第二次異能大戦 #4『Double A side justice』
マルテュリオン。様々な生活用品の機能を担う円柱であり、それ一本で数多の家電に成り変わることのできる『レガン・ヘヴィア』で最も普及している生活機構。
汎用、応用、戦闘、軍事、というように、伴うエネルギーの量によってある程度の分類を行うことができ、その区分は広く周知されている。
通常の生活に使われる、所謂家電の領域にあるのが、汎用マルテュリオン。そして、汎用異能では扱いきれない複雑な処理を必要とする製品に使われるのが、応用マルテュリオン。ここまでは一般人に使用、販売、購入が可能で、広く普及している。
それ以上のエネルギーを伴うものは戦闘マルテュリオンとされ、一般人は資格保有者以外に所有、使用がともに禁じられており、無資格の運用には相応の刑罰が加えられる。
対テロリストなどの犯罪者に対する対抗手段である戦闘マルテュリオンは、銃や警棒、高性能の無線機などの役割を果たし、応用マルテュリオンに多く見られるパソコン形態のものより高性能である。
そして、戦闘マルテュリオンでは対処できない軍事戦闘に使用されるのが、最強のマルテュリオン区分、軍事マルテュリオンだ。
ミサイルやレーダーなどの軍事兵器から、原理の推測すらつかない超常の力を生み出すものもある。
そんな超技術である『マルテュリオン』は、『プレイト:デュカイオ・シュレー』が研究所という代名詞と共に世間に知れ渡るきっかけとなった研究だ。
当時、ダーカーストレンジに対する対応が楽観的であると同時に、何をすればいいのかわからないというような八方塞がりであった世界。研究所はマルテュリオン技術によって作り上げた理想郷、『レガン・ヘヴィア』でダーカーストレンジへの対策にいち早く着手し、世界に自分たちの有用性を示した。
そんな彼らだったからこそ、ダーカーストレンジに呑み込まれた世界の中で唯一の安全生存領域となり得たのだ。そのため、実質的に『レガン・ヘヴィア』は研究所が統治する都市国家となり、それ以外が死に絶えた現在は人類のトップとなった。
研究所は、マルテュリオンを比較的安価で市場に流し、研究所以外に製造方法を知らないという圧倒的な独占状態でも誰にも文句を言わせないという荒業を成し遂げた。
もちろん、そんなマルテュリオンの製造方法は圧倒的な機密情報であり、一般的に流通しているマルテュリオンは研究どころか円柱の中身を見ることすらできなくなっている。
それでも研究所が『レガン・ヘヴィア』内で政府のような役割を遂行できるのは、やはり圧倒的な技術力のなせる業だろう
不透明な誠実さ。それが、彼らを表す最も適切な評価であり、最も的外れな評価である。
★
第三十九回『アリス・ヴズルイフの遺産』崩滅作戦―シミュレーション・対物砲撃訓練
もくもくと立ち上るのは、清々しいほどの晴天であった青空を一瞬で曇天に塗り替えた硝煙。それは、一瞬であった。
視認することすらできないほどの速度でもって射出された何かが、生みの親すら破壊して地面へと吶喊。そして、まるで雷のような速度で破壊力を撒き散らしたのだ。
「……ッ……目標砲撃、完遂。警告、母体の損傷が甚大……」
未だに残響の轟く砲撃の跡地、立ち上るグラウンド・ゼロから約十キロ地点にて、アスト・ペクトは戦闘服越しにそう告げた。
母体、というのは些か穿った表現で、力の器である自分をどこまでも兵器として表現する全体主義的な言葉だ。それ故、彼女は一人称を持たない。
つまり、彼女の言葉をまっすぐに受け取るのなら。目標の砲撃には成功したが、砲撃には自分の身体の損傷が伴う。そんな作戦への提言を、アスト・ペクトは警告として研究所に投げかけたのだ。
だが実際のところ、彼女の損傷という言葉は些か過小評価が過ぎる。それは、損傷というよりも重傷。死傷といってもいいかもしれない。
砲撃の要となる砲台は右腕で、反動によってはちきれたそこに既に肉は存在していない。心もとない細い骨が、焦げながら揺れているだけだ。もちろん被害はそれだけではなく、まるで亀裂のように全身を走る筋肉の断裂は、皮膚を蚯蚓腫れのように這っている。戦闘服の内側であるのにもかかわらずその損傷は際限がなく、この後に控えている帰還訓練はおそらく不可能であろう。
その不幸な爆撃の舞台は、もともとは木々の生い茂っていた森林であった。が、今となっては完全なる荒野。その爆撃の威力がどれほどだったのか伺い知れる。
そんな荒野の中で一人、地面を這ってまで次の訓練へと進もうとする様は、最早素晴らしいというより痛ましい。
『アスト・ペクトさん、貴方の現在の怪我の具合では、作戦の続行は不可能です。』
と、一見冷たくアスト・ペクトを諫めたのは、今日も今日とてオペレータを務める、研究所長秘書。実質的に研究所のNO.2の権力を持つ女の声であった。
これまでの訓練の中で、アスト・ペクトが今回の訓練に匹敵するほどの怪我を負ったのは二回。第五回シミュレーション・広範囲索敵訓練での落下事故と第七回シミュレーション・複数会敵→戦闘訓練での負傷だ。
