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Mr.DARKER STRANGE  作者: 事故口帝
??? of the wonderland
11/16

第二次異能大戦 #2『Cinder your hands』


拳を構えた敵の目前で繰り広げられる些か不純すぎる激励。白い少女から告げられた甘美すぎる褒美に悶々としつつ、しかし悲しいことにやる気を増し増した少年が、背中に残る感触を忘れようと瞳を閉じて額をつつく。


その隙に、礼華の戦闘に巻き込まれないために飛び退いていた影は、隊長格である怪我人の女を回収。そして、またしてもその場を後にする。

その俊敏な隊列行動から、それが戦略的な一時撤退ではなく、目標を遂げたことによる帰還であることが察せられた。彼女たちは、何かを手に入れた。何か、重大な何かを。

そして、それを持ち帰るため、この場を完全にある一人に任せたのだ。

それこそ、【天死体】、天剣礼華。


限りなく色素の薄いショートカットの髪。両の側頭部から後頭部にかけて、円を描くように浮いている機巧は、円環が頭にめり込んだような造形で、上から見ればアルファベットのCのように見える。

もちろん、本当にめり込んでいるわけではなく、側頭部の機巧と頭との間には相応の距離がある。距離があるからこそ、それがどういう原理で彼女に固定され、浮遊しているのかは、全くと言っていいほど理解ができない。

左目を覆い隠す前髪は、無造作ながらもしっかりと瞳を遮る。とはいえ、隠されていない方の目は恐ろしいほどに黒く濁っているため、それ以上に何かを隠すことなどないような気もする。

しかし、それを伺い知るには邂逅から短すぎた。

下顎全体を覆うようにしてつけられた武骨な機巧と、両手のガントレットからも同じような気配が感じられる。ただの装飾というわけではないだろう。

外見を品定めする少年の無遠慮な目線に気分を害した様子もなく、礼華はにこやかな表情で少年にそれを問うた。

「プレイヤーネームを、聞いてもいいっスか?」

まるでゲームでもしているかのように、礼華はそれが当然とでもいうように名前を問うた。

プレイヤーネーム、という所謂ゲームだとか何かしらの匿名性の介入する名前を聞かれた。それが彼女なりの言葉の綾だったのか、それとも、何か意図があったのかはわからないが、少年は背後の少女を密かに盗み見て、仕方なく名乗る。

「リュカ、といいます。」

「リュカさん……」

うんうん、と頷いて、礼華は抑えきれない好奇心と、止まらない高揚感に頬を染めた。

そして、嬉しそうに両手をぶらりとぶら下げて、肩幅ほどに開いた華奢な両足をしっかりと地面に突き立てて、羽織った黒いジャンパーを翻す。

そして、ゆっくりと、なにか重いものを持っているかのような鈍重さで左手を突き上げた。

空だ。彼女は、何も握ってなどいない。しかし、そこに、何かがあるように思えてならない。まるで、そこに見えない刃物でもあるかのように、錯覚してしまう。邪推してしまう。

発覚、してしまう。

「私の名前は、天剣礼華!異能、【天死体】を授かった、ストレンジャーズ!」

ぴん、と人差し指を立てて、天へと向ける。

「剣聖の生まれ変わり、『サムライ・ワン』とは、私のことっス!」

濁った瞳、淀んだ目。真っ黒の刀。

天を衝く刀、決して煌めかない、不可解な刃。

「始めましょう、【天死体】さん。」

白い少女と話していた時とは一転。完全に笑みを消したリュカが、研ぎ澄ませた闘志を鞘走らせ、礼華にそれを添えた。

「研究所はきっと、ボクの敵だ。」



目覚めは、まるでバクテリアのようだった。

目覚めるというより、芽生えるといった方がいいだろうか。徐々に根を埋め込んで、その足場を確かなものにして、そして、増殖して、増え続けて、まるでカビのように広がっていく。

「敵の正体は、……おおよそ分かってる。」

暗く、先の見えない森。しかし、誰よりもその森を知り尽くし、歩き慣れた少女は、恐れるどころか迷う素振りすら見せずに暗闇を踏んでいく。

その暗闇が地面を伴っているのかも怪しいほどの心もとない光の中を、進んでいく。

進む先は、森を揺らした元凶。巨人に手を出した、斯くも素晴らしき道化の演者。

そして、同じく一切の恐れを抱かずに続く少年も、手にした光の源を揺らしながら闇を睨んだ。

イルフェリータが確かに敵と呼んだ。ただそれだけで、もうそれは敵だ。

彼女の言った、人類がこの森のダーカーストレンジに危害を加えた、という仮説。その『人類』が、一体何者なのか、イルフェリータは予想して、半ばそれに確信的な正解を透かしているのだ。

「人類生存領域の、最高意思決定機関。そして、人類を牽引する、唯一の希望。」

イルフェリータは強張った表情を瞠目して黙殺し、息を吐いて言った。

「人類正義。『プレイト:デュカイオ・シュレー』。」

歩む速度は変わらずに、しかし、踏みしめる力が少し乱暴になっただろうか。

人類の正義、そこまで大仰に正しさを知らしめる語り草と、それに見合わぬ言い草。彼女は言った、それは『敵』だと。

「正義なのに、敵なんですか?」

正義とは、正しいこと。リュカの認識では、というより、リュカの知っている常識では、そういう事になっている。では何故、ここまでその組織の名前に、人類正義という文言に、嫌悪感を抱くのだろうか。

言いようのない感情を質問に変えて、リュカはイルフェリータに呟いた。

正義を敵とするのは、総じて悪と称されるものだ。自分たちは、悪なのだろうか?

