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Mr.DARKER STRANGE  作者: 事故口帝
??? of the wonderland
12/16

第二次異能大戦 #3『Mr.DARKER』


人類正義『プレイト:デュカイオ・シュレー』、選別の邂戦。【天死体】天剣礼華との激闘から二か月。

アルコールのように体内に沈殿していた本能の熱量がやっとのことで静まった頃。

昂ったそれを諫めるのは、些か長く時間を要した。

イルフェリータへの不安要素。それを逃してしまったことに対する本能的な自戒。それに伴った好戦的な後悔。

元来リュカが攻撃的な気性の人物でないことを鑑みるに、それもイルフェリータの言うリュカの中の誰かの意思ということなのだろう。だからこそ、リュカはそれをどうにか表に出さないように細心の注意を払っていたのだ。

もちろん、それが一切合切上手く行っている筈はなく、やけに敏感にリュカの機微に気付くイルフェリータはたびたび不機嫌になることがあった。

そんな側面もあって、リュカはそんな本能が落ち着くのを何よりも願っていたのだ。

その本能丸ごと自分の感情だと宣言した手前、それによって生まれるイルフェリータの不機嫌にとことん付き合うというのが筋なのだろうが、リュカにはどうにも彼女が不機嫌になっているときのどうしようもない悲痛な瞳が我慢できなかった。自分の中の本能に反するそれが、イルフェリータの言うリュカの意思なのだとしたら、それはどこかエゴのようなものだな、と。リュカは首を悩ませるばかりであった。

本能が好戦的な精神を隠そうとしない。それはつまり、イルフェリータの不機嫌を容認したということだ。しかし、リュカはそんなイルフェリータの不機嫌をどうしても容認できなかった。それは、リュカの意思というものが、リュカの中の誰かの本能に真っ向から逆らっている、という認識で相違ないだろう。

それに対して何かの劇的なアクションがあるわけではないが、リュカとしても先の発言を改める必要があるのではないかと思案する機会になったことは喜ぶべきことだった。

そんなリュカにしか気づけない心境の変化を迎えつつ、今日もまた彼らは早朝六時半、奇妙な共同生活を始めた。

「こんな食材、この森だけで手に入るんですか?」

「あぁ……ママが居た頃は、ちょっとだけ『レガン・ヘヴィア』に買い出しに行ったこともあったけど、今は完全に『アリス』頼りだよ。」

リュカとイルフェリータの共同生活。ベッドから起き上がったイルフェリータは、寝起きの良さを活かして即刻シャワーを浴びて身を清め、寝起きが絶望的なリュカはそれを生かして顔を洗ったり着替えたりと、朝の諸々の準備を済ませる。

そのため、朝との相性が真反対である二人が、こうして同時にキッチンに立つことは珍しくなかった。

と、そんな新生活と生活の狭間では、それ相応の疑問が飛び交うことになる。今朝話題に上がったのは、前々から頭の片隅に居座っていた、この豊富な食材のことだ。

肉、野菜、魚。かと思えば、スナック菓子やアルコールの類まで。このワンルームの食卓に並ぶのは、到底森の中で調達できるとは思えないものばかりだ。イルフェリータ以外にこの森を根城としているものが居ればまだわかるが、きっとそんなことはないだろう。

そして、新生活らしく疑問は続くものだ。

「え、と、『レガン・ヘヴィア』?に『アリス』?」

もちろん、生活らしく答えは返るものだ。

「話しただろ?人類が唯一、ダーカーストレンジの脅威から逃れることのできる、安全な領域。それが、『レガン・ヘヴィア』。」

かつての莫大な人口を、たった八億人にまで減らした大災厄。そんなダーカーストレンジの脅威を、そこでだけは忘れることができる。人類の楽園ともいうべき、『プレイト:デュカイオ・シュレー』の箱庭。

それによって管理され、完全なる支配下に置かれている『レガン・ヘヴィア』。そこには、場所、拡大速度、概念、様々な法則を無視して世界を喰らうダーカーストレンジに唯一法則を押し付けることができる場所だ。彼らに、一切の立ち入りを禁止する。そんな、正体不明のクレーターだ。

そこに対して大した説明の意味を感じなかったのか、早々に『レガン・ヘヴィア』の説明を切り上げたイルフェリータ。実際に赴いたことのある彼女がそうまでして興味をそそられない場所だ。リュカにとっても面白い場所ではないのだろう。

次いで、イルフェリータは残る疑問、『アリス』についてそれで、と前置きして語り始めた。

「『アリス』はこのダーカーストレンジの特徴。アイデンティティみたいなもの。」

ダーカーストレンジのアイデンティティ。これまでの会話で、このアリス・ヴズルイフの遺産は、そのアイデンティティが危険性の無さであるとされていた。しかし、ダーカーストレンジとされている以上、ここにも大災厄の名残というものがあるのだ。

「基本的に入ったら死ぬのがダーカーストレンジだ。汚染されてたり、病魔に侵されたり、電子に溶けたり。」

街一つを飲み込み、今ではその範囲をいくつかの国々を飲み込むほどにまで増大させたダーカーストレンジ、アマツカ隔絶汚染領域。侵入者は、そこに立ち込めた汚染物質の穢れに障られて生命を脅かされる。

イルフェリータが挙げた残りの二つの例も同じだ。病巣神殿アリステ・レイエスは、世界規模で病魔が代替わりしたシッカー・サイド・ターン。その前にこの世界に蔓延っていた病魔、その全てをそのうちに秘めている。アンダレア空虚特異点は、侵入した瞬間に全てを電子へと変換し、電脳世界へと些か強引な旅立ちを祝われる。

イルフェリータの挙げなかった例でも、ダーカーストレンジに侵入することがどれほど恐ろしいのかについて結果を残した大災厄は数多い。

「そんなダーカーストレンジも、死ぬっていう一つの事象をアイデンティティにしてるわけじゃない。」

侵入したら死ぬ。それは紛れもない事実だ。しかし、それは侵入した瞬間に、総じて死を押し付けてくるというわけではない。そこには相応の理由があるし、ダーカーストレンジが侵入者に課すのはその理由の方だ。死というのはそこについてくる結果に過ぎない。