どちらも今回ほどの傷ではなかったが、もちろん軽い傷であるはずがない。その時のオペレータは、研究所のオペレーティングルームに常駐している通常の女性研究員で、彼女らの制止を振り切ってアスト・ペクトは訓練を続行した。もちろん、その後所長から涙交じりの説教。というより自分を大事にしてほしい、という懇願があったことは周知の事実だ。
しかし、今回のオペレータはそんな所長の秘書を務めあげるNO.2。第一回のオペレートで何か思う所でもあったのか、アスト・ペクトはそんな彼女の制止を存外素直に受け取り、曇天の空と次の指示を仰いだ。
『現在、今の砲撃によって発生した汚染物質が『レガン・ヘヴィア』の市街地に流れ込まないように除去作業を行っています。』
今回の訓練が行われたのは、広大なクレーターの中に存在する『レガン・ヘヴィア』の中の最深部。まだ機械化の波に呑まれていない自然の森林だ。もちろん数十キロの距離を駆ければ、幾万人の暮らす居住地区がある。『レガン・ヘヴィア』を統治する組織である研究所がその管理を疎かにすることは許されない。
そんなニュアンスを加えて、女は冷たい声の裏側に若干の申し訳なさを含みながら言葉を続けた。
『普通の人間が貴方を助けに行くには、汚染物質を無毒化して、相応の装備を用意する必要があります。簡単な目算ですと、あと数時間はかかります。』
「命令、それで……いい」
たとえ世界最高、今となっては世界孤高の技術力を持つことになった『プレイト:デュカオ・シュレー』であっても、そこに属しているのは人間だ。想定外の被害を対処するには準備がいる。オペレーティングルームでコーヒーを啜る女の言ったことは、半ば仕方のないことだ。このままアスト・ペクトを数時間放置したとしても彼女が死ぬことはない以上、それが効率主義の研究所最善の判断であるといえる。
だから、アスト・ペクトもそれを了承した。
酷な判断であっただろう。人道的とは言えなかっただろう。しかし、それでも。それが研究所であり、人類正義と称される所以であり、仕方のない
『いいえ。よくありません。』
「……?」
戦闘服の無線越しに聴こえる女の声は、いつも以上に硬く、まるで意図的にそうしているのではないかと思ってしまうほど不自然に冷たかった。
最善の判断を選択したのにもかかわらずそうして否定されたアスト・ペクトは、一切のリアクションを見せることなく疑問符を浮かべ、そこに何かを言えるスロットが自分の脳内にないことを歯痒く思った。
もちろん、それは女も同じだ。だから、NO.2は硬い声のまま音声を歪ませた。ほんの少しではあるが遠くなった女の声に首を傾げるアスト・ペクト。研究所印のマイクだ。もちろん声は鮮明に届きはするが、その奥にいる女が立ち上がったということにはさすがに気付く。
そして、女は何の躊躇いもなく言う。
『自分が助けに行きます。』
人類唯一の安全生存領域を統治する研究所、『プレイト:デュカイオ・シュレー』は、その莫大な研究員を束ねる研究所長に絶対的な権限がある。そんな研究所長に次ぐ影響力を持つ異能戦闘部隊員、天剣礼華、LL、アスト・ペクトらも、また相応の権力を持っている。しかし、それなのにもかかわらず彼女らは所長への提言を苦手とする。
何故か。そんな余地を残すことなく、所長は多くの場合で最善を掴み取るからだ。
所長が最善を掴み取れない。読み違えるという事態は、所長のメンタルが悲鳴を上げており、感情に振り回されているときのみ。
この時ばかりは誰かの提言が必要になるが、普段の完璧な運用方針を固める所長に自分の意見を売り込むことの恐怖は、研究所職員は皆が等しく共有しており、実行に移せることはほぼない。
そんな時に、なんの気負いもなく、ズケズケと所長に自分の論理を突きつけることのできる研究員が、『プレイト:デュカイオ・シュレー』には唯一、たった一人だけいる。
自分より圧倒的に違う次元に居る相手に、自分とは思考の次元が数百は違うであろう神のような相手に、稚拙と一蹴されるかもしれない、幼稚と見限られるかもしれない、そんな恐怖をものともしない研究員。圧倒的な安定メンタルを振りかざす研究員。
それこそ、『プレイト:デュカイオ・シュレー』異能戦闘部隊隊長にして、私兵戦力オルガノン部署部長、そして、研究所初めての異能受胎者。
何より、『プレイト:デュカイオ・シュレー』創立以来、変わることなく務めあげるその役職。
研究所長秘書。
暗いオペレーティングルームで、女は白いコートに忍ばせた端末に言った。
唯一のNO.2は、言った。
「コードネーム、【狂奏師】(きょうそうし)。ビリー・ブー=オルガノン。」
力強く、凛とした声で。
もはや私兵化した研究所内の部署へと告げた。何よりも愛すべき部下たちに告げた。
命を寄越せ。研ぎ澄ませて返してやる。がしかし、損なうことは許さない。
「オルガノン部隊、走れ。」
★