「あの研究所が、勝手に言ってるだけだ。……正義なんて、誰でも騙れる。」

「……ボクでも、ですか?」

「もちろん……そんなもん、何も救わないけどな。」

人類の希望であり、正義である研究所『プレイト:デュカイオ・シュレー』。その存在に、正義を騙る罪を課す少女は、今まで決して止めることのなかった足をわざわざ止めて、振り返ることなくリュカに言った。

「だから、アタシも正義じゃない。……正しいかどうか、わからない。」

研究所に対して正義の所在を問う少女は、同時に、自分にも正義の在処はわからないと自覚している。

その上で、リュカにどうしても伝えるのだ。

絶対に、伝えるのだ。

「キミが決めろ。こればっかりは、……これだけは。キミが判断しろ。」

イルフェリータは、酷く俯いて、背中越しでもわかるほどに表情を陰らせて。

「人類の希望たる研究所と、人類の絶望たる大災厄。自分が、どこにいるべきなのか。」

そこでは、即答できなかった。

イルフェリータは言う。本能レベルでリュカに刻まれた誰かの意思が、リュカの意思を遮ってまでそれを決めつけるというのが、どれほど許され難いものなのか。理解していたから。

イルフェリータが不快になるだけの問題じゃない。

リュカの命の進む先さえ決めてしまう判断を、彼に意思を産み付けた何者かに穢されるべきではないと。

ただそれでも、同時にリュカは思ってしまったのだ。

「あなたにそんな顔をさせるなら。」

誰にも聞こえないように。

自分にすら、自分を見る者にすら、聞こえないように。

「あなたを……悲しませるなら。」

口の中だけで呟いた。


「「研究所はきっと、ボクの敵だ。」」


激突する。

眼前で得体の知れない刀を構える礼華に、リュカは恐れさえ置き去りに吶喊した。

再度口にしたそれは、確かなる意思であった。

イルフェリータに聴こえないように呟いた一度目と、礼華に聴こえるように呟いた二度目。

森の暗闇に吐いた呟きと、刃の暗闇にぶつけた叫び。

次は、彼女の番だ。天剣礼華の意思が、解き放たれる。

「パラベラム・【天死体】ッ!」

オォォォンッ、と、唸るように腹の底に響き渡る駆動音が、その空間に浸透した。

礼華の後頭部。そこに接続されたCの形をした珍妙な機巧。そこから聞こえる重低音。そこに意味を見出す刹那すら許さずに、そこに危機を抱く一瞬すら突き飛ばし、そして、発動する。

彼女が左手に持った真っ黒の刀が、輪郭を徐々に霞ませた。闇の帳にブレて、刃と空間の隔たりを無き物として、そして、ただ一身に融して。

嘶いた機巧が、終息した。

「罪を、見せてくださいッス!!」

噴出した。彼女の顎に装着された些か冷たい雰囲気を纏う機巧。そこから突き出た排出口のような突起から、左右二個ずつの黒煙が、噴出する。

先ほどの地面を透き通る重低音は、それを噴出させるための準備だったのだろうか。もしそうだったのならば、その機巧は彼女の体を貫通して、脳にすら影響を与えるような、とてつもない代物だったのかもしれない。

しかし、それでも。

「正義も悪も、何も知らないですよ。ただボクは、」

真っ黒の煙に塗れた礼華。黒煙の狭間から見えたその影に、姿を遮る邪魔な暗幕を突き破りながら突き進む。

「世界が憎い。」

確かに、リュカの指先の感覚は礼華を捉えた。噴出した煙の中で、隠された少女を掴んだ。

研究所の秘密兵器的な登場の仕方をしたとはいえ、正体不明の力を持っていたとしても、何を望んでいるのか見当もつかない彼女だって、その姿はただの少女だ。

雁字搦めの力から解き放たれれば、きっと彼女はただの可憐な少女であった。

だから、触れた彼女の肩は、リュカの力ならば粉砕して、握り潰して、血肉へと還元することも出来てしまうほどに、弱々しいものだった。

ただそこで、例えばの話が『実現の予定』から『比喩の空想』に留まっていたのは、それが実現しなかったからに他ならない。

リュカの手が、彼女の華奢な肩より弱々しかったからに他ならない。

「ぁ……?」

「始めましょうッス!リュカさんっ!!」

ボロボロと崩れ落ちる皮膚と、そこから沁みだす緑色の光。黒く焦げて、ひび割れて、匿った何かを微かに露呈させるそれが、黒煙によってもたらされたのだということは、誰の目にも明らかだった。