「ダーカーストレンジに入ったらどうして死ぬのか、汚染されて、病魔に侵されて、電子にされて。」

つまり。全ては偶然のようにぴったりとはまっているのだ。

それをメリットとする人類がいるように。それを人のために役に立たせようとする者がいたように。その恩恵に、今こうして縋っている者がいるように。

「そういう理由が、ここはたまたま人類にとって有益だっただけ。」

ダーカーストレンジは大災厄だ。それは、このアリス・ヴズルイフの遺産も例外ではない。大災厄の出現し始めたころは、アリス・ヴズルイフの遺産によって海面が上昇し、いくつかの大陸が滅んでいる。あの巨人も、かつてはしっかりと虐殺者だった。

しかし、そこに付与されていた虐殺のアイデンティティが、使い方さえ変えれば、人類にとっては有益になるのだ。それに気付かれてからは、アリス・ヴズルイフの遺産は、まるでそれだけがダーカーストレンジではないかのように扱われ始めた。ダーカーストレンジ・ラベリングの爆撃実験から、それは更に加速したようにも思える。

だから、それは偶然の筈だ。この大災厄は、偶然、人類の味方となったのだ。

虐殺の力が、繁栄の力に。

「アタシは、それを『アリス』って呼んでるってだけ。」

イルフェリータは、その恩恵にやけに愛おしそうに目を細め、並べられた食材と、事欠かない消耗品に視線を流した。

「それは、どんな力なんですか?」

「別に、難しいことじゃない。あの巨人には、誰が作ったのかも知らない悪趣味な機巧がついてて、それが巨人の力を制御してる。」

悪趣味な、とどこか棘のあるような言葉選びをする割に、そう言うイルフェリータの表情は目元のなごみ方が極まっている。まるで、その悪趣味すら心地いいとでもいうように。

あくまで無表情のままで、イルフェリータはマルテュリオンを取り出して、軽々とその円柱を穴へとはめ込んだ。

「取り込んだものを増やす力。それが、アリス・ヴズルイフの遺産のアイデンティティ。」

「じゃあ、この食材ってそういう……」

イルフェリータが明かしたように、彼女はかつて『レガン・ヘヴィア』に赴いている。定期的に足を運んでいたこともあったのだろう。そんな時、彼女、または彼女の母親は気づいた。この『アリス』の力に。

わざわざ森を抜けて、人類の安全生存領域という仰々しい場所へと行かずとも、一度『レガン・ヘヴィア』で調達したものを『アリス』の力で増幅させればいいじゃないか、と。野菜も肉も魚も、飲料も紙も衣料品だって。この場所では際限なく手に入れることができる。

「ここでやってる発電も、その力を使って……?」

「そうだな。わざわざ馬鹿でかい箱に電気を詰めて、それを増やして人類の未来を照らしてる。」

何かを入れれば増える巨人。それは電気であっても例外ではない。そもそも、『レガン・ヘヴィア』は大災厄によって人類が危機に陥ったことによって生まれた最後の砦だ。そこに『プレイト:デュカイオ・シュレー』という天才が居たのだ。多少の電気を作るぐらいは造作もない。あとは、それを増幅するだけでいい。

被害を被る可能性が限りなく低いといっても、相手は法則を知らないダーカーストレンジ。そこで行われる発電は、確固として巨人を自分たちのものだとするほどの熱量を持っては行われてはいなかった。そうでなければ、イルフェリータがここまで容易に食材を増やせるはずがない。

「でも、そんな力……なんでもありじゃ……」

「そりゃな。死なない肉塊が蠢いてる場所も、理性を消す洞窟も、わけわかんない地下世界も、どこから出てきたのかもわからない変な街も、時間の概念がない穴も。でも。正直、ここが一番常識的なダーカーストレンジなんじゃないか?」

かつてイルフェリータがリュカへと並べたダーカーストレンジの口上。都合九つの大災厄のそれを、もちろんリュカは全て記憶していたわけではない。というより、そんな不可思議な事象や場所を、たった数秒の出囃子に詰め込めるはずがない。リュカが誤解するのも可笑しくなかった。

そう。アリス・ヴズルイフの遺産は、もちろん科学的、物理的に可笑しいことばかりだ。しかし、他のダーカーストレンジに比べれば、その規格外さは規格内。良心的な大災厄なのだ。

そんな皮肉交じりの失笑に、しかしリュカの反応は芳しくない。

出会って数日、イルフェリータの知るリュカというのは、彼女の話す言葉や仕草に、煩わしいほどに幸せそうな表情を浮かべて暗黙の好意を伝えてくる人物だ。しかし、今回ばかりは、リュカの動じず語らず答えを知らずというその態度が、どこかイルフェリータ以外の人物に向けるような無関心なもののように見えた。

蟠る不安と既視感。

イルフェリータは、リュカのその好意をよしとしていない。それは、真の好意であるのか?と問いを投げかけ続けているからだ。しかし、彼がたまに見せる悲痛な瞳の葛藤は、どこか彼にしかない色を見せるようで安心する。だから、リュカのいつもとは違う反応は好ましい反応であるはずなのだ。