人類正義『プレイト:デュカイオ・シュレー』は、研究所所長の圧倒的な経営手腕によって一瞬で大企業へと上り詰めた法人団体だ。
研究所、という通称で呼ばれるが、れっきとした経済主体であり、企業に属していた。もちろん、今となっては人類の管理を担うため、企業の枠には収まっていないが。
かつてはマルテュリオンの販売活動と製造活動によって成長し、現在は販売活動を委託して製造のみを請け負っている。
研究と製造、販売を行う通常の企業と同じ経営方針ではあったが、総じてレベルの高かったそれらの中で、研究の完成度はそれはそれは凄まじいものだった。そこから、彼らは研究所、と呼ばれ始めたのだ。
他にも、様々な研究所を買収して、技術力や特許を取り込んでいったという理由もあるのだが、所長の手腕ならばきっとそれがなくとも自然と研究所は研究所となっていただろう。
そんな飛躍的な経歴を背負う研究所は、研究と経営に際した部署、それぞれ七つずつで運用されている。
経営に関しては総務部、法務部、人事部、経理部、流通部、マーケティング部、広報部の七つの部署で業務が行われている。
ダーカーストレンジの異常性により当初より変わっていった蓄積故の体制である。ここに所長が関与していたのは創業当初だけで、現在は所長秘書がほぼ全ての部署のトップを務めあげている。
研究の部署は、『プレイト:デュカイオ・シュレー』が動きやすいように所長が好き勝手に作り上げた体制で、その柔軟性の高い研究サイドの構造は自他ともに認める世界の頭脳だ。
『プレイト:デュカオ・シュレー』の要である研究部は、所長の考案した研究をどこまでも突き詰める部署で、研究所内最大の部署である。
そして、そんな研究やマルテュリオンなどの安全を保障する安全保障部は、研究所内外での研究所に関わる安全を保障するために実験や調査を行う部署で、シミュレーション・訓練などは安全保障部が総動員されて行われる。
研究管理部は、その名の通り研究部署を管理する部門で、勤務時間、法律の順守、そして安全保障部の補佐などを務める、研究所内の警察のような立ち位置である。
研究に使用する原材料を調達する原料購買部は、様々な原材料をどんな困難があろうとも集め抜き、研究部に提供する。入手に際した交渉術は自他ともに評判で、莫大な原材料を定価の七割ほどの値段で買い付けたこともあったという。
マルテュリオン以外の研究成果の九割を生み出している研究所統合部は、円子原粒をはじめとする様々な技術を発表し、それと同時に研究管理部の手が行き届かないほどにくせ者の多い部署である。その実、研究所統合部は名前の通り所長に買収された研究所の集合体で、それぞれが好きな研究を勝手に行っているため、所長秘書以外を恐れることはないのだ。
特許管理部は経営の法務部とその業務の多くを共にし、研究部、研究所統合部の取得している特許が不正利用されていないかの調査、されていた場合の対処などを担っており、法務部と合わせて構成員の質が非常に高い。
頭脳派の人間で構成されている他の部署とは打って変わって、実働部は肉体派の人員を多く所有している。研究所の増設、支部の設立など、建築関係の業務や、研究所の警備、制裁実働などの武装を伴った若干グレーな部署だ。戦闘力は折り紙付きであり、『レガン・ヘヴィア』内の警察に多くの隊員を貸し出している。
と、そんな計十四の部署によって構成される研究所では、時折こんな噂が飛び交うことがある。
『研究所には、秘匿されている暗部の部署が二つ、存在する。』という噂だ。
こんな噂がまことしやかに囁かれるのは、人間としての性か仕方のないことで、所長が諫める意思を持たないために助長されているところが大きい。
というより、実際あまり隠す気がないという面もある。
もちろん、その部署の存在を隠している以上、研究員たちには吹聴できない機密業務を行っているからだが、そもそも研究所自体がブラックボックスのようなものなのだ。信用できる人材しか取り込んでいない研究所でどうして隠す必要がある?とそういうことだ。
そんな秘匿された部署のうち、研究所の職員のほとんどが実在を確信している、周知の秘匿部署。それが、『オルガノン部署』である。
所長秘書ビリー・ブー=オルガノンの名を掲げるオルガノン部署は、何を隠そうビリー本人の口から頻出する部署であるため、研究所内のジョークになるほど浸透している。
ビリー率いるオルガノン部署のモットーは、ただ一つ。
ビリーを王とすること。
所長が、ビリーの誕生日に何が欲しいかを彼女に聞いたとき、ビリーが短く「部署。」と言ったことでプレゼントされた嘘のような部署だ。そのため、ビリーも悪びれることなくオルガノン部署を私兵と称し、オルガノン部署の面々も悪びれることなく所長ではなくビリーに忠誠を誓っている。
完全にビリーの私用でしか動くことのない彼らが、どうしてオルガノン部署という誇りを持てるのか、理由は一つ。
ビリーの私用というのはいつも。
どうしようもなく、お人好しなのだ。
★