「ッぅ……ぐぅぁッ!あァッ!!」

黒煙に侵されたのは、リュカの右腕。ガラス細工のような美しさすら感じさせる、不気味な姿。

空を切った吶喊は、礼華を歯牙にかけることなく宙を舞い、やがて緑色の軌跡を走らせながら樹木を食んだ。

爆砕する木々と爆裂する地面から、リュカの全力の打撃の威力が伺い知れる。そして、それほどの威力を持った右腕を一瞬で無力化した黒い霧のおぞましさが、伺い知れる。

「私としては、あまり使いたくはないんですが、今回は先生の命がかかってるので、致し方ないってやつッス。」

その黒い霧に倒れたリュカに残念そうな視線を向けて、しかし保った理性で回した刀を逆手に握って。

得体のしれない、底の見えない。ただ真っ暗な瞳だけが、何よりも感情を発露させる不気味な少女が、淡い緑を立ち上らせるリュカへと最期を手向ける。

手にした刀が、闇の中で、光の跳ねる血液のように、鮮やかに瞬いていた。

暗く、暗く、呑み込まれてしまいそうなほどに性質として深いそれに、ただ唯一弾かれた光。それがどこか異質で、それ以外のものを意図も容易く赤に帰す所業が、どこまでもおぞましかった。

キン、と月に向けた刀が、次はリュカへと振り下ろされる。

一瞬だ。

その黒い霧の不可解な力でも、礼華の自称する『サムライ・ワン』の剣技でも、最悪、力任せの暴行でも、弱体化したリュカを殺すに足る威力になっただろう。

だから、そこで刀で断とうとした礼華の心根は、どこまでいっても剣であり、それは、彼女が前述した致し方ないという状況にすら当てはまらない。

眼前、振り下ろされる刃。

刹那、吸い放たれる言葉。


「異能、解放。」


リュカの首をかすめ取ろうとしていた神速の剣閃が、その時ばかりは彼の言葉に逆にかすめ取られた。

黒い霧と化して消えた刃。その勢い衰えぬまま、リュカに一切の接触を許さずに、礼華はそのまま中空へ飛んだ。

「その詠唱は……第一世代の……?」

リュカのそれに異常なほどの警戒を示した礼華は、目を見張りながら少年の音を聞いた。

傷だらけの半身から黒煙を立ち上らせて、しかし、そこに透ける緑は一切の衰えが感じられない。直立する少年に、諦めが見えない。

命の放棄など、愚の骨頂である。

だって彼には、力があった。彼には、少女がいた。彼には、宿命があった。

「いい力ですね。【天死体】さん。」

ボッ、と噴出した黒煙が、まるで翼のようにリュカの背後で羽撃たいた。風圧すら伴って木々を薙ぎ倒し、背後一帯を更地に変えた圧倒的なエネルギーの放出。その黒煙は、礼華の解き放ったそれに、よく似ていた。

リュカの背から放たれた翼は、どこまでも、礼華の闇に、似ていた。

「ッはぁ……ははっ……凄いッス!凄いッス!!そんなことができるんスね!?」

感激したように息を詰まらせた礼華は、宙で落ち始めた体を空中でくるりと翻して頬を染めた。

リュカのしたことは、彼女のアイデンティティである異能を奪うという禁忌だ。しかし、それでも尚、彼女は楽しまざるを得なかった。

最大のアイデンティティである剣が残っている彼女には、楽しまざるを得ない葛藤があった。

そして、組織行動によって縛られていたその行動に、リュカは格好の言い訳を与えたのだ。能力の模倣。それによって、礼華は刀で戦わざるを得なくなる。

つまり、剣聖すら彷彿とさせる斬撃を、書き殴ってもいい。


空を蹴る。

触れることのできない空中で、あまつさえ落下中の身で、礼華はそれを蹴った。空中を、蹴った。

まるでそこが地面であるかのように、そこすら地面とするように、礼華の人間離れした身のこなしは、空気抵抗を完全なる空気反射へと昇華させた。

宙を踊る、天使のように。

「イルフェリータ。」

しかし、それを馬鹿正直に待っているほど、リュカも暇人なわけではない。

それを見据えて、再び黒煙の残滓を伴いながら実体化し始める黒い刀を見据えて、その切っ先が未来、自分の心臓を突き据えることを捉えて。小さく、少女の名を呼んだ。

爆発的な膨張が翼から送り込まれ、地面を跳ねて散布する。リュカの生み出した黒煙が、礼華のそれに似た黒い霧が、リュカの姿すら覆い尽くして、彼の体すら蝕んで、やがて、一切を覆い尽くした。