それは、リュカ自身が考える、彼だけの思考であるはずなのだ。ただ、今回ばかりはそれが怖い。

まるで、まるで。

「ねえ、今……」

堪え切れないとでもいうように。何とか耐えていたイルフェリータの指先が、怪訝そうな問いかけが、口をついて出た。

いつもなら微笑んでくれるはずのリュカは、今、この時ばかりは知らない記憶に眉を顰め、聞こえないはずの声に頭を悩ませる。

本当に、それは知らない記憶だ。

ベッドに寝そべる起床の記憶。そこに冷ややかな目線と熱っぽい目的を滲ませる女。ノイズがかって聴こえない音の中、しかし一つだけ。

「原初の、……」

どうしてだろう。

リュカは、この世界の常識を知っている。

朝起きれば挨拶をして、昼しくじれば謝罪をする。夜思案すれば弱音を吐くし、一日を重ねれば一年になる。

肉は動物の命で、野菜は植物の命。水は生きるために飲まなければならないし、人は殺してはいけない。服は着ないといけないし、言葉は知らないといけない。

常識だ。当たり前のことだ。けれど、それは己を自覚して数日のリュカに知り得ることではない。

それは、幼子のようなリュカにとって、これから積み重ねながら覚えていくことだったはずだ。こんなにも容易に知っていることではなかった。

がしかし、逆に、リュカには知り得ない常識があった。


人類の大多数を葬った大災厄、ダーカーストレンジ。

蔓延していた病魔が根絶し、新たな病魔が産み落とされた病魔の代替わり。シッカー・サイド・ターン。

ダーカーストレンジの強度、脅威、特徴を調べるために行われた調査作戦、ダーカーストレンジ・ラベリング。

それを実行した、人類の希望にして正義。世界の意思、『プレイト:デュカイオ・シュレー』。

ダーカーストレンジによって追い詰められ、『プレイト:デュカイオ・シュレー』によって守られている人類の安全生存領域、『レガン・ヘヴィア』。

そこで流通する完全なる未知の生活機構、マルテュリオン。


知らない。知らない。

それは、絶対的に常識であるはずなのだ。それなのに、どうしてリュカはその常識を知らない?

常識のほとんどを、自我を与えられた状態ではすでに獲得していたリュカが、どうしてその常識を知らない?もしそれを忘れていただけだったとして、どうしてその常識だけをピンポイントで思い出さない?

ただそれを知らない。ただそれだけが、リュカの思考をなによりも世界から疎外させる。

それでも、思考は止まらない。


突然殴られた感覚も、逆に殴った感覚も、不可視の魔力にぶち当たった感覚も、腕を引き千切った感覚も。

ただ、可憐であった普通の少女に、拳銃を突きつけた瞬間も。

耳をつんざく、火薬の香りも。


知らなかった。知らなかった。

自分に宿る異能の力も、イルフェリータが扱った異能の力も、知らない筈だった。

だって、それは絶対的に知らない側にある知識だ。ダーカーストレンジと同じように括られるべき知識だ。それなのに、知っていた。リュカは、知ってしまっていた。知らないふりをしていた。

それなのに、まるで思い出せと叱責されたかのように、思い出してしまった。

知らない記憶を、思い出して、辿り着いてしまった。

「ダーカーの……力……」

何が境界だ?

自分の異能の力を知っていた。世界の異形の姿を切っていた。知っていることと、知らないこと。その境界線すら、わからなかった。

際限なく鳴り響く嬌声が、何もかもを投げやりたくなった意味不明な喪失感が、決意のために、杭を打ち込んだ感覚が。

見えて、見えて、見えて。

敵は誰だ?それは、どれだ?

今はどこにいる?誰でいる?

それを敵としていいのか?そこに敵である理由はあるのか?果たして、自分は誰の敵なのか?

これは一体何を知るための情景か、これは一体何を切るための憧憬か。

加速する。

それをどうにかする必要があった。それだけは、その諸悪の根源が、それだけを断ち切るために、原悪を消し去るためだけに、手を伸ばした。

だから、だから、そんな言葉、言っていい筈がない。

『どうして』、そんな問いかけを、人類なんて大仰な存在に投げてよかったはずがない。

やめろ、それは駄目だ。

その引き金だけは。

それは、


「今、なに見てた?」


はっとした。

立ち竦むリュカの眼前に、なにか得体のしれないものを見るような表情で佇むイルフェリータ。

「顔、……近くて恥ずかしいです。」

「……、っ……そういうことに、……しといてやる。」

イルフェリータがリュカと出会ってから、たった一度だけ。リュカは今と同じように何かを想起したことがあった。

あれは、イルフェリータが熱心にリュカの頭を洗っていたとき。

話の進む方に舌を任せていたら、その行き先が母親の話へと向かった時のことだ。そこで、イルフェリータは生前の母に聞かされた迫害のダーカーという単語をぽろりと溢した。

その時、BGMのように染み渡っていたイルフェリータの声は、リュカにとって何よりも聞き逃したくない証拠へと変わったのだ。そう、まるで、今この時のように、どこか違うところを見る、得体のしれない目へと、変わったのだ。

「性質を弄る……魔力を手繰る……本物を探す、力が爆ぜる。……不幸が渡る、等価を交わす……人を喰らう、全てを抱く。」

なら、そこにあるのは。

「死神の……力……?」



それは、果たして浅ましい悪魔の一角に名を連ねる存在だっただろうか。

空を駆ける些か冷たすぎる鳥から、ふらりと身を投げ出した。その幻想的な光景は、天使、いや、確固としてそれとは違う。形容するとすれば一番近いのは、神だろうか。

両手を広げ、瞳をもたげ、スカートタイプの戦闘服に数多の触媒を抱え込んだ物騒な神。それは、様々な道具の意味を奪うジョブキラー。まさしく神の所業である全能を体現している。が、しかし、それと同時に。それらに全てを犯されるという卑劣な辱めの業も背負っているのだ。

そう考えてみれば、【全象器】(ばんしょうき)と称される彼女の力が、悪魔の末席に数えられているというのも納得がいくというものだ。


とはいえ。しかしその姿はどうしようもなく美しかったもので、彼女はどうしてもそれをなにかと見間違えたのだ。

それこそ、彼女が『なにか』に対して並々ならぬ感情を注いでいたということの証明であり、それを諦めたが故の光景であり、羽撃く悪魔こそがそれの後継であると認める道程でもあった。


上空数十万フィートを滑る鉄の鳥は、そこに匿った可憐な少女を空へと解き放つ。

風を切って、というより、大気に殴られながら落下する少女の視界は、お世辞にも良好とはいえないほどに真っ黒に染まっていた。それは、少女の瞳がくすみ、淀んでいることとは関係がなく、ただ単に落下による身体の限界が、視界不良となって表れただけに過ぎない。


重なったひし形を貫くようにして劒のような黒の十字架が鎮座する組織ロゴ。それは、この世界の正義をかたる確かなる権威の象徴。『プレイト:デュカイオ・シュレー』のものに違いない。左胸に飾るそれをなぞり、少女は真っ黒の視界の中で眼下の空虚を見渡した。