「これより、レガン自然森林……今となってはレガン荒野になったが、そんな汚染物質の蔓延した地獄に、訓練に失敗した落ちこぼれを救出しに行く。」
忙しないオルガノン部署の隊員たちに、一言の挨拶すら省略してビリーが作戦の目的を一息に話す。突然入室した上官に、突然話された隊員たちは一瞬で準備の手を静音に切り替え、作業はそのまま眼差しはビリーへ向けて指示を聞く。かつてその忠誠心故に彼女の話の度に手を止めていた際に、「作業を止めるな。」と静かに言われたため、仕方なしの折衷案として考案されたのがこの方法だ。
もはやそこに突っ込んでいるほどビリーは暇ではないため、彼らは定着した迷いない動きでもって忠誠を示した。
「たいちょー、照れ隠ししなくていいんすよ。実働部の救助を待てばいいのに俺らを使うってことは、たいちょーがお人好しだか」
「静かにしろ。」
と、全てを見透かしたような隊員の軽口に、ビリーは酷く冷たく否定をあてがえた。それを聞いた隊員たちは、皆一様に笑みを堪え、しかし堪えようのない誇りのようなものを湛えて準備の手を早める。
普段とは比較にならないほどに冷たい。というより鋭い口調は、半ば自分のお人好しがバレていると自覚した彼女なりの遠慮のなさなのだろう。隊員の誰もが、その甘美な苦言を耳心地がよさそうに聞いている。
「貴方達は、救護用のマルテュリオン車両を彼女のところまで運ぶ。役割は、チームアリアが車両通行用道路の確保と車両の運搬。」
「了解。」
「チームバーバルが隊員のオペレーションを。リーダーに現場の指揮権を任せる。」
「了解……。」
「チームチャーチルは自分を……わたしを守れ。それと、私語を慎め。」
「りょーかーい!」
それぞれに手短に役割を割り振っていき、三分されたオルガノン部署がビリーから信頼を受け取って期待を返す。
心底面倒くさそうに濁った眼を細めたビリーは、チームチャーチルを率いるリーダー、部署内最年少にして最強の少年へと再度声をかけた。
「次余計なことを言ったら、貴方のデスクのモデルガンを実銃にすり替える。」
「り、りょーかーい……」
まるで恒例行事のようにビリーに照れ隠しという因縁を押し付けるチームチャーチルのリーダーは、普段暇な時間にサバゲーをして楽しんでいる銃が人を撃ち殺す凶器にすり替わる想像にゾッと背筋を冷やした。
「救助目標付近は、着弾地点ほどではないが高濃度の汚染物質に満たされている。貴方達の装備でも無力化できないほどに。そのため、私が直々に出向く。」
「出発時刻は……」
「時刻?」
チームバーバルのリーダーがおずおずとそう聞けば、ビリーは悪戯をする子供のような茶目っ気を瞳の端に揺らし、それを一瞬で引っ込めて呟いた。
「二分後、iターミナルから出発する。」
通常片道五分のiターミナルへのタイムアタックを宣言したのだった。
『こちらチームバーバル。救助目標は移動していません。端末にある座標との誤差もゼロです。』
「わかった。……ライブ、貴方たちは座標と三十九メートル、絶対に距離を空けるように。」
「うっす!」
iターミナル。秘匿された秘密部署専用の交通機関の集合体で、研究所から現場に赴くときのあらゆる交通手段を備えている。
そんな機密情報のど真ん中で、ビリーはチームチャーチルのリーダーに警告を告げた。
彼らは、ビリーの本気九割冗談一割の命令を正確に遵守し、三秒の猶予を残してiターミナルへと集結した。満足げなビリーを見て士気を高めた彼らは、各々が装備の確認を行い、護送車両マルテュリオンへと乗り込んだ。
チームチャーチルの数人と、それに守られたビリーは、最高硬度、最高強度の装甲を誇る最高級マルテュリオンに乗り込み、まるで玉座のような椅子に腰を据えたビリーによって出発を宣言した。
駆動音はほぼ存在せず、窓のない車両は音速に近しい速度で現場へと駆ける。
彼女の両親の開発した円子原粒技術の不可視のジェットエンジンは、無音の音速を実現可能にし、それを完成形に押し上げたのは他でもない彼女自身だ。
文字通り自分で切り拓いた道を数分、ビリーは、今は亡きレガン自然森林に。今しがた誕生したばかりのレガン荒野に辿り着いた。
爆心地はアスト・ペクトの現在位置の座標から十キロ地点。爆発とその原因となった物質の化学反応の二つが、主な汚染物質の発生原因だ。
生物が吸えば気管支を壊され、被害は消化器にも影響していき、血流にのったそれは最終的に脳を脳死状態にまで破壊し尽くす。抗毒性能を持ったマルテュリオンのガスマスクを以てしても、長時間の滞在は危険を伴う。
理屈では理解していても実感の伴わない目に見えない死域で、しかしオルガノン部署の面々は相応の危機感を持ちながら現場に臨んだ。
『たいちょう、マスクは大丈夫なんすか?』
と、そんな疑似的なダーカーストレンジの様相を呈するレガン荒野で、マスク越しのくぐもった声がビリーを案じた。
現地で合流したチームアリアのリーダーは、もはや恒例行事のようにその確認をし、答えのわかり切った心配を言う。その死が蔓延する惨状の中で、一切の抗毒装備を身に着けていないビリーに。