ただ一つ誤算であったのは。

「私は、罪を露呈できない……ッスよ。」

それを、待っていた、という点だろうか。

見開いた瞳で黒を据え、両の逆手で握った刀を振り上げて、眼下、遥か暗闇へ、突き立てる。

「ッッッ!!あッ……づッっ!?」

蟠っていたのは、礼華に対しての興味を喪失した黒い霧ではない。そこに沈殿していたのは、誰よりも彼女を害しようと奮起する、どこまでも礼華という存在に首ったけな、再開を待ち望んだ蒸気。

つまりは。

「霧は、目くらまし……ッスか!!」

黒の霧が、礼華に一切の危害を加えないのは、先ほどの邂逅で十分すぎるほどに認識していた。それを、過剰ともいえるほどに脅威だと実感した。

だから、切り札的に顕現させた黒い霧は、決して礼華の命を刈り取るために生み出したものではない。

そしてもちろん、自害における麻縄でも、心中におけるナイフでもない。

それは、立ち上る蒸気を隠すための、イルフェリータによって生み出された蒸気を覆い隠すための、礼華の認識から、瞳から、蒸気を覆い隠すための、目くらまし。

周囲の霧を喰らって、微かな衝撃波を伴って、魂の形をひり出した。手にした刀で、地面を突く。

すれば、まるで地面を浸透するかのように広がった振動が空間すら揺らし、礼華が生み出した霧も、リュカの生み出した霧も、イルフェリータが生み出した霧も、全てを一重に吹き飛ばした。

依然、肉の焦げる音と匂い立つ油の残滓が礼華を蝕む中、それでも彼女は楽しそうにそれを探した。

「リュカさぁん……!こんなものじゃ、死ねないッスよ~?」

ガクリと、上体を逸らし、遥か高い空を注視する。

尋常ではないほどに赤く、腫れあがった礼華の肌は、融解するには足りないものの、到底我慢できるような程度の火傷ではない。神経を舐るように、そして、体を内からひり出されるように、脂汗の噴き出る熱の連鎖が、礼華の痛覚で暴れまわっている筈だ。

そんな狂気さえ感じさせる罪の露呈者を、リュカは一切の油断なく見つめていた。

少年が立つは、ほんの少し前、己の存在を自覚した断崖絶壁。そこは、彼が生まれたといってもおかしくない、始まりの場所だ。始まりの森だ。

傍らに立つイルフェリータと共に、その眼下、吹き飛んだ森の惨状と、そこでのたうち回る絶叫を聞く。

まるで変化のないぐちゃぐちゃの巨人を、聴く。


激闘の余韻。まだ痛みと共に罪を露呈する右腕を振るって、リュカはそれが徐々に治癒されていることに気付く。治癒、というよりは、取り繕う、という方が正しいだろうか。

ともかく、それが後を引く傷でないことに安堵して、イルフェリータに視線を合わせる。

「ごめんなさい。戦う相手を間違えました。」

飛び出るのは、降参宣言。戦闘前に誓った激励を無駄にしてしまうことへの、罪悪感。

「キミの中の誰かは、アタシのために誰かを殺すことを容認しない……?」

「いえ……あなたのためなら、ボクは誰だって殺せる。」

皮肉を込めて理由を問うたイルフェリータに、リュカは真正面からそれを受け止めて、そしてその上で、自分の確固を貫いた。

しかし、それでも彼は降参を宣言した。

その降参が、自分と相手の力量差を憂いて導き出された、確かなる目算だったのならいい。しかし、イルフェリータにそこまでの感情を向けるリュカが、そのたった数回の試行錯誤に失敗しただけで諦めるだろうか?

リュカならば、たとえ力で劣っていようとも失敗を積み重ね、数多の施行から、ゼロの中から、何億、何兆、幾多分の1を引っ張り出そうとするだろう。

それなのに、彼が施行をやめたのは。

背後に背負った崖下の景色。そこで今も尚自分を探し続ける声を聴きながら、リュカは振り返ってそれを指さした。

「殺せるなら、誰だって。」

「あぁ……なるほどな……」

礼華を蝕んでいた火傷は、決して皮膚を爛れさせるほど重傷のものではなかった。通常の痛覚を持ったものなら行動不能は必至だっただろうが、肌を肉きれにするには至らない。

それなのに、礼華の肌は意図も容易く爛れ落ち、まるでオブラートのように消えていく。露出した彼女の筋線維や骨、赤々としたそこには、罪も葛藤もなにもない。醜いものなど何もないとでもいうように、鮮烈に、美しかった。