研究所印の戦闘服。あらゆる困難に対応できるように開発された、人類の叡智の結晶。

体温調節機能を皮切りとして重ねられていったとんでも機能の数々は、既に研究員でも把握できなくなっており、急遽自動制御人工知能が開発されるまでに至った。

そんな呆れ顔の人工知能は、しかしこれまた至高の脳髄、思考の人類によって生み出されたものだ。恐ろしいほどに優秀で、おぞましい程に的確だ。

現に今も、落下し続ける状況をけたたましい警告音で嘆き、背中に内蔵された超小型・円子原粒センディレア発生装置を起動させようとしている。

物体の高速振動によってその位置情報を曖昧にし、通常の物理現象を超越した抵抗力の消失を引き起こす円子原粒発生装置。原理の難解さとは裏腹に、それは作用・反作用の法則を強引に組み込んだ、不可視のジェットエンジンのようなものだ。

地面に叩きつけられる寸前にそれを開放し、落下によって生まれた勢いを完全に相殺する。もちろん、世迷いごとのようなシステムだが、完成された完成品しか生み出さない研究所が、戦闘服として研究員に支給しているようなシステムだ。そこに失敗などという奇跡は、天文学的な確率でも生まれ得ない。

大人しく戦闘服の指示に従って虚空投影のコントロールボードに触れようとした瞬間、耳元でまたしても嘆きが聞こえた。

『アスト・ペクトさん。その人工知能を設計した自分が言うのもなんですが、あくまでそれは現在の最善を導き出すだけであって、総合的な正解を引き当てられるわけではありません。』

戦闘服の襟に内蔵された無線。研究所のオペレーティングルームに接続されているそれは、世界の意思を吐き出す些か重過ぎる通信だ。

そこから世界を滅ぼせという命令が聞こえてきたら、それを遵守することはもちろん、世界が滅ぶという非現実が、現実に我が物顔で横たわることになると覚悟しなければならない。

それこそ、絶対の意思。

そんな混沌の通信から流れてきた声は、言葉通り優秀な人工知能の生みの親。今回の作戦でオペーレータを担当する女性の凛とした声だった。

落下し続ける少女に叩きつけられる空気の中で尚、その声は掻き消えることなく脳に差し込まれ、本能レベルでその声が絶対であると自覚させられる。

『来る今回の作戦は難易度が未知数です。ただの傀儡では、作戦に支障が出る。』

その実、研究所の人工知能開発技術ならば実戦に研究員を派遣する必要はないのだ。人工知能を積んだマルテュリオンを戦場に解き放てば、それが戦車であれ爆撃機であれ、作戦は支障なく遂行される。

しかし、研究所がわざわざこうして研究員を派遣するのにはそれ相応の苦悩がある。

所謂人工知能では、対応できない存在が居るのだ。

ダーカーストレンジを筆頭に、人工知能の戦闘力、思考力、対応力。これら全てをもってしても勝ち得ない戦場に、彼女たちは駆り出される。

だから、戦闘服の人工知能の言いなりになるばかりでは、彼女、アスト・ペクトの存在意義は消失するのだ。

『貴方は力を得た。そして同時に、責任も得た。』

先日の作戦にてアスト・ペクトが得たもの。研究所が得たもの。

両者が、背負ったもの。

『もう材料は揃っています。』

人工知能が短い電子音を鳴らしながら停止した。システムの仕様上、戦闘服の形状が九割ほどなくならなければ、人工知能の機能は停止しない。そのため、今停止したのはアドバイザーとしての人工知能だ。アスト・ペクトが生命の危機に瀕する場合は、自動防衛として復活するだろうが、通常状態では、金輪際その沈黙した人工知能から提言があることはない。

機能の停止信号は、疑うまでもなくオペレータの彼女によるものだろう。

一見アスト・ペクトを殺す最有力候補の意思に思える。がしかし、研究所として長い目で見たときに、今の機能停止がどこまで正解だったのかはアスト・ペクトにも理解できた。

『貴方は次に、勝利を得るべきだ。』

無線越しに、女は言う。

『柵に捕らわれる必要は、ありませんよ。』

一貫して冷たかった口調が、その時ばかりはほんの少し緩んだ。凝り固まった身体を揉みほぐし、最後に小さく背中を押すように。

電子を介した声の温かさに、アスト・ペクトは呟いた。

「パラベラム・【全象器】」

重く、数多の機能を内蔵した戦闘服。しかし、そのごちゃごちゃとした外観に、アスト・ペクトはさらにホルスターを幾重にも巻き付けている。

腰にふとももに胸に腹に。おびただしい量の荷物を体に巻き付けて、異能の解放を宣言した少女はあくまで無表情でそのうちの一つに手をかけた。腹の細長いホルスターに挿入された四角いマガジンのようなもの。

缶と同じような材質でできたそれは、その中に液体を匿っているようで、落下し続ける振動にピチャピチャと水音を発していた。

瞬間、地面に激突する。

悠長に話してはいたが、アスト・ペクトを取り巻いていた状況を戦闘服の人工知能が嘆いていたという事実は変わらない。そのまま何の対応もしなければ、地面に激突して肉塊になり果てるのは必至だった。

そして同様に。

『プレイト:デュカイオ・シュレー』の実質的なNO.2。そのオペレーションが、精肉工場を模している筈がない。

そのオペレーションがアスト・ペクトを昇華させることも、また必至だった。


ごきゅり、ごきゅり。可憐な見た目に反して存外豪快な音を立ててなにかを飲み干した少女。揺れる長い茶髪と、バックパッカー顔負けの積載量。体中を雁字搦めにするホルスターの数々は、その細身の痩身を余すことなく覆い隠し、少女の体を一回り程大きく見せる。