「自分は異能患者ですから。……そこそこの生命力は持っているし、研究所なんて問題にならないくらいの装備を、既に身に着けている。」
白いコートをはためかせてそう言った彼女の言葉の真意。それこそ、ビリーが常時は羽織っている白いロングコートを指していると、チームアリアのリーダーは毎度のことながら理解した。
ビリー・ブー=オルガノンは、人の身にして異能を宿した、研究所で最初の異能患者である。
彼女は、自分の万能の異能を使用して新たな戦闘方式『ペルフェオン・アルメティヒ・デヴロップマン』、通称『ペルメティ』を開発した。
自身の異能を攻撃三種・防御一種・機動一種・異形一種に分類して手札のスロットを構築。素早い状況判断と、それに応じた技をあてがえるようにする万能の異能を持つ彼女だからこそ必要な格闘技術だ。
そんな『ペルメティ』の中には、どんな被害も通すことのない防御性能が存在する。
ビリーを守り、敵を砕く。どんな鎧にも負けない、たった一枚の布切れ。
それこそ、ビリーが常に纏っている白いコートであり、そこに宿っている力の正体である。
「自分のオルセントは、たったこれだけの地獄には屈しませんよ。」
ビリーにたてつく現象を、どんなことがあろうと拒絶する結界。白のコートに宿る異能の証、オルセント。
コートに守られていない頭部に弾丸を食らってもビリーを守り通すその力は、まさしく異能。人間業ではない。そんな力をもってすれば、これほどの有害物質など取るに足らない。コートの拒絶は、正常に作動するだろう。といっても、オルセントの機能が途絶したとしても、異能患者の生命力はこれほどでは駆逐できないが。
「さて、チームアリア。救助車両をお願いします。座標から三十九メートルの距離を保って護送すること。頼みましたよ。」
『ええ、任せてください。たいちょうも、気を付けて。』
「……言われなくても。」
チームアリアへの素っ気ない激励をこなし、ビリーは小さく嘆息した。
自分とアスト・ペクトとでは、同じ異能患者であるのに待遇が違い過ぎるだろう、と。
「行くぞ。」
ビリーが進む灼熱の荒野を、チームチャーチルの面々が続いた。
ビリー・ブー=オルガノン主導のアスト・ペクト救出作戦は、オルガノン部署内で完結していた作戦であるのにもかかわらず一切の犠牲無しに成功をおさめ、数時間と見積もられていた救出までの時間を、約三十分にまで抑えた。
そんな作戦の数々が、ビリーのお人好しを部署内で吹聴する根源であると、きっと本人は気付いているのだろう。
がしかし、もちろん、やめるつもりは無いだろう。聡明な彼女は、例え気付いていたとしても。
オルガノン部署は、ただ。そのためにあるのだから。
★
消毒液は、激痛の味を伴っている。
目が覚めて、妙に詩的な表現でふと思った彼女は、しかし皮肉なことに言語機能を持っておらず、それを満足に言葉にすることも、理解することもままならなかった。
それこそ本能的にそんなことを考えたのだから、彼女の怪我の頻度というのも馬鹿にならない。しかも、それが毎度毎度命にひびを入れるほどの重傷だ。世界最高峰の医療技術を持つ研究所であっても、その危なっかしい少女には肝を冷やす。
「起きましたか……現在、自分と貴方に付着した汚染物質の消毒を行っています。あと数十分は出られません。といっても、その怪我なら出たくても出られないでしょうが。」
そんな痛みの目覚めを自覚した少女は、知らない天井に割り込んできた見知った声に目を細めた。
それこそ、戦闘服の向こう側、どこか刺すように、しかし包み込むように指示を手向けていたオペレータ、研究所のNO.2、ビリー・ブー=オルガノン。
「お久しぶりです。アスト・ペクトさん。」
異能、【全象器】。全ての道具に成り変わる全能の力。
通常運用に関して、研究所側が懸念した点はほとんどない。それを裏付けるように、これまでのシミュレーションの中で、アスト・ペクトの負傷はそこまで多くない。もちろん、怪我の度合いからしてみればそれを少ないとするのには多少の良心の呵責があるが、解明の糸口すらつかめていない未知の力を扱った実験である。それがどれほど安全に行われているのかは、研究所が、なによりアスト・ペクトが一番わかっていた。
数十分、とビリーの称した通り、殺菌、消毒、無毒化は、アスト・ペクトが目を醒ましてから二十分ほどで完了した。アスト・ペクトの体は、損傷した跡や、接合した傷跡、針の張った道すら見えないほどにフラットに治癒されていて、時間の可逆を疑うほどだ。
それは戦闘服も同じで、ビリーによって届けられた予備の戦闘服は、その機能の全力で、再びアスト・ペクトを守るために纏われた。
二十分。ビリーにとってもアスト・ペクトにとっても、その時間はそれほど退屈ではなく、戦闘服に何故か搭載されていた虚空投影盤上遊戯システムによって余暇といっていいほどに充実していた。
悪戯をする子供のように微かに表情を緩めたビリーが、どこまでも印象深くアスト・ペクトの脳裏に刻まれていた。