絶叫の果て、狂喜の果て、前髪に覆い隠されていない方の眼球が、ぎょろりと周囲を睥睨して、まるで引き伸ばされるように皮膚を作り始めた。

恥ずかしげもなく露出された体内の重要な器官が、再び皮膚によって覆い隠されていく。服によって既に覆い隠されていた部分も、同様に皮膚は爛れ落ち、再生していただろう。

肉を斬り、潰して、こねくり回して、気色の悪い水分の音を響かせながら、礼華は礼華になった。

一切の傷を知らぬ、可憐な乙女となった。

刀を手に取って、異質な病巣患者となった。

「死なない敵は、殺せない、か。」

「ごめんなさい。」

元より、この森の中でアドバンテージを持っているのはイルフェリータたちのほうだ。

そこで撤退を選択するのは、決して悪手ではなかった。そもそもの話、撤退が最善だったのだから。

ただしかし、彼女ら研究所が何を欲して、何を手に入れて、何を怒らせたのか。その一端すら掴めずに、ただただおぞましい敵の片鱗を味わったというのは、決して喜ばしいことではなかった。


人類正義『プレイト:デュカイオ・シュレー』の凱旋。



「朝ご飯、なにがいい?」

「迷惑じゃなければ、ボクが作りましょうか?あなたも疲れているでしょう……昨日は大変だったし。」

早朝。

誰かの一日が終わって、誰かの一日が始まって、それでいて、それぞれに寄り添う時間。

人類の生存領域を脅かした大災厄、ダーカーストレンジ、アリス・ヴズルイフの遺産の小さなワンルームでは、その時間、早朝六時半は一日を始める時間だ。

外を見渡せば、相変わらずのリゾート地のような絶景で、唯一人類に害を与えないダーカーストレンジという肩書きに見合う平和さであった。

しかし、そこに穏やかな日常が伴うわけでは決してなく、その証拠に、その日常が始まった日に、早速頭の可笑しい刺客に横槍をぶっ刺された。

逃亡の後、再びシャワーを浴びたリュカとイルフェリータは、少女の欠如しすぎた貞操観念によって同衾寸前にまで至ったが、決して欠如することのない少年の倫理観によってそれを寸前で阻止することができたのだった。

気を遣われてどこまでも機嫌を悪くしたイルフェリータをベッドに譲り倒し、リュカもソファにて眠ったというわけだ。

そして、朝。再び、穏やかな日常に亀裂が入った。

「何回も言うけどな……そういうとこだよ。一方的な献身ってのは、結局破綻すんの。助け合いだろ?」

「いやでも……」

「しかも、昨日大変だったのはキミのほうだ。アタシはただキミが戦ってたのを見てただけだし。」

クシャっと綺麗な白髪を握って、なんとか体から苛立ちを抜く。イルフェリータの乱れた胸元に苦心するリュカを押しのけて、少女はキッチンに入って小さな冷蔵庫を開けた。

「それと!その『あなた』ってのやめろ。なんか、その、他人行儀で寂しいだろうが……!」

どうせ続くのであろうリュカの言い訳を封殺するように不満を重ね、結局不満と一緒に恥ずかしさまで露呈するイルフェリータ。微かに頬を赤くした少女の語調はどんどん弱くなっていき、最終的にくるっと振り向いてリュカに背を向けてしまう。

きゅん、と胸を締め上げられたリュカは、後ろから確認できる赤い耳を見なかったことにして、キッチンに併設されたカウンターの椅子に座って話題を自然に切り替えた。

「それじゃあ、なんて呼んだらいいですか?」

「……別に、好きに呼べばいいだろ……普通に……」

冷蔵庫を開けたまま、恥ずかしそうに頬を掻きながら、イルフェリータは何かを押し留めるように沈黙した。

結局の答えを聞けなかったリュカは思考して、しかし思い浮かばなかったそれを聞き出そうと再びイルフェリータを見た。

すれば、まるで捨てられそうな子犬のように上目遣いで赤面する視線と目が合った。

「一方的な献身は破綻するらしいですから、過剰な気遣いはやめようと思うんです。だから、ボクはあなたがどう呼んでほしいのか探りません。あなたから教えてください、ぜひ。」

ニッコリと満面の笑みで会話のログを掘り返すリュカ。頬を染めながらむぅ、と困ったように、拗ねたように口を尖らせるイルフェリータ。気丈な雰囲気を纏う彼女らしからぬ幼い挙動に心臓を掴まれながらも、リュカの意思は揺るがない。