地面に降り立った少女の足元には、千切れ、爆ぜた己の肉片。否。そんな纏わりついた絶望的な未来を、己に纏わせた触媒の数々で断ち切る。

「……『アリス・ヴズルイフの遺産』崩滅作戦。」

どこからか生み出された炎の推進力によって、彼女の足元には小さなクレーターが生み出され、そこに危なげなく着地したアスト・ペクトに異変があるようには見えない。

九死に一生を得た少女は、それのどこが重症になり得る?と二重のシコウを経て見えない無線の先に理解の行動を返した。

「決行、二週間後。」

上擦ったような、掠れかけた繊細な美声で、アスト・ペクトは言語を想起する。

うわごとのように、しかしそこには確かな意思があって、茫洋な雰囲気を醸し出す彼女の声は、やがて核心へと迫っていく。自分の存在意義を、暴き出していく。

なにをしなければならないのか。何を成さねばならないのか。

誰を、下さなければならないのか。


「最終目標は、淫魔のダーカー。フェルモアータの抹消。」


第一回『アリス・ヴズルイフの遺産』崩滅作戦―シミュレーション・降下訓練

アスト・ペクトは、再び、雁字搦めの中で笑顔を灯した。二度と表情に現れることのない笑顔を、心に灯した。



リュカとイルフェリータの共同生活は、多少の諍いを許容しながらも、研究所の襲撃から数えて二か月という期間を呑み下した。

「食料を取りに行こう。」

パックの牛乳を器用に口でくわえながら、イルフェリータは存外はっきりと発音した。その下品なのか繊細なのかわからない離れ業に思わず賞賛を送りそうになるも、少女がワイシャツ一枚パンツ丸出しの状態だと思い出して評価を改めた。

既にその光景に慣れた、というより、その光景に対するリアクションを取り繕うのに慣れたリュカは、内心の鼓動と顔面の赤熱がバレないうちにその話題に乗ることにした。

「ってことは、『アリス』に行くっていうことですか?」

取り込んだものを増幅させて返す不可思議の巨人。人類史随一の大災厄、ダーカーストレンジに名を連ねる『アリス・ヴズルイフの遺産』。

そこには、前述したとおりどんなものでも増幅させられるという規格外の力が遺されており、イルフェリータはこれまでそうして食いつないできたのだ。

「そ。ただ、前みたいなことがあるから、ちょっと怖いなあ、って。」

怖い、という部分を強調して無表情の視線を向けてくるイルフェリータ。その実、結局それは建前で、都合のいい荷物持ち要因が欲しいだけなのだろう。彼女の性格からして怖いなどという言葉をここまですんなり言えるはずがない。

イルフェリータが怖がっていようがいまいが、リュカに断るという選択肢はないため、無言の苦笑でそれに応じる。それにニッ、と嬉しそうな笑みを溢して自分の準備に取り掛かり始めるイルフェリータに、不意討ちを喰らったリュカは顔を赤くしながら恨めし気な視線を向けるのだった。


準備、といってもリュカもイルフェリータも大した準備があるわけではない。

流石のイルフェリータとはいえ、遠出をするときはしっかりとジーンズを履いて露出度を押さえている。といっても、その天性のスタイルの良さと、明らかにサイズを二段階ほど間違えたワイシャツのバストのお陰で背徳的な色気を漂わせているのだから、あまり変わらないような気もする。

取り込んだものを増やす『アリス』の力でも、服のサイズを変えられるほど柔軟性に富んでいるわけではない。いつかは人類唯一の安全生存領域『レガン・ヘヴィア』への遠出も考えなければならないだろう。

枯渇してきた消耗品をバッグに詰めながら、そんな未来を考える。リュカがイルフェリータと暮らし始めてから二か月。研究所という懸念も、【天死体】という不明も、今のところは被害を加えてくる気配はない。もし、このまま研究所が攻めてこなかったら。

ずっと、この先も。イルフェリータが幸せそうに、嬉しそうに、ただただ平和に暮らせるのだとしたら、それでいいのかもしれない。

だから。

「研究所は潰す。」

意図しない声が出て、リュカは思わず手にしていたリンゴを取り落した。

時折、本当に自分が自分なのかわからなくなる。イルフェリータの普段の油断しきった姿に、どこか危機感を抱くこともあれば、思わず見惚れてしまうこともある。

彼女の幸せを願っている筈なのに、自分の欲望を放ってしまいそうになる。

きっと今のも、それと同じだ。

研究所を放置する選択も、あるかもしれない。そんなリュカの考えを、何かが否定した。他ならないリュカの体を用いて、絶対的に否定した。

「誰……なんだ……」

口癖のように言われる、イルフェリータの言葉が脳内で反芻される。

それは、誰の意思だ?

自分の意思だ。そう即答した。けれど、今のはそうだっただろうか?本当に、心の底では研究所を潰そうと考えていて、取り繕った自分を戒めるために口に出してしまったのだろうか。

もしそうだったとして、この違和感は、なんなのだろうか。

「どうかしたか?」

「……いや……特には……」

準備を終えたイルフェリータが、露出を押さえた余所行きの服装に着替えて訪れた。

イルフェリータは不思議そうにリュカを案じながら、その作業を手伝おうと落ちたリンゴを拾う。それにどこか勇気をもらって、リュカはその自問自答に一区切りつけることにした。

今最重要なのは、自分の殺意の行方ではない。今リュカが成さねばならないのは、自分が望んで、イルフェリータも望んでくれたこの生活を続けるための準備だ。

リュカの視線のほんの少し下で頭を揺らすイルフェリータは、その毅然とした態度の下に、孤独という病巣を匿っている。ならば、この生活を守るのが、リュカという人間が今最重要とする目標だ。そこに、誰かの意思の介入など許されない。

目の前にあるものを逸らすことなく見つめて、視界にすらいない懸念を排した。

口をついて出たのは、謝罪だった。

「この前は、ごめんなさい。」

「……?」

荷造りの作業に復帰したリュカのその謝罪に、今度はイルフェリータが作業の手を止めた。その言葉が何を見据えたものだったのかわからなかったのか、イルフェリータは瞳を目尻へと流し、揺れる視線でもって記憶の旅路に身を委ねる。

膨大な体感と極小の事実、都合二か月の記憶の中からイルフェリータが見つけられたリュカの非はほとんどがリュカならざるものへの非だ。

とするならば。

「アタシが着替えてるときに風呂に来た時のこと?」

「いやそれも悪いとは思ってますけど!!」

つい先日、この悪趣味すぎる部屋のシャワールームでは、リュカの不注意から所謂ラッキースケベというものが発生していた。

リビングからシャワールームが丸見えになっている構造上、シャワー中のプライバシーが尊重されていないとして、リュカは互いがシャワーを浴びているときのルールを制定した。それは、お互いのシャワー中、シャワールームを死角とするカウンターで過ごすというものだ。