全戦全敗の無念を晴らすため、百一回目の敗北か、たった一度目の勝利か、次の盤面へ期待を込めて、アスト・ペクトはビリーに並ぶ。
iターミナルの厳重な警備を抜けて、ビリーとアスト・ペクトは一般の研究員が業務を行う通常エリアへと舞い戻っていた。
主に研究サイドの七部署が集う娯楽施設で、飲食向きに特化している。設立当初はボウリングやスポーツ、カジノや釣りなどの様々な娯楽が用意されていたが、仕事が娯楽のような人間の溜まり場である研究サイドでは必要とされず、現在は無駄に多種多様なカフェや飲食店の数々と、一人カラオケ専門店が数店舗詰め込まれた異様なエリアである。
研究員たちが各々休憩やら仕事ながらの昼食やらを楽しんでいる中を、ビリーはどこか誇らしげな面持ちで歩いていく。
店舗と廊下を仕切るガラス越しに頭を下げられることも多い彼女は、気を遣わせないようにとその歩幅をほんの少し広げた。目端でアスト・ペクトの速度を鑑みたのも、彼女のカリスマがさせる技なのだろう。
「さて、歩きながらでなんですが、今回のシミュレーションについてお話を。」
研究員たちの多い洒落たカフェエリアを抜けたところで、ビリーは若干速度を落としながらアスト・ペクトに語り掛けた。右手に取ったタブレットは、強引にオルガノン部署に集められた操作ログや映像を詰め込んだものなのだろう。アスト・ペクトの目線に合うようにして差し出されたタブレットには、輸送無人飛行マルテュリオンから滑空を開始したアスト・ペクトの姿が映っている。
相変わらずの過載積装備は、その重量もとてつもなく、落下に伴う加速は目を見張るほどだった。
「ここから。自分のオペレートは、ここでアブデオドa.q.とバイトキシンを配合、つまりは円粒爆発の物理式を完成させろというものでした。」
体にぐるぐる巻きにして取り付けられたホルダーの数々。ビリーが言ったように、映像の中のアスト・ペクトはそのホルダーの中から器用に瓶を二つ取り出し、そして握りしめて霧散させた。
それは握り潰した、ということの比喩表現ではなく、紛れもない事実的な表現だ。彼女は、それを握って霧散させた。
取り込んだ、といった方が正しいだろうか。
「これは、自分の円子原粒砲と同じ、オルガノン家の理論に乗っ取ったものです。貴方の腕が吹き飛ぶほどの威力が出るはずがない。」
円子原粒砲。物質を構成する最小単位、スィクターの高速移動によって座標を喪失させる超推進力を生み出す技術だ。しかし、それはあくまで座標をなくしたことによる『無抵抗力』による破壊力だ。反動があるはずがないし、あそこまでの大爆発も引き起こさない。というより、汚染物質も出るはずがない。
「もし配合を間違えたとしても、被害はビル一つ分で事足りた。」
しかし。過小に見積もられた被害は、過大に叩きつけられた現実によって意図も容易く塗り替えられた。それこそ、ビル一つ分から、街一つ分へ。
おかしいことだ。砲撃を所望したはずが、彼女は消失を模倣した。
「アスト・ペクトさん、その異能【全象器】は、弾丸や砲弾などの触媒を使用し、自身を道具とする力。」
全能の力、全てを模した器の力。
弾丸を取り込めば、彼女の体は銃を模す。砲弾を取り込めば、彼女の体は砲門を模す。
そして同様に。今回彼女が取り込んだアブデオドa.q.とバイトキシンは、スィクターの動きを高速化させる物質だ。研究所は、これを取り込んだことによってアスト・ペクトが円子原粒砲を撃つことができるようになると考えていた。
しかし、それは想像を遥かに超える破壊力として大地に刻まれた。
弾丸を取り込んで、銃になったはずのアスト・ペクトが、銃には到底生み出し得ない破壊力を生み出した。今回の問題の根幹は、簡単に言えばそうして帰着する。
「触媒の力と生み出した威力が、圧倒的に釣り合っていない。」
「……」
「もはや未知としか言いようがありません。マイ・レディも、煩わしく嘆かれていました。」
人類正義『プレイト:デュカイオ・シュレー』を率いる所長ですらも頭を抱える事象。珍しく所長が最善を掴み逃した例が、まさしく今回のシミュレーションだった。
何よりも所長が信じ、何よりも所長に味方する法則が、今回ばかりは所長に牙を剥いた。
イコールで結ばれるはずのそれが、成り立たない。数式が、法則が、どう足掻いても繋がらない。世界の答え、足り得ない。それこそが、所長のメンタルに大打撃を与え、非常に情緒をお乱されになったことで、ビリーに大幅な皺寄せが行ったのだ。そして、心底それに腹を立てたビリー氏は、マイレディこと煩わしい所長をシカトして、オルガノン部署による救出作戦を強行した。
それによって救われたアスト・ペクトからすれば、ビリーの配慮に文字通り言葉もないのだが、彼女の希薄に見える感情ではそこに上手く想いを乗せられない。
「しかし、いくらマイ・レディが煩わしいからといって、それを軽視できるわけではありません。」