そしてそれは、ほんの数分前のイルフェリータの感情も同じで、その言葉に含まれた絶対性も不変だ。

どうやら逃げ場はないと悟ったイルフェリータはバッとリュカに背を向けて、絞り出すように声を放つ。

「ぉ……ぅ。あい、しょう、とか……ニックネーム、みたいな……」

開け放たれていた冷蔵庫の扉を片手間にパタンと閉じて、取り出した食材を手に取ったり、まな板の上に置いたり、特に意味のない行動のサイクルを繰り返す。

「いや……わかってるんだよ……会ってたかが二日で変だって……でも、いつキミが居なくなるかわかんないんだ……。ちょっとでも、楽しく生活したい……」

まるで言い訳でもするようにブツブツと言葉の真意を吐露するイルフェリータ。

母親と死別した。彼女は、昨日シャワールームでそう話した。彼女は母を亡くしたその日から、母を亡くしたその地に通い詰めるほどに、孤独を嫌ったのだ。

それでも、それでもリュカの全肯定に甘えようとしないのは、イルフェリータ自身が語った一方的な献身を、同じく嫌ったからだろう。

孤独は嫌だ。けれど、目の前にいて目の前にいない誰かの温かさに甘えるのは、リュカと真に触れ合っているとは言えない。それは、彼女の信じる正しさ足り得ない。

イルフェリータが頑なにリュカ自身の感情を知りたがるのは、根幹にそんな感情があるからなのだろうか。

どこまでも真っ直ぐにリュカを見るイルフェリータは、だからこそ、もし本物のリュカの意思が別離を求めていても受け入れられるほどの覚悟を持てる。彼女の求めているのは、そういうものだから。

「じゃあ、『イル』っていうのはどうですか?」

「へ……ぇ……?」

「イルフェリータの最初の二文字で、イル。どう、かな?」

リュカの提案した愛称に、イルフェリータは巻き戻すようにバッとリュカに振り向いて、呆然としたように動きを止めた。

気に喰わなかっただろうか……と鼓動を加速させるリュカの不安とは裏腹に、イルフェリータは満足げに頷いて、再び朝ご飯の支度へと戻っていく。

この二日で、イルフェリータの機嫌を損ねた回数は中々のものだった。だからこそ、その苛立ちの背中と、そこから滲み出る不機嫌さがとてもわかりやすいことを、リュカは熟知していた。

だがしかし、もう一つ。

滲み出る不機嫌さ?違う。滲み出る感情の何もかもが、彼女の背中にはありありと現れる。

そうして嬉しそうに調理を進めるイルフェリータの背中。

「それなら、よかった。」

リュカは小さく、イルフェリータに気付かれないように呟いた。

森の中だけで調達したとは思えないほどに恵まれた食材たちは、どこか、懐かしい味がした。



通信回線、防御プロトコル第2253層。

『プレイト:デュカイオ・シュレー』最警戒意思通達回線。


それは、一つの境界を超えるための回線であった。ただ声を届けるために、そんな面倒くさいプロセスを必要とするなど愚の骨頂ではあるのだが、状況が状況だけにそこに異を唱えられる者はいない。

秀才にして奇才、奇才として天才、そして、異才。そんな圧倒的な知能至上主義。それが、人類正義、別名世界の頭脳とも呼ばれる、正真正銘思考の頂点に君臨する『プレイト:デュカイオ・シュレー』だ。

彼らによって生み出された革命は数知らず、歴史の転換点を百世紀単位で早めたという偉業の集団だ。

そんな頭脳の最高潮である研究所が、全力を挙げて作り出した、最強の通信防御回線。

例え世界序列一位のスーパーコンピュータ『幾望』を百機同時に稼働させたとて届かないとされるほどの耐久プログラムによって稼働する回線。

諸事情により、研究所の職員が研究所のトップである所長に話を通すときは、絶対にその回線を経由しなければならない。といっても、回線を経由しない直接の対話が、物理的に不可能であるための処置なのだが、それを知る研究員は研究所内でもあまり多くはない。

そんな秘匿回線というより抹消回線といったほうが正しいような、世界一安全な回線の中、それはさも当然のように文字を差し込んできた。

『Art work for Unknown』

電子世界にテキストとして送り込まれてきた文字列。

詠み人知らずの芸術作品。

それ単体では意味の伝わらないであろう一文を、わざわざこの抹消回線の超セキュリティを突破して送り込んでくる。そんな暇人を、頭の可笑しい人間を、研究所は一人しか知らない。

『あなたは今、どこにいるの?』

研究所のIDが、追求というには些か語彙の甘い問いを打ち込んだ。

静かな世界だ。所長と話す研究員は、そこまで頻繁にいるわけではない。つまり今、その回線にて言葉を知っているのは、所長と、頭の良すぎた不法侵入者だけ。

些かロマンのない二人きりの状態で、会話が交わされることはない。

不動の電子にショックを受けながら、帰ってこない返事を待ち続ける。一向に帰ってこないそれが、もう既に終わらされたものだと悟り、ただ一つ、疑問を向けた。

『その文には、どんな意味があるの?』

答えが返ってくることはない。

回線に介在している人数が、寂しいままで沈黙していた。


その孤独は、長くは続かなかった。

今度は無礼な侵入者ではない。次は従順な可愛い部下からの通信だ。二千を優に超える電子の防御壁を、一つ一つ手動で処理して、開け放っていく。といっても、二千ある門戸をわざわざ開けに行くわけではない。同時並行で電子信号をテンポよく送っていき、待ち受けている愛しき研究員を迎えに行くだけだ。その作業は、秒の域を出なかった。