イルフェリータは、自分がそれを犯しても、逆に犯されても大して気にすることはないが、出来る範囲で遵守していた。

がしかし、寝ぼけ眼で意識の朦朧としていたリュカはあろうことかシャワールームの丸見えの脱衣所に併設された洗面台へと侵入してしまったのだ。

以上、回想。

あそこまで女性側が堂々としているラッキースケベも珍しいだろうが、リュカにとっては後世に語り継がなければならないほどの大罪だった。かろうじて言うならば、イルフェリータが下着姿だったのが幸いだったというべきだろうか。

と、そんな事件を掘り返されて、またしてもリュカはレモンを取り落した。

それを冷や汗をかきながら拾って、リュカは盛大に事故った話を本来のレールへと戻した。

「その、……あなたに、嘘を吐いた……というか、気を遣わせてしまったと思って。」

検索の要素を増やして語られた謝罪の矛先に、イルフェリータの淡々とした検索エンジンもそれがどこを指しているのかやっとのことで理解した。

遡る数日前の事。リュカが思考に没頭してイルフェリータに後始末をさせたあの時。

「せっかくアタシが誤魔化してやったことを掘り返すってことは、何か言いたくなった?」

「……はい……今更っていうのは分かってるんですけど。」

どこか冷たい口調で、しかしリュカの言いたいことを言わせるように導いてくれるイルフェリータ。そこに思っていた以上の怒気が孕まれていて、リュカはサッと引いた血の気を表情に滲ませた。

「ボクは、この力を知ってるんです。あなたの、力のことも。」

喉元をとてつもない力で締め付けるプレッシャーと、脳内に充満する後悔。そうして尻込みしそうになる思考を、吐き出す勢いに任せて声を乗せた。

肺腑を引き摺り出されるような必死さで吐露された呼吸は、そこに乗った言葉を言い終えてからも口内で蟠り、陥った沈黙の中で小さく口の端から漏れた。

今度は両者が、その作業を中断せざるを得なかった。

リュカとイルフェリータの身長差は、微かにではあるがリュカのほうが勝っている。そのため、イルフェリータが顎を引き、綺麗な前髪で表情を覆い隠されれば、リュカが彼女の感情をはかり知ることはできなくなる。身体的にも精神的にも、そういう点はイルフェリータのほうが勝っているといえよう。

虎視眈々、というには些か弱腰なリュカの視線が、一切それに応えることのないイルフェリータの表情に触れた。

「どうして。」

一言、先ほどとは打って変わって無感情な声が、他でもない、誰でもない、リュカに向けられた。

「どうしてアタシが怒ってるか、わかる?」

「ゃ……えと、……」

突如イルフェリータから生まれたのは、読心術でも会得していないと不可能であろう無理難題の問いかけであった。

「めんどくさい質問しちゃってごめんね?でも、」

自嘲気味の謝罪を述べて、しかし、その本題はきっとその先にある。小さく区切った接続詞に、リュカは全神経を研ぎ澄ませた。

スッ、とリュカを見上げたイルフェリータの前髪が、徐々に流れて覆い隠した表情を露にする。

「それがわかんないんだったら、キミのこと、嫌いになる。」

思わず、リュカはその表情の前に息を呑んだ。

イルフェリータは、拗ねていた。まるで約束を破られた赤子のように、甘酸っぱい青春の一コマのように。

涙目の上目遣いと、無意識でやっているのだろうぷくっと膨れた頬。クールビューティーを堅実にこなしている普段のイルフェリータからは頻出することのないレアな表情。その破壊力は相当なもので、リュカはやましいことはないのに、やましい事満載の煩悩で目を逸らした。

嫌いになる。というマイナスの宣言が、ここまで可愛く聞こえるというのは、おそらく彼女は神に愛されているのだろう。そう思考に一区切りをつけ、リュカは高鳴った鼓動をひとまず落ち着かせて記憶を探る。

視線を目尻に濁して、想起するのは極小の体感にして過剰過ぎるほどに早く進む時間。都合二か月の出来事。

「ぼ、ボクがあなたの下着姿を見てしまった、コト……?」

そして、こと優秀なリュカのスペックであっても、人類史上始まって以来正答を引き当てた者がいるのか怪しい問いかけを超えることはできなかった。

むぅ~っ!と更に頬を膨らませたイルフェリータの拳が、ドン、と的確にリュカの鳩尾を捉えた。

そこまでのダメージがあったわけではないが、その姿すら可愛くて、確かに怒っている筈のイルフェリータに可愛いという感情を向けてしまったという自己嫌悪も相まって、リュカの精神は拳一発で起こされたとは思えないほどの荒波に呑まれていた。

しかし、皮肉なことにその精神の混濁が今ばかりはリュカに味方した。

「……呼び方……?ボクが、あなたを愛称で呼ぶっていう……」

「っ!……ふ、ふんっ……」

恐らく正解だったのだろう。一瞬嬉しそうにぱぁっ、と顔を輝かせたイルフェリータは、しかしすぐさまその表情を怒りに装い直し、赤さの抜けない頬を膨らませた。

「え、えと、違ったかな?あ、と……その……」

「……。」

自分の行動が面倒くさいものだと自覚したのか、そのいじらしいストライキを終わらせようとリュカへと向き直る。しかし、視線を交わして再燃した願望が彼女を再び怒りの装丁へと駆り立てる。たとえ中身が怒りでなかったとしても、今ばかりはそんな面しか見えないのだ。頭を掻いて、リュカは恥ずかしそうにイルフェリータを見た。

「ごめんなさい……イル。」

視線を彷徨わせて、最終的にイルフェリータを見たリュカに、少女は心底嬉しそうな顔で視線を返した。どうしてだろうか、微笑んでいるわけでも、笑みを溢しているわけでもないのに、その紅潮した頬と揺れ動く瞳からどこまでも彼女が喜んでいるのだろうということが理解できる。

林檎のように熟れた頬は興奮によるもので、揺れる瞳の中に元気いっぱいの甘酸っぱい輝きが見えるから。そんな照れ隠しの分析を終えたころ、普段なら同じく照れ隠しを始めるであろうイルフェリータが、どこか慌てた様子で長い髪を揺らした。