数式と演算の上に成り立つ絶対の城。それが『プレイト:デュカイオ・シュレー』だ。確固とした物理法則と、不変のルールに乗っ取っているからこそ、そこには絶対という地の強さが伴う。その絶対が絶対とならないのならば、研究所に人類を背負う資格はない。
「差し支えなければ教えてください。アスト・ペクトさんが知っていることを。貴方が成したことを。」
コツコツとリズミカルに鳴り響いていた凛とした歩幅が、不揃いにして不出来な激突音になり下がり、やがて陳腐な靴音すらも聞こえなくなって、ビリーはアスト・ペクトを真正面から見据えて、冷たい声で言った。
暖かな瞳の奥で言った。
「貴方は一体、何に成り変わったんですか?」
お前の全能は、一体どんな道具を選んだのか?と。
★
「私のお陰で大変ね?ビリー。」
アスト・ペクトを作戦本部の医務室に送り届けた後、ビリーは珍しくもカフェテリアにてカフェインを混ぜ散らかして頭を悩ませていた。
そんな誰から見ても懊悩に苦しんでいるビリーに、恐ろしい程フランクに、恐れという感情を知らないかのような無鉄砲さで、どこか艶やかな声をかける人物。
「本当ですよ、エリー。」
苦笑しながら返した言葉、その先に居たのは、どこかアンニュイな雰囲気を醸し出す女だった。『プレイト:デュカイオ・シュレー』秘匿部署。異能力の戦闘を行う異能戦闘部隊。
異能【マナメト】を宿した魔性の女。LLであった。
エリー、という愛称で呼ばれたLLは、ニッコリと無言で笑みを返し、手にしたコーヒーの氷をカラカラと鳴らしながら、ビリーの対面に足取りを弾ませながら座った。
足を組んで艶やかなニーソックスを晒すLLは、暑苦しいビリーのコートに引けを取らないほどの重装備で、スカートにニーソックスという割には上半身の防寒具の量が中々に異常だった。
どこか似たもの同士。そんな印象を抱く二人は、小さな丸テーブルに書類の数々=タブレットと二杯のカフェインを詰め込んで、眉間を揉んで互いに微笑みを交換した。
「また甘いものですか?もうコーヒーというよりコーヒー牛乳じゃないですか。」
「私はあなたみたいにカフェインの効率摂取を目的としてるわけじゃないのよ?このコーヒーとコーヒー牛乳の間の旨味を、私なりに堪能してもバチは当たらないわよ。」
「……じ、自分は、カフェイン摂取目的にコーヒーを飲んでいるように見えますか?」
「ブラックコーヒーなんて、睡眠から嫌われたい人が飲む薬だと思うのだけど。」
「コーヒーを売りにしているカフェの中で、どうしてそんなことをつまびらかに語れるのか、不思議でなりません……。」
ブラックコーヒーの用途を履き違えたLLは、まるでそこに何の問題がある?とでもいうように持論を展開し、早々にビリーの微笑みに亀裂を入れた。
LLの偏見の多い意見。というより自分本位な意見には、ビリーにはない鋭さがある。こうした日常会話では肝を冷やす程度の意見だが、視野角の拡張を図る場合、忌憚のないLLの偏見は、先見の明に通ずる光明となる。
「まぁ、私のせいでカフェインを求めているのだから、文句なんて言えたものじゃないのだけれどね。」
LLによって所長に提言があったことは、異能戦闘部隊には伝わっている。彼女らの中に『アリス・ヴズルイフの遺産』の崩滅に反対する者はいないため比較的円滑にことは進んでいた。
もちろん、その進行を実質的に丸投げされているビリーにとっては、その円滑は努力と血潮の雫の果てで、やっとのことで掴んだものだが。
そもそも、たった一人の人間が同時にいくつもの部署の決定権を持つこと自体が危険なのだ。オルガノン部署というそもそもの高戦力を持ち合わせているビリーに更に力を与えることが容認されているのは、一重にその人格の出来を誰もが確信しているからだろう。
「大変なのは自分ではなくアスト・ペクトさんですよ……。最後の異能患者だからといって、彼女への扱いは些か杜撰が過ぎます。」
「……そうね……所長も、どこかあの力に何かを透かしているような気がするの。私には到底計り知れないものだけれど。」
異能戦闘部隊の隊長。そして、そんなビリーと親しいLL。互いに聡明な彼女らでも、所長の考えを伺い知ることはできない。その原因は、もちろん頭脳の次元が違うということも挙げられる。しかし、最も大きいのは、きっと経験の差だ。
ビリーでもLLでも。礼華でもアスト・ペクトでも、この世界の誰よりも。所長は天国を見てきたはずだ。誰よりも、永く生きたはずだ。
「駄目ね……どうしても仕事をしたくなってしまうわ……」
「もう病気の域ですね、自分たちは。」
小さな自嘲と明らかな可笑しさを口元に滲ませて、嘆いているにしては朗らかに、ビリーとLLは飲みかけだったコーヒーを煽った。
仕事が趣味のような人たち。そう称した研究所の面々に、それを総括するビリーが含まれていない筈がない。仕事が呼吸のようなビリーは、仕事が使命のようなLLは、こうして示し合わせずに集う小さな会合でこそ、呼吸の煩わしさと自分勝手な押し付けから逃げられる。
「……アリスは、そうまでして憎いものですか……?」