高速演算によって次々に開け放たれた防御壁、その先で待ち構えていたのは、抹消回線のベルを鳴らしたのは、愛らしい少女であった。

『体の調子はどうかしら?できれば、声を聴きたいわ。』

献身的ではあるものの目上の者に対する言葉遣いにしてはやけに砕けた口調。テキストとして伝わってくる電子であっても、所長はそれが誰によって打ち込まれた言葉なのか一瞬で理解することができた。

自分の愛する研究所、そこで、命を賭して研究を続けてくれている研究員約一万人の名前、誕生日、好物、趣味、その他諸々。都合人間とは思えないほどの知能指数をその意思のままに操る所長からしてみれば、それを憶えないことはただの怠慢。彼女ら、彼らに対する冒涜である。所長はただ、そう自戒する。

そんな愛の成せる狂気的なデータベースの中からヒットしたのは、所長に最も近い役職に居る、『プレイト:デュカイオ・シュレー』の本懐。到達点にして、通過点。そんな、重過ぎる期待と、大きすぎる羨望を一身に背負った八人の少女たち。その中の一人、LLと呼ばれる少女であった。

所長の信頼すら一心に抱く少女たちだ。そこで要求を聞き入れない通りはない。むしろ、このたった数個のデータによって構成された一文字よりも、一切のデータもログも残らないような、形のない一言を選んでくれたことを喜ばしく思う。

嬉々とした所長は、慣れた様子で電子を飛ばした。

『あ、あぁ~、き、聞こえてるぅ?うぅ……LLちゃん、心配させてごめんねぇ……』

テキストによって介されていたコミュニケーションが、一瞬で声を媒体としたものへとシフトする。

ざらついた声帯音声ではあるが、その発音は健常的なそれと遜色なく、異常があるように思えない。その声に安心して、LLは目前のカメラに微笑んで見せた。

「こうして声を聴いても、姿が見えないと不安になるものね……」

『私が情けないから、心配、かけちゃったよねぇ……うぅ……ごめんねぇ……?』

「気に病まないで……。この心配も、私には心地良い。誰かを慮れるなんて、恵まれていることだもの。」

そう、LLは、所長と対して話している。しかし、それは面と向かってい話しているという意味とイコールではない。正確に言えば、彼女が話しているのは目の前に置かれた球体に光るレンズ。LLの姿を所長へと届ける足掛かりとなるカメラだ。

LLが感じることのできる所長の体温は、その些か寝静まった声のみだ。

「体を貸してくれた彼女は、どうなったのかしら?」

そうしてどこか歪な対面をしてなお、LLは普段と変わらぬ様子で所長へと疑問を手渡した。

丁寧に渡されたそれを見て、愛おしそうに声を漏らしながら、所長は慌てながらもLLの望んだ答えを彼女以上に丁寧に返す。

『刺された傷はそんなに深くなかったし……懸念されてた精神汚染も、ほとんどなかったの……うぅ……みんなが優秀だから、私、いつも助けれてるよぉ……』

「あら本当?よかったわ。けど、そんな優秀な私たちが、優秀でいられるのは、他でもないあなたのお陰ってこと、忘れては駄目よ?」

どこまでも卑屈に声を潤ませる所長に、LLは卑屈さを感動とすり替えることで所長の涙を幸せなものに変えて見せた。

諭すように言ったそれも、彼女の本心だったのだろう。涙ぐんだ音声で『う、うん……』と嗚咽する所長の声を聞いて、満足そうに微笑んだ。

「あなたをあまり拘束するのも世界にとって損失ね。手短に話すわ。」

『……?』

一度、確認事項に区切りをつけ、LLは小さく息を吐いて視線を流した。それは、LLの立つ所長との通信機、通称『謁見機』の鎮座する部屋を見渡した意味のある行動ではない。それはただ、記憶に基づいた彼女なりの思考の想起だった。手放しで、片手間で、身勝手で語っていいものではない『それ』に対する、ほんの少しの気持ちの準備だった。

つまるところ、それは。

「アリス・ヴズルイフの遺産に、もう利用価値はない。そう、思ったのだけれど。」

人類に危害を加える大災害の中で、唯一その真価を人間のために使用できる、特異なダーカーストレンジ。アリス・ヴズルイフの遺産。その、利用価値について。

「あの機巧の『アリスの硝煙』は、確かに相応の利用価値がある。けれど、先の作戦で、私たちはそれに足る力を強奪した。」

『……』

「人類に残された電力も、向こう四十年は安泰。二か月後に完成予定の元炉駆動発電器が完全稼働すれば、余剰分すら残して人類の電力を賄うことができる。」

『……』

アリス・ヴズルイフの遺産は、破壊行動に対する防衛機能をほとんど持っていない。それは、かつて行われたダーカーストレンジの調査。ダーカーストレンジ・ラベリングの爆撃実験で証明されている。もし『プレイト:デュカイオ・シュレー』の最新鋭の総戦力で攻撃を仕掛ければ、世界を蝕む害悪を取り除くことも可能であると、結論が出ている。