そして、ニッ、とどこまでも嬉しそうにはにかんで、

「うんっ!」

手に取っていたオレンジが落ちることなど気にしないように、イルフェリータはリュカの胸の中に飛び込んだ。


それから数分。

上機嫌なイルフェリータは、荷物を詰めるリュカと、荷物を置いた机の間に入り込み、無表情なのだろうが体を揺らしていることによって伝わってくる嬉々とした雰囲気を隠すことなく作業を進めていく。作業効率に関してはガタ落ちだが、文句を言えるはずもなく。文句を言いたいわけもなく、リュカもその場を離れて食材を取りに行ったあとは自主的にイルフェリータの背後に舞い戻るのだった。

リュカの腕の中で作業する傍ら、イルフェリータは思い出したかのようにピンと視線を上げ、振り返りながら上目遣いで少年を見た。

「結局、キミはなにを謝りたかったんだ?」

先ほど、リュカの謝りたかった内容と、イルフェリータの謝られたかった内容が乖離していたため有耶無耶になっていたこと。リュカは果たして、なにを自分に謝罪したのだろうか、という疑問。

普段のクールな姿から、たまに見せる可愛らしい姿。家族を亡くして悲しみに暮れていた一般的な少女然とした姿。リュカのイルフェリータへの印象は、クールというより覗き知ることのできないミステリアスといった方がいいだろう。

そんな彼女だからこそ、こうしてさらりと一世一代の決断を掘り返してくる。掘り返してくれる。

リュカには荷が重かった芸当を、簡単にこなしてくれる。

「さっきも言った通りです。ボクがあなたに、」

「ほ」

「ゴブッ!?」

全く経験を生かせないリュカの二人称に、腰の入ったイルフェリータの掌底が決まった。

またしても肺腑を引き摺り出されるような衝撃に見舞われたリュカは、それが完全に物理的なものだと知覚して己の失敗を悟った。

仕切り直して、無表情ながら不機嫌に傾きかけたイルフェリータの精神を引き留めるべく、リュカは言葉を繋いだ。

「ボクがイルに、力を隠してたことを、謝りたかったんです。」

リュカから呼ばれたことで不機嫌状態を脱し、しかし上機嫌状態からも浮上した疑問によって脱される。

イルフェリータには、それが理解できなかった。リュカの言う謝る理由が、理解できなかった。

「それは、謝るようなことか?」

掌底によって外されたリュカのホールド。バッグに消耗品を詰め終えたイルフェリータは、そのギチギチのチャックを強引に閉めて、振り向きざまにそう言った。

思わず立ち尽くしたリュカのことなど気にも留めず、イルフェリータは開いていた距離を徐々に詰め、その額を存外硬い少年の胸板へと押し当てた。

突如襲ってきた庇護欲と抱きしめたいという劣情を、両手を震えさせながら押さえ込み、リュカは眼下に確かに在るイルフェリータの頭を見た。美しい白髪が流れる、白愛の少女を見た。

香る少女の匂いは、訳が分からないほどに脳髄に充満して、爽やかな香りとは裏腹にリュカの体を熱く、汗で濡らしていく。

そんなリュカの様子を見て妖艶に瞳を細めたイルフェリータは、これまた艶やかに唇を舐り、わずかに踵をあげて少年の首筋へと顔をうずめた。

「ちょっ……イル?」

そしてふふ、と小さく笑みを漏らして、ぺろりとそれを舐めあげた。

「ッ!?」

「アタシは、この力を誰かに言わないといけないなんて思ったこと、無いよ。」

リュカの体液を経口摂取にて取り込んだイルフェリータは、小さく距離をとって己の肩を抱いた。すれば、立ち上る蒸気が彼女の柔らかで健康的な肌を蹂躙していき、真っ赤に染め上げていく。

「みんな怖いんだ。今みたいに、アタシも、キミも。」

その異能の力を露呈すること。それが、どれほど茨の道なのか、イルフェリータとて考えたことくらいある。

翼を捥がれた憐れな鳥を、誰もが歪なものだという。

化けられなくなった獣のことを、誰もが恐れて怪物と呼ぶ。

持ちすぎていても恐れられ、欠けていたとて異物とされる。

世界はそういう風にできていて、人はそうやって進化してきて、それが本能に刻まれている時点で、それが紛れもなく正しい感性なのだ。

だから、みんなが恐れる準備をしている。

異形を、異物を、怪物を、化物を、恐れる準備をしている。

迫害を、差別を、奇異を、軽蔑を、恐れる準備をしている。

脅かす側なんていない。誰もが脅かされる側で、恐れる側で、恐れられる側だ。

だから、みんな怖い。それを、罪だなんていうのは傲慢だ。

「アタシのこと怖い?」

「いいえ。……素敵です。」

火傷して、真っ赤になって、蒸気を立ち上らせる少女の肩に、リュカは小さく両手を置いた。

そして、恐れることはなく、恐れられることもなく、少年は少女に呟いた。

「異能、解放……」

リュカの手から生み出された冷水が、真っ赤に焼けたイルフェリータの肩を覆っていく。服が濡れるのに構わずに、イルフェリータはそれに頬擦りして、幸せそうに瞠目して、頬を緩ませた。

「ボクのこと、怖くないですか……?」

「うん。……、……。」

冷え切った少女の肌から手を放し、リュカは困ったように笑みを浮かべてイルフェリータを見た。

それを見て過剰なほどに何もかもを読み取ったイルフェリータは、リュカの両手を取って彼の手を蒸気で焼いた。それでも、怖くない。目の前の少女が、ただただ愛おしい。

「アタシの力。体液を取り込んで、そのエネルギーを蒸気に変えちゃう力。」

恥ずかしそうにそんなことを露呈して、そして今度は促すようにリュカを見た。

焼かれて真っ赤になった手の熱を振り、両手でイルフェリータの頬を挟んだ。むにゅむにゅ、と甘美な擬音が聞こえてきそうな柔肌を堪能して、リュカはまっすぐにその瞳を見据えた。