仕事の話に片足を突っ込んだ。ならば、もういっそ肩まで浸かってしまおう。そんなどこか投げやりな諦めと共に、ビリーはLLに寄り添うように真意を問うた。
ダーカーストレンジ『アリス・ヴズルイフの遺産』。ダーカーストレンジ調査作戦、ダーカーストレンジ・ラベリングにて、唯一破壊が可能だと証明された大災厄。かつては無尽蔵に吐き続ける海面上昇器官であった、数多の島国を沈めた海洋の殺戮者だ。
そんな『アリス・ヴズルイフの遺産』は、破壊が可能であると同時に人類にとって有益。そして安全であるという結論も出ている。
最悪、それは放置していてもいいような案件だった。しかし、それでも研究所主導で『アリス・ヴズルイフの遺産』崩滅作戦が決行されることになったのは、紛うことなきLLの進言のためだ。
果たして彼女は、どうしてそこまでするのだろうか。
「別に、大した理由があるわけじゃないの……私は、ダーカーストレンジに眠ってほしいだけ。私を救ってくれた大災害を、全人類の憎しみの矛先に残しておきたくなかっただけ。」
LLのその言葉にビリーは小さく嘆息した。
人類の大半を滅ぼし尽くした大災厄であっても、LLという一人の少女にとってはそうして慮る対象であった。それを、ビリーははかり知ることができなかった。
こうしてつまびらかに弱い部分を語ってくれるLL。だからこそ、ビリーはまた新たな視点を得られたわけだ。
憎悪の断罪ではない。自分を救った悪魔への、些か難儀な憂いの救済。
「不純かしら?」
今度はLLが自嘲するように、叱ってほしいのか、軽蔑されたいのか、しかしどこか恐れながら逆鱗を撫でた。
そんなアンビバレンスに捕らわれたLLにビリーはため息を吐いて応じた。
「自分は、安全に、安定に生きるために両親の研究を、この研究所に売りました。」
円子原粒理論。ビリーの両親の成した革命の一つだ。
そして、その技術を作り出した両親たちに『プレイト:デュカイオ・シュレー』との合併を申し出たのがビリーだった。
「みんなが恐れている。自分は、そう思います。」
「……。」
そのLLの沈黙に、どこか納得したように頷いて、ビリーは目を伏せながら、珍しくも持論に熱を込めた。
「自分も死ぬことを恐れている。エリーも、自分の部下たちも、」
「……」
「もちろん、所長も。みんな、何かを恐れている。」
恐怖心というのは、生きとし生ける者達が、生き、永らえるために備わった絶対の本能だ。
全てのプロセスに直結し、心と綿密に絡まり合う。人の心を雁字搦めにして離さない、病巣のような進化の縁。
「誰も恐れを捨てられない。それがなくなれば、誰もが人でなくなってしまう。」
人が人として生き、化物が人を願って抱き、乞い、つがえ、貪る本能。誰もが持ちうる、『無限の異能』。
「人には恐怖が必要です。守るために、戦うために、生きるために。」
人非ざる異能を宿した少女は、しかし誰よりも人の異能に想いを馳せた。いや、だからこそ、その暗闇に目を剥けた。啓蒙家の後任に喜んで身を投じた。
「そうやって誰かの声に怯えられている間は、貴方は確かに人間ですよ。」
人の前提、化物非ざる異能。そんな恐怖心を失った者は、果たして何になるのだろうか。非合理的だ。不安定だ。しかし、それがなければ、何かひどく恐ろしい過ちを犯してしまう。
その証明が、あそこまで恐怖に身を捧げる所長の生き様だ。
誰よりも聡明であり、どんな生命体であっても勝つことはできない頭脳を持つ所長が、それを捨て去っていないことが、何よりの証明。
「ふふっ、そうね……ビリーとの会話は頭が冴えるから好きだわ。」
「そ、それは……褒めてますか?」
「もちろんよ?」
感情という理解不能、解明困難な歪曲した線たちを、確かなる論理でもって真っ直ぐに叩き直してくれる。どこまでも論理的で、何より感情的な、冷たく静かな激励。
しかし、それが静寂でないから、LLは心を蝕まれる。
ビリーという人格の高潔さに。
LLはそんなビリーのいつも通りの言い草に安堵して、仕切り直すように概要を解いた。
「今のところは無害だけれど、またアリスが屠殺者になる可能性がゼロではない。研究所以外の勢力には、私たちの権力は形無しだもの。」
たとえ異能と権能を併せ持つLL達であっても、研究所以外にそれを漏らすことは許されない。統治者である研究所は、あくまで秩序の調停者だ。決して絶対の独裁者ではない。
研究所の権力をかいくぐったほかの戦闘力に、LL達は手札を持たない。
暗殺だとか抹殺だとか、手段を択ばなければ苦労はないが、そんな時間も余裕も、研究所には存在しない。
となれば、大元となる根源を断ち切る。それが、LLと、そして研究所の下した決断だ。
ともあれ、LLはどこまでもアリスを案じていたというわけだ。それこそ、アスト・ペクトに憂うビリーのように。
「それに、」
小さく、しかし力強く声をしいたLLはビリーの真っ直ぐな瞳から目を伏せて苦々しく呟いた。
「それが、『正義』というものでしょう?」
正義に阿る自分を吐いた。