攻撃を加えるとその侵食範囲を大きく広げるダーカーストレンジ蔓延生命や、侵入、あるいは接近が、同時に敗北に直結する災厄が当たり前の現状で、それが破壊されていないことは、異常なことなのだ。ぐちゃぐちゃの巨人に搭載された『アリスの硝煙』という力、または、人類の電力の一翼を担っていた発電機能。現在人類の使用、貯蓄している電力の約八割がそれによって生み出されたものであり、しかしそのメカニズムは『プレイト:デュカイオ・シュレー』からも発表がされていないほど難解に包まれている。

そんなダーカーストレンジの人類にとってのメリットを、先の作戦、リュカたちと遭遇した作戦にて、研究所は既に喪失している。

もう、そんなものに頼る必要はないと、確信している。

LLも言ったように、物質を一度最小単位の『スィクター』に分解し、それによって生じる爆発的な体積の増加によって発電する元炉駆動発電器『リュミナス』は、それを証明する最たる象徴だ。

暗に、その状況は語っているのだ。人類の誰もが持ちうる、破壊と選択の自由が、今こそ行使されるべき時だと。密かに上げられた満場一致の結末を、諸手を上げて祝福するべき時だと。

『お、お手上げだよぅ……そこまで……うぅ……ちゃんと、私たちのことを考えてくれてるんだよね……?なら、……そうだよねぇ……』

たとえ『プレイト:デュカイオ・シュレー』内にて所長に次ぐ決定権を持つ航海士の如き八人。そのうちの一人であるLLであっても、それほどの決断を進言するのには相応の緊迫感が漂うというものだ。それが、彼女が彼女足る所以であるのだから。

『でも、でも、ね?発電器が完成するまでの二か月……そ、その、それだけの時間は、……まだ、待ってほしいの……!』

LLからの必死の進言。彼女の覚悟と矜持と、手持ちの何もかもを差し出した、魂の直談判。それを、真っ向から受け入れて、しかし、それでも漏れ出てしまう懸念を、珍しく語調をはっきりと強めて、哀願ではない、ただ、はっきりとした魂の懇願で、研究所の最高責任者である所長は、LLへとそれを願ったのだ。

『ま、まだ……もしかしたら、……会えるかもしれないの……。……あの子に……あの子たちに、また、……会えるかもしれないの……!』

それは、先のLLの見せた覚悟の想起と同様、いや、それ以上に、どこまでも溢れでる感情を押さえられない所長の懇願。

LL達の知らない記憶だ。知らない情報だ。しかし、その所長でしか知り得ない。自分たちには知り得ないそれが、どれほど大きくて、どれほど儚くて、それでいて、どれほど醜いものだったのか。それに触れられるほどの資格を、自分たちは持っているのか、彼女には依然わからぬままだった。

それでも、ただそれでも。

アリス・ヴズルイフの遺産の未来を、所長の過去を、今、こうして壊そうとしているのは、紛れもない自分であって、アリス・ヴズルイフの遺産の過去を、所長の未来を知っているのは、紛れもなく所長であるのだ。

その対極にいる二人が、今こうして初めて、交じり合ったのだ。

ただ己が正面に鎮座していた、対岸の火事に、こうして初めて、互いに火傷を負ったのだ。ただその傷跡に報いるべきは、両者だ。

LLであって、所長だ。所長であって、LLだ。

だから、未だ燃える互いへと、赤く染まった手を伸ばす。紅く染まった手を伸ばす。

「あの子、……とは、一体、……誰なのかしら?」

ぐちゃぐちゃの火傷に、ぐずぐずの手を浸して、焼ける痛みに混ざる心地に爆ぜる愛情にそして燻られ。

所長は、無言の声帯音声から漏れる疑似的な呼吸音。歪なノイズを残して沈黙する。空虚にこもるそれは、彼女の思案の印だ。

大幅に減少した現在の世界人口、約八億人。いや、減少する前の世界人口である数百億人を連れてきても、その中から所長を超える頭脳は向こう銀河数百個分は現れない。

人生二回分の時間を、完全なる集中思考に費やした彼女の人生は、その時まだ始まってすらいなかった。もはや三回目となる人生で、所長は初めて肉体的な産声を上げたのだ。そんな彼女が、たった一つの問いに対して思案をした。それがどれほどにイレギュラーなことなのか。どれほどに驚嘆すべきことなのか。

同時に、どれだけおぞましいことなのか。

LLは、確かに理解していたのだ。

「今はまだ、話せない。……かしら?」

聞く者が聞けば、LLのその言葉はどこまでも厳しいように聞こえただろう。

しかし、誰よりもマイナス思考であり、不安症である所長だけが、それをどこまでも深く読み取った。

『LLちゃんは優しいね……?……うぅ……ごめんね?でも……』

優しさに甘えることは、もう既に所長の選択肢にはない。

『あなたたちは、この世界は。』

所長は、誰よりも油断を嫌う。慢心を嫌う。甘さを嫌う。


『次こそは、幸せにして見せるから。』


そして、誰よりも、『世界』を生きている。


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