「ボクの力。ボクが貰ったものを、いつでもボクのものとして使える力。何もかも、奪ってしまう力。」

イルフェリータが初めて力を見せてくれた時。彼女は、ベッドの上の沸騰した水によって火傷を負った。そして、リュカはそれを救わなければならないと奮起した。その力を使った。

口から呑み込んだ水を自分のものにしていたから、リュカは水を自在に生み出して見せた。

そして、森に侵入してきた研究所の戦闘部隊。その一員、天剣礼華との一騎打ちの際にリュカの体に侵入してその身を喰い散らかした黒い霧。それを、リュカは等しく自分のものとして、自在に生み出した。

つまりそれは。

「取り込んだものを、自在に生み出す能力。」

イルフェリータの頬に添えていた手をそっと下して、リュカは不安げに少女の瞳を覗いた。

彼女が恐れるはずがない。彼女が慄くはずがない。彼女が自分を、傷つけるはずがない。

気まぐれな少女だ。内心の読めない少女だ。ミステリアスでクールで、羞恥心の加減がわからなくて。でも、それでも、イルフェリータという少女だけは、絶対に。リュカという存在に対して不幸を押し付けたりしない。彼に幸せを願わない筈がない。

分かっている筈なのにそれを窺ったリュカに、満足したか?とでも言いたげな表情で息を吐くイルフェリータ。しかし、その後にまたしても笑みを見せ、リュカの胸をポンと叩いた。

「まだなんか言いたい?ここに、なんか溜め込んでる?」

分かったような口調で言ったイルフェリータ。というより、わかっていたから、彼女はそう言ったのだろう。

そして、分かられていることを、リュカとて分かっていた。だから、どうしようもないこみあげてくる感情に任せて、声を紡いだ。しゃくりあげそうになる声をどうにか抑え着けて、震える感情のままに告げる。

「知らない記憶なんです。ボクの、知らない記憶。」

「それは、どんな?」

知らない記憶を思い出す。よくよく考えてみれば、どうしようもないほどに不気味な感覚だ。理性ではわかっていても、本能がその記憶のログを知っている。否定しようがない誰かの人生。それを、リュカは酷く穏やかな表情で言った。

問い返すイルフェリータはまるでシスターのような暖かな表情で耳を傾け、一笑に伏す程度の話題を彼女なりに咀嚼する。

「大好きな人を、探しに行くんです。」

イルフェリータに焼かれた両手を恥ずかしそうに眺めながら、リュカはソファに腰かけた。どこともいえない虚空を眺めて話すリュカの表情。そこに怯えがあったのを知ってか知らずか、きっと知らずの無意識で、イルフェリータは座ったリュカの足の間に腰を据え、背後の少年の両手を握った。

それに構わずに、リュカはまるで体験したかのように、実体験であるはずの記憶を語っていく。

「いろんな人に邪魔されて、いろんな人と仲間になって、もちろん、ボクらみたいな変な力を持ってて。」

ざらついた記憶を、丁寧に。

沁みついた残響を、丁寧に。

乾きすらしない生傷を、丁寧に。抉って、抉って、抉って。

「とっても魅力的な人たちだったんです。本当に素敵で、大切で、それで……助けたかった。」

「助けられなかった?」

「はい。自分で、全部壊したんです。全部。みんな殺して、大切な人たちも見捨てて、結局、殺さないといけない悪を殺せずに、殺しちゃいけない愛を殺した。」

握られた掌に罪悪感を感じて、リュカは思わず両手を引いた。

それが気に喰わなくて、イルフェリータは仕舞われた手に再び触れようと少年を振り返った。泣きじゃくる寸前の少年を振り返り見た。

しゃくりあげて、拭いても拭いても溢れてくる涙を必死に両手で拭って。噛み締めた歯根と涙と共に溜まる体温に侵された赤い顔を見た。

「大好きだった人も、きっと。」

キッ、と食い縛った歯を片手で隠して、イルフェリータは少年に向き直って、その膝に顔を預けた。リュカの膝の上で自分の腕を枕にして、甘えるように甘えさせた。床の冷たい感触も、その時ばかりは気にならなかった。

「誰の記憶かも、どこの記憶かも、いつの記憶かもわからない。でも、ボクが突然ここに自覚して、支障なく生活できたのは、この記憶のお陰だと思う。」

リュカは知っている。『常識』というものを知っている。倫理観だとか道徳だとか、精神面での所謂正しさを知っているし、挨拶に敬意、社会的な模範というものも知っている。それが何なのかを知識として思い出すことができて、それがどうしてなのかを思考として探ることができる。

それは、成人足り得ない少年に普通に求められる力で、対して返すことのできる当たり前の力だ。そして、一朝一夕で手に入れられるものじゃない。

ほぼ数日前に己の存在を自覚した少年が、平然と行えるものじゃない。

例えそこにこの世界の知識の一端がなかったとしても、その不可解は生活の支障足り得ない。

安心したように聞くイルフェリータのうなじを撫でて、リュカは長くなってしまった話を締めくくろうと息を吐いた。

そして。

「だから、ボクは知ってる。」

淀んだ瞳。

「この眼は、異能の証だ。」

真っ黒に濁った瞳。淀んだ瞳、くすんだ瞳。そして、美しい髪を映したような双眸と、その奥で燻る黒い混濁。白愛の少女の瞳の奥で、風前の灯火となって揺れるくすんだ色。

リュカもイルフェリータも、紛れもない。

「ああ、そうか。……ママも……」

イルフェリータの想起するその女性が、どのような経緯を辿ってここに辿り着いたのかは、リュカの記憶からは計り知れない。が、イルフェリータのその反応から、きっと彼女の母親の瞳も、異能の証を匿っていた。

そっと体を起こしたイルフェリータは、見上げた先にあるリュカの顔を見た。上目遣いで見上げられたリュカはその可愛さの凝縮された表情に心を疼かせ、しかし伝えなければならない声を引き摺り出した。

「異能を宿したボクたちは、」

アリス・ヴズルイフの遺産内。旧言語を知覚。


「ボクらは、『ダーカー』って呼ばれてた。」


窓に反射したリュカの瞳が。濁った瞳が、淀んだ瞳が、くすんだ瞳が、諫めるように、叱責するように、怒るように、リュカを見ていた。


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