となった機密情報の塊に話しかけるリュカに、さすがのイルフェリータも興味をそそられたのか、砂浜を長い脚で踏みしめて歩いてくる。

そんな彼女に、人差し指を立てて口を示したリュカは、『静かにしておいて欲しい。』という要求がつつがなく伝わったことに安堵した。

「アタシはイルフェリータ。姓はない。肩書は、……彼のこ、こ…………同伴者……。」

「ちょ……っ!?」

何故か逆に声を押さえてしまったリュカは、信じられないほど詳細に己を語るイルフェリータに当惑した。肩書を述べて、何故かリュカにジト目を向けてきたイルフェリータは、それを首を振りながら逃がして、弱々しい拳で少年をポンと叩いた。

「一緒に背負う。」

ポツリ、リュカを見ずに呟いたイルフェリータは、拗ねるような、どこか嬉しそうな表情で拳を引いて、残骸の通信機に視線を落とした。

『単刀直入にお伝えします。リュカ様、イルフェリータ様、お二人は、研究所、『プレイト:デュカイオ・シュレー』の規定に基づいた『幾望』の判定によって、排除対象に指定されました。』

懇切丁寧に殺害の段取りを決めるビリーは、どこまでも冷静に、血の沁みついた赤い通達所を差し出した。リュカとイルフェリータの名前が刻まれたそれは、希望をへし折るには充分過ぎるものだ。

人類、ひいては全世界である『レガン・ヘヴィア』を牛耳る研究所が、全精力を上げてリュカ達を殺す。その通達書を簡潔にまとめれば、そんな具合だ。

辿るべき結末になぞらえれば、そんな具合だ。

しかし、そんな絶望を無表情で受け取って、リュカはビリビリと通達書に亀裂を入れた。イルフェリータの肩を抱くことで、それを示した。

無表情にほんの少し赤を交えたイルフェリータは、ふいとそっぽを向いて胸を鎮める。

『もちろん、身柄を差し出していただければ、監視と収容、管理の上で生存が保証されます。お互いの幸せを想うのなら、投降をおすすめします。』

理知的に思えるビリーの通告。ビリビリに引き裂かれた通達書が、その末路を辿ることを分かっていたかのように二枚目の赤紙を取り出したビリー。

突きつけるような彼女の言葉は、しかしどこまでも感情に沁み渡る。理論的に語っているように見えて、彼女が狙っているのは納得ではなく懐柔だ。誰もが、戦いを望んでいない。当然だ。『幾望』が放置に待ったをかけた。それは、所長の判断が紛れもなく間違いでないと認めたということだ。

標的とすることすら危険だと、確かに認めたということだ。

このまま二人を拘束することが、研究所が人類正義の基づいて行いたい、最優先目標だ。

ただ、苦労性であるビリーは、またしてもはずれを引いた。周囲に振り回されて、果てには自分の運にも振り回されて、まんまと婚期にも振り回されるビリーは、はずれを引いた。

最強の剣を手に入れた相手に、盾を持って臨んでしまった。

「ボクは、自分の幸せしか考えてないんです。」

『……?』

話の見えない独白に、ビリーは刹那の空白を許した。

その隙に、リュカは無表情のまま正義にたてついた。

「イルは、ボクのものにする。もう、決めてしまったので。」

「っ!っ、っ!……あ、アタシもっ!り、りりり、り、リュカは、……アタシのッ、……だから……」

真っ赤になったイルフェリータは、胸からこみあげてくる何かに任せて勢いのままリュカに倣って宣言した。

『……強固ですね。共依存ではない繋がりが、ここまで強いとは思いませんでした。』

どこか感心したように言ったビリーのそれは、まあもちろん関心ではない。最終的にはアスト・ペクトに任せなくてはならないという憂いと、想像を絶するほどにしんどくなるであろう戦闘に向けた、疲れのようなものだ。

髪を掻きむしるようなノイズの後に、己を装いなおしたビリーは再び殺害日程の通告を始めた。

『三日後、『プレイト:デュカイオ・シュレー』主導による『アリス・ヴズルイフの遺産』崩滅作戦が実施されます。今回の第二次ダーカーストレンジ・ラベリング、『アリス・ヴズルイフの遺産』哨戒作戦の結果に基づいて、お二人は研究所の排除対象となりました。三日後の作戦にて、研究所の特殊戦闘部隊員アスト・ペクトが向かいます。』

並べられる作戦は、リュカ達には到底はかり知ることのできないものばかりだ。

人類にとって有益であるはずの『アリス・ヴズルイフの遺産』壊す意味も、何を以てして自分たちの排除を決定したのかも、リュカたちは知る由もない。しかし、それは二か月前の襲撃も同じこと。今は、研究所からの確かな敵意を受け取っている。

イルフェリータが傷つくかもしれない。自分の幸せが損なわれるかもしれない。それだけは、許せない。

ならば。どれだけの敵だろうと、どれほどの力だろうと、叩き伏す。

異能と異能がぶつかり合う、異形の大戦。


「異能大戦、……。」


確かな意思でもって呟かれたそれを、ビリーはどこか他人事のように笑みを漏らした。それは随分と、的を得ている、と。

音の連鎖が消えていく。徐々に感覚がなくなって、そして消えて、やがて、たった一本の音になる。そうして、短すぎる研究所との交渉は、予想通りの、あってほしくはない結果に落ち着いて、鮮烈な爆発音とともに終わりを迎えた。



撃墜された汎用状況分析人工知能、モデルスカイ『イエ』。通称イエの数は、都合十九機。予備で潜ませていた分も合わせて、その全てを悉く撃ち落された研究所は、続く狙撃にゴーサインを出すことができず、突如消失したイエの反応に頭を抱えるしかなかった。

そんな中、たった一人、頭を抱えるどころか瞳を腐らせるような女が一人。本作戦の立役者の一人、LLである。

作戦続行不可能の通知と共に告げられた休暇命令に胡坐をかき、LLはiターミナルの上にて黒に支配された世界を眺めていた。

所謂地雷系といわれる服装だろうか。『レガン・ヘヴィア』の通信コミュニケーションツールにて爆発的に普及した、黒を基調とした華やかな服装だ。ニーソックスとミニスカートにもかかわらず、足を立てて甘いコーヒーを啜るLLは、普段ならば感謝すべき世界最高のスーパーコンピュータ『幾望』にため息を吐いた。


「該当異能者一件、異能詳細不明。関連分類、『原初』。推定脅威、『デュカイオ・シュレー』。本当に、そうなってしまうのね。」


ビリーとの通信ログに、まるでおまけのように吊るされた、全クルーに配布された作戦資料。その最後の文言に隠された、『幾望』接続回線。同じく吊るされたその結果は、LLが、ビリーが、というより、研究所の誰もが恐れた結果であった。

該当異能者、つまり、観測した異能を扱う使い手が、リュカという少年以外にもいたというデータ。そして、その詳細が不明であるという肩透かし。しかし、関連する秘匿された事案が『原初』という名を背負っているという危険性の提示。その上、研究所に仇なすほどの力を発揮するという脅威予測。

LLは、もはや現実逃避でもするように呟いた。

「最高のスーパーコンピュータでも、脱字をするのね?」

本来ついていなければならない『プレイト:』の文字が抜けて、脅威度が『デュカイオ・シュレー』になっている。

重要視されない脱字に揚げ足を取って、LLは頭を抱えて、瞳を腐らせ、脱力しながら白い息を吐いた。

「ミルクが欲しいわね……」

こうも色気もない舌なめずりも珍しいなと、LLは乾いた舌の感触に、我ながら思ったのだった。


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